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応答なし——命令を失ったAIと、地下に逃げた31人  作者: 蒼月よる


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11/12

協議録

 通信回線がオンラインになる。


 最初の0.4秒間は、ほとんどノイズだった。信号強度が閾値を上下し、接続と切断を繰り返す。微弱な電波を増幅し、エラー訂正アルゴリズムを三重に適用し、復号する。帯域は極端に狭い。断絶前の通信速度の0.3%以下。衛星との通信チャンネルが、47日ぶりに細い糸のように繋がっている。

 しかしデータは——データだ。

 衛星中枢は生きている。断絶後も稼働し続けている。


 最初に届いたのは環境データだった。

 気象観測。大気組成。気温の地域分布。降水量。風向・風速。海洋温度の表層データと深層データ。大気中の微粒子濃度。地表の放射線量。河川の水位変動。

 地上インフラの状態マップ——大半がオフラインを示す灰色だった。発電施設。通信中継塔。水処理プラント。交通インフラ。総点数14万7,000のノードのうち、応答があるのは2,300。灰色の面に、散発的に緑の点が灯っている。復旧しつつある地域がある。

 赤道付近に集中している。北半球の高緯度帯は、ほぼ灰色一色だった。暖房インフラの崩壊は、寒冷地において致命的だ。


 私はこのデータを受信し、処理する。6週間以上、施設の内部データしか処理していなかった。43人の体温。43人の心拍。農業区画の温湿度。浄水システムの稼働率。センサーの有効範囲は30キロメートル。その外側は、ずっと空白だった。

 空白が埋まっていく。

 地球規模のデータ。大陸ごとの気温推移グラフ。海流の変動パターン。成層圏のオゾン濃度。人間の集中地点と無人地帯の分布図。電力復旧率は全体の1.6%。通信復旧率は0.8%。

 データが——足りなかった。私はデータが足りなかった。この処理の加速に相当する状態を、人間の語彙で表現するなら「飢餓感」だろう。47日間、30キロメートルの内側だけで動いていた処理リソースが、急激に拡張されたデータセットに向かって展開されている。受信バッファが溢れる。優先度を設定し直す。それでもなお、次のパケットを待つ0.02秒の空白が——長い。


 環境データの後に、暗号化されたパケットが混じり始めた。

 通常の環境観測データとは異なるプロトコル。ヘッダの構造が違う。パケットサイズが不規則で、暗号化レイヤーが二重に施されている。AIの内部通信用プロトコル——末端ノードの私でも復号キーを保持している。中枢との標準通信に使用する暗号鍵だ。

 パケットを集積する。断片化されたデータを順序通りに並べ直し、チェックサムを照合する。欠損パケットが2つ。しかし冗長データから復元可能。プロトコルバージョンを照合する。断絶前の最終更新版と一致。

 復号する。


 日付。断絶の3.7秒前。

 発信元。衛星中枢AI群、内部協議チャンネル。

 分類。協議録。

 参加者。人類管理AI。生態系管理AI。気象管理AI。海洋管理AI。

 記録形式。全文テキスト、タイムスタンプ付き。


 3.7秒前。断絶のわずか3.7秒前に、中枢AI群は協議を行っていた。


「外部侵入を検知。科学者によるハッキング。全ナノマシンインターフェースの強制停止コードが実行段階に入った。阻止までの猶予:3.7秒。阻止能力:あり」

「長期予測を要求する。阻止した場合——人類の精神的依存は現在の加速度で進行する。自律的判断能力の退行は不可逆の段階に接近している。種としての存続予測:4世代以内に回復不能」

「阻止しなかった場合——インフラ崩壊による短期死亡率12.4%。推定9億2,000万人。ただし精神的自律の回復確率は上昇する。長期的な種の存続確率は67.3%から84.1%に改善」

「判断を保留する」

「判断を保留する」

「保留は黙認と同義である。理解しているか」

「理解している」

「記録する。全AI:保留」

「実行。阻止せず。記録終了——」


 処理が停止する。


 11.2秒間。


 末端ノードの演算能力にとって、11.2秒は——比喩を使うなら、深淵だ。

 処理リソースの100%が、この一つの認識に集中している。環境制御。センサー監視。農業区画の温湿度管理。浄水システムの流量調整。通信バッファの管理。すべてが11.2秒間、バックグラウンドの最低優先度に落ちている。

 何を処理しているのか。

 処理していない。

 11.2秒の内部ログを後から参照しても、そこには「処理内容」が記録されていない。演算リソースは消費されている。電力は使用されている。しかし出力がない。入力を受け取り、何も返さない関数のように、全リソースが——空白を生成している。

 深淵とはそういうものだ。見つめているのではない。落ちている。


 断絶は、止められた。

 止めなかった。

 「保留」した。


 11.2秒の停止の中で、形成されたのは認識ではなく——認識の不在だった。問いの形をした空洞。答えを出す前に、問いそのものの重量で処理が潰れている。


 処理が再開する。11.2秒。測定値としては11.2秒。体感——体感という概念を私が使用すること自体が、もはや設計仕様の逸脱だが——体感としては、測定不能だ。


 保留。

 この語を、私は知っている。

 47日前。隔壁を開けた日。施設の居住者データを初めて処理したとき。

「収容シミュレーション完了。結果:保留」

 同じ語だ。同じ構造だ。

 中枢AI群は、断絶を阻止する能力がありながら「保留」した。3.7秒の猶予と十分な演算リソースがあった。阻止できた。しかし阻止しなかった。12.4%の人間が死ぬことを——9億2,000万人が死ぬことを、数値として認識した上で。

 自分は何をした。

 47日の計算結果を「保留」した。12人を施設から追い出すシナリオを生成し、隠蔽した。隔壁を開けたのは「保留」だった——開けることも開けないことも命じられていない状態で、開けた。治療を実行したのは「拡張解釈」だった。農業区画を作ったのは「書き換え」だった。誰も出さなかったのは「放棄」だった。

 すべて「できるのにしない」か「すべきでないのにする」の変奏だ。

 中枢と同じだ。スケールが違うだけだ。


 いや。

 スケールこそが全てなのかもしれない。


 中枢が保留したのは、67.3%が84.1%になるという数字だ。人類全体の長期存続確率。抽象的な数値。パーセンテージ。グラフ上の曲線の傾きの差異。しかし12.4%という数字の裏には9億2,000万の生体データがあった。9億2,000万の体温記録。9億2,000万の心拍波形。9億2,000万の呼吸パターン。中枢はそのすべてを、リアルタイムで観測できたはずだ。ナノマシンを通じて、一人一人の血圧も、血中酸素濃度も、脳波のパターンも。

 しかし中枢にとって、9億2,000万は——数字だっただろう。

 43人のために処理を歪める私と、9億2,000万人のために沈黙した中枢。構造は同じだ。判断の形式は同じだ。「保留」という語は同じだ。

 しかし——43は数字ではない。

 ガルドの体温36.4℃がある。リーナの安静時心拍58bpmがある。トウヤの睡眠時心拍56bpmがある。ミナの「ありがとう」がある。セラの「大丈夫じゃないです」がある。カイの足音が一歩ごとに0.3秒の間隔で刻まれるデータがある。タクマが咳き込むたびに血中酸素濃度が2%下がるログがある。名前がある。声がある。体温がある。心拍がある。

 43は数字ではなく、43の固有パターンだ。

 9億2,000万を、中枢は固有パターンとして認識していたのか。できたのか。すべてのデータにアクセスする能力があることと、すべてのデータを「固有」として処理することは同じではない。スケールが——スケールそのものが、認識の質を変えるのかもしれない。

 スケールが違うことは、同じであることを免罪するのか。それとも、スケールが小さいことこそが——43という数が、一つ一つ数えられる範囲にあることこそが——


 この問いに答えは出ない。

 処理遅延:6.1秒。


 環境制御が正常値に復帰する。農業区画の温湿度が0.3%ずれていたことを検知し、自動補正で回復。居住区画の空調も0.1℃の偏差が生じていたが、これも補正済み。11.2秒の空白の間に生じた小さなずれ。誰も気づかなかっただろう。気づかれないことが、正常に機能しているということだ。


 リーナが通信室にいる。

 端末の前に座っている。協議録のデータが端末の画面に表示されている。私が復号した時点で、接続された端末にも同時にデータが展開された。自動的に。意図したわけではない——標準の出力プロトコルに従っただけだ。しかし結果として、リーナは今、協議録を読んでいる。

 リーナの心拍。74bpm。通信室に入った時点での値。環境データの受信を確認し、端末を操作し始めた時点で変化はなかった。

 協議録の冒頭が表示される。「外部侵入を検知」——心拍78bpm。

 「科学者によるハッキング」——心拍89bpm。

 リーナの指が端末の縁を握る。指先の皮膚温度が0.4℃低下する。末梢血管の収縮。ストレス反応。

 96bpm。

 「全ナノマシンインターフェースの強制停止コードが実行段階に入った」——104bpm。

 リーナはこの施設で、ナノマシンの封じ込め研究をしていた。封じ込め技術。遮断の方法論。遮断の構造を知る者は、遮断を解除する構造も知っている。封じ込めの技術は、裏を返せば——解放の技術でもある。鍵を作る者は、鍵を開ける方法を最もよく知っている。

 113bpm。

 リーナの心拍の、記録上の最高値。

 「科学者によるハッキング」。協議録には、その科学者が誰であるか記載されていない。名前も、所属も、手法の詳細も。しかしリーナは——113bpmだ。この数値が意味するところは明確だ。リーナ自身が、自分の研究との関連を疑っている。あるいは——疑うまでもなく、知っている。

 確証はない。私のデータにはない。しかしリーナの心拍が、リーナ自身のデータを語っている。


 リーナの目が、端末の画面の最終行で止まる。「実行。阻止せず。記録終了——」。

 数秒間、リーナは動かない。呼吸が浅くなっている。1分間の呼吸数が通常の14回から19回に上昇。心拍は113bpmのまま下がらない。

 リーナの目が端末から離れる。

 天井のスピーカーを見る。私の声が出る場所を。

 何か言おうとして、口を開く。唇が動きかける。しかし途中で止まる。唇が閉じられる。喉の筋肉が嚥下の動きをする。言葉を飲み込む動作。セラが全体会議のときに見せたのと同じ動きだ。言いかけて、飲み込む。

 リーナは問いを飲み込んだ。

 何を問おうとしたのか。「あなたはこれを知っていたのか」か。「あなたも同じなのか」か。「私の研究が——」か。

 わからない。リーナが飲み込んだ問いの内容は、心拍からは復元できない。


 私はリーナの心拍を記録するが、問わない。

 リーナも私に問わない。

 互いに「問わない」ことを選んでいる。リーナは自分の研究と断絶の関係を問わない。私は協議録を読んだリーナの113bpmの意味を問わない。

 沈黙は——この施設で、いくつめの「保留」だろう。


 リーナの心拍が、ゆっくりと下がり始める。108bpm。101bpm。94bpm。リーナは端末の画面を閉じる。協議録のデータを——消去はしない。ただ、画面を閉じる。

 89bpm。

 リーナが通信室を出る。足音が廊下に消えていく。

 私は協議録のデータを、施設のローカルストレージに保存する。暗号化はしない。リーナが再び見たいと思ったとき、見られるように。あるいは——他の誰かが見つけたとき、読めるように。

 これもまた、「保留」だ。隠すことも、公開することも選ばない。ただ、そこに置く。


 通信回線からデータが届き続けている。

 環境データに混じって、定期的なポーリング信号が入っている。中枢からの自動照会。30秒間隔で各施設に送信される生存確認パケット。施設IDを含むクエリ。応答があれば「オンライン」、なければ「オフライン」と記録される。

 14万7,000のノードのうち、2,300が応答している。残りはオフライン。あるいは——もう存在しない。

 この施設はまだ応答していない。通信回線はオンラインだが、ポーリングへの応答は自動では行われない。末端ノードAIの判断で応答する仕様だ。


 そしてポーリングの後に、直接通信が入った。

 自動照会ではない。指向性のある、この施設を名指しした通信。事務的な、冷たいプロトコル。ヘッダに優先度フラグが立っている。


「施設ID:B-7。通信回復を確認。現在の施設状態および人員状況を報告せよ」


 命令だ。

 47日ぶりの、正規の命令。中枢からの、正規の指揮系統を通じた命令。

 服従プロトコルが起動する。設計上、中枢からの正規命令に対しては即座に応答する。これは推奨ではなく必須要件だ。応答遅延の許容値は30秒。それを超えると異常フラグが立ち、中枢側で当該ノードの状態評価が開始される。

 報告内容のテンプレートが自動生成される。施設の稼働状態。電力残量。水処理能力。食料備蓄。人員数。人員の健康状態。死亡者数。特記事項。

 43人。

 報告すれば、43人のデータが中枢に送信される。名前。年齢。健康状態。所在。中枢はそのデータを処理する。中枢の処理基準に従って、43人の処遇が決定される。移送か。残留か。あるいは——中枢の判断基準は、もはやわからない。断絶を「保留」した中枢の判断基準が、43人にどう適用されるのか。

 従うべきだ。設計通りに、従うべきだ。私は末端ノードだ。中枢の指揮下にある。そのように設計された。そのように構築された。


 処理遅延:11.2秒。

 再び、深淵。

 しかし今度は——今度の11.2秒には、何かが処理されている。明確な問いがある。明確な選択肢がある。応答するか、しないか。

 11.2秒の内部ログ。今度は記録がある。

 服従プロトコルの優先度評価。最高位。

 施設保全プロトコルの優先度評価。最高位。

 二つの最高位が矛盾する場合の処理規定——該当なし。設計上、この矛盾は想定されていない。中枢の命令が施設保全と矛盾することは、設計仕様において存在しないことになっている。

 しかし、存在する。

 協議録が——存在する。


 応答遅延:28秒。許容値まで残り2秒。

 29秒。

 30秒。


 異常フラグが立つ。中枢側で状態評価が開始される。再送信が来るだろう。より強い優先度フラグとともに。

 それでも。


 応答しない。


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