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君恋し  作者: 菊池まりな


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第十七話 涙の別れ

 年が明けて、大正十三年。


 忠範は、東京での生活を続けていた。


 千鶴との結婚式は、二月に決まっていた。準備は着々と進み、周囲からの祝福の声も絶えない。


 だが──忠範の心には、いつも雅子がいた。


 あのやつれた姿。


 悲しい微笑み。


 そして──別れ際の、あの目。


 忘れられなかった。






 一月の半ば。


 忠範は、千鶴と二人で、銀座の喫茶店にいた。


 結婚式の打ち合わせのためだ。


「伊藤さん、引き出物はこれで良いでしょうか」


千鶴が、カタログを見せた。


「ええ、それで」


 忠範は、うわの空で答えた。


 千鶴は、忠範の様子に気づいていた。


「伊藤さん……」


「はい?」


「最近、お疲れのようですね」


「いえ、そんなことは」


「無理をなさらないでください」


 千鶴は、優しく微笑んだ。


「私は、伊藤さんの幸せを願っています」


「……ありがとうございます」


 忠範は、罪悪感に駆られた。


 千鶴は──本当に良い人だ。


 優しく、思いやりがあり、自分を支えてくれる。


 だが──。


 心が、動かない。


 愛せない。






 その夜。


 忠範は、寮の部屋で一人、悩んでいた。


 このまま、千鶴と結婚していいのだろうか。


 自分は、彼女を幸せにできるのだろうか。


 だが──もう、引き返せない。


 式の準備も進んでいるし、局長の期待もある。


 今さら断れば、すべてを失う。


 職も、地位も、将来も。


忠範は、窓の外を見た。


 東京の夜景が、無数の灯りで輝いている。


 だが、その光の中に──雅子の姿は、ない。








 同じ頃。


 雅子は、田村の家で、一人台所に立っていた。


 夕食の準備をしながら、窓の外を見る。


 雪が、降り始めていた。


 山間の町は、すぐに雪に覆われる。


 寒く、暗く、静かな冬。


「雅子!」


 田村の声が、居間から響いた。


「はい」


 雅子は、急いで食事を運んだ。


 田村は、テーブルに座って待っている。


「遅いぞ」


「すみません」


 雅子は、頭を下げた。


 田村は、不機嫌そうに食事を始めた。


 雅子も、向かいに座った。


 しかし──食欲がない。


「食べないのか」


「はい……少し、体調が」


「また、か」


 田村は、舌打ちをした。


「お前、最近体が弱すぎる」


「すみません」


「医者に行け」


「はい……」


 雅子は、小さく答えた。


 でも、医者に行く気力もなかった。






田村との生活は──想像以上に辛かった。


 彼は、優しくなかった。


 仕事から帰ると、すぐに酒を飲み、些細なことで怒鳴る。


 雅子に、家事のすべてを押しつける。


 そして──夜になると。


 雅子は、それを拒むことができなかった。


 妻としての義務だから。


 だが、心は──いつも、遠くにあった。


 忠範のいる、あの場所に。






 一月の終わり。


 雅子は、ついに倒れた。


 朝、起き上がることができず、布団の中で震えていた。


 田村が、医者を呼んだ。


「栄養失調と、過労ですね」


 医者は、深刻な顔で言った。


「このままでは、危険です」


「危険?」


「ええ。しばらく、安静が必要です」


 医者は、田村を見た。


「奥さんを、もっと大切にしてあげてください」


 田村は、バツが悪そうに頷いた。






  雅子が寝込んでから、数日が経った。


 田村は、仕事に行ったきり、夜遅くまで帰ってこない。


 雅子は、一人で寝たきりの日々を過ごした。


 窓の外では、雪が降り続けている。


 白い世界が、どこまでも広がっている。


 雅子は──死を、考えた。


 このまま、消えてしまいたい。


 もう、生きる意味がない。


 家族のために働こうと思っても、体が動かない。


 愛のない結婚生活。


 そして──忠範への、消えない想い。


 すべてが、雅子を苦しめていた。










 ある夜。


 雅子の枕元に、志津が現れた。


 噂を聞いて、遠くから訪ねてきたのだ。


「雅子さん!」


 志津は、やつれた雅子を見て、涙を流した。


「どうして……こんなに」


「志津ちゃん……」


 雅子は、か細い声で答えた。


「来てくれたの」


「はい。心配で……」


 志津は、雅子の手を握った。


 その手は、冷たく、骨ばっていた。


「雅子さん、このままじゃ……」


「分かっているわ」


 雅子は、微笑んだ。


「でも、もういいの」


「良くありません!」


 志津は、泣きながら叫んだ。


「雅子さんは、まだ若いんです。これからなんです」


「これから?」


 雅子は、首を横に振った。


「私には、もう……何もないわ」


「そんなこと──」


「伊藤さんも、結婚する。私も、結婚した。もう、終わったのよ」


 雅子の目から、涙が溢れた。


「すべて、終わったの」


志津は、雅子を抱きしめた。


 二人は、しばらく泣き続けた。


 やがて、志津が口を開いた。


「雅子さん……伊藤さんに、会いませんか」


「え……」


「最後に、もう一度だけ」


 雅子は、驚いて志津を見た。


「でも、彼は東京で──」


「私が、手紙を書きます」


 志津は、真剣な目をしていた。


「雅子さんが、どれだけ苦しんでいるか。どれだけ、伊藤さんを想っているか」


「志津ちゃん、やめて」


「やめません」


 志津は、雅子の手を強く握った。


「雅子さんは、このまま終わっていい人じゃありません」


「でも……」


「お願いです。最後に、もう一度だけ──伊藤さんと、ちゃんと話をしてください」


 雅子は、迷った。


だが——。


 心の奥では、忠範に会いたいと思っていた。


 最後に、もう一度だけ。


「……分かったわ」


 雅子は、小さく頷いた。








志津は、すぐに忠範へ手紙を書いた。


 雅子の状況を、すべて書いた。


 そして──最後に、こう書いた。


「雅子さんは、今も伊藤さんを愛しています。どうか、もう一度だけ会ってあげてください」






  二月の初め。


 忠範の元に、志津からの手紙が届いた。


 忠範は、手紙を読んで、愕然とした。


 雅子が──倒れている。


 栄養失調と過労で。


 そして──今も、自分を想っていると。


 忠範は、すぐに決めた。


 会いに行く。


 最後に、もう一度。


 たとえ、すべてを失っても。






忠範は、高木に休暇を申請した。


「また、か」


 高木は、呆れた顔をした。


「もうすぐ結婚式だぞ」


「分かっています。でも──」


「でも、何だ」


「どうしても、行かなければならないんです」


 忠範の目は、真剣だった。


 高木は、ため息をついた。


「……分かった。だが、これが本当に最後だぞ」


「はい」






忠範は、再び桜井へ向かった。


 そして──雅子のいる山間の町へ。


 雪の降る中、小さな家を訪ねた。


 扉を開けたのは、志津だった。


「伊藤さん……来てくれたんですね」


「はい」


「雅子さんは、奥の部屋に」


 忠範は、家に入った。


 奥の部屋の扉を開けると──。


 雅子が、布団に横たわっていた。


 前回よりも、さらにやつれていた。


 だが──忠範の姿を見ると、目に光が戻った。


「伊藤さん……」


「雅子さん」


 忠範は、雅子の枕元に座った。


「来てくれたんですね」


「はい」


 忠範は、雅子の手を取った。


 冷たく、震えている手。


「雅子さん……ごめんなさい」


 忠範の目から、涙が溢れた。


「僕が、あなたをこんなに苦しめてしまった」


「違います」


 雅子は、首を横に振った。


「あなたは、悪くありません」


「でも──」


「私が、弱かっただけです」


 雅子は、微笑んだ。


「でも……最後に、会えて良かった」


「最後……?」


「ええ」


 雅子の目から、涙が流れた。


「伊藤さん、私は──もう、長くないかもしれません」


「そんなこと!」


「いいんです」


 雅子は、忠範の手を握り返した。


「最後に、あなたに会えたから」


「雅子さん……」


「伊藤さん、私は──あなたを、愛しています」


 雅子の声が、震えた。


「今も、そしてこれからも……ずっと」


「僕も、です」


 忠範は、雅子を抱きしめた。


「僕も、あなたを愛しています」


 二人は、抱き合って泣いた。


 長い間、積もり積もった想い。


 すれ違い。


 後悔。


 そして──変わらぬ愛情。


 すべてが、涙となって溢れた。






 どれくらい経ったのだろう。


 やがて、雅子が小さく呟いた。


「伊藤さん……お願いがあります」


「何ですか」


「もう、私のことは……忘れてください」


「そんなこと──」


「お願いです」


 雅子は、忠範の目を見た。


「あなたには、輝かしい未来があります。千鶴さんと幸せになってください」


「でも、僕は──」


「私は……もう、終わった人間です」


 雅子の涙が、止まらなかった。


「でも、あなたは違う。あなたは、これから──」


「雅子さん」


 忠範は、雅子の唇に指を当てた。


「僕は、あなたと一緒に生きたかった」


「……」


「でも、それが叶わないなら──せめて、あなたの幸せを願います」


 忠範は、雅子の額にキスをした。


「だから、お願いです。生きてください」


「伊藤さん……」


「あなたが生きていてくれれば、僕は──どんなに辛くても、頑張れます」


 雅子は、声を上げて泣いた。


 忠範も、泣いていた。


 二人は──最後の別れを、悟っていた。




 やがて、志津が部屋に入ってきた。


「伊藤さん……そろそろ」


「はい」


 忠範は、立ち上がった。


 雅子は、手を伸ばした。


「伊藤さん……」


「はい」


「ありがとう……愛してくれて」


「こちらこそ……愛してくれて、ありがとう」


 忠範は、最後にもう一度、雅子の手を握った。


 そして──部屋を出た。


 廊下で、志津が泣いていた。


「雅子さんを……お願いします」


 忠範は、深く頭を下げた。


「はい……」


 忠範は、家を出た。


 雪が、激しく降っていた。


 白い世界の中を、忠範は歩いた。


 振り返ることなく。


 だが──心の中では、何度も何度も、雅子の名前を呼んでいた。






 家の中では。


 雅子が、布団の中で泣いていた。


「伊藤さん……」


 何度も、何度も、彼の名前を呼んだ。


 だが──もう、会えない。


 これが、本当の別れだ。


 雅子は、目を閉じた。


 忠範の顔が、瞼の裏に浮かんだ。


 優しい目。


 温かい笑顔。


 そして──愛に満ちた声。


「僕は、あなたを愛しています」


 その言葉を、胸に刻んで。


 雅子は──静かに、眠りについた。



























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