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女を飼う話

作者: ナナツ

 僕は女を飼っている。

 女はいつも円筒形の水槽にいる。透き通った水面に足先を滑らせ、飲み込まれるようにするりと潜り、魚のように悠々と泳ぐ。体をくねらせ、指先で水をかき混ぜ、足で水槽のガラスを蹴り、ふわりと水面に浮かぶ。水槽の縁に肘を乗せ、頭をもたげるようにして僕を見る。「もっと長く沈んでいたいのに」水の中が最も好きな場所だと言う彼女はそう、ぼやく。じゃあ、もっと潜っていたらいいのに……そう僕が言うと、彼女は少し怒ったような苦笑いを浮かべ、猫のように喉を鳴らした。「それは無理な話よ。私はえら呼吸できないから」そうか、人間は長く潜っていられないのか。僕はその時初めて知った。そうだ、水中に酸素はないのだから……。

 僕が驚いていると彼女は続けて、「あなたも水の中に入ったら。少しは理解できるかもしれない」と言った。口の端をつり上げた顔は不敵と言われる表情にカテゴライズされる。つまり、彼女は意地悪をしているのだ。僕は水に入ると壊れてしまう。最初に言ったはずなのにもう忘れてしまったのだろうか。僕の顔を見て女はますます笑った。とても楽しそうだ。


 僕は女に餌を与える。

 僕に食物は不要だけど、女には必要不可欠なものだ。餌がなくては生きていけない。しかも綺麗に飾り立てなくてはならない。白く丸いボウルには青いレタスやルッコラ、赤く艶やかなトマト、肉厚なパプリカを並べる。四角く平らな皿には赤ワインで煮込んだ肉と甘いソースにクレソンを添える。ジュースは細長いグラスにオレンジを添えてたっぷり注ぐ。完璧だ。女は肉にかぶりつき、野菜を咀嚼し、ジュースで喉を潤すと満面の笑みを浮かべた。口の中でぐちゃぐちゃと音を立て、ナイフやフォーク、スプーンを器用に使いこなす彼女を僕はすごいと思った。  人間って器用なんだね。僕はどんな時どんな道具を使えばいいか、瞬時に判断は出来ない。現状を伝えると、彼女は食べている時よりも嬉しそうな顔をして「そうなの。人間はすごいのよ。臨機応変って言葉知っている? 時と場合によって使い分けるの。よく考える事もあるけど、食べる行為についてはほとんど瞬時に動くのよ」ウインクを投げながら「あなたと違ってね」と付け足した。その通りだ。僕にはできない。


 僕は女の事をよく知っている。

 意地悪な事が好き。この意地悪で僕は何度も悩まされた。僕はインプットされたこと以外について、何度か学習すればそれについて思案するという行動を覚え、実際に動けるようになる。けれど彼女の意地悪はとても難解で、わからない事が多い。「1から1を引いて0にするんじゃないの。0から1を引き出して100にするのよ」などと、理解できない事ばかりだ。彼女の言う意地悪というものはそういうものらしい。僕はとても新しい頭を持っているから彼女の意地悪をインプットして予測パターンを作り、次に備える事ができるけど、それなのにわからない事ばかりが積もる。表情も読めるというのに、顔と心はバラバラだ。彼女のように食器を鮮やかに使う事ができたら少しはわかるだろうか?

 そしてもう一つわからない事がある。

 女は水の中で暮らせないのに、ほとんどを水中で過ごす。透明の水槽の底で、埋葬されたように眠る彼女はしばらくすると泡を吹きだし、慌てて水面に戻る。一歩間違えれば死んでしまうかもしれないのに。「怖いぐらい胸が圧迫されるの。おもしろいぐらいに体は軽くて、苦しいわ」ほら、理解できない。濡れた髪をかき上げたその姿は人魚に近い。裸の体に鱗はないけれど、このまま泳ぎつづけたら足がぴったりくっついて魚になってしまうかもしれない。僕は本気で心配したのに「それいいわね、とっても楽しい」女は大笑いするだけだった。これも意地悪の一種なのだろうか。わからない。よく知っているはずなのに、わからない。


 女は時々いなくなる。

 女を飼う時、首輪と鎖は付けないという約束をした。「人間は首輪と鎖はしないわ。それを好む人はいるけど、私はしない」けれど逃げてしまうし、外に出たら迷子になってしまうかもしれない。匂いと景色だけで帰ってこられるとは思わない。きっと泣きながら辺りを不安げに見回すのだろう。そうして、見知らぬ土地へどんどん言ってしまうのだ。そうしたらご飯だって食べられない。女は食べる事が大好きだというのに。

 けれど女はいつもの不敵な顔で「そんな事にはならない。私はどこへ行ってもここに戻ってくる。匂いがなくてもね。首輪と鎖で守ってもらわなくても平気よ」ウインクだけではなく、二本の指も立てた。それは子供がする事だとばかり思っていたが、大人の女もするようだ。僕は一つ学習した。「そんな事覚えなくてもいいのに」そういうわけにはいかない。僕は知り、理解するところまでいかなくてはならない。それが僕なのだから。


 僕は女の行先を知らない。

 飼い主であるはずなのに、僕は女の居場所を知らない。誰もいない水槽を眺めながら外について考えるのだが、まだインプットしていない情報なのでわからない。僕はここで泳ぐ彼女しか知らないのだから仕方ない。しばらくすれば戻ってくるのだから。「寂しかった?」女がいない事がなぜそこへ繋がるのだろう。いないと言う事実はイコール寂しいに繋がるのならば、寂しさは一人から来るものだという事になる。そういうものなのだろうか。

 誰もいない水槽を眺める。透明なガラスで作られ、水は僅かな水色に色づいている。僕はそれを少しすくい小瓶に移した。掌にすっぽり収まるほどの小さなガラス瓶。丸い形をしていて、ビー玉に似ている。

 不思議な事に、水は水色ではなかった。光にかざすと淡い撫子色へ変わった。水面がとろみを帯びたようにゆらりと揺れ、瓶の中で跳ねる度に撫子色が舞うのだ。そこから徐々に赤紫に変わり、浅葱、空色へと色を変えるのだ。まるで虹のシロップのようだ。光と影によって変わる色にひたすら驚いた。

 そして僕は感じた。感じる、などと曖昧なものを口にした自分に驚いた。けれど、感じるという表現が一番しっくりくる。例え、本当に感じていなくとも、今はそれが最適だ。

 あの水には女の全てが溶け込んでいる。彼女の意地悪な心も、猫のように笑う口元も、白い手足も。

 それを伝えたら彼女は珍しく怒った。「私、出汁じゃないわよ」


 女は突然言った。

「私、結婚するの」

 それはつまり、僕が飼い主でなくなるということだ。女は新しい飼い主を見つけたようだ。僕の知らない行先に新しい飼い主がいたという事だ。

 しかし、僕は女を飼っている。飼い主が放棄すれば女は別の場所へ行くしかないが、僕はまだ手放していない。だというのにどうして彼女は別の場所に行こうとしているのか。久々に受ける意地悪だろうか。

「違うの。私は別の人と、あなた以外の人と生きていくことにしたのよ。きっとわからないと思う。あなたに心はないのだから」

 今回の意地悪は随分と難しい。バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想が裸足で逃げて行きそうだ。僕もできたら、逃げ出したいと思ったほど、今度こそわけがわからない。

 これはいい事なのだろうか、それとも悪い事なのだろうか。彼女に聞くと、「普通の人は祝福してくれるわ」と言ったので、僕はおめでとうと言った。女は酷く複雑な表情を浮かべるばかりで何も言わなかった。「そう、これはとても良い事なのよ。それ以上にあなたは寂しくなるわね」いい事なのにあまり嬉しそうではない。僕は小瓶を取り出し、女がここにいる事を伝えた。すると、女はますます顔を歪めた。

 女は次の日、出て行った。水の入った小瓶だけが僕の手の中にある。


 僕は水槽を眺めている。

 かつて女が泳いでいた水はなく、水槽だけが部屋の真ん中にある。理由はわからないが、女のいない水は徐々に藻が繁殖し始め、泥水へ変わってしまった。仕方なく水は抜き、今は空っぽだ。水がなければ僕も入る事ができる。梯子を使って降りて、かつて彼女がやっていたように、底に寝そべってみた。

 両足を広げても僕が浮く事はない。苦しくなる事もない。絹糸のような髪が舞う事もない。光がないのに肌が光る事もない。何もない。

 女は何を考えていたのだろう。僕は飼い主だというのに、女の事を何もわかっていなかった。わかっていると思っていたはずなのに、水と共にどこかへ流れてしまった。

 けれど、どうやっても仕方ないんだ。女はいないのだから。


 僕は眠り続けている。

 女の顔はいつまでも忘れる事はできない。そういう機能がついているため、リセットしない限りは残り続ける。

 僕は水槽の底で両足を広げたまま、今日も眠っている。眠る機能はないため―目を閉じ続けているという状態が続いている事を眠りというなら眠っているのだろう―つまり暇だった。

 女を飼っていた時、暇だと思わなかった。女と僕はほとんど会話をしなかったし、触れ合う事もなかった。僕は女を眺め、女は泳ぎ続ける。首輪も鎖もないまま、散歩し続けていた。

 ああ、やはり首輪と鎖は必要なんだ。逃げられないようにするためにも、迷子にならないためにも、見知らぬところで死なないためにも、付けておくべきだったんだ。

 でも、もう遅い。

 次に女を飼う時には必ず首輪と鎖を用意しよう。そうでなくては心配だ。


 僕は女を探している。

 僕は新しく女を飼う事にした。次の女を選んでいる最中だ。とはいえ、そう見つかるものでもない。女はその辺に転がってはいないから、見つけるのに苦労する。

 なるべくだったら水に潜るのが好きな女がいい。そうしたら僕はまたあの水槽を眺める事ができる。あそこは僕が眠るには少し大きくて息苦しい。あれは水槽なのだから、水を入れなくては意味がない。

 ただでさえ女は少ないのに、見つけても頷いてくれる人はまったくいない。水の中で泳ぐのは嫌だとみんな言うのだ。じゃあ、あの女はなぜ泳いでいたのだろう。人魚だったのだろうか。じゃあ、今頃人魚になってもっと大きな水槽で泳いでいるに違いない。

 そうか、人魚を探せばいいのか。人間の女ではなく、人魚を探そう。その方が早い。


 僕は人魚を飼っている。

 人魚は言った。「私、昔は人間だったの。けど、どうしてもあの人に会いたくて人魚にしてもらったの」という事は、飼い主は別にいたのだろうか。だとしたら悪い事をした。「いいのよ。ちゃんと会えたから、いいの。私はやっぱりこの水槽が好き」などと、難しい事を言う。「独り言よ。気にしないで。あなたはきっとわからないだろうから」

 今度は首輪と鎖をしっかりつける事にしたのだが、そうすると泳げなくなってしまう。滑らかに潜る事ができない。今度こそと思ったのに、結局外してしまった。僕は泳いでいる姿が好きなんだ。

 また逃げるかもしれない? いいや、大丈夫。

 人魚はこの水から出る事はできない。水の中だからこそ自由に動ける事をよく知っているからだ。僕はもう理解している。


 さあ、そろそろ餌の時間だ。今日は何をあげようか。

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― 新着の感想 ―
[良い点] どう展開していくのかわからないスリルのある作品だったと思います。 [気になる点] こちらの読解力のせいかもしれませんが、最後のところに至るまでの意味がやや明確に感じ取れませんでした。 [一…
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