第三章|選定通知
廃病院は、地図の上ではまだ「病院」として存在していた。
正式名称は、東都医療センター旧棟。
十年以上前に新棟へ機能移転し、老朽化を理由に閉鎖された建物だ。
解体の予定は何度も出ては消え、結果として、誰のものでもない場所になっていた。
雨宮恒一は、指定された日時より三十分早く、そこに着いていた。
夕方から降り続いていた雨は、すでに小雨に変わっている。
アスファルトに反射する街灯の光が、妙に現実味を失わせていた。
「……本当に、ここか」
正面玄関には、立ち入り禁止のテープが無造作に貼られている。
だが、鍵はかかっていなかった。
中に足を踏み入れた瞬間、
空気が変わった。
医療施設特有の匂いは、ほとんど残っていない。
代わりに、湿った埃と、時間そのものが淀んだような感覚があった。
廊下の奥に、灯りが一つだけ点いている。
そこへ向かう途中、
雨宮は何度も足を止めかけた。
――ここから先は、医者の領分じゃない。
頭ではそう分かっている。
それでも、戻れなかった。
灯りの下には、簡素な受付台が置かれていた。
白衣ではない、黒に近い服を着た人物が一人、座っている。
顔は、見覚えがなかった。
「お名前は」
低い声だった。
「……雨宮恒一です」
相手は、紙のリストに視線を落とし、静かに頷いた。
「確認しました。
あなたは、本日付で《救済適合者予備軍》として登録されます」
登録、という言葉が、現実感を伴って胸に刺さる。
「質問は、受け付けません」
相手は続ける。
「今から行われるのは、説明ではなく、選定です。
理解ではなく、参加が求められます」
受付の奥の扉が、音もなく開いた。
中には、椅子が十脚、円形に並べられている。
すでに、数人が座っていた。
年齢も、性別も、服装もばらばらだ。
だが全員、共通して無言だった。
雨宮は、空いている席に腰を下ろす。
隣に座る女性が、指先を強く握りしめているのが見えた。
震えているのは、寒さのせいではない。
全員が揃ったのを見計らったかのように、
部屋の照明が一段、落とされた。
スピーカーから、声が流れる。
「集まっていただき、ありがとうございます」
プロローグで聞いたのと、同じ声だった。
「ここにいる十名は、
医学的、社会的、心理的条件を満たした候補者です」
「ですが、選ばれるのは一人」
誰かが、息を呑む音を立てた。
「今から行われる試練は、個別に実施されます。
順番に、名前を呼びます」
雨宮は、背筋を伸ばした。
この場所に来た理由を、
何度も頭の中で反芻する。
――救いたい人がいる。
それだけで、十分だった。
「最初の候補者」
一拍置いて、声が告げる。
「雨宮恒一」
自分の名前が呼ばれた瞬間、
胸の奥で、心臓がはっきりと脈打った。
雨宮は立ち上がり、
開かれた扉の向こうへと足を踏み出した。
戻れないことを、
もう疑いもしなかった。




