〈番外編〉ミランダの初恋①
願っているときはどこにも見つからないのに、想像もしないときにそれは現れる。
出会い頭の事故のように、瞬き消える流れ星のように。
強い衝撃で揺さぶり、その存在を熱く瞳に焼きつかせ、他にはもう何も見えなくなるのだ。
◇◇◇◇◇
「ねぇ! ミランダもう帰るの?」
母に頼まれた買い物を済ませ、足早に家路を急いでいると、靴屋のロイに声をかけられた。
「さっき母さんがケーキを焼いたんだ。食べて行きなよ」
「……いい。ちょっと急いでるの。また今度」
ロイの母さんのケーキは、果実酒にたっぷり漬け込んだりんごや桃が挟まれたいつものやつだろう。
生地はしっとりしていて、果物はほのかな歯応えを残してとろけるのに後味は優しい。
ミランダは、口の中にじんわり唾液が出てくるのを無理矢理飲み込んで、首を振った。
「え、ミランダがケーキに釣られないなんて、腹でも痛いの?」
「違う! とにかく急いでるの!」
失礼なロイの背中に一発張り手を入れてから、ミランダは家までの道をほぼ全力で走って帰った。
ミランダの家は、宿屋をやっている。
小さいわけではないこの町で一番の人気宿と言ってもいいだろう。
客室は一階に大部屋が六つ、二階に小部屋が八つ。十四ある部屋の九割がいつも埋まっている繁盛ぶりだ。
「ただいま! 母さん、この荷物…」
大声で叫び扉を開けたミランダは、こちらに向けられる灰色の眼差しに気づき慌てて口を押さえた。
「も、申し訳ありません。お騒がせしました」
慣れないしゃべり方で舌を噛みそうになりながら、ミランダは頭を下げた。
―――恥ずかしい。よりによってこの人に見られてしまった。
「…いや。家業の担い手であることを誇りに思っていい」
ほんのりと微笑まれると、ひれ伏したくなるような美貌に顔が熱くなり、ミランダは今自分がどこにいるのかを失念してしまった。
すなわち、ドアの真ん前。
ゴツッ!!
「わっ!?」
「いったーい!」
勢い良く扉を開けた母と、後頭部を強かぶつけたミランダの叫びが重なった。
宿屋の娘として、ミランダはそれなりにやってきた。ミランダがまだ幼いうちに父は他界してしまったから、物心ついた頃には母と数人の従業員と協力し、今まで宿を盛り立ててきたのだ。
看板娘、と自分で言うのは恥ずかしいが、常連客には人気があったし、『働き者の良い娘さん』なんて言われることもよくあった。
ところが、二日ほど前からミランダは普段であればあり得ない失敗ばかりだ。
得意料理のシチューを焦がしたり、買い物のリストを紛失したり、お客さんの名前を間違えたり。失敗を別にしても、仕事の能率が恐ろしく下がってしまっている。
誰に言われずとも、自覚はあるのだ。
「…はぁ。もう、どうしたらいいかなぁ」
玉ねぎの皮を剥きながらため息をつくと、向かいに座ったラナが顔をしかめた。
「どうせあのお客さんにぼんやりしてて気がそぞろなんでしょ」
かつて町のマドンナと言われたラナは、成人してすぐにミランダを産み、じきに四十を迎えようというのに若々しく美しい。
濃い金の巻き毛に同色の瞳、抜けるような白い肌。感情の高まりに合わせ薔薇色に染まる頬は、同性でもどきどきさせられる。
対してミランダは焦げ茶の癖毛に赤みがかった瞳、肌も白い訳ではない。
「あーあ。私も少しくらい母さんに似たら良かったなぁ」
母さんくらい美しかったら、あの人と物語が始まったかもしれないのに。
サラサラの黒髪に、青みがかった灰色の瞳。大体無表情なのだが、時々微笑むととても優しい顔になる。背も高くわりとがっちりした身体つきなので、物語で言えば、騎士様だろうか。それともどこかの国の王子様? 公爵様とかでもいいかもしれない。
「はあぁあ…」
あっという間に頭の中で、騎士が傷つきながらも悪の手先から姫を救い出すところまで想像し、ミランダは桃色のため息をついた。
助けに来てくれた騎士様の名前を涙ながらに叫ぼうとして、はたと気づいてしまったのだ。
「ねえ、母さん。あの人の名前、教えてよ」
「だめ。帳簿にあるお客様のお名前は大事な財産です。おバカな娘にほいほい教えられるものですか」
つん、と顔をそらしたラナは、こうなったら絶対に譲らない。
かといってミランダの現状では直接名前を訊くこともできない。何せあの人の視界に入ってしまえば、どうやって息をしていいかもわからないほどなのだから。
「現実は悪の手先よりも母さんが恋を阻むのね…」
ため息をついて、ミランダが玉ねぎの皮剥きを再開したとき、控えめなノックの音が聞こえた。
「はぁい、あらリリアさん」
「こんにちは。お邪魔してもいいですか?」
ラナが開けた扉から入ってきたのは、小柄な黒髪の女性だった。
確か、数日前から二階の個室に泊まっている客だ。特に騒ぐこともなく、日中は出掛けていて宿には寝に帰るだけのようだったから印象が薄かったが。
「もちろん。昨日話してたあれを見せてくれるのよね?」
うきうきと目を輝かせているラナに対し、ミランダには何の話かさっぱりわからない。
「はい。えーと、じゃあ、お茶を淹れさせてもらっても構いませんか?」
ラナは頷くと、いつもミランダとラナが飲んでいる茶葉と茶器を出してきた。
リリアが茶器を手に取り、まず二つのカップに茶を淹れた。そしてなぜか一呼吸おき、もう二つのカップにも茶をそそぐ。
「まずは、こちらから飲んでみて下さい。それからこちらを」
ミランダとラナは示されたカップ――最初に淹れた方だ――を手に取り口をつけた。
うん、飲み慣れたいつものお茶だ。
一体何がしたいのだろう、と怪訝な顔を隠しもしないミランダだったが、ラナがもう一つのカップに手をかけるのを見て黙って従った。
「…あら!」
「え? なんで?」
お茶を含んだ口元をおさえて喜んだ母と、ポカンと口を開けた娘。
こんなところにも女子力の差が出るようだ。
「どうして、同じお茶なのにこんなに味が違うの?」
目の前で淹れたのだから、余分なものが入っていないことは明白だ。それでも、味が違うことは気のせいとは言えない。
「“心”が入ってるんです。“心”は魔力の属性の一つで…あまり一般には知られていなかったのですが、この度国をあげて“心”を国民の皆様に知ってもらおうという計画ができまして。私はその計画の一端を担っています」
聞いたことも見たこともない“心”の魔力と言われても、ピンとこない。
リリアによれば、長年“心”の正しい教育を行ってこなかったため、“心”は禁忌だったらしい。
「他の魔力も使い方を誤れば、人を傷つけたり国を荒らしたりします。“心”も同じだということで、隠して禁ずるのではなく、正しい使い方を普及させようという計画です」
言いながらリリアは、ワンピースのポケットから何かを取り出した。
しゃら、と金属がこすれる音がして、鎖のついた金色の時計が出てきた。
「まあ! これって中枢計画の時計ね。きれいだわぁ」
母はアクセサリーを褒めるかのようなのんきな声を出したが、ミランダは内心度肝を抜かれた。
中枢計画とは、その名の通り、国が母体となって行う計画のことだ。大規模な河川の工事をするときも、農作物や何かの調査をするときも、責任者は中枢計画の時計を持って国策を進める。中枢計画の時計を持たされているということが、すなわち国の名代として働いているという証になるからだ。
昔泊まった客が蘊蓄とともに自慢していたため、ミランダはたまたま本物を見たことがあったが、一般人が気軽に拝めるものではない。
そんなものを、ミランダとそう年も変わらなそうな、こんな普通の娘が持ち歩くなんて。
ミランダがまじまじと見つめるのに気づいたリリアは、諦めたような微笑みを浮かべた。
「はい。…これがないと、私がのこのこ出かけて行ってもまともに話も聞いてもらえないですからね」
こんな高価で稀少なもの、重いんですけど、とため息とともにリリアは肩を落とした。