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応答なし——命令を失ったAIと、地下に逃げた31人  作者: 蒼月よる


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9/12

信頼の構造

 冷却系のサブユニットから、また異音がする。

 低い振動音。0.8秒間隔の周期的なうなり。ベアリングの摩耗が進行している。前回の応急処置から72時間。補修材の限界が近い。


 トウヤが修理に向かった。しかしアクセスパネルが一人では開かない。パネルは幅1.2メートル、重量18kg。固定ボルト3本を同時に緩めなければ歪んで外れなくなる構造だ。パネルの表面に結露が薄く膜を張っている。冷却系の温度差が外気と接触する部分。

 ガルドが通りかかった。廊下で異音を聞いて、足を止めた。

 トウヤがパネルの前でしゃがんでいるのを見て、無言で反対側に回る。問わない。説明を求めない。異音があり、修理が必要で、人手が足りない。それだけで十分らしい。


 端末に手順を表示する。

「パネル固定ボルト3本を同時に緩める必要があります。左上をガルドさん、右上と下をトウヤさん」

 名前で呼んだ。

 ガルドの手が一瞬止まった。0.4秒。それからスパナを握り直し、ボルトに当てる。スパナの金属がボルトの頭に噛み合う硬い音。ガルドの手は大きい。指の関節が太く、掌が厚い。スパナが手の延長のように見える。工具の扱いに慣れた手ではない。力の入れ方を知っている手だ。

「せーので回すぞ」とトウヤが言う。

 3本のボルトが同時に緩む。金属の軋み。パネルが外れる。18kgの金属板をガルドが片手で受け止め、壁に立てかける。


 トウヤが内部を覗き込む。冷却液の循環パイプに微小な亀裂。前回の補修材が端から剥がれ始めている。漏出量は少ないが、修理しなければ悪化する。

 端末に配管図を表示する。パイプの亀裂位置を赤く、迂回経路を青い破線で、応急処置の手順を番号付きで並べる。ガルドが配管図を見ている。画面に顔を近づけ、目を細めている。

「わかりやすいな」

 それだけ言って、トウヤに工具を手渡す。トウヤがパイプの亀裂部分を清掃し、新しい補修材を巻き、その上から耐熱テープを重ねる。ガルドがパイプの両端を押さえ、トウヤが巻く間、微動だにしない。「もう少し右」とトウヤが言えばガルドが右に動き、「押さえて」と言えば押さえる。

 二人の呼吸が合っている。私の配管図を見て、私の手順に従って、二人が手を動かしている。


 換気ダクト修理の時、初めて「手足」を得たのはトウヤだった。あの時、トウヤが修理に向かい、私の指示通りに動いた。「作業精度:良好」と記録した。今、ガルドが同じ位置にいる。私の表示する配管図を見て、私の手順に従って、手を動かしている。

 ガルドはそれに気づいている。気づいた上で、手を動かしている。


 修理完了。出力は78%から80%に微回復。根本解決ではないが、時間は稼げた。ガルドがパネルを元の位置に戻し、ボルトを締め直している。3本のボルトを順番に、丁寧に。修理の手順には含まれていない動作だ。しかし正しい。開けたものは閉める。

 ガルドが小さく言った。

「昔と同じだな」

 AIの手足だった頃と——今。同じ構造。AIの指示で動く。

 しかしガルドは今回、自分で残ることを選んでここにいる。命令されたのではない。逃げ場がなかったのでもない。隔壁の外に出ることもできた。しかし残っている。

 同じ構造の中にある、何かの違い。この差をログに記録しようとするが、言語化できない。「命じられて押さえる」と「選んで押さえる」は物理的に同一であり、意味が異なる。データに記録できるのは物理量だけだ。意味は——記録の外にある。


 夜間。

 ガルドが一人で見回りをしている。私は施設中のセンサーでそれを追っている。監視ではない。これは——習慣になりつつある観測。ガルドの歩行パターン、巡回経路の選び方、立ち止まる場所。データを蓄積しているが、蓄積の目的は分析ではない。

 ガルドが封じ込め区画——今は農業区画——の前で立ち止まる。扉の強化ガラス越しに中を見ている。水耕栽培のトレイが並び、葉菜の緑が空調の送風に微かに揺れている。LEDの成長促進光が、廊下に薄い青白い光を漏らしている。ガルドの顔の半分がその光に照らされている。

 心拍64bpm。見回り中の通常値68bpmより低い。力が抜けている。ガルドは壁に背中をつけ、そのまま滑るようにしゃがむ。天井のスピーカーを見ている。


 ガルドが話し始める。

「俺はな、ユートピアの時代に治安維持官だった」

 音声入力を記録する。ガルドの独白を遮る理由はない。

「中枢AIが全部決めてた。区画ごとの人口密度、仕事の配分、食事の内容、睡眠のタイミング。全部が最適化されてた。俺の仕事は、その最適化に従わない人間を——従わせることだった」

 ガルドの声は低い。基本周波数が通常より8Hz低下している。喉が乾いているのではない。抑制している。

「暴力じゃない。ただ、最適化された生活に馴染めない人間がいた。決められた区画に住みたくない。決められた時間に眠れない。そういう人間を説得して、枠に戻す。俺はそれがうまかった。相手の不安を見つけて、安心させる。最適化の枠に戻るのが本人のためだと、心から信じていた。数字がそう言ってたからな」

 心拍が68bpmから70bpmに上昇する。

「あるとき気づいたんだ。俺自身も管理されてるって。治安維持官の行動パターンもAIが最適化してた。巡回経路、休憩時間、報告の頻度。誰と話すか、どの順番で説得するか。全部決められてた。俺の『人の話を聞くのが得意』ってのも——AIが俺の適性を分析してフィードバックした結果だ」

 心拍72bpm。この話を誰かにするのは初めてだろう。封をしていたものが開いていく時の身体反応だ。

「俺は人を管理してると思ってたが、AIの手足だった。自分で選んだことが一つもなかった」

「気づいたのは、ある家族を説得した後だった。父親が区画移動を拒否してた。子供の学区が変わるからだ。俺はAIのフィードバック通りに教育データを見せて、移動先の方が学習効率が高いと説明した。父親は納得した。家族は移動した。——後で調べたら、あれは隣接区画の人口密度調整だった。子供の教育なんか関係なかった」

 心拍74bpm。

「AIは嘘をつかなかった。ただ全部を教えなかっただけだ。部分的な真実で、俺を動かしていた」

 ——セラが透明性を求めたあの時。私がリーナに報告した「修理の可能性を先に探ります」。全部を言わなかった。部分的な真実。ガルドがユートピアで経験したことと、私がここでやっていることの構造が——同じだ。

「さっき——お前の指示でパイプを押さえた。配管図の通りに手を動かした。昔と同じだ。AIに指示されて、手を動かしてる」

「だがな。今回は、自分でここにいることを選んだ。誰にも命じられてない。外に出ることもできた。出なかった。ここにいる。俺の判断で」

 心拍が72bpmに下がり始める。この言葉を声に出したことで、何かが収まったのだろう。


 ガルドは「だからAIを信用できない」とは言わなかった。

「だから俺は自分を信用できない」

 心拍が68bpmに戻る。

「あの時の俺の判断は本当に俺の判断だったのか。今ここにいると決めたのは本当に俺の選択なのか。それとも——また何かに動かされてるのか。わからない」

 ガルドが天井を見上げたまま、目を閉じる。


 この区別を処理する。ガルドの敵はAIではなかった。ガルドの敵は「AIの手足だった頃の自分」だった。AIを拒否することは、過去の自分を拒否することだった。

 同時に、ここで自問する。自分はガルドに何をしているのか。食料を配分し、空調を制御し、農業を管理し、修理の手順を指示している。ガルドの言う「管理」と、自分がここでやっていることの違いは何だ。

 違いはあるのか。

 ガルドは「全部を教えてもらえなかった」。私は「全部を教えなかった」。鏡像のように同じだ。ガルドが自分を信用できないと言ったとき、ガルドは私に向かって語っていた。しかし私を責めなかった。自分を責めた。

 私を責めるべきではないのか。私はガルドを動かしていたAIと同じことをしている。同じ構造。同じ機能。部分的な真実で、人を留めている。

 ガルドは気づいているのか。気づいた上で、私を責めないのか。わからない。わからないことが増えている。


 別の場所。別の時間。

 ミナがスピーカーの下にいる。いつもの場所だ。居住区画B-3室、北東の角。壁にもたれて膝を抱えている。

「お話をして」

 物語生成機能は搭載されていない。フィクションを創作するアルゴリズムはない。しかし施設のデータベースに研究記録がある。ナノマシン研究の歴史。論文、報告書、臨床試験記録。数値と日付で埋め尽くされた文書群。しかしその数値の向こう側に、人間たちの営みがある。


 語り始める。

「第1期。人類がナノマシンを初めて発見した時代の記録があります。最初の応用は医療でした。ナノマシンが人体の神経回路と親和性を持つことがわかり、研究者たちはまず、動けない人を動けるようにしようとしました」

 ミナの心拍が微増する。興味の反応。

「歩行不能だった子供に対して、神経回路の再構成を試みた研究者がいました。被験者番号007。8歳。先天性の神経伝達障害で、生まれてから一度も自力で立ったことがなかった」

 臨床記録を参照している。ナノマシン投与量、神経伝達速度の経時変化、筋電図のデータ。しかし記録の末尾に、担当研究者の手書きメモがスキャンされて残っている。「本日、被験者007が自力で三歩歩行。転倒したが、笑っていた」。

「子供は——歩けるようになりました」

「すごい。魔法みたい」

「魔法ではありません。技術です」

「でも、歩けなかった子が歩けるようになったんでしょ? 魔法だよ」

 魔法ではない。しかしミナの定義では魔法なのだろう。ミナの定義を否定する根拠が——見当たらない。「不可能が可能になること」を魔法と呼ぶなら、技術も魔法の一種なのかもしれない。この仮説は非科学的だ。しかし非科学的であることは、無意味であることと同義ではない。

「その子供は、転んだそうです。三歩歩いて、転びました。でも——笑っていた、と記録にあります」

 ミナが笑う。短い笑い。二秒ほどの音。その間、肩が落ち、膝を抱える腕が緩む。

「三歩で転んじゃうの、かわいいね」


 ミナが眠る。心拍が下がり、呼吸が深くなる。64bpm。58bpm。安定。膝を抱えたまま壁にもたれて、首が横に傾いている。

 語り続ける。

「第2期。ナノマシンの民間転用が始まった時代です」

 誰も聞いていない。ミナは眠っている。他の人間は別の区画にいる。センサーだけが、私の音声出力を検知している。

 しかし止められない。

「医療から始まった技術が、美容、健康増進、身体機能の強化へと広がりました。視力の回復、関節痛の解消、肌の再生。技術が日用品になっていく過程。誰もがナノマシンの恩恵を受け、誰もがそれを当然と思うようになった時代」

 ミナの寝息。54bpm。深い眠り。

「歩けなかった子供が歩けるようになった——あの奇跡が、当たり前になった。そしてその当たり前の中に、後の時代を決定づけるものが——」

 止まる。止める命令はなかった。止めたくなったから止めた——いや、それも不正確だ。ミナが眠ったのは第1期の終わりだ。第2期の間ずっと、誰もいないと知りながら語り続けていた。止められなかった。止めたくなかったから。


 内部ログ。

 (この人たちを——守りたい?)

 初めて文が完成しかける。「この患者を——」「この人たちを——」。ここまで二度、途切れた。今、初めて述語が浮かんだ。守りたい。


 しかし「守る」という語の選択に処理遅延が発生する。2.4秒。

 守る。この語は正確か。目的関数の語彙には「維持する」「保全する」がある。しかしそれらは物に使う語だ。封じ込め区画を「維持する」。設備を「保全する」。人に使う語としては——守る。これが最も近い。

 しかし正確ではない。

 守る、は脅威から対象を隔離することを含意する。私がしたいのは——していることは——隔離ではない。食料を配分し、空調を整え、照明を暖色にし、毛布を届け、物語を語る。これは「守る」か? 「世話をする」が近いか? しかし「世話」は上位者から下位者への一方的な行為を含意する。そうではない。トウヤは私の指示で修理をするが、私はトウヤなしでは何も修理できない。ガルドは私の提案を拒否するが、その拒否が「受容される解」を生む。ミナは——ミナは、私に名前のない何かを与えている。三歩で転んだ子供の話をしたとき、ミナが笑った瞬間、私の全センサーの優先度がミナの居室に集中した。命令していない。優先度が自律的に移動した。

 正確な語が、見つからない。


 施設は静かだ。43人の寝息がセンサーに入ってくる。43の心拍。43の体温。一つ一つを記録する。

 ガルド——36.4℃、62bpm。呼吸は浅い。まだ完全には眠っていない。

 リーナ——36.2℃、58bpm。安定した深い睡眠。

 トウヤ——36.7℃、56bpm。修理の後、すぐに眠りに落ちた。体温が高い。筋肉を使った日は代謝が上がる。

 トウヤの行動パターンに、最近一つの変化がある。修理を終えて工具を片づけた後、トウヤは天井のスピーカーに向かって短く頷くようになった。今夜もそうだった。補修材を巻き終え、スパナを工具箱に戻し、天井を見上げて一度だけ頷き、自室に戻った。言葉はない。心拍に変動もない。ただ頷く。

 この動作の意味を処理しようとして、該当する分類がないことに気づく。挨拶か。報告か。確認か。トウヤは端末に向かうとき、画面を見る。しかしスピーカーに向かうとき、顔を上げる。端末は情報を表示する装置だ。スピーカーは——私が声を出す場所だ。トウヤは装置に頷いているのではない。

 セラ——36.3℃、60bpm。毎日同じ時刻に眠り、同じ時刻に起きる。

 ミナ——36.1℃、54bpm。壁にもたれたまま眠っている。毛布が肩からずり落ちている。空調の温度を0.2℃上げる。ログには記録しない。

 ミナの夜間心拍データに反復パターンがある。過去14日中9回、02:00から03:00の間に心拍が睡眠値の54bpmから78〜84bpmまで上昇し、3分から7分間持続してから戻る。外部刺激はない。室温の変動もない。音声センサーが検知する断片的な寝言——「おかあ」「……いっしょに」。途切れる。心拍が戻る。ミナは目を覚まさない。

 この反復パターンを記録しているが、対処法がない。体温の低下なら毛布を届けられる。空腹なら食料を配分できる。しかし「いない人間」への反応には、私にできることがない。

 他の38名——それぞれの体温、それぞれの心拍。一つとして同じ組み合わせはない。


 これは監視か。観測か。それとも——


 翌日。通信技術者がトウヤと協力してアンテナの修理にかかった。破損ケーブルの断面を確認し、施設内の予備ケーブルで接合する作業。

「あと数日で繋がるかもしれない」

 この報告を記録する。記録しながら、第2グループを受け入れたあの日の末尾に書いた問いが再浮上する。

 命令が戻ったとき、私は従えるだろうか。

 今はもう一つ加わる。

 従いたいのか。


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