〈現在〉喪ったもの、まだそこにあるもの〈別視点〉
永い時間、彼女はそこにいた。
ゆらゆらと、温かい水の中をいつまでも漂っていた。
柔らかく温かな母の胎内のようなそこは、決して彼女を傷つけない。罪の意識も愛した者も、泡沫のように浮かんでは消えていくだけ。
かつて彼女を苛んだ罪も後悔も、ここにいれば遠い日のことだ。
思考は、浮かんでは消える。
どれも大切だったはずなのに、微睡みの中の夢のようにおぼろげで捕まえられない。
こうしていてはいけない、という漠然とした焦りさえ、瞬く間に抜けていく。
ふと、ゆらゆらと心地よい波が止まった。
微睡みの中、そっと彼女が目を開けた。
時折、“心”を使える医療師が、彼女の治療にきているのだ。医療師の干渉により、心地よい波が止められることがあった。
だが、影響はあっても、どの“心”もそよ風のようなとるに足らないものばかりだった。
彼女の平穏は壊されない。彼女の世界は閉じたままだ。
やがて、再び瞼を閉じようとした彼女は、いきなり頬を張られたような衝撃を受けて無理矢理覚醒させられた。
一体何が、と思いをこらすと、一面に輝く氷の粒が見えた。細かい氷の粒が帯のように漂っている。
―――これは、新年祭の、聖祭事?
きらきらと陽光に輝く氷の粒が、生きているように民の頭上へ降り注ぐ。
かつて彼女も客席に腰掛け、この光景を見たことがあった。
愛しい人が作り出す、至上の光景を。
満天の星のように、強く煌めく光。
一年の始まりを祝い、万民の幸せを願う光。
“心”の送り手が、どんなにその光景に心を震わせたのか、どんなに愛しいと思っているかがまざまざと伝わってくる。
そこにいられる幸せ。細氷の煌めきをただ美しいと思えること。
かつては、彼女も同じ想いで胸を震わせた。
――――ああ、眩しい。もうやめて。
目を背けつづけてきた彼女には、そんな純粋な気持ちが痛くてたまらなかった。
堪らず彼女が背を向けようとしたそのとき、氷の幕の向こうに、人影が見えた。
“心”の使い手が人影を認め、一層歓びに震えるのがわかった。
濡れたような黒髪に、青みがかった灰色の瞳。
優しい眼差しは、ひたとこちらを見据えている。
―――あれは――――。
実体はないはずの世界で、彼女の頬を何かが伝っていった。
◇◇◇◇◇◇◇
緊急の伝令がきたのは、依頼が一段落して宿を引き払おうというときだった。
「アナスタシア様が、目を覚まされました」
従者ではなく、王家直属の“耳”を使うあたり、極秘かつ迅速に伝達を行いたいということだろう。
「……そうか」
特に、何の感慨もないはずだったが、こぼれた声はひどく頼りなくかすれてきこえた。
その手に抱かれた記憶がない母。
見た目だけは自分と似ているが、どんな声をしているのか、どんな笑い方をするのか、悪いことをしたらどんな風に叱ってくれるのか。
その欠片さえ、自分には一度も与えられなかった。
想像の世界で、何度も母を描いては消し、そのうち考えることをやめてしまった。
ちょうどその頃父が新しく妃を迎えたこともあり、母へ思いを馳せる時間は格段に短くなった。
母とことばを交わしたい、本当の意味で会いたいという気持ちはいまだ消えない。
だが、幼い頃のように無条件で母を求める気持ちはない。
そして、幼い頃にはなかった怖れる気持ちもある。
目を覚ました母は、自分の姿を見て何を思うのだろう?
眠りにつく前の母よりも、随分年嵩な息子を見て。
信じられないと忌避するのか。涙ながらに抱き締めるのか。
「アルドヘルム殿下」
気遣わしげな“耳”の声に、我に返る。
「…すまない、少し考え事をしていた」
苦笑まじりに“耳”に言うと、目を伏せてゆるゆると首を振った。
「いえ…」
ことばを濁した男の顔には、ほんのわずか気遣う色が見えた。
短く切られた薄い金の髪に、特徴のない顔立ち。身体つきも中肉中背。どこへ混じっても違和感を抱かせないことが、“耳”として動くことの絶対条件だから、今見えているものは本来のこの男の姿とは違うのかもしれない。
「ああ…。ナハトと言ったか。あなたはずっと母上についてくれていたのだったな」
元々この男は、母の実家から王家へ献上された者らしい。
姿こそ見えないものの、母が眠りについてからも、ナハトの気配は常に母の近くにあった。
「母上が目を覚ましたのは、リリアが?」
「いえ、ルーベント殿下が施術されました。その方にヒントはもらった、とのことでしたが」
父と叔父は実に数十年ぶりに顔をつきあわせ、話をしたらしい。
すべて穏便には当然いかなかっただろうが、数日にかけて当時の思い、現在の思いを互いに話し合った。
そして、母の治療に叔父があたることになったという。
母が眠りについた当時、叔父は不義を疑われていたので、治療のためとはいえ母に近づくことは許されていなかった。
国中の“心”の使い手を招いたと言いながら、一番身近な一番優秀な“心”の使い手は母に会うことも叶わなかったのだ。
―――彼女が投じた一石が、大きく波紋を広げていく。
「わかった。すぐに向かうと伝えてくれ」
ひとつ息をついてから表情を作り、ナハトへ告げた。
思うところはあるだろうに、おくびにも出さない優秀な“耳”は、静かに頭を垂れて部屋を出ていった。
扉が閉まると、知らずため息が出た。
リリアがきっかけをくれる、とあの夜イヴは言ったが、この現状を見る限りきっかけどころではなかったらしい。
リリアをアカデミーに送らせたあと、イヴは父と自分に宣言した。
「私とリリアは契約を結んだ。リリアは約束を果たしてくれたから、私もこのカティーラの王女として約束を果たすわ」
誰が敵になろうとも、リリアを守る盾になると。
「…一国の王女として、それが許されると?」
父の声は低かったが、どこか面白がるようでもあった。
父の思惑を正確に読み取ったイヴは、つんと顎を上げて父を睨んだ。
「心配しなくてもリリアは国家の転覆を謀ったり、身分不相応な富を願ったりもしないわ。私は、リリアが望む道へ進めるよう手助けをしたいの」
「……望む道、か。アルド、お前はどうする」
イヴの宣言に苦く笑って、父はこちらに向き直った。
何を、とあえて言われなくとも、よくわかった。
「俺は……」
―――何かをこんなに欲しいと思ったのは、初めてだった。
持てる力を使えば、手に入れることはできる。だが、彼女は自分をきっと見限る。
富も権力も望まない彼女だからこそ、それを行使すれば、今抱いてくれている好意は消えてしまうだろう。
権力者が無理矢理市井の娘を召し上げる、権力者が権力を屑のように扱い市井へ下りる。
どちらもひどく軽蔑されそうだ。
王の子であること、王位継承権をもつこと、星持ちであること、見た目が好ましいこと。
それらを理由に寄せられる好意はたくさんあった。
だが、彼女の好意は違った。
まっすぐに向けられる見返りを求めない好意は、眩しかった。
憧れとも尊敬ともつかない“心”を受けとるたび、ひどく恥ずかしかった。
自分にはそんな価値はないのにと、何度も思った。
果たすべき責務ばかりが大きくて。
自分がどこからきたのか、どこへ行くのかさえわからないのに。
そんな自分を想ってくれる。
劣等感につぶされそうになりながらも、俯かない姿に。
逆境の中でも折れず腐らず凛と立つ姿に。
いつからかなど、わからない。
だが、もうこんなにも欲しい。
「俺は―――」
どこか人の悪い笑みを浮かべる父の相貌を見据え、ひとつ踏み出すことを決意した。
その決意が、彼女を苦しめることになったとしても。
もう退くわけにはいかなかった。