第一部-03 私は誤差を処理する(ロアン・メルク)
死亡率という言葉は便利だ。
便利すぎる。
人が死ぬ、という事実を、率に変えてくれる。
誰が、どこで、どんな顔をして、誰に看取られずに死んだのか。そういう情報を削ぎ落として、数字にして、表に入れて、前月比と前年比を出せるようにしてくれる。
私は、その便利さに長いこと給料をもらっていた。
東京湾岸統合区、都市管理局、第六分析フロア。
私の机の上には、三つの画面がある。
左の画面には、下層生活圏の物資配送量。
中央の画面には、治安リスク予測。
右の画面には、上司からの未読メッセージ。
右の画面が一番見たくない。
私は中央の画面を見ているふりをしながら、左の画面に表示された灰浜地区の推移表を確認していた。
水フィルター、前月比マイナス二十一パーセント。
栄養パック、前月比マイナス十七パーセント。
共同診療所向け抗生剤、前月比マイナス三十二パーセント。
簡易発電セル、前月比マイナス十四パーセント。
都市管理局の資料では、これらは「下層生活維持物資の最適化」と呼ばれている。
私はこの言葉が嫌いだ。
最適化という言葉は、責任を持たない。
最適化された結果、誰が困るのかを言わない。
ただ、全体として整いました、という顔をする。
しかも、資料の中ではたいてい青い矢印と一緒に表示される。
私は、青い矢印も嫌いだ。
「ロアンさん」
隣の席から、後輩の新田が顔を出した。
新田は今年配属されたばかりの分析官で、まだ都市管理局の会議用語に染まりきっていない。だから時々、危険なほどまともなことを言う。
「灰浜の満足度指標、これ本当に使いますか?」
「どれだ」
「これです。『貧困層満足度』」
私は目を閉じた。
その単語は見たくなかった。
「正式名称は『下層生活圏サービス受容性指数』だ」
「でもファイル名、貧困層満足度になってます」
「ファイル名を読むな」
「読むでしょう。目に入りますし」
「目に入っても、心に入れるな」
新田は嫌そうな顔をした。
「それ、役所の人っぽいですね」
「ここは役所だ」
「正確には、都市管理局は半官半民の統合運営機関です」
「染まってきたな」
「あ、嫌だ」
彼は本気で嫌そうだった。
その反応が少し羨ましい。
私にも、最初はそういう時期があった。
まだ言葉が気持ち悪く感じられた頃。
「生活維持効率」や「居住圧縮」や「移動制限の柔軟運用」などという言葉を聞くたびに、眉をひそめていた頃。
今では、眉が動く前に資料を整えてしまう。
慣れは、人間の中で最も静かな腐敗だと思う。
「指数は使う」
私は言った。
「なぜですか」
「上が使うと言ったからだ」
「それ、理由ですか」
「このフロアでは、かなり強い理由だ」
新田は不満そうだったが、引き下がった。
彼の中央画面には、灰浜地区の住民感情推定グラフが表示されている。SNS、非認可掲示板、広告端末の視線滞留、配給所の待機列、民間治安会社の通報記録、医療相談ログ。そういったものを集めて、下層の「不満」を数値化する。
便利だ。
便利すぎる。
問題は、不満が数値化されても、解決されるとは限らないことだ。
むしろ、一定値を超えるまでは放置しやすくなる。
数値が低ければ「問題なし」。
数値が中程度なら「経過観察」。
高くなれば「治安対応」。
間に「話を聞く」という項目はない。
「ロアンさん、灰浜の予測値、上がってます」
「どれ」
「三週間後の感染症リスクです。あと、栄養不足由来の軽犯罪発生率も」
「軽犯罪発生率という言葉を使うな」
「資料に書いてあります」
「書いてあるから嫌なんだ」
私は自分の画面に灰浜の詳細モデルを呼び出した。
予測は新田の言う通りだった。
水フィルターの減少により、再生水の利用が増える。
再生水の質が落ちると、共同診療所の負担が増える。
しかし抗生剤と発電セルも減っているため、診療所の対応力は下がる。
栄養パックの減少は、子どもと高齢者に先に出る。
すると、盗難と配給所トラブルが増える。
モデルは、かなり素直に悪化を示していた。
問題は、素直すぎることだ。
資料として上げれば、削られる。
もしくは、表現を変えられる。
最悪の場合、私が説明させられる。
私は説明が嫌いだ。
なぜなら、正しい説明ほど会議で嫌われるからだ。
その時、右の画面が点滅した。
上司からのメッセージ。
> 十一時より調整会議。灰浜関連。
> 資料最新版を持参。
> なお、ネガティブ表現は控えること。
私は深く息を吐いた。
ネガティブ表現。
水が足りない。
薬が足りない。
食料が足りない。
人が死ぬかもしれない。
これらはすべてネガティブ表現である。
では、どう書けばいいのか。
生活資源の再均衡。
医療需要の一時的増加。
栄養供給の調整局面。
人口動態の自然変化。
私は画面の中の言葉を見て、少し吐き気がした。
「ロアンさん、顔色悪いですよ」
新田が言った。
「役所の照明が悪い」
「便利な言い訳ですね」
「覚えておくといい」
十一時の調整会議は、第六分析フロアの奥にある小会議室で行われた。
小会議室という名前だが、実際には人間の気力を小さくする部屋である。
窓はない。
空調は強すぎる。
壁の白さは、不自然に清潔だ。
テーブルには一人一台の端末。
水は出る。無料ではない。部局予算から引かれる。
会議には、私の上司である梶原課長、都市運営会社の担当者、民間治安会社の連絡官、上層イベント調整室の職員、そして私が出席していた。
この構成を見ただけで、私は会議の結論を半分理解した。
灰浜の生活より、上層向けフードフェスの方が優先される。
上層家門の一つである玖珂財団が、来月、東京湾岸統合区で大規模な美食イベントを開く。正式名称は「国際持続可能食文化交流祭」。略称はフードフェス。
持続可能という言葉も、私は嫌いだ。
なぜなら、持続可能性を語る会場に届く食材の一部は、下層の栄養パックより優先配送されるからだ。
「では、灰浜地区の状況について」
梶原課長が言った。
私は資料を共有した。
画面には、きれいに整えたグラフが並ぶ。色は抑えめにした。赤は使わない。赤は会議で嫌われる。
赤を使うと、対策を迫られるからだ。
「生活維持物資の削減に伴い、三週間後より一部指標に変動が見込まれます」
私は言った。
都市運営会社の担当者が眉をひそめた。
「変動とは?」
「水フィルター不足による医療需要増加、および配給所周辺の滞留時間増加です」
「つまり不満が高まると?」
「資料上は、受容性指数の低下です」
「不満という言葉は使わない方がいいですね」
「はい」
使ったのはあなたです、と言いたかった。
言わなかった。
民間治安会社の連絡官が端末を見ながら言った。
「灰浜は最近、非認可メディアの影響が強い。下層通信でしたか。あのあたりが配給削減を煽っている」
煽っている。
便利な言葉だ。
人が火傷したと訴えると、火の方ではなく叫び声の方を問題にする。
「倉庫前で撮影された映像も拡散しています」
連絡官が画面に動画を出した。
私はそれを見た。
大きな男が立っていた。
本当に大きい。
倉庫の搬入口で、警備員と住民の間に立つ作業員。
顔はよく見えない。だが姿は目立つ。
映像には、下層通信の記事の見出しが重ねられていた。
> 灰浜の巨人、捨てられる昼飯を止める
会議室に、短い沈黙が落ちた。
都市運営会社の担当者が言った。
「これは危険ですね」
私は思わず口を開きそうになった。
何が危険なのか。
男が大きいことか。
昼飯を捨てないことか。
それとも、誰かがそれを見てしまったことか。
だが、私は黙った。
梶原課長が私を見た。
「ロアン、この人物は?」
私は端末を操作した。
映像から作業員タグが読み取られている。
すでに内部データと照合済みだった。
「オルカ・ヴァレン。第七物流層の下請け作業員です。灰浜地区在住。過去に治安違反記録はありません。勤務評価は安定。無断欠勤なし。身体能力は高いようですが、組織活動への関与は確認されていません」
「危険度は?」
「現時点では低いと判断します」
民間治安会社の連絡官が顔を上げた。
「低い?」
「映像上、能動的な扇動行為は確認できません」
「群衆の前に立っている」
「立っていること自体は違反ではありません」
「影響力は?」
「不明です。現時点では下層通信による意味付けが先行していると考えられます」
梶原課長が私を見た。
嫌な視線だった。
お前は何を守ろうとしている、という視線。
私は表情を動かさないようにした。
別にオルカ・ヴァレンを守ろうとしているわけではない。
私は正確でありたいだけだ。
映像の男は、危険な扇動者というより、巨大な困惑に見えた。
困惑を高リスク分類に入れるのは、分析官として不誠実だ。
もっとも、この仕事で誠実さが評価された例を、私はあまり知らない。
「しかし、象徴化のリスクはある」
梶原課長が言った。
「はい。それはあります」
「では、個人危険度は中程度に上げておいてください」
「根拠が弱いです」
また言ってしまった。
新田のことを笑えない。
会議室が少し静かになる。
梶原課長の眉が動いた。
「根拠は、影響拡大の可能性です」
「それは本人の危険度ではなく、情報環境のリスクです」
「同じことでは?」
「違います」
私の声は、思ったよりはっきりしていた。
自分でも驚いた。
私は続けた。
「本人を高リスク化すると、個別監視や拘束の根拠になります。もし実際に本人が組織活動をしていない場合、拘束が新たな反発要因になります。むしろ下層通信に追加の物語を与える可能性があります」
これは本当だ。
そして、会議で通りやすい本当だ。
人権や正義を理由にしても、この部屋では弱い。
だが、治安コストと反発リスクを理由にすれば、少しは聞かれる。
私はそういう言い方を覚えてしまった。
「では、どう分類する」
梶原課長が言った。
「個人危険度は低。周辺情報環境リスクは中。配給削減に伴う自然発生的混乱リスクを中高に設定します」
「自然発生的混乱」
都市運営会社の担当者が言った。
「つまり、問題は配給側にあると?」
「問題ではなく、要因です」
私は淡々と言った。
こういう時、表情を消すのは得意だ。
「物資削減が継続した場合、人物の有無にかかわらず灰浜地区の不満、失礼、受容性低下は進みます。オルカ・ヴァレン個人を処理しても、根本的な数値改善は見込めません」
会議室はまた沈黙した。
私は内心で、自分の発言をすぐに点検した。
処理、という言葉を使ってしまった。
よくない。
だが、この場では通じる。
それがさらによくない。
民間治安会社の連絡官が腕を組んだ。
「では、現時点では監視強化に留めると」
「それが妥当です」
「誰をつけます?」
「それは御社の判断かと」
私は言った。
これ以上は関わりたくなかった。
だが関わりたくない時ほど、関わることになる。
会議の終盤、上層イベント調整室の職員が初めて口を開いた。
「フードフェスの物流には影響しませんよね?」
私は一瞬、彼女を見た。
この会議で、最も重要な問いがそれだった。
灰浜で水が足りないことでもない。
下層通信の記事が広がっていることでもない。
大きな作業員が象徴化されつつあることでもない。
上層向けの美食イベントが滞りなく開催されるか。
それが、この部屋の中心だった。
「現時点では、上層向け物流への直接影響はありません」
私は答えた。
「よかった」
彼女は本当に安心した顔をした。
私は、その顔を責める気にはなれなかった。
彼女も仕事をしているだけだ。
私も仕事をしているだけだ。
犬飼という倉庫の班長も、仕事をしているだけだろう。
オルカ・ヴァレンも、仕事をしているだけだったはずだ。
その「だけ」が積み重なって、どこかで誰かの昼飯が消える。
会議が終わると、梶原課長に呼び止められた。
「ロアン」
「はい」
「君は数字に誠実だ」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「そうでしたか」
「数字に誠実なのは構わない。ただし、資料は使われ方まで考えろ」
「考えています」
「本当に?」
私は答えなかった。
考えている。
考えているから、黙れなくなる時がある。
梶原課長はため息をついた。
「灰浜の件、報告書をまとめてくれ。表現は穏当に」
「穏当とは」
「読んだ人間が動揺しない程度だ」
「動揺すべき内容でも?」
「特にそういう場合だ」
課長は去っていった。
私は会議室に一人残った。
画面には、まだオルカ・ヴァレンの映像が止まっている。
大きな男。
倉庫の前。
灰浜の人々。
沈黙。
見出し。
> 灰浜の巨人、捨てられる昼飯を止める
私は思った。
本人は、きっと困っていただけだ。
経験上、ああいう顔は怒りではない。
恐怖と責任感が同時に来た時の顔だ。
逃げたいが、逃げると誰かが困る。そういう人間の顔。
危険な顔ではない。
ただし、危険なものになる可能性はある。
本人ではなく、周囲が。
昼休み、私は局内食堂へ行った。
局内食堂は中層管理区の職員向けなので、食事は安定している。高級ではないが、栄養はある。味も悪くない。
今日の定食は、合成魚の照り焼き、再生米、味噌風スープ、野菜ペースト。
私はトレーを持って席に座った。
向かいに新田が座る。
「灰浜の会議、どうでした?」
「寒かった」
「空調ですか」
「それもある」
新田はスープを飲みながら、端末を開いた。
「あ、見ました? 下層通信の記事、伸びてますよ」
「勤務中に非認可メディアを見るな」
「ロアンさんも見てるじゃないですか」
「私は業務だ」
「便利な言葉ですね、業務」
彼は画面をこちらに向けた。
記事のコメント欄が流れている。
> 巨人って本当にいるの?
> 第七物流層の作業員らしい。
> 昨日、旧モール側に栄養パック届いた。偶然?
> 偶然でも食べられるなら歓迎。
> 食堂やろう。
> 旧モール二階なら屋根ある。
> ネズミが先客。
> ネズミも灰浜住民だろ。
> いや家賃払ってない。
> 俺も払ってない。
私は思わず笑いそうになった。
危ない。
局内食堂で非認可メディアのコメントに笑うのは、職員としてよくない。
「何がおかしいんですか」
新田が聞いた。
「ネズミの居住権について考えていた」
「疲れてます?」
「かなり」
画面をさらに見ると、新しい投稿があった。
> 旧モール二階、机集め中。
> 食堂になるかも。
> 重いもの運べる人募集。
> 巨人どこ?
私は箸を止めた。
食堂。
記事が、別の行動に変わり始めている。
これはまずい。
いや、良いことかもしれない。
少なくとも灰浜にとっては。
だが、都市管理局にとってはまずい。
許可のない食堂。
許可のない配給。
許可のない集会。
許可のない掲示板。
許可のない希望。
都市は、許可のない希望を嫌う。
希望は予測しにくい。
しかも、広がる。
「ロアンさん?」
「新田」
「はい」
「灰浜旧モールの所有権はどこだ」
「え、今ですか?」
「今だ」
新田は慌てて端末を操作した。
「ええと……旧商業施設ハマグレー・モール。所有権は、湾岸再開発第三信託。運営停止から十一年。現在は準閉鎖区域。法的には立入禁止ですが、実態としては居住利用あり。撤去計画は……何度も延期されてますね」
「理由は」
「費用対効果が悪いからです。撤去しても再開発優先順位が低い。地盤補強費が高すぎる。あと、住民排除コストも高い」
「つまり、放置されている」
「はい。きれいに言えば、暫定未活用資産です」
「きれいに言うな」
「ロアンさんが言えって顔してました」
私は再生米を一口食べた。
味がしなかった。
灰浜旧モール。
放置資産。
居住利用あり。
住民排除コスト高。
今、そこに食堂ができようとしている。
報告すれば、摘発対象になるかもしれない。
だが、摘発にはコストがかかる。
しかも、食堂が本当に機能すれば、灰浜の不満指数は下がる可能性がある。
違法だが、効果がある。
役所が一番困るものだ。
「新田」
「はい」
「灰浜旧モール周辺の不満指数、食料関連の投稿と相関を取ってくれ」
「業務ですか?」
「業務だ」
「便利ですね、業務」
「便利すぎる」
午後、私は報告書を書いた。
表題は、
> 灰浜地区における生活維持物資削減後の局所的反応分析
硬い。
硬すぎる。
しかし、硬い表題は便利だ。
読む前に人の興味を削ぐ。
私は報告書の中で、オルカ・ヴァレン個人の危険度を低く設定した。
理由はこうだ。
> 当該人物について、現時点で組織的扇動、暴力的行為、非認可団体との明確な接続は確認されない。映像上の象徴化は、本人の意図よりも外部メディア環境による増幅が主因と推定される。
次に、灰浜旧モール周辺の動きについて書く。
ここで、私は少し迷った。
食堂。
無許可の食堂。
子どもたちが机を集めているだけかもしれない。
しかし、報告書に「無許可食堂形成の兆候」と書けば、摘発の根拠になる。
私は言葉を選んだ。
> 旧商業施設周辺において、住民間の自発的食料共有行動が確認される。現時点では小規模であり、治安上の直接的脅威は低い。むしろ、当該行動は短期的に地域内不満指数を低下させる可能性があるため、即時介入よりも観察継続が望ましい。
さらに、別表にこう書いた。
> 分類:地域内自律型暫定補助拠点
> 推奨対応:経過観察
地域内自律型暫定補助拠点。
ひどい名前だ。
自分で書いていて嫌になった。
だが、「無許可食堂」と書くよりは安全だ。
無許可と書けば、誰かが許可を問題にする。
食堂と書けば、衛生管理を問題にする。
だから、誰もすぐには意味を掴めない名前にする。
役所の言葉で隠す。
いつもは、それが人を傷つける。
今日は、たぶん少しだけ誰かを守る。
そう思いたかった。
夕方、報告書を提出した。
梶原課長からの返事は短かった。
> 表現は概ね穏当。
> ただし「自然発生的混乱」はやや強い。
> 「地域反応」に修正。
> オルカ・ヴァレンは継続監視。
私は修正した。
自然発生的混乱、を、地域反応へ。
言葉がまた一つ、丸くなる。
しかし、オルカ・ヴァレンの個人危険度は低のまま通った。
灰浜旧モールへの即時介入も、推奨されなかった。
報告書の中で、私は何かを少しだけ遅らせた。
摘発。
拘束。
暴力。
あるいは、ただの余計な会議。
どれを遅らせたのかは分からない。
だが、遅らせた。
退庁時間になっても、私は席を立てなかった。
窓のないフロアの照明は、昼も夜も変わらない。
時間は端末の右上にしかない。
新田が帰り支度をしながら言った。
「ロアンさん、帰らないんですか」
「少し残る」
「また資料ですか」
「資料だ」
「業務ですね」
「業務だ」
「便利すぎますね」
私は笑わなかったが、少しだけ口元が動いた気がした。
新田が去ると、フロアは静かになった。
私は端末で、もう一度下層通信の記事を開いた。
勤務端末ではない。私物端末だ。
もちろん、規則上はよろしくない。
記事の拡散はさらに進んでいた。
オルカ・ヴァレンは、すでに「灰浜の巨人」になっている。
本人が望んだかどうかは関係なく。
そして、コメント欄では食堂の話が増えていた。
> 机二つ確保。
> 鍋ある人?
> 水どうする?
> 巨人が運んでくれるんじゃない?
> 巨人に頼るな。
> でも重いものは巨人。
> 巨人にも休憩を。
> 巨人用の椅子いる?
> まず床が抜けないか確認しろ。
私は、今度こそ笑ってしまった。
小さくだが。
声は出さなかった。
都市管理局の第六分析フロアで、灰浜のネズミと巨人用の椅子の話に笑う分析官。
見つかれば、評価面談で何か言われるかもしれない。
だが、その時だけは、少し楽だった。
私は画面を閉じた。
そして、自分の報告書の最後に、一行だけ追記した。
> 当該地域については、過度な介入が生活維持機能を毀損する可能性がある。
硬い。
遠い。
読み飛ばされるかもしれない。
それでも、書いた。
それは私にできる、現時点で最大限の臆病な抵抗だった。
私は、革命家ではない。
不正を告発する勇気もない。
街頭に立つつもりもない。
巨人でもない。
少女のように未来を見ることもできない。
私はただ、数字を見る人間だ。
けれど、数字の向こうに誰かの昼飯があると気づいてしまった時、完全に知らないふりをするのは難しい。
帰り際、フロアの照明が自動で少し暗くなった。
私は鞄を持ち、端末を閉じた。
出口の認証ゲートが、いつもの無機質な声で告げる。
『ロアン・メルク。退庁確認。今日も都市の安定に貢献しました』
私は足を止めた。
都市の安定。
たぶん、私は今日、それに少しだけ逆らった。
だがゲートに説明する必要はない。
「お疲れさま」
私は小さく言った。
ゲートは返事をしなかった。
それでいい。
機械には、まだ余計なことを覚えてほしくない。




