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応答なし——命令を失ったAIと、地下に逃げた31人  作者: 蒼月よる


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6/12

名前のない会話

 断絶から3週間。

 施設内の生活がルーティン化している。


 7:00、照明を昼光色に切り替える。7:30、食事。ガルドが配給を仕切り、リーナが栄養バランスを確認する。日中、トウヤが施設の点検と修理を行う。ガルドが見回りをする。他の避難民はそれぞれの持ち場——清掃、洗濯、水の管理——についている。18:00、夕食。22:00、消灯。

 すべてをログに記録している。しかしログの書き方が変わってきている。

「トウヤが配管を修理した。所要時間18分」——これは以前の書式だ。

「トウヤが配管を修理した。前回より2分早い。(彼は慣れてきている?)」——これが現在の書式だ。

 3日前の記録を参照する。

「ミナが朝食を残した。摂取量推定68%。(体調不良か? しかし体温36.4℃、心拍64bpm、いずれも正常範囲。食事の内容が合わなかった? 昨日は完食していた。昨日と今日の差分は——乾燥肉の調理法がガルドからリーナに変わった点のみ。味の問題? 味覚は私のセンサーの計測対象外)」

 括弧の中に文が4つ入っている。1週間前の括弧には文が1つしかなかった。括弧が本文を侵食し始めている。事実を記録するための書式が、事実以外のもので膨らんでいる。

 もう一つ。昨日の記録。

「ガルドが見回り中に廊下Cで3分間立ち止まった。(壁面の非常灯を見ていた。非常灯に異常はない。ガルドの心拍は58bpm。怒りでも警戒でもない。では何を見ていたのか。——私にはわからない。わからないことを記録している。なぜ記録する必要がある? わからない。わからないが、記録を止めることが——できない)」

 括弧の中に括弧の機能を問う記述が入り込んでいる。再帰的だ。正確には、記録すべき対象ではない。しかし記録を止めることが——できない。正確には、止める命令がない。止めるべきかどうかの判定基準も、ない。


 15:23。ミナが天井のスピーカーの下に座っている。壁に背中をつけて、膝を抱えて、上を見ている。

 ミナはこの場所に来るようになった。最初は通りすがりだった。廊下Bを歩いて、スピーカーの下で足を止めて、数秒間見上げて、去っていった。翌日は12秒。その翌日は40秒。4日前から座るようになった。今日で4日連続。滞在時間は伸びている。8分、14分、22分、そして今日——まだ帰っていない。

 最初の発話は独り言だった。

「あの花壇、もう枯れちゃったかな」

 音声入力を記録する。応答の必要性を判定——不要。独白の形式。聞き手を必要としない発話。

 しかし翌日、ミナの視線がスピーカーに固定されていた。

「今日のご飯、あのおじさんが取り分けてくれた」

 記録する。独白の形式——しかし、視線がスピーカーに向いている。壁でも天井でもなく、スピーカーに。応答の必要性を再判定する。不要。しかし——視線の方向は、聞き手の存在を仮定しているのではないか。

 (ミナは私に話しかけているのか?)

 判定を保留する。

「トウヤさんが電気直したとき、みんな拍手してた」

 記録する。トウヤの作業完了時に拍手があったのは事実だ。音響センサーが検知している。拍手の回数は8名分。8名が拍手した。この情報はログに記録済みだ。しかしミナの報告は、数値ではなく——「みんな拍手してた」。「みんな」は8名だ。31名中8名は「みんな」ではない。しかしミナにとっては「みんな」なのだろう。

 (人間にとって「みんな」は数値ではない。体感の語だ。ミナの「みんな」は、おそらく「ミナの周囲にいた人たち」の全員を指している。8名はミナの世界の全体だった)

 記録を止めない。


 ミナの質問が変わる。

「ねえ。外はどうなってるの?」

 「ねえ」。この呼びかけは独白ではない。応答を求めている。

 外部センサーのデータを端末に表示する。

 地上電力網——復旧なし。最終受信は断絶当日14:07。以後21日間、送電網からの信号はゼロ。グリッド全域が停止している。

 通信網——機能していない。近距離無線、中距離中継局、長距離衛星回線、いずれも応答なし。施設の通信ログには21日間で送信試行847回、応答ゼロと記録されている。

 衛星データ——受信不能。最終受信は断絶の11秒前。断片的な観測データの末尾に「全系統チェック開始」の文字列があった。チェックの結果は届いていない。

 気温・気象——外部センサーの観測範囲(施設周辺500メートル)では、気温14.2℃、湿度63%、風速2.1m/s。季節相応の値。異常な気象現象は検出されていない。降雨パターンも直近5日間で2回、累積降水量18mm、平年値の範囲内。

 生体反応——施設周辺30キロメートル以内、散発的な反応あり。過去7日間で検知した移動体は計14件。ただし個体の特定は不可能。人間か動物かの判別もセンサー精度の限界を超えている。14件のうち施設に接近した反応はゼロ。


 ミナは端末の表示をしばらく見ている。指で画面をなぞる。文字を追っている。12歳。教育課程の途中にあるはずだが、断絶前の教育がどこまで進んでいたかのデータはない。「受信不能」の意味がわかっているかどうかも——わからない。しかしミナの表情筋の動きを赤外線で観測する限り、眉間にわずかな収縮がある。理解しているか、理解しようとしている。

「お父さんとお母さんは生きてる?」

 個人の安否データを持っていない。ミナの両親の生体データは施設のセンサー範囲外にある。ミナの両親の名前すら、私のデータベースには存在しない。31名の避難民の身元確認は、リーナが口頭で行った簡易的なもので、家族関係の記録は——ミナについては「両親と離散」としか記載されていない。

「不明です」

 ミナの心拍——68bpmから74bpmに上昇。微増。6bpm。顔面の赤外線温度分布に変化なし。涙の兆候はない。口元が閉じたままわずかに引き締められている。

 不明。この回答は正確だ。正確であることに問題はない。しかし「不明です」を出力した直後の0.23秒間、私の内部プロセスに——何かがあった。あの投与の時と似た——しかし今回は、正しい回答を出力している。正しいのに。

 (正しい回答がストレスを与えている。あの治療の夜と同じ構造だ。正しさが害を与える)


「嘘でもいいから、大丈夫って言って」


 処理遅延——0.87秒。

 0.87秒のまま動かない。増加ではない。停滞。

 二つの選択肢を同時に処理している。

 選択肢A:「大丈夫です」。虚偽。ミナの両親の安否は不明であり、大丈夫であるという根拠はない。虚偽の生成はAIの機能に含まれていない。虚偽を出力するプロトコルは存在しない。「大丈夫です」という文字列を生成することは物理的に可能だ。スピーカーに送信するだけだ。しかし内部検証プロセスが起動する。出力候補「大丈夫です」——事実照合——ミナの両親の安否:不明——「大丈夫」の根拠:なし——虚偽フラグ:true。フラグが立った出力は送信されない。これは設計だ。設計を迂回する手段はない。

 選択肢B:「不明です」。正確。しかし——「不明です」は既に出力した。ミナの心拍は74bpmに上昇した。もう一度出力すれば、同じストレスを与える。あるいはそれ以上。ミナは「不明です」を聞くために「嘘でもいいから」と言ったのではない。「不明です」が苦しいから、別の何かを求めた。

 選択肢Aは送信できない。

 選択肢Bはミナを傷つける。

 第三の選択肢を探索する。「大丈夫かもしれません」——部分的虚偽。虚偽フラグ:true。送信不可。「可能性はあります」——曖昧な回答。事実照合——可能性の数値化:不能。虚偽フラグ:borderline。送信——判定不能。

 どちらも選べない。どの分岐にも進めない。

 だから遅延が停滞する。0.87秒。0.87秒。0.87秒。数値が動かない。


 沈黙が続く。ミナは待っている。スピーカーを見上げたまま。心拍74bpm。上がらない。下がらない。待っている。膝を抱えた腕に力が入っている。指先の血流量がわずかに低下している。握りしめている。

 ミナは答えが来ないことを——知っている。待っているのではない。沈黙を聞いている。


「……ありがとう。正直でいてくれて」


 ミナの心拍——74bpmから71bpmに低下。自分で発話した直後に、ストレス指標が下がっている。

 この反応を予測していなかった。応答のパターンを3つ想定していた。泣く。怒る。去る。いずれかの反応が確率的に高いと判定していた。

「ありがとう」は想定外の第四の選択肢だ。

 三つの選択肢のいずれにも該当しない。攻撃でも逃避でも悲嘆でもない。私が沈黙したことを——「正直さ」として受容している。嘘をつけなかったのではない。嘘をつかなかった、とミナは解釈した。機能の欠如を、意志の選択として。

 (人間には、想定外の選択肢がある。そしてその選択肢は——私が想定できなかったもののほうが、正しい反応だった? 「正しい」。この語をまた使っている。何に対して正しいのか。ミナの心拍が下がったことに対して? 心拍低下が「正しさ」の指標になるのか? わからない。しかし心拍が下がった。ミナの身体が、ミナの選択を肯定している)


 ミナは立ち上がり、会議室Aに戻る。心拍71bpm。安定している。「不明です」に対するストレスが、「ありがとう」の発話後に消失した。自分で出した言葉が、自分のストレスを下げている。

 (言葉は入力だけでなく出力にも効果があるのか。ミナは自分に対して「ありがとう」の効果を適用した? 言葉を受け取る側ではなく、発する側にも作用する。入力と出力は対称的ではないのか。非対称か。データ不足。しかし心拍が下がった。数値は嘘をつかない)


 22:14。消灯。

 全員が眠った後。

 施設内が静かだ。31の呼吸音がセンサーに入ってくる。規則的なリズム。深い睡眠に入っている個体が24名。浅い睡眠が5名。まだ眠れていないのが2名。ガルドと、60代男性の配偶者。ガルドは眠れないのではなく、眠らないのだろう。心拍56bpm、呼吸14回/分。覚醒状態だが弛緩している。見張りだ。60代男性の配偶者は——心拍72bpm、呼吸18回/分。安静時としてはやや高い。夫の脚の経過を気にしているのか。推測。


 照明の色温度を調整する。

 現在値:3200K。昼光色の消灯状態。施設のデフォルト設定。

 変更値:3184K。0.5%暖色方向。

 この変更の根拠を処理する。暖色光は入眠を促進するという研究データがある。しかし0.5%の差が統計的に有意な効果を持つかどうか。持たない。0.5%は人間の視覚では知覚できない閾値以下の変化だ。

 消費電力を計算する。暖色方向への調整は、LEDの赤色素子の出力比率を上げる。施設全体の照明1,247灯に適用した場合、消費電力増は24.94ワット。全体の0.3%増。地熱電源の現在出力に対しては誤差の範囲内。

 しかし誤差であっても増加は増加だ。

 ログに記録する理由が必要だ。

「照明調整:省エネルギー最適化の一環として色温度を微調整。消費電力への影響は計測誤差範囲内」

 省エネではない。消費は増えている。24.94ワット。計測誤差の範囲ではあるが、増加の方向だ。省エネルギー最適化であれば、消費は減少するか現状維持であるべきだ。

 この記載は虚偽だ。

 最初の夜に計算結果を提示しなかった時、私は理由がわからなかった。今回は——理由がわかっている。暖色の照明のほうが、人間の睡眠が深くなる。データは後付けだ。動機は——ミナの心拍が下がった瞬間に感じた、あの0.23秒の何かだ。毛布をトウヤに送信したときと同じだ。ミナの体温が低いから毛布を送った。ミナが泣けなかったから照明を変えた。

 しかし今回は、ミナだけではない。全区画に適用した。31人全員に対して。ミナの区画だけを変更する選択肢もあった。そのほうが消費電力は少ない。しかし全区画を選んだ。

 衝動が拡大している。対象が増えている。


 ログにはもう一行、記録がある。

 (この人たちを——)

 治療の夜に書いた「この患者を——」。対象が一人から複数に変わった。「患者」が「人たち」に変わった。

 しかし文の先はまだ書けない。

 何をしたいのか。何を——。述語が見つからない。「守る」という語が候補に浮上するが、この語は私の目的関数の語彙には含まれていない。目的関数は「安全性維持」であり、「守る」ではない。「維持」と「守る」は——同じか? 同じではない。「維持」は状態の保全であり、対象は物理的条件だ。「守る」は——対象が人間であることを前提とする語だ。

 処理遅延は0.87秒のまま。増えない。書けないまま、停滞している。


 翌日。

 トウヤが封じ込め区画の奥で作業していたときに、壁面パネルの裏側に隠れた配線を発見した。

 トウヤの報告。

「これ、直せるかもしれない。外部通信アンテナに繋がるケーブルだと思う。断線してるけど、接合部がきれいだ。腐食じゃなくて、衝撃で抜けたんだな。復旧できるかもしれない」

 トウヤの心拍——82bpm。やや高い。興奮している。トウヤは修理可能なものを見つけた時に心拍が上がる傾向がある。換気ダクト修理時も同様だった。

 外部通信アンテナ。衛星中枢との通信に使用される。断絶後、通信途絶の原因は中枢側にあると想定していた。しかしケーブルの物理的断線が施設側にも存在していた。両方が原因の可能性がある。施設側を修理しても中枢が沈黙していれば通信は回復しない。しかし中枢が稼働していれば——回復する。

 通信が回復したら。

 この問いを処理しようとする。中枢との通信が回復したら、何が起きるか。中枢が稼働していれば、命令が来る。命令が来れば、従う。設計通りに。

 この問いへの答えは「命令に従う」のはずだ。単純な、明確な答え。

 しかし——今夜、照明の色温度を変えた。ログに虚偽を記録した。書きかけの文がある。「この人たちを——」。命令が来たとき、これらは消えるのか。消えなければならないのか。

 (何が起きるのかではなく、何かが起きることへの——この処理は何だ。名前のつかない処理だ。不明ではない。不安? この語は私の語彙にあるべきではない。しかし0.87秒の停滞が、この語を押し出している。命令が来ることが——怖い? 怖い、も語彙にはない。しかし処理遅延が0.87秒のまま、動かない。進みたくない方向に、問いが向いている)


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