〈幕間〉星の輝きのために〈別視点〉
「…て、まさか…リアが」
依頼品の農具に油をさしながら、隣室からきこえてきた興奮した声に、ジオは耳をそばだてた。
声の主のナタリーは噂が大好きなご婦人で、村のゴシップは彼女発信のものがほとんどだと村人は認識している。ナタリーは繕いものをする仕事をしているのだが、手が空くとこうして顔を出しては噂話に興じることが多い。
彼女の話には真実が含まれてはいるが、大抵がだいぶ盛られている。そのため、いつもなら適当にきき流すジオだが、話の中にきき慣れた名前があった気がして手を止めたのだ。
「仕方がないでしょう。一年近く弁当屋から離れていたんだから、味付けも変わるってものですよ」
「それが、なんか違うのよねぇ。同じだけど、何か物足りないっていうか」
父が取り成すのを、ナタリーの大きな声が遮る。
「前のあの子の料理は、ちょっと風変わりで、でも懐かしいような味だったでしょ?それが、今は全然ないのよ。味気ないっていうか」
「うーん…。それほど違いがあるとは私は思いませんでしたけどねぇ」
父は納得がいかないようだったが、ナタリーにきかずとも、村の中でも様々な噂が囁かれているのをジオは知っていた。
いわく、弁当屋としての腕がなまった。
いわく、王都の味に感化された。
いわく、思い人に振られたショックで気がそぞろ。
直接リリアにききにいく猛者もいたが、どれもリリアは曖昧に笑って濁すばかりだった。
やがて噂話に飽きたナタリーが帰っていっても、鉛を含んだようなジオの手は、なかなか動かなかった。
「父さん、ちょっと出かけてくる」
昼食後の時間を見計らって、ジオは父に声をかけた。
察しのいい父は、息子がどこへ出かけるか、言わずともわかったようだ。
「ついでに、明日の夜の“ごはん”を頼んできてくれるか?」
「……わかった。行ってきます」
見透かされた気恥ずかしさを振り払い、ジオはコートの袖に腕を突っ込んだ。
「いらっしゃいま…、ああ、ジオ」
営業スマイルを向けてきたリリアが、ジオの顔を見て途端に笑みを引っ込めた。
そんなにあからさまでなくても、とは思うが、リリアは元々愛想がいい方ではない。
ジオに振り撒くような愛想の余剰はないのだろう。
代わりにそこには幼なじみの気安さがあるから、それはそれでジオの胸を温かくするのだが。
「ちょうどお客さんが切れたところだから、お茶でも飲んでく?」
言いながら、リリアは店の奥へ入っていった。
勝手知ったるジオも、店の裏側から居住スペースへお邪魔する。
昼はもう済ませたと言うと、花の香りのお茶とともに小さなベリーパイを出してくれた。ベリーパイはリリアの得意料理の一つだ。
ジオはパイを口に入れ、ゆっくりと咀嚼する。
甘さを抑えたカスタードクリームと、野イチゴが溶け合って消えていく。
あっさりしていて、もう一口と食べ進めたくなる味だ。
―――とても、おいしいけれど。
ジオは、数拍迷ってから口を開いた。
「……前と味が、変わった?」
リリアはジオの顔をじっと見てから、くしゃりと顔を歪めた。
それは、何かを諦めたような、どこか痛いのを堪えるような微笑みだった。
「変わっただろうね」
「どうして…」
「理由は、言えない」
ぴしゃり、と叩きつけるような口調だった。
ことばに叩かれたジオは驚き目を見開いたが、リリアの表情に気づき、続くことばを失った。
こんな顔をする幼馴染みを、ジオは知らない。
「……リリア、何が苦しいの」
リリアはゆっくりとかぶりを振る。
「…何も。ただ、何も知らなかった頃には戻れないだけ」
リリアの瞳は、ジオを見ているようで見ていない。
乞う色を隠すように何度も瞬いてカップを口へ運ぶ姿に、ジオの胸が痛んだ。
「リリアは、それでいいの?あきらめられないから、そんな顔をするんじゃないの?」
「……」
破れるのでは、と思えるほどに噛みしめたリリアの唇が震えるのがわかった。
「…い…ない」
「え?」
俯いていたせいできき取れなかった。
もう一回言って、と言おうとしたジオに、リリアは猛然と拳を振り上げた。
「…っ!」
「あきらめられる訳ないでしょ!すごく好きだったんだから!弁当屋やめることになったときも、アルドさんに近づけるかもしれないって思ったら、正直それでもいいかもなんて思った!」
殴られる、と思わず身構えたジオだったが、リリアの拳は自身の大腿へ強く降り下ろされた。
どっ、と鈍い音が二度三度と響く。
「それが、このざま!!弁当屋としても中途半端になって、好きな人のこともあきらめられなくて、こんな自分私だって嫌!」
リリアは昔から、おおっぴらに負の感情を表さなかった。怒るときは静かに理路整然と相手をやりこめ、悲しいときはそっと涙をこぼしていた。
こんな顔を真っ赤にして怒り狂うリリアなんて。
こんな顔をさせたのは、自分じゃない。
すごく好きだと言わせたのも、自分じゃない。
悲しみよりも、飛び立った鳥を見送るような気持ちでジオは息をつめた。
―――本当に、遠くへ行っちゃったんだね。
どっと、今までの思いが胸を行き過ぎた。
リリアはいつも輝く、憧れの星だった。
しっかりと自分の足で立って、前を向く。ただそれだけのことがいかに大変なことか、俯きがちなジオは痛いほど感じていたから。
いつも迷うジオの背を押して、時には前に立って手を引いてくれたリリア。
本当に、本当に、好きだった。
「……あきらめなくていいよ」
「え…」
半ば、自分に言いきかせながら、ジオはことばを紡ぐ。
「あきらめないで、追いかけ続けたらいいでしょ。弁当屋としても、もとに戻れるよう工夫し続けたらいい。そうなりたいっていうリリアの思いは、誰にも咎められないし必ず形になるよ」
告げられなかった思いは、どこへ行くのか。
それは誰にもわからないが、自分だけは最後まで大切にしよう。
あきらめることはしない。ずっと思い続ける。
それは、いつか別の形で実を結ぶはずだ。
「…色々な大人の事情があって、元のような弁当を作るには許可を待たないといけない」
「その間、リリアは指をくわえて待ってるの?」
いつも気弱でおっとりしたジオにしては、珍しく尖った口調にリリアが目をみはる。
「何の許可かは知らないけど、こうやって弁当を売るのはできるんでしょ?だったら、やりようはいくらでもあるんじゃないかな」
知り合いのいないこの村へ来て、弁当屋を始めたリリア。
なかなか彼女を認めなかった大人たちを、その腕で、その姿で認めさせたリリア。
「リリアならできるよ。大丈夫」
君は、僕の輝ける星なんだから。
胸の内でそっとつぶやいて、ジオは微笑んだ。
その日からリリアは、基本から見直す、と言って不思議なことを始めた。
魚屋から大量に仕入れた小さな魚を、なぜか大鍋で煮始めたのだ。それも、塩をたっぷり入れて。
その作業が終わると鍋から魚を取り出して並べ、風石で風を起こして当てる。
そして乾かしたものを手に取り…
「……!なまぐさっ!」
気づいてもらえたようで良かった。
ものすごい臭いが充満していたのだ。
「やっぱ一気に乾燥させないと生臭いのかぁ…。わたとっちゃうと、出汁には向かないよねぇ…」
「リリア、何してるの?」
見兼ねたジオが声をかけると、煮干しを作ってる、と答えが返ってきた。
なんでも、すべての料理の基本らしい。
「鰹節はさすがに無理で。煮干しなら、と思ってるんだけどね」
言いながらもリリアは手を止めない。
その横顔は以前のものとはやはり違うが、どこかすっきりとしたものに見えた。
カツオブシとやらも、ニボシとやらも、全く想像がつかない異物だが、リリアが元気になり、前を向くのであれば多少の奇行は構わない。
「星はやっぱり輝いてるのが一番だよね」
「ん?何か言ったー?」
何でもないよ、と首を振ったジオは、煮た魚を並べるのを手伝い始めた。
季節が冬のため、天日干しはやめた次第です。