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君恋し  作者: 菊池まりな


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第十四話 偽りの噂

 十月の終わり。


 東京は、秋の深まりを感じさせる肌寒さに包まれていた。


 忠範は、毎日変わらぬ激務をこなしていた。だが、心の中には──常に、雅子への罪悪感があった。


 三ヶ月以上、連絡を取っていない。


 彼女は、今どうしているだろう。


 怒っているだろうか。


 それとも──もう、諦めているだろうか。






 ある日の昼休み。


 忠範が食堂で一人昼食を取っていると、同僚の若手職員たちが隣のテーブルに座った。


「なあ、聞いたか」


「何を?」


「伊藤が、局長の娘さんと結婚するらしいぞ」


 忠範は、箸を止めた。


「え、本当か?」


「まだ正式発表じゃないが、そういう話が出ているらしい」


「やっぱりな。伊藤は出世コースだもんな」


 若手職員たちは、羨ましそうに話している。


 忠範は、何も言えなかった。


 確かに、局長から申し出はあった。


 だが、まだ返事はしていない。


 それなのに──もう、噂が広まっている。


「伊藤、おめでとう」


 一人が、声をかけてきた。


「あ、いや……まだ何も」


「謙遜するなよ。千鶴さん、美人だもんな」


「それに、良家の令嬢だ。申し分ないだろう」


 同僚たちは、口々に言った。


 忠範は、苦笑いするしかなかった。






 その日の午後。


 高木が、忠範のデスクにやってきた。


「伊藤くん、局長が呼んでいる」


「はい」


 忠範は、緊張しながら局長室へ向かった。


 扉をノックすると、中から声がかかった。


「入りたまえ」


 局長室に入ると、局長が満面の笑みで迎えてくれた。


「伊藤くん、座りたまえ」


「はい」


「さて」


 局長は、身を乗り出した。


「例の件だが、そろそろ返事を聞かせてもらえるかね」


 忠範は、唇を噛んだ。


 返事──。


 局長の娘、千鶴との結婚。


 それは、忠範の将来を約束するものだ。


 しかし──。


 雅子の顔が、脳裏に浮かんだ。


「あの……」


 忠範は、言葉を探した。


「もう少し、時間をいただけないでしょうか」


 局長の笑顔が、わずかに曇った。


「時間か……」


「はい。申し訳ありません」


「まあ、気持ちは分かる」


 局長は、椅子に背を預けた。


「だが、あまり長く待たせるのも、娘に失礼だ」


「……はい」


「年内には、返事をしてくれたまえ」


「分かりました」


 忠範は、深く頭を下げた。


 局長室を出ると、廊下で深く息を吐いた。


 年内──あと二ヶ月。


 それまでに、決めなければならない。


 自分の将来を。


 そして──雅子との関係を。






 その夜。


 忠範は、寮の部屋で雅子への手紙を書こうとした。


 もう、これ以上放っておけない。


 ちゃんと、自分の状況を伝えなければ。


 そして──彼女の気持ちを、確かめなければ。


「小野雅子様」


 ペンを走らせる。


「本当に、長い間ご無沙汰してしまい、申し訳ありません。


 こちらは、連日の激務で、なかなか手紙を書く時間が取れませんでした。


 小野さんは、お元気ですか。工場の仕事は、相変わらず大変でしょうか。


 実は、お話ししなければならないことがあります。


 局長から、結婚の申し出を受けています。相手は、局長の娘です。


 まだ、返事はしていません。ですが、年内には決めなければなりません。


 小野さん、僕は──」


 忠範は、ペンを止めた。


 何と書けばいいのか。


 自分の気持ちは、雅子を愛している。


 だが、現実は──。


 忠範は、便箋を破り捨てた。


 書けない。


 こんな手紙、送れない。


 忠範は、頭を抱えた。


 同じ頃、桜井では。


 奇妙な噂が広まっていた。


「伊藤さん、東京で結婚するんだって」


「本当?」


「ええ。局長の娘さんと」


 駅の同僚たちが、そんな話をしていた。


 その噂は、すぐに町中に広まった。


 そして──工場にも届いた。


 志津が、手紙を持って隣町の工場を訪ねてきた。


 雅子との面会を求め、昼休みに会うことができた。


「雅子さん!」


 志津は、息を切らせて駆け寄ってきた。


「志津ちゃん、どうしたの」


「これ……」


 志津は、封筒を差し出した。


「桜井駅の助役さんから、預かってきました」


 雅子は、封筒を受け取った。


 差出人の名前は──ない。


 だが、中には一枚の紙切れが入っていた。


 それは──また、新聞の切り抜きだった。


「東京鉄道局 伊藤忠範氏、局長令嬢と婚約か」


 という見出し。


 そして──忠範と千鶴が並んで微笑んでいる写真。


 雅子の手が、震えた。


「雅子さん……」


 志津が、心配そうに見ている。


「これは……いつの記事?」


「分かりません。でも、助役さんが『伊藤くんの元恋人に渡してくれ』と」


 雅子は、記事を見つめた。


 婚約──。


 忠範が、結婚する。


 局長の娘と。


「そんな……」


 雅子の目から、涙が溢れた。


「やっぱり、本当だったんだわ」


「雅子さん……」


「田村さんの言っていた通り……伊藤さんは、私を捨てたんだわ」


 雅子は、その場に崩れ落ちた。


 志津が、慌てて支えた。


「雅子さん、しっかりして!」


「もう、いいの……」


 雅子の声は、か細かった。


「もう、諦めるわ……」


 だが──。


 その記事は、悪意ある者によって、捏造されたものだった。


 確かに、忠範と千鶴の写真は本物だ。


 だが、「婚約」という見出しは──誰かが後から付け加えたものだった。


 田村新吉──彼が、噂を広めたのだ。


 雅子を諦めさせるために。


 そして、自分のものにするために。


 その夜。


 雅子は、寮の部屋で一人、泣いていた。


 忠範からの古い手紙を、すべて取り出した。


 そして──一枚ずつ、読み返した。


「小野さん、僕は小野さんを愛しています」


「どんなに離れていても、僕の気持ちは変わりません」


「必ず、また会いに行きます」


 温かい言葉。


 優しい言葉。


 だが──それは、もう過去のものだ。


 雅子は、手紙をすべて束ね、箱にしまった。


 そして──その箱を、押し入れの奥へしまい込んだ。


「さようなら、伊藤さん」


 小さく呟いた。


 涙が、止まらなかった。


 だが──雅子は、泣き止まなければならなかった。


 明日も、工場へ行かなければならない。


 生きていかなければならない。


 忠範のいない人生を。






 数日後。


 田村新吉が、再び雅子の前に現れた。


 工場の帰り道、暗い路地で待ち伏せていた。


「小野」


「……田村さん」


 雅子は、疲れ切った顔で田村を見た。


「聞いたぞ。あの駅員が、結婚するそうだな」


「……ええ」


「やっぱりな。俺の言った通りだっただろう」


 田村は、雅子に近づいた。


「もう、諦めろ。あいつは、お前を捨てたんだ」


「……分かっています」


 雅子の声は、力がなかった。


「なら──」


 田村は、雅子の手を取った。


「俺と、一緒に来い」


「田村さん……」


「俺は、お前を幸せにする。約束する」


 雅子は、田村の目を見た。


 その目には──歪んだ愛情が宿っていた。


 だが、もう──。


 雅子には、抵抗する気力さえなかった。


「……考えさせてください」


「本当か?」


 田村の顔が、明るくなった。


「ああ、いいとも。ゆっくり考えろ」


 田村は、満足そうに笑って去って行った。


 雅子は、その場に立ち尽くした。


 心が──空っぽだった。


 同じ頃、東京では。


 忠範が、ある決心をしていた。


 もう、これ以上逃げられない。


 雅子に──ちゃんと会って、話をしなければならない。


 自分の状況を説明し、彼女の気持ちを確かめなければならない。


 忠範は、高木に休暇を申請した。


「休暇?急にどうした」


「故郷へ、帰りたいんです」


「故郷……ああ、桜井か」


 高木は、意味ありげな顔をした。


「例の恋人に、会いに行くのか」


「……はい」


「そうか」


 高木は、ため息をついた。


「まあ、いいだろう。だが、長くは無理だぞ」


「三日で結構です」


「分かった。許可する」


 忠範は、深く頭を下げた。






 十一月の初め。


 忠範は、桜井行きの列車に乗った。


 久しぶりに見る故郷の景色。


 山々が、秋の色に染まっている。


 忠範の胸は、不安と期待で高鳴っていた。


 雅子は──まだ、自分を待っていてくれるだろうか。


 それとも──。


 列車は、桜井駅に到着した。


 忠範が降り立つと、懐かしい駅舎が目に入った。


 変わらない景色。


 だが──雅子の姿は、ない。


 そうだ、彼女はもうここを通らない。


 異動したと、志津から聞いていた。


 忠範は、駅を出て、工場へ向かった。


 だが──桜井の工場に着くと、雅子はもういないと言われた。


「隣町の工場へ異動しました」


 監督が、冷たく言った。


 忠範は、急いで隣町へ向かった。


 隣町の工場。


 忠範が到着した時、ちょうど女工たちが仕事を終えるところだった。


 門から、疲れ切った女工たちが出てくる。


 その中に──雅子の姿があった。


「小野さん!」


 忠範が叫ぶと、雅子は驚いて振り返った。


 目が合う。


 だが──雅子の目は、冷たかった。


「伊藤さん……」


 雅子の声も、冷たかった。


「小野さん、話を──」


「お話しすることは、ありません」


 雅子は、背を向けた。


「待ってください!」


 忠範は、雅子の腕を掴んだ。


「僕の話を、聞いてください」


「離してください」


「小野さん、僕は──」


「もう、いいんです」


 雅子は、忠範を見た。


 その目には──涙が滲んでいた。


「あなたは、結婚されるんでしょう。おめでとうございます」


「え……」


「局長の娘さんと。新聞で見ました」


 忠範は、愕然とした。


「新聞? 何のことですか」


「知らないふりをしないでください」


 雅子の涙が、溢れた。


「もういいんです。私は、諦めました」


「小野さん、何かの間違いです」


「間違い?写真まで載っていたのに?」


「写真……」


 忠範は、困惑した。


 確かに、親睦会で千鶴と並んだ写真は撮られた。


 だが、婚約など──していない。


「小野さん、それは誤解です」


「誤解?」


「はい。僕は、まだ何も決めていません」


「でも……」


「信じてください」


 忠範は、雅子の手を取った。


 だが──雅子は、手を振り払った。


「もう、遅いんです」


「小野さん……」


「私は……もう、疲れました」


 雅子は、泣きながら言った。


「あなたと一緒にいることが、どれだけ苦しかったか……分かりますか」


「……」


「手紙は届かない。連絡もない。そして、結婚の噂」


 雅子の声が、震えた。


「もう、耐えられません」


「小野さん、僕は──」


「さようなら、伊藤さん」


 雅子は、走って去って行った。


 忠範は、その場に立ち尽くした。


 追いかけようとしたが──足が動かなかった。


 雅子の涙が、胸に突き刺さった。


 自分は──彼女を、傷つけてしまった。


 取り返しのつかないことを、してしまった。


 忠範は、膝をついた。


「小野さん……ごめん」


 小さく呟いた。


 だが、その言葉は──もう、雅子には届かなかった。



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