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君恋し  作者: 菊池まりな


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第十五話 忠範の帰郷

 十一月の夜。


 忠範は、桜井の旅館で一人、窓の外を見つめていた。


 雅子の涙が、頭から離れない。


 彼女の言葉が、胸に突き刺さったままだった。


「もう、疲れました」


 自分は──彼女を、どれだけ苦しめてしまったのだろう。


 忠範は、布団に横たわった。


 だが、眠れなかった。


 明日、もう一度会いに行こう。


 ちゃんと説明しよう。


 誤解を解こう。


 そう決心した。






 翌朝。


 忠範は、早くから隣町の工場へ向かった。


 工場の門の前で、女工たちが出勤してくるのを待った。


 やがて、朝日が昇り始めた頃──。


 女工たちが、ぞろぞろと歩いてくる。


 だが──雅子の姿が見えない。


 忠範は、不安になった。


 もしかして、別の門から入ったのだろうか。


 それとも──。


 忠範は、工場の守衛に尋ねた。


「すみません、小野雅子さんという方は、もう入られましたか」


「小野? ああ、あの娘は今日は休みだ」


「休み、ですか」


「ああ。体調が悪いとかで」


 忠範の胸に、不安が広がった。


 体調が悪い──昨日、自分と会ったせいだろうか。


 忠範は、工場を離れた。


 雅子の寮へ行こう。


 だが──場所が分からない。


 忠範は、桜井の工場へ戻り、志津を探した。


 昼休みに、ようやく志津と会うことができた。


「志津さん」


「伊藤さん……」


 志津は、複雑な表情で忠範を見た。


「昨日、雅子さんに会いました」


「……はい」


「彼女は、今どこにいますか」


「隣町の寮です」


「住所を、教えていただけませんか」


 志津は、躊躇した。


「伊藤さん……雅子さんは、もう限界なんです」


「分かっています」


「本当に、分かっていますか?」


 志津の声が、強くなった。


「雅子さんが、どれだけあなたを待っていたか。どれだけ苦しんでいたか」


「……」


「あなたは、東京で新しい生活を始めた。でも、雅子さんは、ここで……」


 志津の目から、涙が溢れた。


「毎日、工場で働いて、疲れ切って……それでも、あなたからの手紙を待っていたんです」


「志津さん……」


「でも、手紙は来なかった。そして、結婚の噂を聞いた」


「あれは、誤解です」


「誤解?」


 志津は、忠範を見た。


「本当に、誤解なんですか?」


「はい」


「なら、なぜ三ヶ月も連絡しなかったんですか」


 忠範は、言葉に詰まった。


 志津の言う通りだ。


 自分は、雅子を放っておいた。


 仕事に追われて、手紙も書かなかった。


 それは──事実だ。


「……すみません」


 忠範は、深く頭を下げた。


「僕が、悪かった。でも、もう一度だけ──彼女と話をさせてください」


 志津は、しばらく黙っていた。


 そして──小さくため息をついた。


「……分かりました。住所を教えます」


「ありがとうございます」


「でも、伊藤さん」


 志津は、真剣な目で忠範を見た。


「もし、雅子さんを本気で愛していないなら──もう、会わないであげてください」


「……」


「これ以上、雅子さんを傷つけないでください」


 忠範は、頷いた。


「約束します」






 午後。


 忠範は、志津から教えられた住所を頼りに、隣町の寮へ向かった。


 古い木造の建物。女工たちが住む、質素な寮だった。


 入り口で、管理人に雅子の部屋を尋ねた。


「小野さんは、二階の奥です。でも、今日は体調が悪くて休んでいるそうですよ」


「はい、承知しています」


 忠範は、二階へ上がった。


 廊下は狭く、薄暗い。


 雅子は、こんな場所で暮らしているのか。


 忠範の胸が、痛んだ。


 部屋の前に立ち、扉をノックした。


「小野さん」


 返事はない。


「小野さん、僕です。伊藤です」


 しばらく待つと、中から小さな声がした。


「……帰ってください」


「小野さん、話をさせてください」


「お話しすることは、ありません」


「お願いします」


 忠範は、扉に額を押し当てた。


「僕の話を、聞いてください」


 沈黙。


 やがて、扉が開いた。


 雅子が、やつれた顔で立っていた。


「……どうぞ」


 部屋の中は、狭かった。


 畳六畳ほどの空間に、布団と小さな机があるだけ。


 雅子は、机の前に座った。


 忠範も、その向かいに座った。


「小野さん……」


「何の用ですか」


 雅子の声は、冷たかった。


「昨日の話ですが──あれは、誤解です」


「誤解?」


「はい。僕は、局長の娘さんと婚約などしていません」


「でも、新聞に──」


「あの記事は、誰かが捏造したものだと思います」


 忠範は、真剣な目で雅子を見た。


「確かに、局長から結婚の申し出はありました。でも、僕はまだ返事をしていません」


「……」


「なぜなら、僕には──小野さんがいるからです」


 雅子の目から、涙が溢れた。


「でも……あなたは、三ヶ月も連絡をくれなかった」


「それは……」


 忠範は、言葉に詰まった。


「仕事が忙しくて──言い訳にしかなりませんが」


「言い訳……そうですね」


 雅子は、涙を拭いた。


「あなたにとって、私は──そんな程度の存在だったんですね」


「違います」


「違わないわ」


 雅子の声が、震えた。


「本当に大切なら、どんなに忙しくても、連絡するはずです」


「小野さん……」


「でも、あなたはしなかった。それが、答えです」


 雅子は、忠範から目を逸らした。


「もう、いいんです。私は、諦めました」


「諦めないでください」


 忠範は、雅子の手を取った。


「僕は、小野さんを愛しています」


「愛している?」


 雅子は、忠範の手を振り払った。


「愛している人を、三ヶ月も放っておきますか?」


「……」


「愛している人を、不安にさせますか?」


「それは……」


「もういいんです」


 雅子は、立ち上がった。


「帰ってください」


「小野さん」


「帰ってください!」


 雅子の声が、部屋に響いた。


 忠範は、立ち上がった。


 だが──まだ、言いたいことがあった。


「小野さん、僕は──」


「もう、何も言わないでください」


 雅子は、背を向けた。


「あなたには、輝かしい未来があります。東京で、出世して、立派な方と結婚してください」


「小野さん……」


「私は……ただの女工です。あなたと一緒にいては、あなたの足を引っ張るだけです」


「そんなことは──」


「事実です」


 雅子は、振り返った。


 その顔には──諦めの色が濃く浮かんでいた。


「私たちは──最初から、一緒にいてはいけなかったんです」


「小野さん……」


「さようなら、伊藤さん」


 雅子は、扉を開けた。


「もう、会わないでください」


 忠範は──何も言えなかった。


 雅子の決意が、痛いほど伝わってきた。


 忠範は、部屋を出た。


 廊下を歩きながら、何度も振り返った。


 だが、雅子の部屋の扉は──もう、閉ざされていた。






 その夜。


 忠範は、旅館の部屋で一人、泣いていた。


 失った。


 大切なものを、失ってしまった。


 自分の愚かさが、雅子を傷つけた。


 自分の弱さが、二人を引き裂いた。


「小野さん……」


 忠範は、何度も彼女の名前を呼んだ。


 だが、返事はない。


 ただ、沈黙だけが──忠範を包んでいた。


 翌朝。


 忠範は、東京へ戻る列車に乗った。


 窓の外を流れる景色──桜井の町が、遠ざかっていく。


 雅子がいる町が。


 忠範は、窓に額を押し当てた。


 涙が、止まらなかった。


 でも──これでいいのかもしれない。


 雅子の言う通り、自分と彼女では、釣り合わない。


 自分には、東京での未来がある。


 彼女には──。


 忠範は、首を振った。


 考えても、仕方がない。


 もう、終わったのだ。


 二人の恋は──終わったのだ。






 同じ頃、雅子の寮では。


 雅子が、布団の中で丸くなっていた。


 涙が、枕を濡らしていた。


「伊藤さん……」


 小さく呟いた。


 彼を、追い返してしまった。


 もう、会えない。


 しかし──それでいいのだ。


 彼には、明るい未来がある。


 自分のような女工と一緒にいては、彼の将来を台無しにしてしまう。


 だから──。


 雅子は、目を閉じた。


 もう、泣かない。


 もう、思い出さない。


 忠範のことを。


 だが──心の奥では。


 まだ、愛していた。


 どんなに苦しくても。


 どんなに辛くても。


 忠範を──愛していた。


 数日後。


 田村新吉が、再び雅子の前に現れた。


「小野」


「……田村さん」


 雅子は、疲れ切った顔で田村を見た。


「駅員が、来ていたそうだな」


「……ええ」


「どうだった」


「もう、終わりました」


 雅子の声は、力がなかった。


「そうか」


 田村は、満足そうに笑った。


「なら──」


 彼は、雅子の手を取った。


「俺の答えを、聞かせてくれ」


 雅子は、田村の目を見た。


 その目には──歪んだ愛情が宿っていた。


 だが、もう──。


 雅子には、選択肢がなかった。


 忠範は、去った。


 家族を養わなければならない。


 そして──田村は、しつこい。


 断れば、何をされるか分からない。


「……分かりました」


 雅子は、小さく答えた。


「あなたと……一緒になります」


 田村の顔が、明るくなった。


「本当か!」


「……はい」


「ありがとう、小野」


 田村は、雅子を抱きしめた。


 雅子は──何も感じなかった。


 心が、空っぽだった。


 ただ──遠くで、忠範の顔が浮かんだ。


「ごめんなさい……伊藤さん」


 心の中で、呟いた。


 だが、もう──その言葉は、届かない。


 二人の運命は──完全に、別れてしまった。



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