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君恋し  作者: 菊池まりな


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第十六話 やつれた面影

 十一月の半ば。


 忠範は、東京へ戻ってから、まるで別人のようになっていた。


 仕事には変わらず取り組んでいるが、その目には生気がない。同僚たちも、彼の変化に気づいていた。


「伊藤くん、大丈夫か」


 高木が、心配そうに声をかけた。


「はい……」


「顔色が悪いぞ。故郷で、何かあったのか」


「いえ、何も」


 忠範は、無理に微笑んだ。


 だが、高木には分かっていた。


 恋人との別れ──それが、忠範を変えてしまったのだと。








 ある日の午後。


 局長が、忠範を呼んだ。


「伊藤くん、例の件だが──そろそろ返事を聞かせてもらえるかね」


 忠範は、黙って頷いた。


「……はい」


「それで?」


 局長は、期待の目で忠範を見た。


 忠範は、深く息を吐いた。


 もう、迷う理由はない。


 雅子は──自分を拒んだ。


 二人の関係は、終わった。


 ならば──。


「お受けいたします」


 忠範の声は、どこか遠かった。


「おお、本当か!」


 局長の顔が、明るくなった。


「良かった。千鶴も、喜ぶだろう」


「……はい」


「では、正式に婚約という形にしよう。来月、両家で顔合わせだ」


「分かりました」


 忠範は、深く頭を下げた。


 局長室を出ると、廊下で立ち止まった。


 胸が、空っぽだった。


 これで、いいのか──。


 自分に問いかけても、答えは出なかった。






 その夜。


 忠範は、寮の部屋で雅子の写真を見ていた。


 桜の木の下で微笑む、雅子の姿。


 優しい笑顔。


 温かい目。


 だが、もう──会えない。


 忠範は、写真を引き出しの奥にしまった。


 そして──千鶴からの手紙を取り出した。


「伊藤様、父から伺いました。本当に、嬉しく思います……」


 丁寧な字で、上品な文章。


 千鶴は──良い人だ。


 美しく、聡明で、教養もある。


 だが──。


 忠範の心は、動かなかった。








 同じ頃、桜井では。


 雅子と田村の結婚話が、急速に進んでいた。


 田村は、新しい仕事を見つけていた。別の町の工場で、管理職として働くことになったのだ。


「小野、来月には結婚しよう」


 田村が、嬉しそうに言った。


「そんなに早く?」


「ああ。新しい仕事も始まるし、ちょうどいい」


 雅子は、何も言えなかった。


 心の準備が、できていない。


 だが、もう──引き返せない。


「分かりました」


 雅子は、小さく答えた。








 十二月の初め。


 志津が、雅子の寮を訪ねてきた。


「雅子さん、本当に……田村さんと結婚するんですか」


「ええ」


 雅子は、荷物を整理しながら答えた。


「でも、雅子さん……田村さんのこと、愛していないでしょう」


「……ええ」


「なら、どうして」


「他に、道がないから」


 雅子は、手を止めた。


「伊藤さんは、去った。私には、家族がいる。田村さんは、私を必要としている」


「でも……」


「それで、十分よ」


 雅子は、微笑んだ。


 だが、その笑顔は──悲しかった。


「志津ちゃん、心配しないで。私は、大丈夫」


「大丈夫じゃ、ありません」


 志津は、泣き出した。


「雅子さん、やつれています。目に、光がありません」


「……」


「お願いです。もう一度、考え直してください」


「もう、決めたことなの」


 雅子は、志津を抱きしめた。


「私のことは、忘れて。志津ちゃんは、自分の幸せを見つけて」


「雅子さん……」


 二人は、抱き合って泣いた。








 数日後。


 田村が、雅子を新しい町へ案内した。


 そこは、山間の小さな町だった。工場があり、住宅が立ち並んでいる。


「ここが、俺たちの新しい家だ」


 田村が、小さな家を指差した。


 古い木造の家だったが、一応整っている。


「どうだ、気に入ったか」


「……ええ」


 雅子は、力なく答えた。


 家の中を見て回ると、質素だが生活には十分だった。


「ここで、二人で暮らすんだ」


 田村は、満足そうに笑った。


「幸せになろう、小野」


「……はい」


 雅子は、窓の外を見た。


 遠くに、山々が見える。


 ここから──桜井は、とても遠い。


 忠範がいた、あの町は。


 もう、戻れない。




 




その夜。


 雅子は、家で一人、荷物を整理していた。


 田村は、仕事の準備で外出していた。


 雅子は、箱の中から忠範の手紙を取り出した。


 すべて、読み返した。


 温かい言葉。


 優しい言葉。


 だが、もう──過去のものだ。


 雅子は、手紙をすべて、暖炉に入れた。


 火をつける。


 紙が、燃えていく。


 忠範の字が、煙になって消えていく。


「さようなら……」


 雅子は、小さく呟いた。


 涙が、頬を伝った。


 でも──それが最後の涙だと、自分に言い聞かせた。


 もう、泣かない。


 もう、振り返らない。


 新しい人生を、始めるのだ。








 同じ頃、東京では。


 忠範と千鶴の婚約が、正式に発表された。


 局内では、祝福の声が上がった。


「おめでとう、伊藤くん」


「これで、君の将来は安泰だ」


 同僚たちが、口々に祝福した。


 忠範は、微笑んで応えた。


 しかし──その笑顔は、作り物だった。








 十二月の半ば。


 忠範は、ふと思い立って、桜井の駅長に手紙を書いた。


「小野雅子さんの様子を、教えていただけませんか」


 数日後、返事が来た。


「小野さんは、工場を辞めました。結婚して、別の町へ引っ越したそうです」


 忠範は、手紙を読んで、呆然とした。


 結婚──。


 雅子が、結婚した。


 相手は──おそらく、あの田村という男だろう。


 忠範は、机に突っ伏した。


 胸が、引き裂かれるようだった。


「小野さん……」


 小さく呟いた。


 もう、本当に終わったのだ。


 二人の関係は──完全に、終わった。




 だが、忠範は知らなかった。


 雅子が、どれほど苦しんでいるかを。


 どれほど、忠範を想い続けているかを。




 十二月の終わり。


 忠範は、ある決心をした。


 もう一度──最後に、雅子に会いたい。


 ちゃんと、話をしたい。


 たとえ結婚していても──最後に、自分の気持ちを伝えたい。


 忠範は、再び休暇を申請した。


「また、故郷へか」


 高木が、怪訝な顔をした。


「はい。どうしても、やり残したことがあります」


「……分かった。だが、これが最後だぞ」


「はい」




 十二月の末。


 忠範は、再び桜井へ向かった。


 そして──雅子の新しい住所を、志津から聞き出した。


「伊藤さん……もう、遅いんです」


 志津は、悲しそうに言った。


「雅子さんは、結婚しました」


「分かっています。でも、最後に──一度だけ、会いたいんです」


 志津は、迷った。


 だが──忠範の真剣な目を見て、住所を教えた。


「でも、伊藤さん……雅子さんは、もう昔の雅子さんじゃありません」


「どういう意味ですか」


「……会えば、分かります」




 




忠範は、雅子の新しい町へ向かった。


 山間の小さな町。


 住所を頼りに、雅子の家を探した。


 やがて、小さな家が見えた。


 忠範は、深く息を吸い、門を叩いた。


 しばらくして、扉が開いた。


 そこに──雅子が立っていた。


 だが──。


 忠範は、息を呑んだ。


 雅子は──別人のようだった。


 頬はこけ、目の下には深い隈ができている。髪は艶を失い、肌は青白い。


 かつての美しさは、影を潜めていた。


「……伊藤さん」


 雅子の声も、か細かった。


「小野さん……いや、もう違いますね」


「……ええ」


 雅子は、視線を落とした。


「今は、田村雅子です」


 その名前が──忠範の胸に突き刺さった。


「入っても、いいですか」


「……はい」








 家の中は、薄暗かった。


 質素な居間に、二人は向かい合って座った。


「お茶、お出しします」


 雅子が立ち上がろうとすると、忠範が止めた。


「いえ、結構です」


「……そうですか」


 雅子は、再び座った。


 沈黙が、重く横たわった。


「小野さん──いえ、田村さん」


「雅子で、結構です」


「……雅子さん」


 忠範は、彼女の目を見た。


「僕は、来るべきではなかったかもしれません」


「……」


「でも、どうしても──最後に、伝えたいことがあったんです」


 雅子は、黙って聞いていた。


「僕は、あなたを愛しています。今も、そしてこれからも」


 雅子の目から、涙が溢れた。


「でも、僕は──あなたを幸せにできませんでした」


「伊藤さん……」


「本当に、ごめんなさい」


 忠範も、涙を流していた。


「僕が、もっと早く気づいていれば──もっと、ちゃんとしていれば──」


「いいえ」


 雅子は、首を振った。


「あなたは、悪くありません」


「でも——」


「私たちは、最初から──一緒にいてはいけなかったんです」


 雅子は、微笑んだ。


 だが、その笑顔は──あまりにも悲しかった。


「私は、女工。あなたは、鉄道員。違う世界の人間です」


「そんなことは──」


「あるんです」


 雅子の声が、震えた。


「でも……私は、幸せでした」


「え……」


「あなたに、愛されていた時間──短かったけれど、それは私の宝物です」


 雅子の涙が、止まらなかった。


「だから……これで、いいんです」


「雅子さん……」


「さようなら、伊藤さん」


 雅子は、立ち上がった。


「もう、会わないでください。お願いします」


 忠範も、立ち上がった。


 雅子を、抱きしめたかった。


 一緒に、逃げたかった。


 だが──できなかった。


 彼女は、もう──別の男の妻なのだ。


「……分かりました」


 忠範は、扉へ向かった。


 振り返ると、雅子が立っていた。


 やつれた顔。


 悲しい目。


 だが──その目には、確かな愛情が宿っていた。


「お幸せに」


 忠範は、そう言って、家を出た。


 雅子は、扉の前で立ち尽くしていた。


 涙が、止まらなかった。


「伊藤さん……」


 小さく呟いた。


「私も……愛しています」


 だが、その言葉は──もう、忠範には届かなかった。



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