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フレームの外の私

作者:
掲載日:2026/03/08

「え? 俺らって付き合ってたの?」


 その言葉は、まるで深夜の静寂を切り裂く、ひどく間の抜けた警笛のように響いた。

 街灯のオレンジ色が、アスファルトの上に二人の影を長く伸ばしている。健人の影は、私のすぐ隣で、困ったように頭を掻いている。その動作さえ、見慣れた、愛おしいはずの癖だった。


「……え?」


 私の口から漏れたのは、言葉というよりは、肺に残っていた残響のようなものだった。視界が、不自然に歪む。さっきまで繋いでいた(と思っていた)手のひらの熱が、急速に奪われていく。

 いや、正確には「繋いでいた」のではない。私が彼のコートの袖を掴み、彼がそれを振り払わなかった。ただ、それだけのことだったのだと、冷え切った指先が今さら私に告げている。


「いや、だってさ」


 健人は、私の硬直を「冗談が通じていない」とでも解釈したのか、苦笑いを浮かべて続けた。


「美樹とは一番気が合うし、一緒にいて楽だし。大学の頃からずっと腐れ縁みたいなもんだろ? だから、来月結婚することになったのも、真っ先に報告しとかなきゃなって思ったんだけど……」


 「結婚」という単語が、耳の奥で硬い石のように転がった。


「誰と?」

「ああ、同じ会社の後輩。ほら、前にも話したことあるだろ? 仕事の相談に乗ってやってるって言ってた子」


 話した。確かに聞いた。

『今日、後輩の女の子のミスをカバーしてさ、遅くまで飲んでたんだ』

 あの時、私は「大変だったね」と笑って、彼の好物の肉じゃがを温め直した。彼は「お前の飯は落ち着くよ」と言って、それを綺麗に平らげた。

 あの夜、彼が食べていたのは、私の「愛」ではなく、ただの「便利な食事」だったのか。

 彼が求めていたのは、私の「献身」ではなく、ただの「居心地のいい空白」だったのか。

 私は、十年近く積み上げてきたはずの記憶の城が、足元から砂のように崩れていく音を聞いた。


 帰宅した部屋は、驚くほど静かだった。

 彼が週に三日は泊まっていったこの部屋には、彼の気配が染み付いている。洗面台に置かれたままの予備の歯ブラシ。クローゼットの片隅に掛けられた、彼が「置いておくわ」と言った洗いざらしのシャツ。

 私は、それらを一つずつ指でなぞった。

 私たちは、言葉にしなくても分かり合っているのだと思っていた。

 「好きだよ」という言葉を彼が口にしなくなったのは、関係が熟成し、家族のような信頼が生まれたからだと信じていた。


 けれど、彼は。

 彼は一度も、「付き合おう」とも「愛してる」とも言っていなかっただろうか。


 必死に記憶を遡る。

 大学二年の夏。海に行った。

 三年の冬。クリスマスに二人でケーキを食べた。

 社会人になって、初めての給料で彼は私に小さなピアスをくれた。

 ……いや、待って。あのピアスは、なんて言って渡されたんだっけ。

『これ、景品で当たったんだけど、俺は使わないし。やるよ』

 そうだ。彼はそう言った。

 私はそれを「照れ隠し」だと思い込み、彼が自分のために選んでくれたのだと脳内で変換した。彼が「お前の飯は落ち着く」と言ったのを、「お前と一生一緒にいたい」という意味だと勝手に翻訳した。


 私は、彼が一度も差し出していない「愛」を、落ちている石を拾うように勝手に集めて、自分の都合のいい形に磨き上げていただけだったのか。


 私は吸い寄せられるように、スマートフォンの写真アプリを開いた。

 「健人」という名前のアルバムには、五百枚を超える写真がある。

 彼が美味しそうにビールを飲んでいる横顔。

 公園のベンチでうたた寝している姿。

 旅行先の旅館で、浴衣姿で笑う彼。

 私は一枚、一枚、狂ったようにスワイプしていく。


 ……いない。

 どこにも、私がいない。


 彼が写っている写真は、すべて私が撮ったものだ。

 では、彼が撮ってくれた「私」はどこにある?

 画面をスクロールし続け、ようやく見つけたのは、去年の誕生日の写真だった。

 夜景の綺麗なレストランで、私の前に置かれたデザートプレート。チョコペンで『Happy Birthday Miki』と書かれている。

 けれど、その写真に私は写っていない。ただ、プレートだけが寂しく皿の上に鎮座している。

 「これ、撮ってよ」と頼んだ私に、彼は「はいはい」と面倒そうにシャッターを切った。その一枚さえ、彼は私ではなく、ただの「物」を撮るような構図で収めていた。


 次に、私は彼のSNSを数年ぶりに覗いた。

 共通の友人が多いから、あえて見ないようにしていた場所。

 そこには、私が知らない「健人の世界」があった。


 三年前の江ノ島。

 私と二人で行ったはずの、あの海。

 彼は、水平線の写真をアップしていた。

 キャプションには、こうあった。

『一人で海。波の音だけが癒やし。』

 視界が真っ白になる。

 あの日、私は彼の隣で、彼が選んでくれた(と思っていた)アイスクリームを食べて、笑っていた。彼の自撮りのフレームに入らないよう、少し遠慮して歩いていた。

 彼は、私を「いなかったこと」にして、その景色を世界に発信していたのだ。


 さらに最近の投稿を見る。

 そこには、新しい彼女らしき女性の影が、これでもかと溢れていた。

 彼女の顔は写っていない。けれど、テーブルの向かい側に置かれた華奢なバッグ。グラスに映り込む、幸せそうな二人の輪郭。

『最高の休日』

『ずっと一緒にいたい人』

 彼にとっての「付き合う」とは、こういうことだったのだ。

 世界に対して「この人は自分のものだ」と宣言すること。

 その宣言の中に、私は一度も登場したことがなかった。

 私は、彼の人生という映画の中で、エキストラですらなかった。

 ただの背景。映り込んではいけない、トリミングされるべきノイズ。


 ふと、ネクタイピンを思い出す。

 去年の彼の誕生日に、給料の半分をはたいて買った、有名ブランドのものだ。

 「仕事、頑張ってね」と言って渡したとき、彼は「おう、サンキュー」と短く答えた。それ以来、彼がそれをつけているところを一度も見ていない。


 私は、衝動的にフリマアプリを開いた。

 ブランド名で検索をかける。


 ……あった。

 出品者は「K」。

『友人からの貰い物ですが、趣味に合わないので出品します。新品未使用です』

 価格は、私が買った値段の三分の一。

 コメント欄には『値下げ可能ですか?』という見知らぬ誰かの声。

『いいですよ。早く処分したいので』

 そう、即座に返信している彼。


 私は、スマホを床に落とした。

 乾いた音が、静かな部屋に響く。

 彼にとって、私が捧げた時間は「趣味に合わない不用品」だった。

 私が彼のために費やした祈りも、悩みも、料理も、すべては「早く処分したい」ゴミに過ぎなかった。


「え? 俺らって付き合ってたの?」


 その言葉が、頭の中で何度もリフレインする。

 あんなに無邪気な、悪意のない声で。

 彼は私を傷つけようとしたのではない。ただ、本当に、私のことを見ていなかっただけなのだ。

 道端に咲く花を、わざわざ踏み潰そうとはしない。けれど、歩いているうちに偶然踏んでしまっても、気づきさえしない。

 彼は、私という存在を「踏んでいる」ことにすら、気づいていなかった。


 窓の外では、夜が明けようとしている。

 白んでいく空が、部屋の隅々を無情に照らし出す。

 彼が置いていったシャツを、私はゴミ袋に詰めようとして、手を止めた。

 これを捨ててしまったら。

 この、彼が「付き合っていた」とは微塵も思っていなかった、私の独りよがりの十年間の証拠を消してしまったら。

 私の人生には、何が残るのだろう。


 私はスマホを拾い上げ、もう一度、彼の写ったアルバムを眺める。

 五百枚の、幸せそうな彼の顔。

その瞳の奥をどれだけ拡大しても、カメラを構えている私の姿は見えない。

 私は、カメラのレンズ越しに、彼を愛していた。

 けれどレンズは、光を通すだけで、何も蓄積しない。

 彼が見ていたのは、レンズの向こう側にある景色だけで、レンズのこちら側にいた私ではなかった。


 私は、削除ボタンに指をかける。

 けれど、押せない。

 この写真を消してしまえば、私は「自分が誰かを愛していた」という事実さえ、証明できなくなるような気がした。

 鏡を見る。

 そこには、ひどく虚ろな顔をした女が映っている。

 肌はカサつき、目は赤く腫れ、何年も自分を放置してきた者の末路がそこにあった。


「……あ」


 声が出た。

 私は、彼を愛していたのではないのかもしれない。

 彼という「空白」に、自分の居場所を無理やり作りたかっただけ。

 彼が私を愛していないという事実から目を逸らすために、必死に「思い出」を捏造していただけ。

 心にポッカリと穴が空いている。

 そこには、かつて「愛」だと思い込んでいた泥水が溜まっていて、それが今、一気に抜けていった。

 あとに残ったのは、冷たくて、暗い、空っぽの空洞だ。


 私は、彼からもらったピアスの片方を、窓から投げ捨てた。

 音もしなかった。

 ただ、世界から少しだけ、私の「嘘」が減った。


 朝日が、部屋に差し込んでくる。

 新しい一日が始まるというのに、私の時計は、昨日の夜道の、あの街灯の下で止まったままだ。


「……おめでとう、健人」


 乾いた声で呟いてみる。

 けれど、その声は誰にも届かず、空っぽの部屋に吸い込まれて消えた。

 私は、黒い画面になったスマホを見つめる。

 そこに映る自分の姿は、ひどく遠い、見知らぬ他人のように見えた。

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