第一章|救えない心臓
雨宮恒一が最初に異変に気づいたのは、心電図の波形ではなかった。
患者の呼吸が、ほんのわずかに速くなった。
それはモニターに警告が出るよりも前、医者の勘としか言いようのない感覚だった。
「……血圧、もう一度測ってください」
看護師が頷き、手際よく動く。
病室には、人工的な静けさがあった。消毒薬の匂い、一定間隔で鳴る電子音、カーテン越しの人の気配。
ここは、日常だ。少なくとも雨宮にとっては。
ベッドに横たわる患者は、五十代の男性だった。
重度の拡張型心筋症。
心臓移植以外に根治の道はないと、すでに結論が出ている。
「先生……」
か細い声で名を呼ばれる。
雨宮は、意識的に表情を崩さないようにして、患者の方を見た。
「大丈夫ですよ。今、数値を確認してます」
それは半分、本当で、半分は嘘だった。
確認するまでもなく、状況が悪化していることは分かっている。
移植待機リスト。
順番は、まだ先だ。
その「先」が、この患者にとって存在しない可能性が高いことを、雨宮は理解していた。
――またか。
心の中で、言葉にならない声が漏れる。
医者になって十年以上が経つ。
救えた命もある。
だが、それと同じ数だけ、救えなかった命がある。
問題は、その中に「どうしても忘れられない一人」が、いつも混ざってくることだった。
診察を終え、病室を出る。
廊下の窓から、夕方の空が見えた。雨が降りそうな、重たい雲。
ナースステーションでは、別の患者の容体急変が話題になっている。
誰も悪くない。
ただ、間に合わなかっただけだ。
それが医療現場の日常であり、言い訳でもあった。
自分のデスクに戻った雨宮は、例の患者のカルテを開いた。
同じ文字、同じ数値、同じ結論。
何度見ても、そこには「救える可能性」は書かれていない。
それでも、ページを閉じることができなかった。
――もし、別の方法があるとしたら。
そんな考えが、頭をよぎる。
すぐに打ち消そうとする。
医者が、根拠のない希望にすがるべきではない。
だが、その日の夜。
病院を出た雨宮のスマートフォンに、一通のメッセージが届いた。
《どんな病でも治せる臓器があるとしたら、信じますか》
差出人不明。
冗談か、悪質な勧誘か。
そう思いながらも、指は画面から離れなかった。
《あなたは、すでに選ばれています》
画面を閉じる。
深く息を吐く。
馬鹿げている。
そう思う一方で、胸の奥が、微かにざわついていた。
雨宮恒一は、その夜、例の患者の夢を見た。
心臓の音だけが、異様に大きく響く夢だった。
目が覚めた時、雨が降っていた。
窓ガラスを叩くその音は、
まるで、何かが始まる合図のように聞こえた。




