〈幕間〉仮面と薔薇と〈別視点〉
時間が少し巻き戻ります。
新年祭まであと数週間というときのことだった。
王宮のみならず、王都――いや、国そのものが浮き足立ち、行く年を送り来る年を迎えるための準備に走っていた。しかも今回は新年祭の最終日に戴冠式も予定されていたため、当然のごとく祭の規模は大きくなった。経済効果はもとより、王家に新しい風が吹くのを心待ちにしていた国民の熱気が目に見えるようだった。
国民の期待に応えたい、などと殊勝なことを言うつもりはないが、彼なりにできうる限り時間をかけて準備してきた。それでも新年祭と戴冠式の準備となると綻びはどうしても出てしまうものだ。一つ一つ穴を探して埋める作業がかれこれ一月以上続いている。
家族ともほとんど顔を合わせていないので、きっとそれぞれ走り回っていることだろう。
その日もエディラードは、宰相であるディルス公爵と祭事の打ち合わせをしていた。
祭事の際の貴族の席順に異議を申し立てた者がいたためだ。ここ数年の功績を鑑みると席順がおかしいらしい。実に馬鹿らしい。
一つ一つの内容はこのように大したことはない。だが昼も夜もなく押し寄せるそれらに、いい加減すべて投げ出したくなる気持ちも出てきた。だが、それを目の前の人が許してはくれないだろう。
何より、この宰相の前で降伏してたまるか、というわずかな矜持だけがエディラードを支えていた。
「エディラード殿下、お客様がいらっしゃっております」
手元の書類から顔を上げ、客の訪れを告げる従者に軽く頷きながら、意外と遅かったなとエディラードは一人ごちた。
行動力のある彼女のことだ。
与えられた話をただ飲み込むだけではいかないだろうと思っていたのだ。
「ちょうどいい。そのまま、少し休憩なさってください。本番に倒れられては意味がありませんからね」
隈がうっすら見える顔に言われたくない、と腹の中で毒づいて、エディラードは客室へ向かった。
「久しぶりだね、マデリーン。元気にしてた?」
挨拶のために立ち上がった彼女を手で制し、エディラードは微笑む。
略式の礼をしたマデリーンは、強い戸惑いの色を浮かべていた。
「ご無沙汰いたしております。殿下におかれましては…」
「堅苦しいのは、いいよ。座ってよ」
言いながら先にソファに腰かけたエディラードに、躊躇いながらもマデリーンも座る。
予め人払いをしておいたので、周囲に人の気配はない。
「で?急に君から会いに来たのは、今回の話に不服があったってことかな?」
「そんなことは…っ」
カッと頬を染めたマデリーンは、強く唇を噛んだ。
「……エディラード殿下が、王位を望んでおられなかったことは存じ上げております」
たおやかな両手は、強く握られて節が白く浮いている。
マデリーンの父であるハノーヴァー公爵は中枢で権力をもつ。エディラードが今までとってきた立場も思惑も彼女はよく知っている。だからこそ、こうしてここに来たのだ。
困惑を滲ませたマデリーンの声は、震えていた。
「なぜ、王太子になることをこの度望まれたのですか」
テーブル脇に置かれたワゴンから茶器を取り出し、茶葉をポットに入れる。円を描くように湯を落としながら、エディラードは微笑んだ。
「僕は、王に相応しいのは兄上だとずっと思っていた。それは今も変わらない」
「ではなぜ…」
熱い湯にくるくると茶葉が踊る。でたらめのようでいて、よく見ると規則的に舞うそれらを見るのがエディラードは好きだった。滓のように降り積もった疲れがゆっくりとほぐれていく。
「だが、兄上は王位を望まなかった。それには二つ理由があった。一つは自身の出自に関して。もう一つは、マデリーン、君だよ」
エディラードの手元を見ていたマデリーンが、訝しげな視線を投げてくる。
本当にこの子は、裏表がなくて危なっかしい。
いつまでも変わらない幼馴染みに苦笑が浮かんでしまう。
「兄上は、君の思いに気づいていた。ハノーヴァー公爵は単に王太子になる者に君を嫁がせられればいいという姿勢だったから、もし自分が王位を継げば、第二のアナスタシア様を生むのではと危惧していたんだ」
「それは…」
火石で温められたカップに、そっと茶を注ぐ。甘い花の香りが湯気とともに立ち上った。
王太子妃はディルス公爵令嬢かハノーヴァー公爵令嬢のどちらかだろうと、長年目されてきた。だが、あのライラが大人しく王太子妃になどおさまるわけもない。
『建国初の女性宰相か医療師長になる方が、よほどいい』
どちらが王太子になろうと嫁ぐつもりは毛頭ない、と予てよりライラ本人にはっきり宣言されていたのだから。他の候補者も確かにいるが、事実上はマデリーンに決まったようなものだ。
「第一の理由は消えた。アナスタシア様が目覚めて、父上と叔父上の誤解も確執もなくなったから。でも、そのときにはもう一つ新たな理由が加わってしまった」
どこにでもいそうな、地味な顔立ち。町ですれ違っても、良くも悪くも印象に残らないだろう、ごく普通の女性。
―――だが、あの弁当は衝撃的だった。
手作りの料理は信用できる人間のものしか口にしていないエディラードが二度口にしただけであれほど驚愕したのだ。嬉々として食べ続けた兄が受けた影響は計り知れない。
事実、兄は変わった。…いや、変わったのではなく単に本性を現しただけなのかもしれない。
「王位を継げば、確実にリリアは逃げる。無理をして捕まえれば、心が逃げる。…だから、兄上は、何があっても王位を継ぐわけにはいかなくなったんだ」
リリアに褒章が与えられたあの日。爵位を望まなかった彼女を見つめる兄の瞳は驚くほど凪いでいた。
マデリーンが事前にリリアに接触し、示唆をしていたことは調べてあった。
つまりリリアは、兄の手をとる方法を知りながら、拒否をしたのだ。
だが兄は衝撃などまるで感じていないようだった。むしろ、それでいいのだと彼女の選択に満足しているようにさえ見える瞳だった。
その夜、エディラードの部屋へ兄が訪れた。
念入りに人払いをし、防音の処置まで施して。
『エディラード、選べ。敗けて王位を押しつけられるか、自ら取りに行くか』
それは実質、最後通牒だった。
この馬鹿げたおいかけっこは、元々エディラードの敗けが決まっていたようなものだ。星持ちとしての実力はかなり差がある。兄が本気になれば、勝ち目は万に一つもない。
エディラードが成人するまでに継ぐ覚悟を決められれば、兄の勝ち。決められなければ、優しい兄はきっと王位を継いだのではなかったか。
『ちぇっ。リリアがいなかったら、こんなことにはならなかったのにな』
わざと茶化すように言うと、兄の瞳に剣呑な色が浮かぶ。
『…別に、今さらリリアをどうこうしようなんて思ってないよ。やめてよ、物騒なこと考えるのは』
兄の瞳がいつものものに戻るのを確かめて、エディラードは尋ねた。
『どうやるかは、決まってるの?』
『無論。…俺のことよりも、お前自身が彼女と向き合う方が大切だろう』
お互い主語が省かれたことばだったが、言いたいことは十分伝わった。
『あーあ。恋愛にぶちんでぼんやりの兄上に言われるなんて、僕もおしまいだな』
重い沈黙を振り払うように、あえて軽口を叩くと、兄は少しだけ考えるようにしてから、凄絶な微笑みを浮かべた。
『今までその気にならなかっただけだからな』
思い返しながら、くすりとエディラードは笑みをこぼした。
「…どうなさったのですか」
「いや。確かにひとのことを言っている場合ではないなと思って」
カップをソーサーに戻して、マデリーンをひたと見つめた。新緑を閉じ込めたような瞳には真摯な色が強く浮かんでいた。
「マデリーン、送った書状には書いていなかったから今言うよ」
「…はい」
表情を引き締めたマデリーンは、どこか恐れているようにも見えた。
「兄上はマデリーンの気持ちにも気づいていたけど、僕の気持ちにも気づいていた。…僕は、怖かったんだ。兄上よりも劣るのに王位を継ぐことが。僕のことを王に相応しいと思う人たちを裏切るかも知れないことが。そして、君と向かい合うことが何より怖かった」
エディラードが幼い頃から、周囲の人間は兄に絶大なる信頼を寄せてきていた。兄を不義の子ではないかと囁く下劣な連中はいたものの、兄の立ち居振舞いには口をつぐむ他なかった。
エディラードは、そんな兄が羨ましかった。人目のないところで努力していたことは知っているが、何でもないことのように帝王学を修め、魔学を修め、人心を集める。
エディラードとて周囲に支援する者はたくさんいた。だが、自分は兄ほど人を信じることができない。裏切られることも裏切ることも、その時が来れば当たり前だと思う。そして、彼のまわりに集まる人もそういう考えの人ばかりだった。
笑顔の仮面をつけて、腹の探り合い。世辞の合間に毒を潜ませ、一つでも多く相手から情報を引き出す。
貴族とはそんなものだとは思うものの、虚しい気持ちは常につきまとった。
兄が自然に人に慕われる一方、エディラードは苦心して人を集めてきた。
唯一、何もせずともエディラードへ直向きに思いを向けてきたのは、マデリーンだけだった。
邪険にしても泣きながらつきまとい、慕ってきた。ことばにして伝えられたことこそなかったが、マデリーンが自分へ向ける感情の名が何なのかは随分前からわかっていた。
だが、怖かったのだ。
エディラードが必死につけてきた仮面を剥がされたら。平然を装っていたことに気づかれたら。
兄と比べればエディラードの本来の姿は凡庸だ。それにもし気づかれてしまったら。
マデリーンさえも裏切るのではないかと。
「僕はずっと自信がなかった。君と向き合うことも怖かったから、ずっと逃げていた。でももう終わりにしようと思う」
マデリーン、と呼ぶと、少女の顔が強ばった。エディラードはゆっくりと気持ちをことばにのせる。ここは社交場ではないから、仮面はいらない。
「…僕は王位を押しつけられたんじゃない。自分で選びとったんだ。王になるには…王に足る力を身につけるには時間がかかるだろうけど、僕が王で良かったと言ってもらえるようになる」
音もなく立ち上がったエディラードが、マデリーンの足元へ膝をついた。
本来ならば、王子である彼が忠誠をあらわすため膝をつくのは父である王の前だけだ。
その他に膝をつく理由はただ一つ。
それに気づいたマデリーンが、驚愕に目を見開いた。
「…エディラード様」
「僕の妃になって、僕の仮面が外れないよう見張っててくれる?いつか僕が賢帝になれるよう、そばにいて支えて欲しいんだ」
立てた膝の上に、そっとマデリーンの手のひらが置かれる。
「…はい。わたくしも賢帝を支える妃として、胸を張れるよう努めます。どうか、よろしくお願いいたします」
たまった滴と染まる頬は、夜明けの薔薇を思わせる美しさだった。