第一部-01 僕は目立ちたくない(オルカ・ヴァレン)
僕は、人に道を譲られるのが苦手だ。
譲らせているみたいに見えるからだ。
本当は、僕の方が先に譲りたい。相手が老人ならなおさらだし、子どもなら絶対にそうする。台車を押している人や、荷物を抱えて前が見えていない人にも譲りたい。つまり僕は、だいたい誰にでも道を譲りたい。
でも僕が先に動くと、たいてい何かにぶつかる。
壁、看板、配管、浮遊広告、作業用ドローン、怒っている班長、もっと怒っている自動搬送機。
この都市には、背の低い人間に合わせて作られたものが多すぎる。
東京湾岸統合区、第七物流層。
朝の搬入口は、今日もぎゅうぎゅうだった。
作業員、自動搬送機、違法改造された台車、古い軍用フォークリフト、眠そうな警備ドローン、どこから紛れ込んだのか分からない犬、そして僕。
その中を身長二メートル近い男が歩くと、みんなが少しずつ横にずれる。
僕は毎朝、自分が災害になったような気分で出勤する。
「おはようございます」
できるだけ小さな声で言ったつもりだった。
でも僕の声は低い。
低い声は、コンクリートの床を伝ってよく響く。
搬入口の顔認証ゲートが反応した。
『大型車両を検知しました。徐行してください』
「人です」
『大型車両を検知しました。徐行してください』
「オルカさん、また車両扱いされてる!」
横から笑ったのは、同じ班のミンだった。
ミンはベトナム系の移民三世で、日本語と英語とベトナム語と、あと倉庫でしか通じない謎の言葉を話す。彼女の口癖は「だいたい通じれば言語」で、実際、だいたい通じる。
「おはよう、ミンさん」
「おはよ、車両さん」
「僕は人です」
「知ってる。人類最大サイズ」
「最大ではないです」
「じゃあ湾岸最大」
「それも違うと思います」
「謙虚だねえ」
謙虚ではない。
正確でありたいだけだ。
僕は顔認証ゲートの前で少し屈んだ。ゲートは何度か迷ったあと、ようやく僕を人間として認めた。
『オルカ・ヴァレン。下請け作業員。第七物流層。入場許可。今日も安全に働きましょう』
今日も安全に働きましょう。
機械は毎朝そう言う。
でもこの倉庫で一番危ないのは、たぶん安全標語が貼ってある壁のすぐ下だ。昨日、そこに積まれていた段ボールが崩れて、班長の頭に落ちた。
班長は「安全確認を怠るな」と怒鳴った。
僕は、段ボールに言ったのか作業員に言ったのか、まだ分からない。
倉庫の中は、朝から祭りのようだった。
もちろん、楽しい祭りではない。
誰も太鼓を叩いていないし、屋台もない。あるのは、規格外の騒音と、積み上がった荷物と、いつ壊れてもおかしくない搬送ロボットだけだ。
でも、僕はこの騒がしさが嫌いではなかった。
巨大な棚が何列も並び、その間を自動搬送機が走っていく。天井近くではドローンが小さな羽音を立て、荷物のバーコードを読み取っている。各国の言葉が飛び交い、誰かが誰かを怒鳴り、誰かが笑い、誰かが朝食の残りを箱の上で食べている。
都市の上の方では、すべてが静からしい。
上層居住区には風の音さえ管理されていて、窓の外の鳥の声も、住民の好みに合わせて調整されると聞いたことがある。
雨は濡れないように落ち、空気は臭わないように濾過され、床は人間の足音を吸収する。
僕は一度も行ったことがない。
行ける資格もない。
東京湾岸統合区は、昔の東京と川崎と横浜と千葉の一部をまとめて、海沿いに積み直したような都市だ。積み直した、という表現はかなり正確だと思う。
上には、富裕層と管理階級の住む高層区。
真ん中には、認可労働者や技術者や役人の住む中層区。
下には、僕たちのような下請け労働者や無登録労働者や移民や、どこにも行く場所のない人たちの住む下層区。
縦に分かれた街。
上へ行くには許可証がいる。
中層へ行くにも許可証がいる。
下へ降りるのに許可証はいらない。
だから、だいたいの人間は下へ落ちる。
世界中がそんな感じになっていた。
国境は、まだある。
パスポートも、ビザも、入国審査も、ニュースの中の政治家もいる。
でも、お金を持っている人にとって、国境は空港ラウンジの飾りみたいなものだった。専用機と投資家証明と医療保険付きの居住権があれば、どこへでも行ける。
お金を持っていない人にとって、国境は壁だ。
しかも、たまに自分の国の中にも壁ができる。
日本も例外ではなかった。
昔は中流というものがあったらしい。
安定した仕事、持ち家、年金、保険、学校、病院、盆休み、正月。
そういうものが、普通の人にも届いていた時代があったと、古い動画で見たことがある。
今では、普通という言葉の方が珍しい。
地方は維持できなくなった。
水道も道路も学校も病院も、次々に民間企業へ運営が渡った。
都市は投資対象になり、住民は利用者になり、利用料を払えない人間は少しずつ外へ押し出された。
外と言っても、国の外ではない。
都市の下だ。
僕が住んでいる灰浜地区も、そういう場所の一つだった。
灰浜は、東京湾岸統合区の外縁にある。昔の工場地帯と埋立地と古い商業施設と、仮設住宅と違法増築の集合体だ。海の匂いと油の匂いと、どこかの国の香辛料の匂いと、湿ったコンクリートの匂いが混ざっている。
日本人もいる。
中国語を話す人もいる。
タガログ語も、ベトナム語も、アラビア語も、スペイン語も、フランス語らしいものも聞こえる。
子どもたちは三つか四つの言葉を混ぜて喧嘩し、大人たちは二つの言葉で値切り、一つの顔で疑う。
灰浜は貧しい。
でも、静かではない。
暗いだけでもない。
朝になると誰かが勝手に屋台を出す。
昼には誰かが壊れたドローンを分解して売る。
夕方にはどこかから音楽が聞こえて、夜には警備ドローンに怒られながら子どもたちがサッカーをしている。
壊れた街だ。
でも、死んだ街ではない。
「オルカ!」
僕の背中に、班長の声が飛んできた。
振り返ると、班長の犬飼さんが、電子煙草をくわえたまま手を振っていた。犬飼さんは小柄で、首から下げた端末と、いつも不機嫌そうな眉毛が特徴だ。
「お前、ちょうどいいところに来た」
僕は嫌な予感がした。
「僕は、出勤時間どおりに来ました」
「じゃあ、ちょうどいい。三番搬送機がまた迷子になった。連れ戻してこい」
「搬送機は迷子になりますか」
「なるんだよ、うちのは」
たしかになる。
三番搬送機は、古い。古すぎる。公式にはまだ現役機だが、実際には半分くらい気分で動いている。目的地を入力すると、なぜか休憩室へ向かうことがある。昨日は水フィルターを運ぶはずが、喫煙所に栄養パックを届けていた。
僕は三番搬送機を探しに行った。
すぐ見つかった。
倉庫の隅で、壁に向かってじっと止まっていた。
『進路を検索しています』
「そこは壁です」
『進路を検索しています』
「壁です」
『新しいルートを発見しました』
三番搬送機は、壁に向かって進もうとした。
僕は慌てて取っ手をつかんだ。
「だめです」
『障害物を検知しました』
「僕です」
『大型車両を検知しました』
「またですか」
近くで作業していたミンが腹を抱えて笑っていた。
「オルカさん、機械にも車両扱いされてる!」
「笑わないでください」
「ごめん、無理」
僕は三番搬送機を引きずりながら、指定レーンへ戻した。機械は妙に満足げな電子音を鳴らした。迷子になった自覚はないらしい。
僕は少し羨ましかった。
自分が間違っていることに気づかないというのは、楽なことなのかもしれない。
午前の作業は、だいたい荷下ろしだった。
上層向けの荷物は、いつもきれいだ。
梱包材まできれいで、箱の角も潰れていない。温度管理ラベルは青く光り、配送タグには「優先」「特別」「即時」「厳重取扱」といった文字が並ぶ。
有機野菜、培養肉、高級ペット用サプリ、無菌水、個人用空気フィルター、香りつき睡眠カプセル。
下層向けの荷物は、だいたい箱がへこんでいる。
栄養パック、再生水フィルター、簡易発電セル、抗生剤、古い衣料、修理用部品、共同診療所向けの消毒液。
必要なものばかりだ。
必要なものばかりなのに、いつも少し足りない。
僕の仕事は、それを運ぶことだった。
考えることではない、と犬飼さんはよく言う。
でも、荷物を運んでいると、考えてしまう。
どの地区に何が届くのか。
どの荷物が減ったのか。
どの配送先だけ毎週遅れるのか。
どの箱だけ、帳簿上は存在するのに実際には見たことがないのか。
僕は頭がいいわけではない。
ただ、重いものを持つと、その重さを覚える。
同じ場所へ何度も運ぶと、前より軽いか重いか分かる。
箱の数が減れば、空いた棚が目に入る。
人の顔色も同じだ。昨日より疲れているか、先週より怒っているか、見ればなんとなく分かる。
灰浜向けの棚は、この三週間で少しずつ軽くなっていた。
最初に気づいたのは、水フィルターだった。
灰浜第十二居住棟の水道は、先月から不安定になっている。古い配管に海水が混じるとか、ポンプが寿命だとか、業者が点検料を払われていないとか、噂はいくつもある。真実は分からない。
でも、水フィルターが減れば困ることだけは分かる。
次に減ったのは、子ども用の栄養パック。
その次は、共同診療所向けの抗生剤。
その次は、発電セル。
どれも少しずつだった。
一気に止めると騒ぎになる。
少しずつなら、みんな我慢してしまう。
人間は、急に殴られると怒る。
でも、毎日少しずつ削られると、最初は自分が悪いと思ってしまう。
僕はそれが嫌だった。
昼前、僕は事務区画へ行った。
事務区画は、倉庫の中で一番きれいな場所だ。床にはまだ線が残っていて、端末は一応動き、空調も時々働く。壁には安全標語と、都市管理局からの通達が何枚も貼ってあった。
僕が中に入ると、天井のセンサーが鳴った。
『頭上注意』
「僕が注意しています」
『頭上注意』
「はい」
毎回言われる。
分かっている。
僕の頭は僕についているのだから、僕が一番注意している。
端末の前にいた佐伯さんが、顔を上げた。佐伯さんはこの倉庫の事務担当で、いつも三つの画面を同時に見ながら、四人分くらいのため息をついている。
「オルカくん、またゲートに怒られてるの?」
「怒られてはいません。注意されています」
「同じよ」
「違うと思います」
「で、何?」
僕は端末の前に立った。画面が少し低い。屈むと、首が痛い。
「灰浜向けの配送表を見たいです」
「灰浜? どの棟?」
「第十二居住棟、共同診療所、あと旧モール側の簡易配給所です」
佐伯さんの指が止まった。
「何かあった?」
「減っています」
「何が?」
「水フィルターと栄養パックと抗生剤と発電セルです」
「通達が出てるわ。下層向け生活維持物資の最適化」
「最適化」
僕はその言葉を、口の中で転がしてみた。
変な味がした。
「減らすことですか」
「この場合はね」
「では、減らすと言えばいいのに」
「そう書くと、怒る人がいるのよ」
「怒ると思います」
「だから最適化って書くの」
僕は少し考えた。
難しい。
怒らせないために、怒るようなことを別の言葉で書く。
都市管理局の人は、たぶん言葉の使い方が上手い。
でも、あまり親切ではない。
「見せてもらえますか」
「本当は駄目」
「そうですか」
「でも、私も気になってた」
佐伯さんは小さく言って、画面をこちらへ向けた。
灰浜向けの配送量が表示される。
数字は、やはり減っていた。
表の上では、きれいな線だった。
少しずつ、滑らかに、無駄なく、下がっている。
でも僕には、その線が人の食卓から何かを抜き取っていく手に見えた。
「来週、足りなくなります」
僕は言った。
佐伯さんは眉を寄せた。
「どれが?」
「全部です」
「全部」
「はい。水フィルターが足りないと、栄養パックを溶かす水が足りません。水が足りないと、診療所の消毒も減ります。発電セルが減ると冷蔵庫が止まります。抗生剤は冷やせないと駄目なものがあります。たぶん、別々に減らしたつもりでも、実際には一緒に壊れます」
佐伯さんは僕を見た。
「よく分かるわね」
「運んでいるので」
「運ぶと分かるもの?」
「少し」
本当は、少しではない。
かなり分かる。
でも、そう言うと偉そうに聞こえる気がした。
佐伯さんは画面を戻し、周囲を見た。誰もこちらを見ていないことを確認してから、小声で言った。
「犬飼班長に言う?」
「はい」
「やめた方がいいわよ」
「なぜですか」
「上の決定だから」
「でも、足りません」
「足りないことと、変えられることは別なの」
それは、とても嫌な言葉だった。
正しい気がする。
でも、嫌だ。
僕は黙った。
黙ると、佐伯さんは少し困った顔をした。
「ごめん。君に言っても仕方ないわね」
「いえ」
「でも本当に気をつけて。最近、灰浜は監視が増えてる。下層通信とか、自治会もどきとか、変な動きがあるって上が騒いでるから」
「僕は変な動きはしません」
「君の場合、普通に動くだけで目立つの」
その通りだった。
反論できなかった。
午後、僕は犬飼班長に話した。
話す前に、何度も練習した。
言い方は大事だ。
強すぎると抗議になる。
弱すぎると聞いてもらえない。
僕の見た目は最初から強すぎるので、言葉はなるべく弱くしなければならない。
僕は倉庫の裏で、積み上がった空箱に向かって練習した。
「すみません、確認なのですが」
違う。弱すぎる。
「灰浜向けの物資が減っています」
強い。
「少し気になったことがあります」
これならいいかもしれない。
そう思ったところで、背後からミンが言った。
「オルカさん、箱に告白してる?」
僕は空箱から手を離した。
「していません」
「じゃあ説教?」
「相談です」
「箱に?」
「練習です」
「かわいいねえ」
「かわいくはありません」
ミンは笑いながら去っていった。
僕は少しだけ心を折られたが、話すことにした。
犬飼班長は、搬送レーンの横で端末を睨んでいた。画面には赤い警告が並んでいる。三番搬送機がまたどこかで何かを誤配送したらしい。
「班長」
「何だ、オルカ。三番なら今は放っておけ。あいつはたぶん自分探しの途中だ」
「少し気になったことがあります」
「短く」
「灰浜向けの物資が減っています」
「通達だ」
「通達以上に減っています」
「誤差だ」
「水フィルターが三割減っています」
「誤差だ」
「抗生剤も減っています」
「誤差だ」
「発電セルも」
「誤差だ」
「全部減っているなら、誤差ではなく方針だと思います」
犬飼班長が顔を上げた。
周囲の音が、少しだけ遠くなった気がした。
僕はすぐに後悔した。
言い方が強かったかもしれない。
いや、内容が強いのだ。
でも、言わないわけにはいかなかった。
犬飼班長は電子煙草を口から外した。
「オルカ」
「はい」
「お前は荷物を運ぶ係だ」
「はい」
「考える係じゃない」
分かっていた。
言われると思っていた。
でも、胸の奥に小さく刺さった。
「でも、来週困ります」
「誰が」
「灰浜の人たちが」
「俺たちも困ってる」
「はい」
「会社も困ってる」
「はい」
「都市管理局も困ってる」
「はい」
「みんな困ってるんだ。だから、上が順番を決める」
「その順番が間違っているかもしれません」
言ってしまった。
僕は自分の口を塞ぎたくなった。
でも、もう遅い。
犬飼班長はしばらく僕を見上げていた。身長差があるので、見上げる形になる。そのせいで、僕が威圧しているように見えたかもしれない。
違う。
僕は威圧していない。
むしろ、膝が少し震えていた。
「お前さ」
犬飼班長は、低い声で言った。
「目立つな」
「目立つつもりは」
「つもりじゃない。結果だ」
また、その言葉だった。
「最近、灰浜は監視対象だ。上層向けのフェスも近い。物流を止めるな、下層を騒がせるな、余計なことをするな。そういう指示が来てる。分かるか」
「はい」
「お前みたいなでかい奴が、配給がどうとか、上が間違ってるとか言うと、すぐ面倒になる」
「僕は上が間違っているとは」
「今言った」
「言いました」
「素直か」
犬飼班長は疲れた顔で額を押さえた。
「とにかく、この話は終わりだ。仕事に戻れ」
「はい」
僕は戻った。
戻りながら、自分が失敗したことだけは分かった。
何を失敗したのかは、よく分からなかった。
夕方近く、廃棄レーンに呼ばれた。
第七物流層には、廃棄レーンがある。賞味期限が近いもの、箱が潰れたもの、ラベルが剥がれたもの、配送先が消えたもの、企業規格に合わなくなったものが、そこへ流れてくる。
まだ使えるものも多い。
でも、使えることと、使っていいことは別らしい。
今日の廃棄品は、灰色の栄養パックだった。
箱の角が潰れている。
中身は問題ない。
賞味期限も、まだ二週間ある。
配送先は、上層向けの災害備蓄更新倉庫。
上層の備蓄品は、定期的に新しいものと入れ替えられる。古いものは下層へ回されることもあるが、今回は違った。
廃棄。
端末にはそう出ていた。
「これ、捨てるんですか」
僕は隣の作業員に聞いた。
彼は肩をすくめた。
「規格外だってさ。箱が潰れてる」
「中身は」
「知らん。箱が潰れてる」
「食べられます」
「俺に言うなよ」
彼は悪い人ではない。
ただ、疲れているだけだ。
廃棄レーンの奥では、処理機が低い音を立てていた。栄養パックが流れていけば、袋は破られ、中身は処理槽へ落ちる。再資源化される、と表示にはある。
再資源化。
便利な言葉だ。
食べられるものを、食べ物ではないものにする。
灰浜の第十二居住棟では、たぶん今日も水を買う列ができている。
旧モールの横では、子どもたちが夕食の配給を待っている。
共同診療所の看護師は、栄養パックを薄めて出すかどうか迷っている。
僕は、目の前の箱を見た。
箱は潰れている。
でも、中身は無事だ。
僕は荷物を持つのが仕事だ。
考える係ではない。
ルートを決める係でもない。
配る係でもない。
ただ、運ぶ係だ。
だから僕は、運んだ。
廃棄レーンに流すはずだった栄養パックの箱を、一つ持ち上げた。重くはなかった。僕にとっては、という意味だ。普通の人なら二人で持つかもしれない。
僕はそれを、廃棄レーンではなく、隣の仮置きエリアへ置いた。
誰も見ていない。
いや、三番搬送機が見ていた。
『配送先を検索しています』
「検索しなくていいです」
『新しいルートを発見しました』
「発見しないでください」
三番搬送機は、なぜか僕の横に来た。
僕は少し考えた。
とてもよくないことを考えている自覚はあった。
仮置きエリアには、灰浜旧モール側の簡易配給所へ向かう空のコンテナがあった。明日の朝、そこへ水フィルターの一部が配送される予定だ。
空きスペースがある。
栄養パックの箱は、入る。
端末上は、廃棄予定。
現物は、仮置き。
灰浜行きコンテナには、空きスペース。
僕は、深く息を吸った。
心臓が嫌な音を立てている。
これは犯罪だろうか。
窃盗だろうか。
横領だろうか。
それとも、廃棄されるものを廃棄しないだけだろうか。
分からない。
分からないが、食べられるものを捨てる方が、僕にはもっと分からなかった。
「三番」
『はい』
返事をした。
返事をするのか。
初めて知った。
「この箱を、灰浜旧モール側のコンテナへ」
『許可コードを入力してください』
「……」
『許可コードを入力してください』
「間違えました」
『許可コードを入力してください』
僕は困った。
やはり、機械は規則に厳しい。
いや、三番搬送機が厳しいというより、こういう時だけ正気になるのが腹立たしい。
その時、背後から声がした。
「何してるの、車両さん」
ミンだった。
僕は固まった。
栄養パックの箱を持ったまま、固まった。
ミンは箱を見た。
コンテナを見た。
三番搬送機を見た。
僕の顔を見た。
「ふーん」
「これは」
「うん」
「違います」
「まだ何も言ってない」
「廃棄レーンが混んでいたので」
「混んでないよ」
「箱が」
「潰れてるね」
「中身は」
「食べられるね」
「僕は」
「うん」
ミンはにやっと笑った。
「運ぶ係だもんね」
僕は何も言えなかった。
ミンは端末を取り出し、三番搬送機に近づいた。
何かを入力する。
『一時保管ルートを更新しました』
「ミンさん」
「私は何も見てない」
「でも」
「三番が迷子になった。よくある」
『新しいルートを発見しました』
「ほら」
三番搬送機は、栄養パックの箱を載せたまま、ゆっくりと灰浜行きコンテナへ向かった。
僕はその後ろ姿を見ていた。
機械なのに、少し誇らしげに見えた。
たぶん気のせいだ。
「いいのですか」
僕は小声で聞いた。
ミンは肩をすくめた。
「捨てるよりいいでしょ」
「規則では」
「規則はお腹いっぱいにならないよ」
その言葉は、妙に明るかった。
軽くて、当たり前で、だから強かった。
ミンは僕の腕を軽く叩いた。僕にとっては何も感じないくらいの力だったが、彼女は叩いた手を少し痛そうに振った。
「硬っ」
「すみません」
「謝るところじゃない。じゃ、私は何も見てないから。見てないけど、次から箱の向きは揃えて。検品ドローンが変な角度だと気づく」
「次はありません」
「はいはい」
ミンは笑って去っていった。
次はない。
僕はそう思った。
本当に思った。
でも、そのあと廃棄レーンに、箱の角が潰れた栄養パックがもう三箱流れてきた。
そして僕は、それを見てしまった。
見ると、駄目だった。
結局、灰浜行きのコンテナには、予定より四箱多い栄養パックが入った。
四箱。
都市全体から見れば、誤差にもならない。
上層のパーティーで余る前菜より少ないかもしれない。
都市管理局の資料なら、丸められて消える数字だ。
でも、灰浜の旧モール側なら、子どもたちの夕食が少し濃くなる。
共同食堂が一日伸びる。
誰かが、今日は空腹で眠らずに済む。
それくらいの量だった。
退勤時間、倉庫を出る頃には、湾岸の空が紫色になっていた。
上層区の高層塔には、夕焼けがきれいに反射している。光る壁面には、上層向けフードフェスの広告が流れていた。
『世界の美食が東京湾岸に集結。選ばれた皆様へ、忘れられない一皿を』
その下の道路では、灰浜行きの無人トラックが列を作っていた。
僕はそのうちの一台を見送った。
三番搬送機が積み込んだコンテナも、その中にある。
心臓がまだ少し速い。
たぶん、僕は小さな規則違反をした。
いや、小さくないのかもしれない。
でも大きくもないと思いたい。
誰かに怒られるかもしれない。
犬飼班長に見つかれば、ものすごく怒られる。
佐伯さんには、たぶんため息をつかれる。
ミンは笑う。
僕は、革命をしたわけではない。
抗議もしていない。
演説もしていない。
旗も持っていない。
誰かを倒そうとも思っていない。
ただ、食べられるものを捨てるのが嫌だった。
それだけだ。
ゲートを出ようとした時、顔認証がまた僕を読み取った。
『オルカ・ヴァレン。退場確認。今日も安全に働きました』
安全だったかは分からない。
でも、僕は小さくうなずいた。
その夜、灰浜の旧モール側で、予定にない栄養パックが四箱届いた。
僕はそれを知らない。
その箱を最初に見つけた子どもが、宝箱みたいに叫んだことも知らない。
旧モールの二階で寝泊まりしている女の子が、箱の配送ラベルを見て、少し首をかしげたことも知らない。
彼女の名前は、ナユ・オル。
彼女はその箱を見て、たぶんこう言った。
「ここ、食堂になるかも」
もちろん僕は、そんなことを知らない。
僕はただ、帰り道でずっと考えていた。
明日、三番搬送機がまた迷子になったらどうしよう。
そして少しだけ、
本当に少しだけ、
明日も何かを運べるといいと思った。




