<番外編>Magic of love③
女性に指摘されたということ自体は癪だったが、依頼人にサインをもらわなければ、星見台に報告ができないことも動かしようのない事実だった。
それにしても、と苛立ちがこみ上げる。
イーニアスの思惑では、クレアの魅力を語り、ハンナらに分相応というものをわからせれば依頼は終了だったのに。
若い娘には残酷なことだが、美しい娘に男が惹かれるのは自然の摂理だ。鳥や獣とて、それぞれの価値観でより魅力的な伴侶を探すものなのだから。
だが、あそこまで正論で来られてなお、ハンナたちを力尽くで動かそうとするほどイーニアスは愚かではなかった。
たくさんの舌打ちとため息を供に、再び町をまわって聞き取りを始めてしばらくすると、鋳物屋の子どもがイーニアスに話しかけてきた。
「兄ちゃんさ、星持ち様なんだろ。さっきカラムが血相変えて走ってったぜ」
カラム? と聞き返そうとして、確か小物屋の元婚約者がそんな名だったと思い出す。
「それが何だと言うのだ」
「えー? 俺もよくわかんねぇけど。カラムの母ちゃんが、憑き物が落ちたって喜んでたらしいよ」
ハンナのところに行ったんじゃねぇの、と首を傾けて、鋳物屋の子どもは作業に戻っていった。
鋳物屋から小物屋までは歩けばすぐの距離だ。足を向けていくらも行かないうちに、数人の言い争うような声が聞こえてきた。
「だから! 誤解なんだ、ハンナ。僕が愛しているのは君だけだよ!!」
「そんなことを今さら言われたって、信じられるわけないでしょ! あんなに鼻の下を伸ばしておいて!」
小物屋のカウンターの中で叫ぶハンナに、店内の床に額を擦り付けんばかりにした若い男性。
確か、クレアの取り巻きの中で見た顔だ。あれがカラムなのだろう。
二人のそばには苦い顔をした“相棒”と、狼狽える小物屋の女将がいた。
「ああ! 星持ち様!」
小物屋の女将が声を上げ、弾かれたように残り三対の目がイーニアスに向いた。
「……これは、どういうことだ」
「正気に戻ったカラムさんが、ヨリを戻そうとしているんですよ」
ぺろりと言う女性の表情は相変わらず苦い。
婚約者が戻ってきたのならそれで万事解決なのではないかと不審に思っていると、それに気づいたハンナが口を開く。
「何もないところに感情を生み出すのは、すごく難しいって言ってた! カラムの中にいやらしい気持ちがなければ、操られたりしなかったんじゃないの!? 今更何を言われたって、はいそうですかって戻れない!」
「それは…!」
カラムがぐっと押し黙る。痛いところを突かれたのだろう。
ほら見たことか、とハンナが女性を振り返ると、苦い顔のまま女性は口を開く。
「……確かに、クレアさんが“心”をどんなにうまく扱えるとしても、何もないところに感情を生み出すのは難しいと思います。せいぜいが強い“心”をぶつけて、一瞬怯ませたり、ちょっと魅力的に見せたりするくらいです」
そこまで一息に言った女性は、カラムとハンナに交互に目を向ける。
「ただ、隙のない心を持ち続けることが難しいのも、事実です。結婚を前にカラムさんが躊躇ったり、ハンナさんとはタイプの違うクレアさんに目を奪われるのも、仕方のないことだとは思います」
「そんなの…! 私は他の男の人に目移りなんてしない!」
憤慨した様子のハンナに、女性が微笑んだ。
「そうですね。ただ、今回カラムさんは“心”の影響を振り払って、戻ってきましたよ。それはパンに込められたハンナさんとの思い出に、より強く揺さぶられたからです」
大きく見開かれたハンナの瞳が揺れた。
戸惑いも疑いも失ってはいないが、先程までの怒りは見えない。
「…少し、お二人で話し合ったらいかがですか?」
女性の静かなことばに、泣き出しそうなほど悲痛な顔をしたカラムが深々と頭を下げた。
「一体、何をしたんだ」
小物屋にカラムとハンナを残して外へ出たイーニアスは、女性に訊ねた。
「ハンナさんに二人の思い出やカラムさんへの想いを聞きながら、パンを作ったんです。ハンナさん自身には“心”を扱う力はないので、私が込めました」
「……」
ハンナへの影響は昨日自身の目で確認した。カラムの変化も目の当たりにした。
それでもイーニアスには信じ難いのだ。
「俺がアカデミーにいる頃は、“心”の教育は行われていなかった。大したことができない、とるに足らない魔力だと言われていた」
「そうですね。私がいた頃も、公には行われていなくて、こっそり学ばせてもらいました」
アカデミーに在学していた期間は短いものの、女性は医療師長に師事して“心”を学んだそうだ。
「…それほどまでに、“心”に効果はあるのか」
ぽつりと落としたイーニアスのことばに女性が口角を上げた。
「ええ。何だったら、“心”を信じる気持ちを膨らませて差し上げましょうか?」
「……」
まるでダンスにでも誘うように、女性がイーニアスへ手を差し出した。
無言でその手と女性の顔とを見つめていると、ふと女性が頬をゆるめた。
「……怖いですか?」
「そんなわけがあるか!」
怒鳴りながら女性の手を掴んだイーニアスは、次の瞬間声を上げそうになるのを、寸でのところで堪えた。
“心”がいかに人を幸せにできるか、いかに悲しみを、憎しみを増大させるか。
女性自身の思い出なのか、次々と想いの奔流がイーニアスを満たしていく。
「今のは、私自身の想いや記憶を注いだ形なので、影響はすぐ消えます。私の知っている人は…愛している人に触れるだけで、とても正確に想いを伝えられると言っていました」
「そんなものは…言葉で伝えればいいだろう」
わざわざこんなことをせずとも、口でいくらでも言えばいい。
イーニアスが滔々と注ぎ込まれる“心”にたじろぎながらも言えば、女性が眉を下げる。
「そうですね。どちらも偽ることはできるし、真心を込めることもできる。…要は使う人次第ですから」
どこか哀しげに見えるこげ茶の瞳に縫いとられ、イーニアスは息をつめた。
と同時に、女性と手を握りあったままだったことに気づく。
慌てて振り払うのも余裕がないようで、できるだけ自然に映るよう、さりげなく手をほどく。
「…これからどうする」
「カラムさん以外の人の目も、覚ましちゃいましょう」
取り巻きがいなくなれば、クレアさんが自分から動くでしょうから。
悠然と微笑む女性には、色香も媚もないのに、目を離しがたい不思議な魅力があった。
◇◇◇◇
“心”を相手に伝えるには、直接触れて送り込むか、摂取する食べ物や飲み物に込める方法の二種類があるらしい。
「落ち着いてできるのは後者なので、私はそっちの方が得意なんです」
農家の娘の恋物語を聞きながら、女性は細かく刻んだ肉と根菜をかき混ぜる。
「なぜ今回はスープなのだ」
「聞いたところ、カラムさんが一番強く影響を受けていそうだったので、しっかり手で捏ねるパンにしました。他の方は取り巻きに加わった時期も遅いし、まだ影響は薄そうなので」
女性は大鍋に肉と根菜を入れてベースのスープを作ってから複数の小鍋に分け、あまり煮込まなくていい野菜をそれぞれの娘の話を聞きながら入れていった。農家の娘には緑の葉野菜、靴屋の娘にはよく熟れた瓜、といった具合に。
「さあ、これを温かいうちに。お相手とのその後は、みなさんが決めてください」
口々に礼を言って、娘たちは出て行く。カラムの豹変ぶりを目の当たりにして、女性を疑う気持ちは微塵もなくなったようだ。神から授かった妙薬のように、皆大切にスープを抱えて行った。
娘たちがいなくなった厨房を清め終わると、女性が大きく伸びをした。
「はあ、さすがにこの量は疲れた」
「………」
ごりごりと肩を回す仕草は、淑女とは程遠く、色気の欠片もない。
それなのに。
―――なんなんだ、一体。
ざわめく心がどこからくるものなのか突き止めてはいけない気がして、イーニアスはぴっちりと蓋をしめた。