〈幕間〉ある従者の苦悩〈別視点〉
主の部屋から出てきた二人の侍女が、扉の前で顔を真っ赤にして悶えていた。
大体何が起こったかはわかっていたが、このまま放っておくわけにもいかないためラシードは声をかけた。
「何かあったのか」
声をかけた途端、スッと二人の侍女の表情が通常のものに戻る。いくら年頃の娘とはいえ、幼い頃から王宮の侍女として訓練を受けてきただけはある。
「いえ…。取り乱しまして申し訳ありません」
年嵩の方の侍女が答える。
年若い方の侍女は、まだほんのり染まった頬でうつむいている。
軽く頷きながら主の部屋に入ると、ちょうど誰かと通信をしているところだった。
珍しく、口角を緩やかにして、瞳の色も優しげだ。確かに、こんな顔を見たら侍女が赤くなるのもわかる。
主は、誰にでも優しく穏やかな人だ。だがその優しさは誰からも一線を引いた、やや冷めたものだと彼は知っている。
誕生とほぼ同じくして母君を亡くし、下世話な噂に纏わりつかれ、王位継承争いのまっただ中にいる主。
誰かと深く関われば、緋翼派や白翼派につけ入る隙を与えてしまう。
そういう環境にあれば、自然と主のように表面は優しいが、滅多に心は動かさなくなるのかもしれない。
ところが、つい先頃知り合った庶民の娘とは親しく交流しているようだ、と『耳』からの情報があった。ラシード自身が得た情報としては、少し前に請け負った依頼の村に住む女性だということと、アルドヘルムが身元保証人になったということくらいしか把握はしていなかったのだが。
それが、親しく交流。
案の定、その娘はエディラード殿下に利用されかけたり、他の令嬢の嫉妬を買って殺されかけたらしい。
まあ、後者には他の理由もかなりあったのだが。
彼があれこれ考えている間に、通信が終わったらしい。
「…ラシード、いたのか」
振り向いたアルドヘルムのことばに、ラシードは激しく狼狽した。
気配に敏い、王宮ではいつもどこかピリピリした主が、『いたのか』だと?
どんな病気だ、と頭を抱えそうになったラシードをさらなる衝撃が襲う。
「後夜祭の日は、護衛もラシードもついてこなくていい」
「…それは…どういった理由かおききしても?」
普段、星持ちとして動いているアルドヘルムの護衛はいない。従者であるラシードも、アルドヘルム本人が望まないためほとんど別行動をとっている。
だが、新年祭は例外だ。アルドヘルムは王族としての公務が朝から夜まで目白押しで、自由な時間がとれる後夜祭だって、勝手に街を歩き回れるわけではない。そんなことは、毎年のことで良くわかっているはずだろう。
「街を案内することになった。ライラも一緒に」
誰を、の部分は抜けていたが、ラシードにはわかった。あの庶民の娘だろう。
お言葉ですが、と否定のことばを続けようとしたラシードは口をつぐむ。
ここ最近のアルドヘルムは睡眠時間もあまり確保できないほどの激務だった。
そのほとんどが、ルーベントの後始末と、騒ぎ立てる黒翼派と白翼派を宥めることだった。
簡単に言ってしまえば、今回ルーベントがしたことは立派な殺人幇助だ。未遂で済んだとはいえ、単に幸運が重なっただけだ。エイリー公爵家が取り潰され、ルーベントがおとがめなしというわけにはいかなかった。
軟禁では生ぬるい、腕輪をはめ魔力を封じるべきだ、と白翼派と黒翼派が騒ぐ中、真っ先に頭を下げたのは医療師長であるエリク・クロフォードだった。
今回起こったことは、自分の管理不行き届きだ。ルーベントが悪くないとは決して言えないが、ナージェ・バーロウに手出しをされた挙げ句、その状態に気づかず退院させてしまった自分にも非がある。
処罰をということであれば、同等のものを自分にも与えてほしい、と。
ルーベントを入れた檻の番人には、エリクしかいない。ルーベントと同等に“心”を扱えるのは彼しかいないからだ。それに加えて彼は優秀な医療師長だ。後継者の育成に力を入れてはいるものの、エリクの片腕となれるような、医療師長の重責を果たせるような者はまだいない。
両派が鼻白んだところをさらにアルドヘルムが取り成したため、両派は黙るしかなくなった。
しかるべき人物に根回しをし、アルドヘルム自身が動き回った成果だ。
骨身を惜しんで動いてきたことを、ラシードは誰より知っていたから、後夜祭くらい好きに行動させてやりたい。
優しい両親に囲まれて自由奔放に育ってきたエディラードに比べて、アルドヘルムは我儘を言ったこともほとんどないのだ。新しい王妃に遠慮をしていたのもあっただろう。いつも控えめで弟妹に優しく、でもどこか冷めた子どもだった。
だが、今、この時機で。
新年祭を終えれば、国民は等しくひとつ年をとる。エディラードは十七になるのだ。
王が定めた追いかけっこの期限は、エディラードが十八になるまで。つまり一年を切ってしまう。
白翼派にとっても、黒翼派にとっても、何よりも大切な一年が幕を開けるのだ。
両殿下とも王位は望んでいないから、各派は説得に今まで以上に力を入れるだろう。その上で、相手を追い落とそうと躍起になるはずだ。
緋翼派はもともと劣勢な上、今回の不祥事もあるので派手には動かないだろうが。
どちらにせよ、王宮は揺れるだろう。
王宮外の人々も巻き込みながら。
その庶民の娘は、意味は違えど三派に間違いなく目をつけられている。
ディルス公爵令嬢が一緒だとは言っても、不安は強く残る。
「…時機が良くないということは、ご存知ですね」
アルドヘルムはラシードのことばに苦笑した。
「ああ。だが、こちらの都合に巻き込んで日常生活を奪った上、怪我までさせてしまった。…せめて、俺の好きなこの街を見せるくらいはしたい」
俺、とアルドヘルムが言ったことで、ラシードとしてはもう止めるつもりはなくなった。
「では、距離は取りますが、護衛はお付け下さい。ご不満でしょうが、ご一緒されるお二人のためだと思ってください。後夜祭の花火の後はディルス公爵家まで送り届けていただければ、馬車でアカデミーへお二人が帰れるよう手配をしておきます。」
決意と共に組んだ予定を伝えると、アルドヘルムは一瞬、目を見開いた。
いつもより大きく開かれた瞳が、ゆるゆると細められ、優しい微笑みを形作る。
「…感謝する。父上には私から言おう」
滅多に見られない主の微笑みと感謝のことばを受け取り、ラシードは強く拳を握った。
どうか後夜祭が終わるまで何事も起こりませんように。
どうか滅多にない主の我儘が守られますように。
なぜか、嫌な予感しかしないのを無理に押し退け、ラシードは祈りつづけた。