〈回想〉二人と一人〈別視点〉
「ナスターシャ、どこにいるの?」
よく晴れた日の昼下がり、一人の少年があちらの木の陰、こちらの植え込みと覗き込みながら、少女の名を呼び続ける。
庭園の奥まで来てしまえば、昼間と言えど人気はほとんどなかった。いるのは、花に舞う虫や鳥くらいだ。
「…ここよ」
返ってきた声を頼りにのぞけば、薔薇の生け垣の間にうずくまったアナスタシアの姿を認め、少年はほっと息をついた。
随分長い間、座り込んでいたのだろうか。地に広がったスカートの裾が汚れてしまっている。
「どうしたの?…泣いていたの?」
アナスタシアの頬に手を触れて少年がきく。けぶるような長い睫にぷっくりとした滴がとどまっている。
「…だって、レオが…」
「兄上は、これから魔学の時間だから」
少年のことばに、アナスタシアはぷっと頬をふくらませた。白磁の頬が桃色に染まる。
「だって!今日こそ遊んでくれるって約束していたのに!レオすっかり約束のことなんて忘れていたのよ!」
どこかぼんやりしたところのある兄なら、やりかねないことだなと少年は嘆息した。
「ね、じゃあ僕と小鳥の巣を見に行かないかな?昨日雛が孵ったんだ」
「…行くわ。ルゥと遊ぶ」
少し迷った末、アナスタシアは頷き小さな手をルーベントに差し出した。そっと握った手はすべすべしていて柔らかかった。
その手から流れ込んでくる“心”は悲しみの色をまだ失ってはいなかったが、輝くばかりの希望や喜びにほころび始めていた。
ルーベントはアナスタシアの気持ちの移り変わりに微笑し、自身の暗い気持ちを彼女に流し込まないように、細心の注意を払って蓋をした。
アナスタシアは、兄のことが好きだ。ルーベントより四つ上の兄の後ろを雛のようについてまわる。
ルーベントはそんなアナスタシアのことをずっと見ていた。
兄はどこか抜けていて、女の子の気持ちにも疎いから、アナスタシアが向ける笑顔が特別なものだなんて気づきもしない。
年下の幼馴染みがまとわりついてくる、くらいにしか思っていないのだろう。アナスタシアと兄は性別も違う上に年も離れているので、遊ぶといっても全面的に兄が合わせるしかない。そんな面倒なことをするなら、年の近い同性の友人と剣を振り回す方がいいというのも無理はない。
ルーベントは、そんな兄に適当にあしらわれて泣くアナスタシアを慰める役だ。
―――ずっと、それで構わないと思っていた。
アナスタシアがそばにいてくれて、微笑んでくれるなら自分は二番手で構わない。
愛されたいなんて、口に出すつもりもなかった。
状況が変わり始めたのは、ルーベントがアカデミーを卒業した頃だろうか。
ルーベントは成人を間近に控えた十七歳になっていた。
アカデミーの中には、王族のみが使うことを許される“耳”がいる。そのため王位継承争いが顕在化していることは知っていたが、まさかここまで激化しているとは想像もしなかった。
レオニートの支持派、ルーベントの支持派、双方が相手方の隙を狙い、あるときは社交界で、あるときは議会で熾烈な争いを繰り広げていた。
王位継承争いと言っても、レオニートもルーベントも王位を望んでなどいない。兄弟仲も良かったので、どちらが継いでもいいかという程度にしか思っていなかった。
だが、周囲はそうは思わなかった。
自分が推した王子が王太子になり、やがて王になれば、議会での発言力は強まる。また、反対勢力の貴族を追い落とすこともできる。
没落寸前だった侯爵家が立太子に貢献し、繁栄した、等という話は珍しいものではないのだ。
そういった思惑は、本人たちを置き去りに、日に日に加速していった。
あるとき、アナスタシアの両親がルーベントの支持派に属していることを知った。
彼らは少し前にアナスタシアを王太子妃候補者として立たせていたので、それはつまり、アナスタシアとルーベントを結びつけ王と王妃へ、と望んでいるということだった。
それを知ったと同時期に、アナスタシアの態度が少しずつ変わり始めたのに気づいた。
アナスタシアは兄を追いかけなくなった。顔を合わせても淑女の礼をして二言三言、社交辞令を交わすだけ。
そしてルーベントには今まで以上に時間を割いてくれるようになった。
アナスタシアがそばにいてくれる時間が増えた、と浮かれる一方、ルーベントはひどく虚しかった。
アナスタシアが自分を選んだわけではない。両親思いの彼女が、両親の願いを叶えようとしているだけだとわかっていたから。
アナスタシアから流れてくる“心”はいつも優しく、親愛に満ち溢れている。
だが、そこにはルーベントが持っているような焦がれるような思いも、求めてやまない激情も潜んではいない。ただ、どこまでも凪ぐような包むような感情。
「わたくしが、誰を愛しているかなんて、わかっているでしょう」
わかっているよ、アナスタシア。
君は兄上を愛している。
僕のことは家族として愛してくれている。
僕が君を思うようには、君は愛してくれない。
何度もルーベントはこの関係を壊そうとした。
何度もアナスタシアを拒もうとした。
それでも、アナスタシアが微笑めば、そのたおやかな手を差し出せば、ルーベントは考えることを続けられなくなる。
アナスタシアが愛しているのが誰であれ、今このとき、彼女に触れられる悦びを拒むことなどできない。
ずっと欲しかった。
絶対に手に入らないと思っていた。
手放すことなどできない。
いつしかルーベントは、真実の“心”を綺麗に押し隠し、偽の“心”を送る術に長けていった。
「王太子はレオニートに決まった。王太子妃はアナスタシア・クラーギン公爵令嬢とする」
王の間ではなく、私室に訪れてそう告げたのは、王としてではなく父としての気遣いからだろう。
ぼんやりと、ルーベントは思った。
「…僕は民を導く器ではありませんからね。アナスタシアも、長年の想いが叶って喜ぶでしょう」
思ったよりも、淡々とした声が出た。
絶望が真っ暗な口をあけ、じわじわと足下から上がってくる。
アナスタシアの幸せを思えば、これは喜ばしいことだ。
娘を王妃にというクラーギン公爵夫妻の願いも叶い、アナスタシアの恋も成就する。
―――結局、邪魔者だったのは僕か。
あまりに愚かな結末に、乾いた笑いがこぼれた。
「王太子に相応しくないと判断したことと、お前を子として愛しているということは別だ」
ぽつりと言い残して、父は部屋を出ていった。
不器用な父から愛を告げられたのは初めてだった。
だが父のそんな気遣いさえ、今は音として耳を滑っていくだけだった。
翌日の議会で兄上や主だった貴族に伝えられ、ほどなくしてアナスタシア自身も知ることになったらしい。
会いたい、という手紙がその日のうちに侍女を通して届けられた。
会って、何を言うのアナスタシア。
まさかこんなことになるとは思わず、その気にさせてごめんなさい?
それとも兄上とは結婚せず、僕を選んでくれるとでも?
両親の願いを、自分の長年の恋心を、捨ててくれるとでも?
読み終わると同時に手紙は燃やした。
凍りついたように立ち尽くす侍女に言う。
「…僕からの返事はない。そう伝えてくれ」
慇懃に礼をする侍女の背は、微かに震えていた。
別邸に移り、無為な日々を過ごす。
何度もアナスタシアからは手紙が届けられた。
いくつかは開封したが、そのまま燃やしたものも多くあった。
道化であった自分を思うと、苦い思いが胸を締めつける。
ふと気づけば、真っ黒な絶望の“心”を自分に向けていた。
慌てて気を逸らすものの、長くは続かない。
でも、もういいのかもしれない。
民を導くに足る王。
王を支える美貌の王妃。
二人が結ばれたあとには、ルーベントの出る幕はない。
ルーベントは、闇が自分を壊していくのを、ぼんやりと眺めていた。
◇◇◇◇◇
ルーベントが握った両手が、微かに震えている。
無理もない。随分昔に過ぎたこととは言え、怨嗟や絶望にまみれた“心”をまともに浴びせたのだ。
顔色は青白く、唇はわななき、呆然と見開かれた焦茶の瞳が涙で濡れていた。
「…気を失わなかったのは、さすがだねぇ」
エリクが激務の合間を縫って、“心”の扱いを教え込んだだけはある。しっかりと耐性も身に付いているようだ。
笑い出したい衝動を隠さず、エリクに言うと射殺さんばかりの眼差しで睨まれた。
リリア・ブリットが、会いたいと言っている。
教え子であり、悪友であるエリクから言われたのは、今朝のことだった。
甥が気にかけているらしい存在。
“心”が扱えるというだけで、運命を翻弄された者。
姪とともにアナスタシアのもとへ通っているときいたときは、随分変わったことを始めたものだ、と思った程度だったが。
ルーベントの手から、やや強引にリリアの手が引き抜かれた。
不機嫌そのものと言った様子でエリクがリリアの肩を支え、そのまま背後の椅子に掛けさせた。
「お前が穏便にやるとは思っていなかったが、やりすぎじゃないのか」
「そーぉ?」
へらり、と笑うとエリクの眉間のしわが一層深くなった。
エリクの両手からリリアの肩へ“心”が流されるのが感じられた。
真っ白な顔色が、少しずつ色を取り戻していく。
浅く速かった呼吸に自身で気づいたのか、リリアはゆっくりと息を吐き出した。
「……なぜ、今まで隠していたんですか」
咎める、というよりは純粋に理解できない、という様子だ。
ルーベントはちょっと肩をすくめる。
「隠していたというかね~。僕は罪人だったから、誰にも打ち明ける機会が与えられなかったんだよ。正面からききにくる人もいないしねぇ」
王妃と通じた疑い。
王妃の精神を壊した疑い。
どちらも、していないという証拠も、したという証拠もどこにもなかった。
それでも、あのときの兄ならいざ知らず、冷静さを取り戻した兄ならばルーベントが王妃と通じ、その精神を壊したなどと本気で思うはずはないだろう。
だが、兄のあのときの動揺は、思った以上の波紋を広げた。
ルーベントにかけられた嫌疑から、名だたる貴族の勢力図が激変し、あの当時はルーベントを庇えば兄自身の足元さえ危うかったのだ。
兄がやるべきことは、国を導く王として統率力を見せること。
家族であるアナスタシアとアルドヘルムを守ること。
ルーベントの処遇は、王としての兄がした、苦渋の選択だったのだ。
しばらく、何かを考えるように俯いていたリリアが、顔を上げた。
「…うまく言えませんけど」
そうこぼしてから何度も口を開け閉めしたリリアは、あーっ!と叫び頭をかきむしった。
突然の奇行に、エリクが眉をひそめる。
「もう!不敬罪でも何でもいいですよ!言いたいこと言わせてもらいます」
怒りからか、赤らみ始めた頬を引き上げ、ルーベントを睨む瞳には、強い光が宿っていた。