星持ち様、千尋の谷へ。
「行ってこい。講義をいくつか免除してもらえるよう俺からも学長へ伝えておく」
後夜祭の翌日。
イヴからの頼みごとの話を師長にしたところ、あっさりとそう言われた。
…これは、あれか。
かわいい子には旅をさせろってことか。
師長なら、お前は俺が守る!とか言ってくれると思ったのに。
今更突き放すなんて、ひどすぎる。
「師長は、私がどうなってもいいんですね!」
お土産で渡したジンジャークッキーをかじりながら、とりあえず文句を言ってみる。
私の淹れた課題のお茶を飲みながら、師長は眉間のしわを一層強くした。
「阿呆。どうもなりはしない。あいつも無茶苦茶な奴だが、王族としての自覚はしっかりある。お前を危険な目にあわせたりはしないだろう」
あほ、じゃなく、あほうって言った。あほうって。
「そうじゃなくて。身分の高そうな女の人だったし。うっかり悪化させちゃったりしたら、命がヤバそうで」
「それはあるかもしれないな」
やっぱり!
師長のことばに青ざめると、ブハッと吹き出された。
「冗談だ。それもない。そもそも三十年近く彼女はあのままだ。俺も年に何回かは行っているが、効果はみられない。お前程度の“心”をどれだけ流したって、悪化する心配はない」
それは、喜んでいいんだか、悲しんだらいいんだかよくわかりません。
「お、これ旨いな。シナモンクッキーよりこっちの方がいいな」
雪の結晶を象ったジンジャークッキーをかじり、師長がつぶやいた。
「シナモンがこの店の名物だって言われて迷ったんですけど。師長ジンジャー好きでしょ」
「…その気遣いを“心”に反映させられたら完璧だな」
にやり、と師長はニヒルな笑いを浮かべた。
師長の許可を受け、イヴと契約したのは週に一度、週末の夜だけ。
それ以上は学長の許可も出ず、私自身あまりにアカデミーを空けて落第するのも嫌なので良い妥協点だったのではないか。
ライラには細かい事情は話していないが、イヴとの約束で週に一度出かけることになったと言うと、ものすごく嫌な顔をされた。
「イヴもエディも使えるものはとことん使うから。危なくなったらすぐ逃げて」
なにそれ、こき使われるってことですか?
ていうか、そんな妹と弟がいてアルドさんかわいそすぎる。
「こんばんはー。今日も寒いですねえ」
人懐こい笑みを浮かべて私のコートを脱がせてくれたのはピーターさん。
イヴの従者さんらしく、二十代前半の軽そうなお兄さんだ。
ちなみに、このコートを脱がせてくれたり着せてくれたりするやつは、どうにも慣れない。子どもじゃないのでコートの脱ぎ着くらい、一人でできる。
初日のときに抵抗してみたが、意外にピーターさんは頑固で折れなかった。このくらいでないとイヴの手綱はとれないってことか。
「お部屋でイヴ様がお待ちですので」
頷いて、随分慣れたお屋敷の中を進んだ。
シンプルだが美しい調度品、毛足の長い絨毯。気を付けて足を運ばないと、つんのめること請け合いだ。
「こんばんは。リリア・ブリットです」
軽くノックをすると、すぐにイヴが扉を開けてくれた。
「いらっしゃい。ワイン飲む?」
イヴの魅力的な提案に、思わず喉が鳴る。
ワイン。赤かな、白かな。つまみはチーズ?木の実?燻製?
「……終わってから、いただきます」
理性を総動員して、なんとか答えた。
この屋敷に初めて招かれたとき(目くらましで連れてこられたのを除く)、私はそれなりに頑張って猫をかぶった。
ミンティ先生の教え通り、淑女らしく振る舞おうとしたのだが、イヴに「付け焼き刃は見ていて痒い」と一蹴されてしまったのだ。
それに、イヴ自身、公の場以外では庶民のような話し方や振る舞いだ。
そんな彼女にあわせて、遠慮なく、猫は脱ぐことにした。
イヴは美食家で大食、しかも大酒飲みだった。彼女のリクエストで食事を作ることもあったが、その細い身体のどこに入るのかというくらい食べた。あれか、全部胸にまわってるのか。
美味しいものには美味しいお酒、と豪語するイヴは夢見るほど美味しい酒を出してくる。
つい飲みすぎて、お泊まりしてしまったことが何度かあったほどだ。
美味しい酒がいけない。私は悪くない。多分。
「アナスタシア様、こんばんは」
窓際の椅子に座ったアナスタシアさんに近づき、そっと手をとった。
白魚のようなほっそりした手は、確かに年齢を重ねているが美しい。爪もきれいに磨きこまれている。いつ見ても羨ましいな。
…実はまだ誰にも言っていないことがある。
アナスタシアさんにこうして触れると、彼女から何かが流れてくるのだ。
はじめはぼんやりした靄のようなものだった。
次第にそれははっきりしてきて、色々な心情を映し出した。
庭で駆け回る二人の男の子を愛しいと思う気持ち。
優しく触れてくる男性の手に泣きたくなる気持ち。
年配の夫婦を労る気持ち。
時系列もばらばらで、掴もうとすると消えてしまう。
これは何なんだろう。
彼女の記憶?
でも、こうして流れてくるということは、これは“心”だ。
アナスタシアさんも“心”を扱える星持ちだったのだろうか。
考えても、答えは見つからない。
首を振り、“心”を紡ぎ直す。
アナスタシアさん、三十年近く眠って、そろそろ退屈じゃないですか?
季節はこれから春を迎える、とてもいい頃ですよ。
暖かくなったら、アカデミーの裏の森へ山菜を探しに行こうと思ってるんです。やっぱり一番は天ぷらですよね。
アナスタシアさん、あっちでイヴが心配してますよ。グラスにワインが入ってるのに、ちっとも進んでない。今日は赤ワインらしいですよ。きれいな葡萄の色。
私も、目を覚ましたあなたと、色々な話がしてみたいです。
あの男の子たちは誰なのか、とか。好きな食べ物は何ですか、とか。
あ、庶民の娘とはお話しにはなりませんか?
だったら、ちょっとツンとした感じで断って下さったらそれでいいですよ。
いつかデレて下さるのを待ちますから。そんなのも面白いですよね。
とりとめのない“心”を流す一方、今日もアナスタシアさんからは優しい“心”が流れてきた。
今までも何度か感じた、二人の男の子への温かい気持ちだ。
誰なんだろう、この男の子たちは。
しばらく続けると、めまいがしてきたので“心”を流すのを止めた。
一度、師長に自分の限界を知っておけと言われ、とことんやり続けさせられたことがある。
そのときは、体感で三十分程度でめまいがした。それでも“心”を流していると、一時間ほどで鼻血が出てのぼせたようになった。そこで師長がストップをかけたので、それ以上はわからない。
“心”の鍛練を繰り返すたび、持続時間は少しずつ延びている気がするが、私の場合はめまいがサインのようだ。鼻血は危険信号。
人によって色々なサインがあるらしく、皆自分の限界サインを知り、魔力をセーブするそうだ。
「ご苦労様。どうぞ座って」
アナスタシアさんの手を離したのを見て、イヴがソファを勧めてきた。
移動すると、グラスが置かれ、なみなみとワインが注がれた。
空気に触れたワインから、芳醇な香りが漂ってくる。
一仕事したあとの一杯はたまらないよね!
しかもこのワイン、きっと私の月収くらいはするんだろうな。
口の中で渋みと甘味を楽しんでから、イヴにきいてみた。
「そういえば、アナスタシア様って“心”を使えるんですか?」
「…きいたことがないけれど」
一口サイズに切った果物を口に運びながら、イヴは怪訝な顔をした。
アナスタシアさんの手を握ると流れてくるものがあること、二人の男の子がよく出てくることなどを話すと、ますますイヴは困惑の色を濃くした。
「私だけじゃ判断がつかないわ。昔の話に詳しい人にきいてみて、来週報告するわ」
イヴはそれきりその話には触れず、グラスを傾けた。
その後も何となく会話もあまり弾まないまま、まだ早い時間にアカデミーへ帰ることになった。
いつの間にか二人は飲み友達。