表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

第一部-01 僕は目立ちたくない(オルカ・ヴァレン)

 僕は、人に道を譲られるのが苦手だ。


 譲らせているみたいに見えるからだ。


 本当は、僕の方が先に譲りたい。相手が老人ならなおさらだし、子どもなら絶対にそうする。台車を押している人や、荷物を抱えて前が見えていない人にも譲りたい。つまり僕は、だいたい誰にでも道を譲りたい。


 でも僕が先に動くと、たいてい何かにぶつかる。


 壁、看板、配管、浮遊広告、作業用ドローン、怒っている班長、もっと怒っている自動搬送機。

 この都市には、背の低い人間に合わせて作られたものが多すぎる。


 東京湾岸統合区、第七物流層。


 朝の搬入口は、今日もぎゅうぎゅうだった。


 作業員、自動搬送機、違法改造された台車、古い軍用フォークリフト、眠そうな警備ドローン、どこから紛れ込んだのか分からない犬、そして僕。


 その中を身長二メートル近い男が歩くと、みんなが少しずつ横にずれる。


 僕は毎朝、自分が災害になったような気分で出勤する。


「おはようございます」


 できるだけ小さな声で言ったつもりだった。


 でも僕の声は低い。

 低い声は、コンクリートの床を伝ってよく響く。


 搬入口の顔認証ゲートが反応した。


『大型車両を検知しました。徐行してください』


「人です」


『大型車両を検知しました。徐行してください』


「オルカさん、また車両扱いされてる!」


 横から笑ったのは、同じ班のミンだった。


 ミンはベトナム系の移民三世で、日本語と英語とベトナム語と、あと倉庫でしか通じない謎の言葉を話す。彼女の口癖は「だいたい通じれば言語」で、実際、だいたい通じる。


「おはよう、ミンさん」


「おはよ、車両さん」


「僕は人です」


「知ってる。人類最大サイズ」


「最大ではないです」


「じゃあ湾岸最大」


「それも違うと思います」


「謙虚だねえ」


 謙虚ではない。

 正確でありたいだけだ。


 僕は顔認証ゲートの前で少し屈んだ。ゲートは何度か迷ったあと、ようやく僕を人間として認めた。


『オルカ・ヴァレン。下請け作業員。第七物流層。入場許可。今日も安全に働きましょう』


 今日も安全に働きましょう。


 機械は毎朝そう言う。

 でもこの倉庫で一番危ないのは、たぶん安全標語が貼ってある壁のすぐ下だ。昨日、そこに積まれていた段ボールが崩れて、班長の頭に落ちた。


 班長は「安全確認を怠るな」と怒鳴った。


 僕は、段ボールに言ったのか作業員に言ったのか、まだ分からない。


 倉庫の中は、朝から祭りのようだった。


 もちろん、楽しい祭りではない。

 誰も太鼓を叩いていないし、屋台もない。あるのは、規格外の騒音と、積み上がった荷物と、いつ壊れてもおかしくない搬送ロボットだけだ。


 でも、僕はこの騒がしさが嫌いではなかった。


 巨大な棚が何列も並び、その間を自動搬送機が走っていく。天井近くではドローンが小さな羽音を立て、荷物のバーコードを読み取っている。各国の言葉が飛び交い、誰かが誰かを怒鳴り、誰かが笑い、誰かが朝食の残りを箱の上で食べている。


 都市の上の方では、すべてが静からしい。


 上層居住区には風の音さえ管理されていて、窓の外の鳥の声も、住民の好みに合わせて調整されると聞いたことがある。

 雨は濡れないように落ち、空気は臭わないように濾過され、床は人間の足音を吸収する。


 僕は一度も行ったことがない。


 行ける資格もない。


 東京湾岸統合区は、昔の東京と川崎と横浜と千葉の一部をまとめて、海沿いに積み直したような都市だ。積み直した、という表現はかなり正確だと思う。


 上には、富裕層と管理階級の住む高層区。

 真ん中には、認可労働者や技術者や役人の住む中層区。

 下には、僕たちのような下請け労働者や無登録労働者や移民や、どこにも行く場所のない人たちの住む下層区。


 縦に分かれた街。


 上へ行くには許可証がいる。

 中層へ行くにも許可証がいる。

 下へ降りるのに許可証はいらない。


 だから、だいたいの人間は下へ落ちる。


 世界中がそんな感じになっていた。


 国境は、まだある。

 パスポートも、ビザも、入国審査も、ニュースの中の政治家もいる。


 でも、お金を持っている人にとって、国境は空港ラウンジの飾りみたいなものだった。専用機と投資家証明と医療保険付きの居住権があれば、どこへでも行ける。


 お金を持っていない人にとって、国境は壁だ。

 しかも、たまに自分の国の中にも壁ができる。


 日本も例外ではなかった。


 昔は中流というものがあったらしい。

 安定した仕事、持ち家、年金、保険、学校、病院、盆休み、正月。

 そういうものが、普通の人にも届いていた時代があったと、古い動画で見たことがある。


 今では、普通という言葉の方が珍しい。


 地方は維持できなくなった。

 水道も道路も学校も病院も、次々に民間企業へ運営が渡った。

 都市は投資対象になり、住民は利用者になり、利用料を払えない人間は少しずつ外へ押し出された。


 外と言っても、国の外ではない。


 都市の下だ。


 僕が住んでいる灰浜地区も、そういう場所の一つだった。


 灰浜は、東京湾岸統合区の外縁にある。昔の工場地帯と埋立地と古い商業施設と、仮設住宅と違法増築の集合体だ。海の匂いと油の匂いと、どこかの国の香辛料の匂いと、湿ったコンクリートの匂いが混ざっている。


 日本人もいる。

 中国語を話す人もいる。

 タガログ語も、ベトナム語も、アラビア語も、スペイン語も、フランス語らしいものも聞こえる。

 子どもたちは三つか四つの言葉を混ぜて喧嘩し、大人たちは二つの言葉で値切り、一つの顔で疑う。


 灰浜は貧しい。


 でも、静かではない。

 暗いだけでもない。


 朝になると誰かが勝手に屋台を出す。

 昼には誰かが壊れたドローンを分解して売る。

 夕方にはどこかから音楽が聞こえて、夜には警備ドローンに怒られながら子どもたちがサッカーをしている。


 壊れた街だ。


 でも、死んだ街ではない。


「オルカ!」


 僕の背中に、班長の声が飛んできた。


 振り返ると、班長の犬飼さんが、電子煙草をくわえたまま手を振っていた。犬飼さんは小柄で、首から下げた端末と、いつも不機嫌そうな眉毛が特徴だ。


「お前、ちょうどいいところに来た」


 僕は嫌な予感がした。


「僕は、出勤時間どおりに来ました」


「じゃあ、ちょうどいい。三番搬送機がまた迷子になった。連れ戻してこい」


「搬送機は迷子になりますか」


「なるんだよ、うちのは」


 たしかになる。


 三番搬送機は、古い。古すぎる。公式にはまだ現役機だが、実際には半分くらい気分で動いている。目的地を入力すると、なぜか休憩室へ向かうことがある。昨日は水フィルターを運ぶはずが、喫煙所に栄養パックを届けていた。


 僕は三番搬送機を探しに行った。


 すぐ見つかった。


 倉庫の隅で、壁に向かってじっと止まっていた。


『進路を検索しています』


「そこは壁です」


『進路を検索しています』


「壁です」


『新しいルートを発見しました』


 三番搬送機は、壁に向かって進もうとした。


 僕は慌てて取っ手をつかんだ。


「だめです」


『障害物を検知しました』


「僕です」


『大型車両を検知しました』


「またですか」


 近くで作業していたミンが腹を抱えて笑っていた。


「オルカさん、機械にも車両扱いされてる!」


「笑わないでください」


「ごめん、無理」


 僕は三番搬送機を引きずりながら、指定レーンへ戻した。機械は妙に満足げな電子音を鳴らした。迷子になった自覚はないらしい。


 僕は少し羨ましかった。


 自分が間違っていることに気づかないというのは、楽なことなのかもしれない。


 午前の作業は、だいたい荷下ろしだった。


 上層向けの荷物は、いつもきれいだ。


 梱包材まできれいで、箱の角も潰れていない。温度管理ラベルは青く光り、配送タグには「優先」「特別」「即時」「厳重取扱」といった文字が並ぶ。

 有機野菜、培養肉、高級ペット用サプリ、無菌水、個人用空気フィルター、香りつき睡眠カプセル。


 下層向けの荷物は、だいたい箱がへこんでいる。


 栄養パック、再生水フィルター、簡易発電セル、抗生剤、古い衣料、修理用部品、共同診療所向けの消毒液。

 必要なものばかりだ。

 必要なものばかりなのに、いつも少し足りない。


 僕の仕事は、それを運ぶことだった。


 考えることではない、と犬飼さんはよく言う。


 でも、荷物を運んでいると、考えてしまう。


 どの地区に何が届くのか。

 どの荷物が減ったのか。

 どの配送先だけ毎週遅れるのか。

 どの箱だけ、帳簿上は存在するのに実際には見たことがないのか。


 僕は頭がいいわけではない。


 ただ、重いものを持つと、その重さを覚える。

 同じ場所へ何度も運ぶと、前より軽いか重いか分かる。

 箱の数が減れば、空いた棚が目に入る。

 人の顔色も同じだ。昨日より疲れているか、先週より怒っているか、見ればなんとなく分かる。


 灰浜向けの棚は、この三週間で少しずつ軽くなっていた。


 最初に気づいたのは、水フィルターだった。


 灰浜第十二居住棟の水道は、先月から不安定になっている。古い配管に海水が混じるとか、ポンプが寿命だとか、業者が点検料を払われていないとか、噂はいくつもある。真実は分からない。


 でも、水フィルターが減れば困ることだけは分かる。


 次に減ったのは、子ども用の栄養パック。

 その次は、共同診療所向けの抗生剤。

 その次は、発電セル。


 どれも少しずつだった。


 一気に止めると騒ぎになる。

 少しずつなら、みんな我慢してしまう。


 人間は、急に殴られると怒る。

 でも、毎日少しずつ削られると、最初は自分が悪いと思ってしまう。


 僕はそれが嫌だった。


 昼前、僕は事務区画へ行った。


 事務区画は、倉庫の中で一番きれいな場所だ。床にはまだ線が残っていて、端末は一応動き、空調も時々働く。壁には安全標語と、都市管理局からの通達が何枚も貼ってあった。


 僕が中に入ると、天井のセンサーが鳴った。


『頭上注意』


「僕が注意しています」


『頭上注意』


「はい」


 毎回言われる。

 分かっている。

 僕の頭は僕についているのだから、僕が一番注意している。


 端末の前にいた佐伯さんが、顔を上げた。佐伯さんはこの倉庫の事務担当で、いつも三つの画面を同時に見ながら、四人分くらいのため息をついている。


「オルカくん、またゲートに怒られてるの?」


「怒られてはいません。注意されています」


「同じよ」


「違うと思います」


「で、何?」


 僕は端末の前に立った。画面が少し低い。屈むと、首が痛い。


「灰浜向けの配送表を見たいです」


「灰浜? どの棟?」


「第十二居住棟、共同診療所、あと旧モール側の簡易配給所です」


 佐伯さんの指が止まった。


「何かあった?」


「減っています」


「何が?」


「水フィルターと栄養パックと抗生剤と発電セルです」


「通達が出てるわ。下層向け生活維持物資の最適化」


「最適化」


 僕はその言葉を、口の中で転がしてみた。


 変な味がした。


「減らすことですか」


「この場合はね」


「では、減らすと言えばいいのに」


「そう書くと、怒る人がいるのよ」


「怒ると思います」


「だから最適化って書くの」


 僕は少し考えた。


 難しい。

 怒らせないために、怒るようなことを別の言葉で書く。

 都市管理局の人は、たぶん言葉の使い方が上手い。

 でも、あまり親切ではない。


「見せてもらえますか」


「本当は駄目」


「そうですか」


「でも、私も気になってた」


 佐伯さんは小さく言って、画面をこちらへ向けた。


 灰浜向けの配送量が表示される。


 数字は、やはり減っていた。


 表の上では、きれいな線だった。

 少しずつ、滑らかに、無駄なく、下がっている。


 でも僕には、その線が人の食卓から何かを抜き取っていく手に見えた。


「来週、足りなくなります」


 僕は言った。


 佐伯さんは眉を寄せた。


「どれが?」


「全部です」


「全部」


「はい。水フィルターが足りないと、栄養パックを溶かす水が足りません。水が足りないと、診療所の消毒も減ります。発電セルが減ると冷蔵庫が止まります。抗生剤は冷やせないと駄目なものがあります。たぶん、別々に減らしたつもりでも、実際には一緒に壊れます」


 佐伯さんは僕を見た。


「よく分かるわね」


「運んでいるので」


「運ぶと分かるもの?」


「少し」


 本当は、少しではない。

 かなり分かる。

 でも、そう言うと偉そうに聞こえる気がした。


 佐伯さんは画面を戻し、周囲を見た。誰もこちらを見ていないことを確認してから、小声で言った。


「犬飼班長に言う?」


「はい」


「やめた方がいいわよ」


「なぜですか」


「上の決定だから」


「でも、足りません」


「足りないことと、変えられることは別なの」


 それは、とても嫌な言葉だった。


 正しい気がする。

 でも、嫌だ。


 僕は黙った。


 黙ると、佐伯さんは少し困った顔をした。


「ごめん。君に言っても仕方ないわね」


「いえ」


「でも本当に気をつけて。最近、灰浜は監視が増えてる。下層通信とか、自治会もどきとか、変な動きがあるって上が騒いでるから」


「僕は変な動きはしません」


「君の場合、普通に動くだけで目立つの」


 その通りだった。


 反論できなかった。


 午後、僕は犬飼班長に話した。


 話す前に、何度も練習した。


 言い方は大事だ。

 強すぎると抗議になる。

 弱すぎると聞いてもらえない。

 僕の見た目は最初から強すぎるので、言葉はなるべく弱くしなければならない。


 僕は倉庫の裏で、積み上がった空箱に向かって練習した。


「すみません、確認なのですが」


 違う。弱すぎる。


「灰浜向けの物資が減っています」


 強い。


「少し気になったことがあります」


 これならいいかもしれない。


 そう思ったところで、背後からミンが言った。


「オルカさん、箱に告白してる?」


 僕は空箱から手を離した。


「していません」


「じゃあ説教?」


「相談です」


「箱に?」


「練習です」


「かわいいねえ」


「かわいくはありません」


 ミンは笑いながら去っていった。


 僕は少しだけ心を折られたが、話すことにした。


 犬飼班長は、搬送レーンの横で端末を睨んでいた。画面には赤い警告が並んでいる。三番搬送機がまたどこかで何かを誤配送したらしい。


「班長」


「何だ、オルカ。三番なら今は放っておけ。あいつはたぶん自分探しの途中だ」


「少し気になったことがあります」


「短く」


「灰浜向けの物資が減っています」


「通達だ」


「通達以上に減っています」


「誤差だ」


「水フィルターが三割減っています」


「誤差だ」


「抗生剤も減っています」


「誤差だ」


「発電セルも」


「誤差だ」


「全部減っているなら、誤差ではなく方針だと思います」


 犬飼班長が顔を上げた。


 周囲の音が、少しだけ遠くなった気がした。


 僕はすぐに後悔した。


 言い方が強かったかもしれない。

 いや、内容が強いのだ。

 でも、言わないわけにはいかなかった。


 犬飼班長は電子煙草を口から外した。


「オルカ」


「はい」


「お前は荷物を運ぶ係だ」


「はい」


「考える係じゃない」


 分かっていた。

 言われると思っていた。


 でも、胸の奥に小さく刺さった。


「でも、来週困ります」


「誰が」


「灰浜の人たちが」


「俺たちも困ってる」


「はい」


「会社も困ってる」


「はい」


「都市管理局も困ってる」


「はい」


「みんな困ってるんだ。だから、上が順番を決める」


「その順番が間違っているかもしれません」


 言ってしまった。


 僕は自分の口を塞ぎたくなった。

 でも、もう遅い。


 犬飼班長はしばらく僕を見上げていた。身長差があるので、見上げる形になる。そのせいで、僕が威圧しているように見えたかもしれない。


 違う。

 僕は威圧していない。

 むしろ、膝が少し震えていた。


「お前さ」


 犬飼班長は、低い声で言った。


「目立つな」


「目立つつもりは」


「つもりじゃない。結果だ」


 また、その言葉だった。


「最近、灰浜は監視対象だ。上層向けのフェスも近い。物流を止めるな、下層を騒がせるな、余計なことをするな。そういう指示が来てる。分かるか」


「はい」


「お前みたいなでかい奴が、配給がどうとか、上が間違ってるとか言うと、すぐ面倒になる」


「僕は上が間違っているとは」


「今言った」


「言いました」


「素直か」


 犬飼班長は疲れた顔で額を押さえた。


「とにかく、この話は終わりだ。仕事に戻れ」


「はい」


 僕は戻った。


 戻りながら、自分が失敗したことだけは分かった。


 何を失敗したのかは、よく分からなかった。


 夕方近く、廃棄レーンに呼ばれた。


 第七物流層には、廃棄レーンがある。賞味期限が近いもの、箱が潰れたもの、ラベルが剥がれたもの、配送先が消えたもの、企業規格に合わなくなったものが、そこへ流れてくる。


 まだ使えるものも多い。


 でも、使えることと、使っていいことは別らしい。


 今日の廃棄品は、灰色の栄養パックだった。


 箱の角が潰れている。

 中身は問題ない。

 賞味期限も、まだ二週間ある。


 配送先は、上層向けの災害備蓄更新倉庫。

 上層の備蓄品は、定期的に新しいものと入れ替えられる。古いものは下層へ回されることもあるが、今回は違った。


 廃棄。


 端末にはそう出ていた。


「これ、捨てるんですか」


 僕は隣の作業員に聞いた。


 彼は肩をすくめた。


「規格外だってさ。箱が潰れてる」


「中身は」


「知らん。箱が潰れてる」


「食べられます」


「俺に言うなよ」


 彼は悪い人ではない。

 ただ、疲れているだけだ。


 廃棄レーンの奥では、処理機が低い音を立てていた。栄養パックが流れていけば、袋は破られ、中身は処理槽へ落ちる。再資源化される、と表示にはある。

 再資源化。

 便利な言葉だ。


 食べられるものを、食べ物ではないものにする。


 灰浜の第十二居住棟では、たぶん今日も水を買う列ができている。

 旧モールの横では、子どもたちが夕食の配給を待っている。

 共同診療所の看護師は、栄養パックを薄めて出すかどうか迷っている。


 僕は、目の前の箱を見た。


 箱は潰れている。

 でも、中身は無事だ。


 僕は荷物を持つのが仕事だ。

 考える係ではない。

 ルートを決める係でもない。

 配る係でもない。


 ただ、運ぶ係だ。


 だから僕は、運んだ。


 廃棄レーンに流すはずだった栄養パックの箱を、一つ持ち上げた。重くはなかった。僕にとっては、という意味だ。普通の人なら二人で持つかもしれない。


 僕はそれを、廃棄レーンではなく、隣の仮置きエリアへ置いた。


 誰も見ていない。


 いや、三番搬送機が見ていた。


『配送先を検索しています』


「検索しなくていいです」


『新しいルートを発見しました』


「発見しないでください」


 三番搬送機は、なぜか僕の横に来た。


 僕は少し考えた。


 とてもよくないことを考えている自覚はあった。


 仮置きエリアには、灰浜旧モール側の簡易配給所へ向かう空のコンテナがあった。明日の朝、そこへ水フィルターの一部が配送される予定だ。


 空きスペースがある。


 栄養パックの箱は、入る。


 端末上は、廃棄予定。

 現物は、仮置き。

 灰浜行きコンテナには、空きスペース。


 僕は、深く息を吸った。


 心臓が嫌な音を立てている。


 これは犯罪だろうか。

 窃盗だろうか。

 横領だろうか。

 それとも、廃棄されるものを廃棄しないだけだろうか。


 分からない。


 分からないが、食べられるものを捨てる方が、僕にはもっと分からなかった。


「三番」


『はい』


 返事をした。


 返事をするのか。

 初めて知った。


「この箱を、灰浜旧モール側のコンテナへ」


『許可コードを入力してください』


「……」


『許可コードを入力してください』


「間違えました」


『許可コードを入力してください』


 僕は困った。


 やはり、機械は規則に厳しい。

 いや、三番搬送機が厳しいというより、こういう時だけ正気になるのが腹立たしい。


 その時、背後から声がした。


「何してるの、車両さん」


 ミンだった。


 僕は固まった。


 栄養パックの箱を持ったまま、固まった。


 ミンは箱を見た。

 コンテナを見た。

 三番搬送機を見た。

 僕の顔を見た。


「ふーん」


「これは」


「うん」


「違います」


「まだ何も言ってない」


「廃棄レーンが混んでいたので」


「混んでないよ」


「箱が」


「潰れてるね」


「中身は」


「食べられるね」


「僕は」


「うん」


 ミンはにやっと笑った。


「運ぶ係だもんね」


 僕は何も言えなかった。


 ミンは端末を取り出し、三番搬送機に近づいた。

 何かを入力する。


『一時保管ルートを更新しました』


「ミンさん」


「私は何も見てない」


「でも」


「三番が迷子になった。よくある」


『新しいルートを発見しました』


「ほら」


 三番搬送機は、栄養パックの箱を載せたまま、ゆっくりと灰浜行きコンテナへ向かった。


 僕はその後ろ姿を見ていた。


 機械なのに、少し誇らしげに見えた。

 たぶん気のせいだ。


「いいのですか」


 僕は小声で聞いた。


 ミンは肩をすくめた。


「捨てるよりいいでしょ」


「規則では」


「規則はお腹いっぱいにならないよ」


 その言葉は、妙に明るかった。


 軽くて、当たり前で、だから強かった。


 ミンは僕の腕を軽く叩いた。僕にとっては何も感じないくらいの力だったが、彼女は叩いた手を少し痛そうに振った。


「硬っ」


「すみません」


「謝るところじゃない。じゃ、私は何も見てないから。見てないけど、次から箱の向きは揃えて。検品ドローンが変な角度だと気づく」


「次はありません」


「はいはい」


 ミンは笑って去っていった。


 次はない。


 僕はそう思った。


 本当に思った。


 でも、そのあと廃棄レーンに、箱の角が潰れた栄養パックがもう三箱流れてきた。


 そして僕は、それを見てしまった。


 見ると、駄目だった。


 結局、灰浜行きのコンテナには、予定より四箱多い栄養パックが入った。


 四箱。


 都市全体から見れば、誤差にもならない。

 上層のパーティーで余る前菜より少ないかもしれない。

 都市管理局の資料なら、丸められて消える数字だ。


 でも、灰浜の旧モール側なら、子どもたちの夕食が少し濃くなる。

 共同食堂が一日伸びる。

 誰かが、今日は空腹で眠らずに済む。


 それくらいの量だった。


 退勤時間、倉庫を出る頃には、湾岸の空が紫色になっていた。


 上層区の高層塔には、夕焼けがきれいに反射している。光る壁面には、上層向けフードフェスの広告が流れていた。


『世界の美食が東京湾岸に集結。選ばれた皆様へ、忘れられない一皿を』


 その下の道路では、灰浜行きの無人トラックが列を作っていた。


 僕はそのうちの一台を見送った。


 三番搬送機が積み込んだコンテナも、その中にある。


 心臓がまだ少し速い。


 たぶん、僕は小さな規則違反をした。

 いや、小さくないのかもしれない。

 でも大きくもないと思いたい。

 誰かに怒られるかもしれない。

 犬飼班長に見つかれば、ものすごく怒られる。

 佐伯さんには、たぶんため息をつかれる。

 ミンは笑う。


 僕は、革命をしたわけではない。


 抗議もしていない。

 演説もしていない。

 旗も持っていない。

 誰かを倒そうとも思っていない。


 ただ、食べられるものを捨てるのが嫌だった。


 それだけだ。


 ゲートを出ようとした時、顔認証がまた僕を読み取った。


『オルカ・ヴァレン。退場確認。今日も安全に働きました』


 安全だったかは分からない。


 でも、僕は小さくうなずいた。


 その夜、灰浜の旧モール側で、予定にない栄養パックが四箱届いた。


 僕はそれを知らない。

 その箱を最初に見つけた子どもが、宝箱みたいに叫んだことも知らない。

 旧モールの二階で寝泊まりしている女の子が、箱の配送ラベルを見て、少し首をかしげたことも知らない。


 彼女の名前は、ナユ・オル。


 彼女はその箱を見て、たぶんこう言った。


「ここ、食堂になるかも」


 もちろん僕は、そんなことを知らない。


 僕はただ、帰り道でずっと考えていた。


 明日、三番搬送機がまた迷子になったらどうしよう。


 そして少しだけ、

 本当に少しだけ、

 明日も何かを運べるといいと思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ