〈幕間〉彼女にできること〈別視点〉
朝靄の中、馬車が静かに走り出した。
すぐに路地の角を曲がり姿は見えなくなったが、夜露にぬれたドレスの裾を気にすることもなく、彼女は立ち続けていた。
「出発しましたね」
彼が声をかけると、特に驚いた様子もなく彼女が振り返る。
「ええ。…限られた時間とはいえ、十分なことを伝えられませんでした。これから彼女が置かれる立場を思うと不憫でなりません」
冷酷、鉄の女、と称されることの多い彼女だが、実際は細やかな配慮に長けた厳しくも優しい女性だ。それを知っている人はごくわずか。馬車に乗って行ってしまった彼女も、この短い期間では気付けなかっただろう。
ほう、と静かに彼女が吐いた息が白く染まる。凛とした横顔に憂いが浮かぶ。
「あとは彼女自身でやるしかないですよ。アカデミー内には『耳』がありますから…。僕も気にしておきます」
彼のことばに、ふと彼女が目を上げる。
「そのことを、彼女は知らないのですね?」
「ええ。時期が来れば知らせることもあるでしょう」
どこか咎めるような色の彼女の声も、彼の花のような笑顔を崩すことはない。
出自が不確かな、星を持たない女性。
星を持たないだけなら、珍しいがただそれだけだったのに、魔力を持っていることが露見してしまった。しかもそれは“心”の魔力。
かつて“心”を自在に操る星持ちが西の大国をたった一人で、しかも数日で滅ぼしたというのは、星持ちの中でも秘匿されている話だ。王家の者やごく一部の星持ちの間でひっそりと口伝されているのみで史書にも記されていない。
彼は“心”の魔力で多くの人心を惑わし、西の大国をあっという間に自滅に導いた。周辺国が軍勢を組み彼を追ったが、最期は己の“心”に喰われて絶命した。
アカデミーで“心”の魔力を概略しか学ばないのは、第二の彼を作り出さないためだ。
エディラードやアルドヘルムには言うつもりがなかっただろうから、自分が言わなければと何度も思ったが、彼女はどうしてもこの話ができなかった。
“心”の魔力を使えるというだけで、国のトップクラスの監視対象にあがってしまうこと、アカデミー在学中の行動や能力の変動次第では一生を檻の中で暮らすかもしれないこと。
それらから決して逃げることはできないことを。
せめて、と限られた時間で伝えられることは全て伝えた。魔学の基礎はもちろん、周囲から侮られないような礼儀作法、つけ入られないよう感情を隠す方法。
うなされるほど追いつめた自覚はあるが、そうするしかなかった。
シャロンから家名を、アルドヘルムから身元保証を、彼女とエディラードから身に纏う武器を与えたのが精一杯。
魔窟の中に、直接助けの手を差しのべることはできない。
回り出した歯車に、どうか、と祈るしかない。
きつく握った指先が凍えはじめても、彼女は朝靄の中に立ち尽くしていた。