『鋼焔の魔法陣』
会場に残された者たちは絶体絶命の窮地に立たされていた。
「さすがに不味いですね、あと一回……いえ二回で終わりです」
「くそ……まじでやばいな」
そうは言うが神宮寺沙耶に焦った様子は全く無い、ただ淡々と状況を解説しているだけだ。
悠は悲観しつつも冷静に戦況を分析するが、もはや撤退という手段を選ぶことすら不可能になってしまったこの状況では戦略の立てようもない。
崋山国八千の兵は百mの間合いまで詰めてきていた。
避難は順調に進んでいたが、日鋼のエリアだけは狙いが集中されていたのでまだ一万人以上の一般客が取り残されている。
「宇佐美くん、インスマスくん、きばりや、もういっぺん来るで」
古賀が、最年長の男として、実戦を経験してきた者として半ば心が折れかけている二人を鼓舞する。
しかし、彼はもう死を覚悟し始めていた。
もう、あとどれだけの一般客を逃がすことができるだろうか、と最期の時まで最善を尽くそうとしている。
「……古賀さん、でも今のままじゃ……」
宇佐美は死への恐怖で体がすくみ始めている。
もはや死ぬ時間を先延ばししているにすぎない、この状況を打破する術はない。
後ろを向いて逃げ出そうにも、逃げ場はない。逃げても退路は詰まっている。
崋山に好き放題に撃たれ一般客ごと皆殺しになるだけだろう。
「分かっていますわ、ですが――くっ」
苦しい表情でクレアが何かを言おうとした途端、再び攻撃魔術の散弾が降り注ぐ。
高クラスの攻撃魔術が容易く耐障壁を貫通し、魔陣使い、その他の術士に直撃していく。
魔陣使いでないものは膝を着きそうになっている。もう気力だけで立っているのだろう。
そして、古賀たちの魔法陣へのダメージも相当に蓄積してきており、限界はすぐそこに来ている。
間合いが詰められて行くごとに徐々に、確実に死が近づいていた。
「…………本当にもう……覚悟をした方がいいですわね」
そして追い詰められた一万人以上の観客はパニックに陥っている。
さきほどまでは古賀たちの獅子奮迅の活躍によってなんとか焦りながらもギリギリ平常心を保っていたが彼らも状況を理解したのだろう、近くの者のせいにしていがみあう者、神に祈りを捧げている者、泣き出す者、完全な恐慌状態を起こしていた。
そして、崋山軍八千の次の詠唱が始まる。
「……じゃあ、もうこれで終わりにしましょうか、全隊、クラス5以上を叩き込むわよ」
何者の邪魔もなく詠唱は完成する。鬼堂灯美華の目的は果たされる。
「―――さよなら、神宮寺沙耶、鋼焔くんは返してもらうわよ」
口角を吊り上げて彼女は嗤う。憎しみが解き放たれる。
「悠さん、あれが飛んできたら終わりですよ、お祈りは済ませましたか?」
沙耶はこの期に及んでもいつも通り悠に向かって軽口を叩いていた。
「……沙耶、狂っちゃったのか、……クソッ、もう、どうしようもないじゃん」
悠は目に涙を溜めて前方を睨み付ける。
「……死にたくない」
宇佐美は障壁を一つ張った後、心が折れた。
「……死にたくないよ」
精神集中が成功しなくなり、障壁を一枚張ったところで彼女は終わった。
宇佐美の正面の障壁は薄い。確実に、彼女と彼女の後ろに居る人間に死が訪れる。
「……ごめんなさい、お母様、お父様」
クレアは最後まで気丈に振る舞い、障壁の詠唱も完璧に成功させた。
親に先立つことを謝罪し、覚悟を決める。
(……そういえば、天城様に教えてもらったお礼をしていませんでしたわね……)
不意に、そんな益体もないことを思い出す。もう手遅れだというのに。
(真紀、雪、すまんなぁ……結構ローン残っとるのに、保険ちゃんと降りるんかなぁ)
古賀は愛する妻と娘のこれからを心配する。
いつか、もしかしたらこうなるだろうと覚悟は済ましていた。
それでも後悔の念は尽きない。
娘の成長を見守ることもできずに、こんなところで朽ちていく己が腹立たしい。
自分が生きてまた娘と妻に会える、そんな奇跡を信じたい。
でも、古賀は大人だった。
そんな都合の良いことは起きないと知っている――甘い思考は泡のように消えていく。
そして、崋山軍が、彼らに死を告げる魔術を発動しようとしている。
しかし、その瞬間、戦場のド真ん中に天城鋼焔が突如現れた。
まだ、鋼焔に気が付いている者はいない。
鋼焔はすぐに状況を把握する。
日鋼のエリアの方を見る。
沙耶がいる。悠がいる。古賀がいる。宇佐美がいる。クレアがいる。明人がいない。
「明人は!?」
五十m離れたところまで聞こえるように大声で叫んだ。
それでようやく、周りが鋼焔の存在に気が付く。誰もが突然現れた鋼焔に驚き、混乱する。
「生きています!」
そして、驚きもせず、逸早く気が付いた沙耶が刀を抜いて明人が倒れている方を指し示しながら叫んだ。
「――よし、間に合ったか」
もしかして手遅れなタイミングで現れたかと思っていた鋼焔はそれを聞いて安堵する。
さっきまで死を覚悟していた宇佐美とクレアは突然現れた鋼焔のせいで呆然としていた。
しかし、ハッと気が付いたように、
「天城くんっ」
「天城様ッ」
「うしろ!!」
二人は迫り来る多種多様な魔術の散弾を、指差しながら鋼焔に向かって叫んだ。
すでに、崋山八千の魔陣使いによる攻撃は鋼焔に届こうとしている。
沙耶以外の誰もがグチャグチャの死体になるであろう鋼焔を見たくない、そう思い、目を閉じた。
(コウさん、お待ちしていました)
沙耶は、現れた鋼焔をじっと見つめながら心の中でそう呟く。
神宮寺沙耶は神など信じていない。
神には祈らない。
彼女は最初から天城鋼焔が必ず来ると信じて待っていた。
鋼焔は後ろを振り向く。
最初から後ろのことには気が付いていた。
先に仲間の安否を確認したかった。
そして、鋼焔は己に課された―――課した禁を破る。
「京、可能な限り魔力を吸い続けてくれ、領域拡大の進行を抑える」
「はい!……使われるのですね、御主人、了解しました!」
太古の昔、地上を制覇していたのは『鋼の精霊』だった。
しかし、今は『人間』の世界、『鋼の精霊』はかつての猛威を振るうことはできない。
ならば―――『人間』であり『鋼の精霊』であるものこそが、この世界の覇者として君臨する。
天城鋼焔は数年ぶりにそのキーワードを口にする。
『侵蝕』
その瞬間、凄まじい勢いで鋼焔の魔法陣が展開した―――魔陣領域が広がり続ける。
鋼焔の異常とも言える『魔力』が常人ならば半径三十mの魔陣領域を半径五百mほどまで押し広げる。
「御主人、前回より小さいです、これなら大丈夫かもしれません」
「よし、京、引き続き頼んだ」
「……了解しました!」
数年前、手加減せず展開してしまったときに魔陣領域は半径百kmまで広がった。
数年後、それが魔術学校の教本に載ってしまっていたことに自身で驚いた。
鋼焔の魔法陣の表面には古代魔術文字が刻まれている。
魔法陣の色は赤黒い、ありえないことに領域内の空間の色さえ薄く赤黒く変色していた。
そしてさらに、鋼焔の足元から『二つ目の黒い色をした魔法陣』が展開されようとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
色とりどりの魔術の散弾が鋼焔に迫り来る。
「【Dfc Fir Tsed】」
鋼焔はすぐさまクラス1の『耐障壁』の詠唱を開始すると―――同時に完成させた。
―――周りから見ればもはや『無詠唱』に見えているだろう、刹那の時間で唱え終わる。
魔力の塊と化した鋼焔の生きる時間が『ズレ』ていた。
何千何万年を生きる者の一日が短く感じられてしまうように、その一秒は限りなく短くなる。
壱が零に近づく。
天城鋼焔は加速していた。
「【Dfc Fir Wdoq】」
「【Dfc Fir Fapn】」
「【Dfc Fir Ahrp】」
「【Dfc Fir Iscu】」
「【Dfc Fir Etsl】」
「【Dfc Fir Irx】」
瞬く間にクラス1の障壁魔術を七つ完成させる。
頭上には『耐雷障壁』、正面には『水、火、風、氷、土、鋼』の六枚の障壁を発動させる。
しかも、その全てが異常に分厚く巨大で幅広い、鋼焔の後ろには一つたりとも通さないというように、重厚長大で堅牢な障壁の列ができあがっていた。
壁にあたった崋山軍八千人分の魔術が潰れたトマトのように変形し掻き消えていく。
鋼焔の魔法陣はおろか障壁にさえ掠り傷一つ存在しない。
「……え、な、なに?た、助かったの?なんで……?」
目を瞑っていた宇佐美は何が起きたのか、未だ理解していない。
沙耶以外のほとんどの人間は、なぜ助かったのか理解できず不思議に思って、突如現れた巨大な障壁を見つめているだけだ。
「【Ark Fir Fapn】」
全ての攻撃を防ぎ切った鋼焔はすぐさまクラス1の火の魔術を詠唱する―――空に片手を翳す。たったそれだけで、
空の青を埋め尽くすような極大の火炎弾が生まれた―――以前のクラス9の火炎弾より十倍以上に膨らんだものが空を占拠する。
鋼焔の圧倒的すぎる魔力がクラス1の魔術をクラス10を遥かに超えた究極の魔術へと変貌させてしまっていた。
「お、おい、あれはどういった魔術なんだよ、沙耶……」
悠は火炎の弾を呆然と見上げながら訊ねた。
「先ほどの障壁とあの火炎もたぶん、ただのクラス1ですね」
沙耶が淡々と解説する。
彼女は平静を装っているが、鋼焔が現れてから少し興奮している。
「……嘘でしょ……でか過ぎだし、つーか暑すぎて死にそ」
悠は自身の兄の力を目の当たりにしても未だにこの現実を信じられずにいた。
彼女にとって兄とはいつも自分を心配してくれている優しい家族、愛すべき人だ。
しかし、今の彼は神か悪魔かと言わんばかりに、その絶大なる猛威を振るっていた。
「……おかしいな……ぼく、遠近感狂ってもうたんかな……」
生きていたことに安堵していた古賀は上空を見てから、目を擦って再び上を見てそう呟いた。
「……ク、クラス1で……あのサイズですの!?」
クレアは沙耶の言葉に衝撃を受けた。
―――なら、あれより上があるということなのだろうかと……。
もはや自分の想像できる範疇を超えていた。天城鋼焔の全てが規格外になっていた。
「―――え、……な、なにが……どうなってるのこれ……?」
宇佐美は我が目を疑っていた。
もはや、鋼焔が現れてからの急変していく状況についていくのが精一杯になっていたが、上空の火炎弾を見て一瞬夢かと思ったほどだ。
それに、鋼焔は手を空に翳しただけだ、詠唱をしていない。
もし、詠唱していたとしても―――速すぎる。
わけがわからない。
しかも、神宮寺沙耶はあの魔術を――クラス1だと言った。
さらに、鋼焔がさっきまで立っていた場所からもう一つ魔法陣領域が広がり始めていて、余計に混乱に陥った。
「皆さん、あの黒い魔法陣には絶対に触れないでください、特に魔術師でない方は気をつけてください」
沙耶が後ろにいる観客を含めた周りに向けてそう注意を喚起した。
これから何が始まるのだろうかと、不安と少しの好奇心が彼女たちの中に渦巻いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして、もう一つの魔法陣の領域――『侵蝕領域』が、鋼焔が初めに展開をした地点から徐々に広がろうとしている。
『侵蝕領域』は濁った黒色のドーム状の見た目をしている。
普通の魔法陣のように表面が半透明だが、こちらの方が遥かにくっきりとみえている。
そして表面に精霊魔法に使われる、精霊文字が刻まれている。
鋼焔の父、天城鋼耀がこれを見たとき、恐怖した。
初めて鋼焔が魔法陣を使った時、侵蝕領域内にいた動物や虫、草は全て一日と掛からず全て息絶えた。
そして、その時、鋼耀は試しにその領域内に入った。
瞬く間に体中の力は抜けていき、吐き気、眩暈が起こる。
魔力の弱い人間ならば数日で死に絶え、強い者でも数週間もたず死に絶えるほどの恐ろしいものだろうと、鋼耀は判断した。
この領域内ではただの人間はゆっくりと蝕まれていく。
大地は全て鋼に生まれ変わる。
空気は毒になり、熱が人を溶かしていく。
血と鉄の臭いがする世界に変わり果てる。
これは、天城鋼焔が、己に『最も適した世界』へと塗り替える為の力。
そして、『侵蝕領域』は鋼焔が魔法陣を閉じても拡大は止まるが、消失はしなかった。
その時から自身の息子に『可能な限り魔法陣を使うな』と強く言い聞かせている。
鋼焔が力を振るえば振るうほど、この世界は狭くなっていく。
世界が天城鋼焔のためだけのものになっていく。
天城鋼耀は天城鋼焔のもう一つの魔法陣を―――『鋼の魔法陣』と名づけた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「う、うああ、うあぁぁあぁああああああぁぁあああああぁっ」
「い、いやだ死にたくない」
「に、逃げられるのか……あれから」
崋山軍のそこら中から悲鳴があがる。
今度、パニックに陥ったのは崋山軍だった。
鋼焔の発現させた極大の火炎弾を見て完全に平常心を欠いている、軍の士気が急激に下がっていく。
「落ち着きなさい!」
灯美華が声と共に兵の精神に干渉し可能な限り取り繕う。
「で、ですが鬼堂様……あれは…あれは、いったいなんなのですか」
「今はそんなことはどうでもいいの、全隊に『耐火障壁』の指示を出すのよ」
「……りょ、了解しました」
「――鋼焔くん、来ちゃったのね」
灯美華は悲しそうな顔をしながら、少し嬉しそうに呟いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
鋼焔は翳した手を正面に振り下ろす。
真っ赤な空が崋山軍に向かってゆっくりと落ちていく。
極大の火炎弾が、彼らの張った『耐火障壁』を何も無かったかのように突き破り、大勢の人間を飲み込み、炎が全てを貪っていく。
たった、クラス1の魔術一発。
ただ、それだけで四千人以上の魔陣使いは消し炭になった。
髪の毛一本残さず燃え尽き、この世界から消滅した。
「……なんなんだよ、なんでこんなことになってるんだよ、楽な仕事じゃなかったのかよ」
「悪夢だ、これは夢だ、夢だ、夢だ」
「……あ、は、あは、あは」
生き残った崋山軍の兵士は、気が狂った者、現実逃避を始めた者、現実を直視して絶望している者の三種類しかいなくなった。
だが、鋼焔は容赦しない。
「【Ark Fir Tsed】」
次はクラス1の雷の魔術を唱える。空全体を覆い尽くす厚くて黒い雷雲を顕現させる。
「夜になったみたい……」
宇佐美の呟きが漏れた。
鋼焔が呼び出した雲によって完全に太陽からの光が遮断されている。
完全に空が黒雲に染まり埋め尽くされている。
青い空など、どこにも見当たらない。
ただ、暗黒の空が広がっている。
「やめ、やめろ、殺さないでくれ」
「助けて……助けてくれ……」
崋山軍から命乞いすら聞こえ始める。
「全隊、『耐雷障壁』を張りなさい―――急ぐ!」
灯美華の命令は絶対だ。ここまで付いて来た彼らに逃げ場などない。
精神に作用するその言葉で一時的に平静を取り戻し、すぐさま詠唱を開始する。
そして、灯美華はここで空を自由に泳いでいた父親を『傀儡術』で動かす。
多数の操っていた兵が死んだことで操作する余裕が生まれていた。
腐っても四神、雷程度どうにかしてみせろと自分の盾にする。
雷雲から雷撃が落ちる―――いや、流れ出していた。
滝のように、大量の巨大な雷撃が残り四千の兵を蹂躙するように途切れる事無く落ち続ける。
絶え間なく、凄まじい大きさの雷鳴がバリバリと鳴り響き、空気を震わせる。
稲妻が発光し続け、雷雲によって暗闇になっていた地上が明るくなる。
「うう……」
雷が苦手なクレアが目を閉じ、耳を押さえている。
耳を押さえても、雷鳴の音が大きすぎて彼女の鼓膜を打ち続ける。
目には、途絶える事無く稲妻の光が瞼の隙間から入り続ける。
彼女の一生のトラウマになりそうな光景が眼前で広がっていた。
しかし、灯美華の操った四神獣はその中で生きていた。
「さすが、お父様ね。どんどん肥えていっちゃうなんて――これで形成逆転かしら」
灯美華の盾となり雷を喰らって己のエネルギーに変換し、さらなる成長を遂げていく。
雷雲からの放電が終わった後、灯美華の周りに居た百数十名以外の人間は、影だけを地面に残して消滅していた。
もはや、生き残った彼らの表情に生気は無い。目も虚ろになっている。
完全に勝敗は決した。
鋼焔は空間跳躍の魔術で灯美華の近くまで飛んでいく。
(……灯美華、さん)
彼女だとハッキリ分かったが鋼焔に驚きは無い。
しかし、なぜだ、とは思っている。どうして彼女はこんなことをしているのだと。
鋼焔は魔法陣を展開した時点で、『人間の魔力』が視えていた。
崋山兵一人一人から微弱に発せられる魔力が、鬼堂灯美華のものだとなんとなく分かっていた。
二撃目の魔術で彼女ごと終わらせるつもりでいた。
しかし、彼女は生き残ってしまった。
「【Ark Ixl Une Wim Mho Lun Ech Irx】」
鋼焔は灯美華たちの眼前で鋼の固有魔術クラス6を詠唱――完成させ発動させる。
生き残っている人数と同じ本数分の―――妖刀『村正』を兵士達の傍に具現化させた。
「降伏しろ、不穏な動きをすれば斬る、詠唱しても斬る、全員地面に伏せて頭に両手を乗っけろ」
鋼焔の言葉に従ってすぐさま、兵士達は指示通り動き出した。
「嫌よ」
灯美華がそう言った瞬間、一人を操って詠唱させた。
しかし、次の瞬間その兵士の首は切断された。
「あら、鋼焔くんたら容赦ないわねー」
『村正』は傀儡術で操っていない、鋼焔が最初に出した指示を呪いとして受け取り、自動で殺戮を開始する。
「灯美華、さん、どうしてこんな……」
鋼焔は苦しそうに言った。
「どうして?どうしてってそりゃ、あの女――神宮寺沙耶を殺すために決まってるじゃない、もうすぐ終わるところだったのに鋼焔くんが邪魔するから面倒くさいことになってるんだけど」
「なんで、沙耶を……まさか」
鋼焔は以前、沙耶から誰かに狙われることがたまにあるという、話を聞いていた。
沙耶は狙われても「軽い運動みたいなものです」そう言って笑っていたが。
それは『父親の件』の方だと思い込んでいた。
鋼焔はそのことから沙耶を守るために婚約をした、可能な限り傍に居た。
しかし、それは違っていた。
今日初めて見た灯美華の『狂わせる』ではない『人間を操る』力で彼女を狙っていたということに思い至った。
「そのまさかだよー、鋼焔くんをあの女から取り返すの、だから邪魔しないでくれるかな?」
灯美華はニコニコとした笑顔でそう言った。
「……おれが沙耶を選んだんだ、鬼堂灯美華、もう止めろ」
「ううん、違うの。鋼焔くんは、あの女に上手く騙されただけだよ、父親が国を裏切った事と家が無くなったからって鋼焔くんの同情を引いて私から奪い去ったんだよ」
灯美華は鋼焔と会話しながら傀儡術で四神獣を動かしていた。
「だから―――殺すの」
沙耶の眼前には、雷を貪りさらに巨大化した四神の合成獣がにじり寄っていた。
すでに体長はゆうに五十mを超えている。
「どうやら、鬼堂さんに狙われてるのは私みたいですね、……女の嫉妬は怖いです」
遠くで鋼焔と灯美華が話しているのを見てそう軽口を叩いた後、眼前の化け物に向かって刀を正眼に構えた。
さすがにこのサイズ相手にまともに戦えるわけもない、沙耶はとりあえず抵抗する姿勢だけは見せていた。
「鋼焔くん、動かないでね、動いたらあの女を殺すから―――でも動かなくても殺すけどね」
灯美華は四神獣に彼女を殺害するよう命令を下した。
しかし、鋼焔は後ろを全く気にせず、目を閉じ詠唱―――『無詠唱』をする、次の瞬間、
極大の神刀『祢々切丸』が遥か上空―――雲の上から抜き放たれ、地を抉るように切先だけで四神獣――鬼堂陽厳だったものを押し潰すように霧散させた。
巨大な質量を持った刀が通り過ぎ凄まじい風が起こる。近くに居た人間を吹き飛ばす。
神刀『祢々切丸』の大きさはゆうに二千mを超えていた。
鋼焔はそれを上空から完璧な精度で操り、地上に居る『蟻』だけを狙い、踏み潰した。
柄は完全に雲に隠れており、見ることはできない。
鋼焔の異常な力が全てを想像の埒外においやった。
「……コウさん、助かりましたけど……、さすがに今のは驚きました」
沙耶が一番近くにいたため、上から降ってくる刀の衝撃に煽られ吹き飛んでいた。
しかも、眼前に突然あんな巨大な物が凄まじい速さで降って来たものだから、心臓が口から飛び出しそうになっていた。
「……お兄ちゃん、心臓に悪いことは止めてほしいよ」
悠たちも、生き残った兵士も、逃げられなかった観客も、ただただ、唖然として口を開きながら、遥か天空を見上げていた。
「……ほんま、鋼焔くんが味方でよかったわ……」
古賀が震えながらそんな呟きを漏らしていた。
そして、『侵蝕領域』が拡大していく、これ以上時間をかけるのはあまり得策とはいえない。
「……あは、あはは……本当に無茶苦茶だね、一瞬でお父様が成仏しちゃった」
灯美華は今の状況に似つかわしくない、乾いた笑いと呆れた表情を鋼焔に向ける。
「――ごめんね、やっぱり鋼焔くんは人間じゃない、化け物、私と同じ化け物だよ。周りの人を見てたら分かるよ、鋼焔くんを見てる目が変わり果てたお父様を見てた時と同じだもん」
「……………」
鋼焔は黙ったまま、ただ、眼前の少女を睨み付ける。
「御主人、もう時間がありません、『侵蝕領域』が……」
濁った黒色の魔法陣が沙耶たちの眼前まで近付いていた。
あと数分もすれば一般客まで飲み込まれてしまう。
「鬼堂灯美華、大人しく降伏しろ、これは最後の通告だ」
鋼焔は傀儡術を使うのを止め、わざわざ『村正』をその手に握り締めた。
強く、ただ強く握り締める。
「鋼焔くん、見逃してくれないかな……あの女は必ず殺すってもう決めたの、どんな手段を使っても必ず追い詰めて殺す、あの女がこれから心休まる日なんて来ない、私がいつも狙ってあげる、それで自分がしたことを後悔させてあげるの、だからこんなところで捕まるわけにはいかないわ、だって捕まったらどうせ殺されちゃうでしょ?そしたらあの女を殺せなくなるから、無理よ」
「そうか、わかった―――――なら、鬼堂灯美華、おまえはおれが殺す」
「――ふふ、あはは、鋼焔くんが?私を殺せるの?今度こそ一人ぼっちに…………なる………っ……ょ……」
灯美華が彼には殺せないと余裕を見せて話している最中、それは唐突に始まり瞬く間に終わった。
真紅の妖刀が鋼焔の手元から抜き放たれる。
鋼焔が灯美華を袈裟に斬った。
彼女が全ての言葉を言い終える前に、凄まじい量の鮮血が迸る。
灯美華は血に染まり、鋼焔は大量の返り血を浴びる。
鬼堂灯美華はあっけなく死んだ。
天城鋼焔が殺した。
鋼焔に後悔はない、もし後悔するのならあの日、神宮寺沙耶を選んだ時にしていただろう。
どれほど独善的であろうとも、鋼焔は自分が守りたいものを守った。
その結果、大勢の人間を殺しても、親しかった誰かを殺しても、昔、好きだったかもしれない彼女をその手で殺しても。
何かを選んだのなら、それは何かを捨てるのと同義だった。
二人はずっと孤独だった。
灯美華はずっと孤独に囚われていた。
鋼焔もずっと孤独に囚われていると思った。
鋼焔は沙耶に支えられ、京に出会い、悠を守って、孤独から抜け出そうと必死に足掻いていた。
灯美華を支えてくれる者はいなかった。
孤独に溺れた結果、彼女は狂気に走っていった。
しかし、最後まで自分を捨てたのも同然の鋼焔を恨むことはなかった。
二人は、ずっと一緒にいようと約束していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あれから一ヶ月の時が経った。
連盟演習会場は『侵蝕領域』に汚染されたため、『特一級魔術汚染区域』に指定され出入り禁止となった。
崋山国は、鬼堂家が当主になる前の姫川家を当主代理に据えて、連盟軍監視のもと国政を行い始めていた。
天城鋼耀が恐れていた、他国の侵攻は未だ無い。
一般客に混じっていた隣国の間諜に今回の件は漏れてしまっていたが、同時に鋼焔の情報も流出し、それが抑止力となっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一月という時間が経ち、色々と落ち着き始めたところで、鋼焔と沙耶は墓参りに来ていた。
鋼焔は、つい最近まで彼女の母親が亡くなっていたことを知らなかった。
あの件が起きる直前に亡くなっていたらしい。
沙耶と二人で綺麗に草を抜き、墓石に水を掛け、蝋燭に火をつけ、線香を立てた。
長い間、手を合わせながら、彼女のことを思い返していた。
もう彼女の家族は誰もいない。ここに来る人間もほとんどいないのかもしれない。
自分が彼女のことを忘れてしまったら、本当の孤独が彼女に訪れてしまうのではないかと思った。
ゆっくりと立ち上がり、墓前を後にしようとする。
すると、沙耶が、
「……もし、良かったらでいいんですけど、また今度、鬼堂さんとの昔の話でも私に聞かせてください」
そう言った。
鋼焔は、辛い表情だったが、力強く頷いて答えを返した。
【第一章 完】