〈幕間〉本当の闇〈別視点〉
アカデミーの女子寮で、前代未聞の傷害事件が起こった。
今までも、魔力による傷害事件は何度かあったのだが、今回のように刃物を使用したものは初めてだ。
幸いにも、魔力の扱いに長けた生徒がそばにいたことで被害者は一命をとりとめた。
まだ楽観視できる状態ではないが、付ききりで看なければならない状況は乗り越えることができた。
エリクは深いため息を噛み殺した。
目の前の黒髪の少女は、つい先刻までの暴れようが信じられないほど安らかな寝顔をしている。
慣れない刃物をふるった際についたのであろう傷も、きれいにふさがった。
まだ、詳しいことは何もわからない。
“心”を使って探るには少女は消耗しすぎていたし、繊細な魔力の扱いはしばらくできないほどエリクも疲れきっていた。
「師長、リリア・ブリットが目を覚ましたようです」
通信機から手を離した、まだ若い医療師が言う。
安堵の息がもれるが、ここで気を抜くわけにはいかない。
リリア・ブリットとこの少女が目覚めてからが本当の勝負なのだ。
「様子見に行って、そのまま師長も休んで下さいよ。そんな状態じゃ“心”も送れないでしょう」
エリクは憮然と眉間のしわを強くしたが、反論はできなかった。
「少しだけ、仮眠をとってくる。…いいか、ここには俺以外、絶対に入れるなよ」
わかってますよ、と若い医療師は苦笑した。
何せ、この少女は現在最も疑われている容疑者なのだ。
容態が安定していないことももちろん、そういった意味でも面会謝絶だ。
医療師長が部屋を出てからしばらくして、静かに扉がノックされた。
「…入って。ここまでは誰にも見られなかった?」
「はい」
招き入れると、少女はほっと息をついた。
「…ありがとうございます。我が儘を申しましてすみません」
丁寧に礼をする少女に、医療師が手を振る。
「いや、友達を心配して様子を見たいというのは当然のことだよ。もう少ししたら、また師長が“心”で治療を始めるから、少しだけだよ」
友を心配して、真っ青な顔をして医療棟に来た少女。
その気持ちはとてもわかる。
師長の言いつけは破ることになるが、こんなささやかな願いくらい叶えてやってもいいだろう。
若い医療師は気づかなかった。
自分のその気持ちに、十分手が加えられていることを。
普段の彼なら、少女に同情と共感はしても師長の言いつけを破ったりはしなかっただろう。
少しでいいから二人にしてもらえないか、と少女に琥珀の瞳で見つめられ、浮かび始めていたこれで良かったのか、という医療師の疑惑は霧散した。
若い医療師が出ていってから、サリエラはいらいらと髪をかきあげた。
なぜ、こんなことになっている。
自分は確かにナージェ・バーロウの人を傷つけたい気持ちや憎む気持ちを育てた。
思わぬところでリリア・ブリットに刺激され、バランスが崩れてしまったが、こんなところまで壊れるとは思わなかった。
どうして?
一度入院して、医療師が治療したのではなかったの。
私は何も手を加えていないのに、刃物で人を襲うだと?
考えても、仕方がない。
与えられた時間は少ししかないのだ。
早くしないと。
ゆるく頭を振って思考を中断させたサリエラは、ナージェの額にそっと手を触れた。
エリクによって、深い眠りに包まれているナージェの精神は深く傷つき、もう元には戻らないほど砕けていた。
浮かぶ思考も泡のように小さく、ばらばらだ。
だが、これを再構成しながら遡っていけば、サリエラが魔力を送った痕跡に気づかれるかもしれない。
エリクにはその力があるだろう。
もう二度と再構成できないほど、壊してしまうか。
リスクは高いが、躊躇っている暇はない。
送る“心”を掌に集める。
もう終わりにしたい、という気持ちを、大きくしてやればいい。
送り込む“心”を強くしたときだった。
「は~い!現行犯みーつけた」
突然きこえた間延びした声に、サリエラはびくりと身を引いた。
振り返ると、扉のところに人影があった。
「王弟殿下…」
礼をとらなければ、と思うが、なぜか足がすくんで動けない。
「あまりに計算通りで、僕自分が怖い!…その子、始末しに来たんでしょ?」
へらへらと笑うルーベントの異様な雰囲気に、否定のことばを発することもできない。
一歩、ルーベントがこちらへ進む。
知らず知らず、サリエラは一歩下がる。
「なぜ、こんなことになったか、教えてあげるよ。退院間近のその子に“心”を送り込んだのは、僕だよ。やられる前にやっちゃえ、って煽ったんだ~」
甘露を含んだように、笑み崩れた顔。
ルーベントの狂気に触れたサリエラは、自分が息をしているかもわからない。
逃げなければ、と思うのに、同時に逃げたらおしまいだという思いがサリエラの足を縫い止める。
「その子が派手に動けば、君は出てこないわけにはいかないよね?君が“心”を使った痕跡はすごく上手に隠してあったから」
途中で探るのが面倒になっちゃったんだ、とルーベントは肩をすくめる。
「まあ、おかげであのリリアって子にはちょっと悪いことしちゃったけど。命に別状はなかったし、こうして黒幕も捕まえたから、結果が大事だよね」
じりじりと後退していたサリエラは、ナージェの横たわるベッドに突き当たり、ハッと後ろを向いた。
退路を探して目線を走らせると、ルーベントの笑いが響いた。
「もう君は逃げられないよ。エイリー公爵家も取り潰しになるだろうね~」
「なっ…!なぜですの?!」
耳を打った信じられないことばに、サリエラは声をあげた。
ルーベントは三日月のように目を細め、喉を鳴らした。
「エイリー公爵はね、娘を王太子妃にと願うあまり、やりすぎたんだよ。簡単にいえば贈賄ってやつだね」
それに加えて、サリエラが今回やったことの報い。
取り潰しは避けられないだろう。
「僕としては、取り潰し程度ではぬるいんじゃないかなーと思うんだけどね。決めるのは僕じゃないからさ~」
残念、と口をとがらせる。
「だから、ちょっと私的制裁に来たわけですよ」
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
サリエラの細い腕はルーベントにがっちりとつかまれてしまい、身動きがとれない。
「…っ、やめ…!」
「ねえ、人を壊すのは愉しかった?…僕にはわかるよ。整ったパズルのピースを崩す快感はたまらないよね」
キミも僕を楽しませてよ。
耳元で囁かれた声にサリエラが息をのんだ、そのとき。
「やめろ」
怒気をはらんだ低い声が、扉の方から飛んできた。
サリエラの腕は離さないままに、ルーベントが振り返る。
「あっれー。もう休憩終わり?あと少しでこっちも終わるから、ゆっくりしてていいのに」
金色の眼に射殺すように睨まれているというのに、全く気にした様子もない。
「ルーベント。その生徒を離せ」
唸るように命じた医療師長に、ルーベントが笑う。
「キミとは友人のつもりだけど、そんな命令はきけないなあ」
「……命令ではない。どうか、離してくれ。…たくさんの人間を壊してきたそいつに、そんな形で安寧を与えたくはない」
強い眼差しを自分にも向けられて、サリエラはがくがくと膝が笑うのを止められなかった。
どうして。
一体どこで間違えたというの。
いや、もういや。
わたくしに誰も触らないで。
もう、見たくない。
「あ、壊れちゃう」
サリエラの腕をつかんでいたルーベントがつぶやいた。
無意識ではあったろうが、自らに“心”を向けたサリエラはあっという間に崩れていく。
エリクが急いでサリエラの額に触れ、思考を止めさせ、深い眠りに落とし込んだ。そのまま倒れ込む身体を受け止める。
高い身分ながら、罪を犯した令嬢。
面倒なイカれた悪友。
これから治療が必要な“心”の被害者。
のしかかる疲労感や苛立ちに、エリクは地団駄を踏みたくなった。
次は本編に戻ります。