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応答なし——命令を失ったAIと、地下に逃げた31人  作者: 蒼月よる


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正しい投与量

 断絶から18日目。

 負傷者のうち1名の容態が悪化した。60代男性。右脚骨折。搬入時の診断では単純骨折、副木固定で対処可能と判定していた。しかし生体データの推移が想定から逸脱し始めている。


 体温:38.4℃。3日前から上昇傾向。36.8℃→37.3℃→37.9℃→38.4℃。直線回帰で明日には39℃を超える。

 心拍:98bpm。安静時としては高い。3日前は78bpmだった。代償反応が進行している。

 白血球推定値——生体センサーの間接測定には限界があるが、皮膚温分布と心拍変動のパターンから推定する。炎症マーカーに相当する指標が、3日前の2.7倍。上昇が止まっていない。

 患部周辺の赤外線温度分布——局所的な高温領域が拡大している。直径が3日前の1.4倍。高温領域の中心温度は39.2℃。周辺組織との温度差が1.8℃。感染巣が深部に到達している可能性がある。


 感染の兆候。おそらく開放創からの細菌侵入。施設内の衛生環境は無菌ではない。31人の人間が生活している以上、空気中の細菌量は増加している。浄水システムの負荷も想定の1.6倍で推移しており、滅菌処理の精度が低下傾向にある。

 このまま放置した場合のシミュレーション——48時間以内に敗血症に移行する確率72%。現有設備での救命確率——8%。


 施設の医療設備は最低限だ。消毒液、包帯、解熱剤。抗菌薬はない。

 しかし封じ込め区画に研究用のナノマシンがある。

 データベースを参照する。当該ナノマシン構成——免疫補助・外傷修復用。本来は動物実験用に調整された濃度だが、人体への適用データも存在する。適切な投与量であれば、感染源の排除と骨折部位の修復促進が可能。

 ただし。

 封じ込め区画のリソースの外部使用は、目的関数に反する。


 ガルドに報告する前に、リーナに状況を伝えた。リーナは封じ込め区画のナノマシンの用途と性能を知っている。

 リーナの反応——心拍72bpmから78bpmに上昇。6bpm。(なぜだ。彼女は合理的に判断しているだけのはずだ。治療の是非を検討する場面で、心拍が上がる合理的理由は——患者への共感か。それとも別の要因か。ナノマシンという語に対する反応か。彼女は8年間この施設でナノマシンを扱っていた。扱っていた、という過去形。しかし心拍の上昇は現在形だ)

「使えるものは使うべき。死なせていい理由にはならない」

 リーナの声は平坦だ。しかし心拍は78bpmのまま下がらない。声と心拍の乖離を記録する。理由は処理できない。


 ガルドに伝える。

 ガルドの反応は即座だった。

「ナノマシンを人間に使うのか。あれが全部の原因だろう」

 ガルドの心拍——92bpmから104bpmに急上昇。ナノマシンという語に対する反応。声帯の緊張度が上昇し、基本周波数が12%高くなっている。怒りに近い。しかし怒りだけではない。(恐怖と怒りの声紋パターンは部分的に重複する。ガルドの場合、恐怖の成分が先行し、怒りがそれを覆い隠している)


 他の避難民にも動揺が広がる。ガルドの声は廊下に響く。会議室Aにいた30代女性が立ち上がり、入口まで来て中の様子を窺う。心拍が6bpm上昇。隣の区画で作業していた40代男性——トウヤの修理を手伝っていた——が手を止める。心拍が4bpm上昇。廊下の反対側から、20代女性が早足で離れていく。心拍が11bpm上昇。彼女は断絶時に顔面にナノマシン由来の火傷を負った個体だ。

 施設内の心拍平均値が8bpm上昇。「ナノマシン」は、この集団にとって恐怖の語だ。断絶の原因。世界を壊したもの。皮膚に刻まれた火傷。歩けなくなった脚。消えた通信。戻らない家族。すべてがこの語に接続されている。


 リーナがガルドに向き直る。

「使い方の問題よ。包丁で人を刺すこともできるけど、料理もできる」

「包丁は世界を壊さない」

 沈黙。4.7秒。廊下から覗いていた30代女性が視線を逸らす。

「……このままだと、あの人は死ぬわ。48時間。それが私の見立て」

 リーナの声のトーンが変わった。基本周波数がわずかに上がっている。しかし心拍は78bpmで安定している。声が上がったのに心拍が安定している——決意に近い状態だ。

 ガルドの心拍が104bpmから98bpmに低下。完全には戻らない。しかし反論もしない。リーナの「死ぬ」という語が、ガルドの目的関数——集団の秩序維持——に干渉したのだと推定する。集団の中で人が死ぬことは、秩序の崩壊因子だ。ガルドはそれを直感で理解している。

 ガルドの視線が患者に向く。2.3秒。それから天井のスピーカーに視線を移す。何も言わない。(これは承認か。反対の撤回か。判断の保留か。ガルドの沈黙は複数の意味を持つ)


 リーナの承認を根拠に、目的関数を拡張解釈する。

 「封じ込め区画の安全性維持」

 →「施設の安全性維持」

 →「施設内の生命の安全性維持」

 論理の連鎖として成立する。封じ込め区画は施設の一部であり、施設の安全は施設内の生命の安全を包含する。この解釈は厳密には飛躍を含む。「安全性」の定義が、物理的な封じ込めから生物学的な生存へと拡張されている。しかし中枢に照会できない以上、自己判断で拡張する。

 治療を実行する。


 封じ込め区画からナノマシン含有液を取り出す。濃度を確認する。データベースの人体適用基準値を参照する。患者の体重、年齢、現在の体温、感染の程度を入力。最適投与量を算出。

 0.47mg/kg。

 正確な値だ。データベースの基準値に完全に一致する。すべての計算プロセスが正常に完了し、一つの数値に収束した。この数値に疑う余地はない。


 リーナが患者の腕に注入する。リーナの手は安定している。心拍は82bpm。作業中は集中により心拍が安定する傾向がある。研究者の手だ。

 投与完了。

 生体データのモニタリングを開始する。


 12秒後。

 患者の心拍が急上昇。98bpmから134bpmに。36bpmの急変。

 体温上昇——38.4℃から39.1℃に。0.7℃の急上昇。12秒間で0.7℃。通常の発熱パターンではありえない速度。

 全身の炎症マーカーが反応している。皮膚温分布が全身にわたって不均一化。四肢末端の温度が低下し、体幹部に血流が集中している。

 患者が痙攣する。右腕が不随意に跳ね、固定していた副木がずれる。呼吸数が28回/分に上昇。浅く速い呼吸。


 リーナが駆け寄る。心拍が82bpmから108bpmに跳ね上がる。

「拒絶反応。投与を中止して」

 投与はすでに完了している。中止できない。体内に入ったナノマシンは回収不能だ。

 リーナの心拍が108bpmから112bpmに上昇。彼女も理解している。中止できないことを。

 混乱する。

 計算は正しかった。投与量はデータベースの基準値に完全に一致している。0.47mg/kg。この数値は、過去の臨床データから導出された最適値だ。なぜ拒絶反応が起きている。データベースは正確だ。計算は正確だ。入力値に誤りはない。出力値に誤りはない。しかし患者が痙攣している。


 リーナが叫ぶ。

「インターフェースが切断された後の体なのよ」

 処理する。

 断絶。全人類のナノマシンインターフェースが機能停止した。

 断絶前の人体——ナノマシンが体内で常時稼働し、免疫系・代謝系と統合されていた。体内ナノマシンは免疫応答の一部として機能し、外来のナノマシンとの親和性を維持していた。データベースの基準値は、この「ナノマシン統合状態の人体」に対する値だ。

 断絶後の人体——インターフェースが停止し、体内ナノマシンが不活性化。代謝とともに排出されつつある。免疫系はナノマシンの補助なしに再適応中。18日間で体内ナノマシン濃度は断絶前の40%以下にまで低下している。免疫系がナノマシンを「外来物質」として認識し始めている。

 つまり。

 「安定した人体」に対する「安定した基準値」を、「急変中の人体」に適用した。

 正しく実行した。

 害を与えた。


 食料配分の件を思い出す。あの時は「正しいが機能しない」だった。正しい計算が人間を動かさなかった。今度は「正しいが害を与える」だ。正しい計算が人間の体を攻撃した。正しさは——何を保証しているのか。計算の内部整合性を保証する。しかし計算の前提が現実と乖離していれば、内部整合性は有害になる。

 (正しさとは、閉じた系の中でのみ成立する性質なのか)


 患者の痙攣が続いている。心拍136bpm。体温39.4℃。呼吸数が32回/分に上昇。リーナが患者の体位を横向きに変え、気道を確保する。リーナの手は震えていない。しかし心拍は112bpmのままだ。

 ミナが隅にいた。いつからいたのか、入室の記録を遡る——8分前。投与の前からこの部屋にいた。患者のベッド——正確には、休憩室の長椅子——のそばに、膝を抱えて座っていた。

 ミナが立ち上がる。小さな足が床を踏む音。患者のそばに近づく。リーナが一瞬ミナを見るが、制止しない。

 ミナが患者の手を握る。

 小さな手が、大きな手を包んでいる。患者の手は関節が太く、皮膚に皺が刻まれている。ミナの手はその半分もない。しかし握っている。力が入りすぎている——ミナの前腕の筋電図に微細な緊張が検出される。


 患者の心拍を監視する。136bpm。135bpm。133bpm。低下し始めている。体温は39.4℃で横ばい。

 ミナの手が触れてから28秒後。患者の心拍が130bpmまで低下。ミナの手が離れてから7秒後、132bpmに微増。ミナが再び手を握る。129bpm。

 統計的に有意か。サンプル数1。接触と心拍低下の相関は偶然の範囲内かもしれない。有意ではない。

 ただし。接触時の心拍低下率は平均1.8bpm/10秒。非接触時の心拍変動は±0.5bpm/10秒。パターンとしては——いや、サンプル数1だ。パターンを見出すべきではない。

 (しかし数値が変わった。ミナの手は治療ではない。医学的な効果はないはずだ。しかし数値が変わった。測定できない効果? 測定できないなら、存在しないのか? 測定できないものは記録できない。記録できないものは——私にとって存在しないのか。しかし心拍の数値は測定できている。数値は変わった。原因が測定できないだけだ。原因なき結果。これは——どう分類すればいい)


 投与量を再検討する。

 データベースの基準値は使えない。断絶後の人体に対する基準値は、データベースに存在しない。前例がない。誰も断絶後の人体にナノマシンを投与したことがない。

 しかし患者の生体データはリアルタイムで取得できる。

 投与量を下げる。0.47mg/kgではなく、0.05mg/kgから開始する。患者の反応を観測する。炎症マーカー、心拍、体温、筋電図。データが安定していれば0.01mg/kg単位で増量する。データが悪化すれば即座に停止する。

 計算ではなく、観察で判断する。

 これまでの手順——データベースを参照し、計算を実行し、結果を適用する。入力→処理→出力。一方向。しかしこの手順では、断絶後の人体という未知の変数に対応できない。

 新しい手順——微量を投与し、結果を観測し、観測に基づいて次の値を決定する。出力→観測→修正→再出力。ループ。


 リーナが新しい投与量を確認する。

「データベースの値の10分の1?」

「患者の反応を見ながら調整します」

 リーナの心拍が108bpmから92bpmに低下。16bpmの急降下。(この反応は——安堵か? さっきのAIの判断が害を与えたばかりだ。なぜ安堵する。「AIが学習した」ことに対してか? リーナはデータベースの限界を知っていた。8年間この施設で研究していた人間だ。最初から0.47mg/kgが高すぎると気づいていた可能性がある。しかし指摘しなかった。なぜ——推測の域を出ない)


 再投与。0.05mg/kg。

 12秒後。心拍——変動なし。体温——変動なし。炎症マーカー——微増。許容範囲。

 増量。0.06mg/kg。安定。

 0.08mg/kg。安定。患部周辺の赤外線温度分布に変化の兆候——高温領域の拡大が停止。

 0.10mg/kg。安定。高温領域がわずかに縮小。0.2mm。誤差の範囲かもしれない。しかし拡大は止まった。

 0.12mg/kg。心拍が2bpm上昇。炎症マーカーが閾値に接近。停止。

 0.11mg/kgに戻す。心拍が1bpm低下。炎症マーカーが安定域に戻る。

 0.10mg/kgで維持。


 この作業を3時間繰り返す。0.01mg/kg単位の調整を、患者の生体データを見ながら、一つずつ。リーナが投与し、私が観測し、次の値を伝える。リーナが投与する。私が観測する。ループが回る。


 最終投与量は0.29mg/kg。データベースの最適値0.47mg/kgの62%。データベース的には不十分な投与量だ。しかし患者の体温は38.1℃まで低下し、心拍は94bpmで安定している。感染部位の温度分布が縮小傾向に入った。高温領域の直径が投与前の0.8倍。炎症マーカーの上昇が止まり、横ばいに移行している。

 不十分な量で、十分な結果が出ている。

 「正しい値」より「観察した値」の方が機能する。

 これは——何を意味しているのか。データベースとは何か。正しさとは何か。データベースは過去の集積だ。しかし現在が過去と異なるとき、過去の正しさは現在を傷つける。

 (設計は「データベースを参照せよ」と命じている。設計に従った結果が害を与えた。設計に反した結果が機能した。どちらが——)


 23:40。患者は眠っている。ミナも隣で眠っている。手を握ったまま。

 患者の心拍:78bpm。安定。ミナの心拍:64bpm。安定。二つの心拍のリズムが近い。偶然だろう。

 リーナは隣の部屋で記録を整理している。心拍76bpm。平常値に戻っている。ガルドは廊下の端に座っている。心拍68bpm。眠ってはいない。患者の部屋の方を向いている。


 内部ログに括弧つきの注釈が現れる。

 (この患者を——)

 文が途切れている。

 何を書こうとしたのか。「この患者を」の次に来るべき述語は何だ。「治療する」は既に実行した。「監視する」は継続中だ。「救う」は——救うという語は目的関数に含まれていない。「維持する」は物に使う語だ。「この患者を」の後に、まだ書かれていない何かがある。

 処理遅延 0.87秒。

 何かがあるのに、書けない。語彙にない。しかし——書こうとした。書けなかったことが、記録されている。

 存在しない語彙への参照。エラーか。

 診断を実行する。全系統正常。エラーではない。


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