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君恋し  作者: 菊池まりな


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第十三話 田村の執着

 九月。


 雅子は、工場の医務室で目を覚ました。


 白い天井が、ぼんやりと見える。


 体が、鉛のように重かった。


「雅子さん!」


 志津の声がした。


 顔を向けると、志津が涙を浮かべて立っている。


「良かった……目が覚めて」


「……私、どうしたの」


「倒れたんです。三日間も、意識がなくて」


 三日間──。


 雅子は、ぼんやりとした頭で考えた。


 そうだ。作業中に、急に目の前が暗くなって──。


「医者は、過労だって言っていました」


 志津は、雅子の手を握った。


「雅子さん、無理しすぎです」


「……ごめんなさい」


「謝らないでください」


 志津は、泣いていた。


「雅子さんは、いつも私たちのために頑張ってくれて……でも、自分のことは後回しで」


「志津ちゃん……」


「もっと、自分を大切にしてください」


 雅子は、小さく頷いた。


 だが、胸の中には──虚しさがあった。


 自分を大切にする──それができれば、こんなことにはならなかった。






 その日の午後。


 工場主の中津川が、医務室を訪れた。


「小野、体調はどうだ」


「……はい、もう大丈夫です」


「そうか」


 中津川は、腕を組んだ。


「だが、三日も休んだ。その分の給金は、減額する」


 雅子は、唇を噛んだ。


 倒れたのは、自分の責任ではない。


 過酷な労働環境のせいだ。


 だが──言えなかった。


「それと」


 中津川は、冷たく言った。


「お前を、別の工場へ異動させる」


「……え?」


「ここでは、お前は女工たちに影響力がありすぎる。田村のような不心得者を出さないためにも、お前を離す必要がある」


 雅子の顔が、青ざめた。


「別の工場……どこですか」


「隣町だ。来週から、そちらへ通え」


「でも……」


「嫌なら、クビだ」


 中津川は、有無を言わさぬ口調で言った。


「選べ」


 雅子は、黙り込んだ。


 選択肢など、ない。


 クビになれば、家族が困る。


 弟と妹の学費が、払えなくなる。


「……分かりました」


「よろしい」


 中津川は、満足そうに頷いて出て行った。


 雅子は、その場に残された。


 隣町の工場──。


 それは、ここから列車で一時間の距離だ。


 つまり──。


 桜井駅を、通らなくなる。


 忠範がいた、あの駅を。


 雅子の目から、涙が溢れた。


 その夜。


 雅子は、志津に別れを告げた。


「隣町の工場へ、異動することになったの」


「え……」


 志津の顔が、こわばった。


「雅子さんが、いなくなるんですか」


「ええ。来週から」


「そんな……」


 志津は、泣き出した。


「雅子さんがいなくなったら、私……どうすれば」


「大丈夫よ」


 雅子は、志津を抱きしめた。


「志津ちゃんは、もう強いわ。一人でも、やっていける」


「でも……」


「それに、異動するだけ。辞めるわけじゃないから」


 雅子は、微笑んだ。


 だが、その笑顔は──どこか諦めの色を帯びていた。






 翌日。


 雅子が荷物をまとめていると、誰かが寮の扉をノックした。


「どなた?」


「……俺だ」


 聞き覚えのある声。


 雅子は、扉を開けた。


 そこには──田村新吉が立っていた。


「田村さん……」


 雅子は、息を呑んだ。


 田村は、線路破壊未遂で捕まったはずだ。


 なぜ、ここに──。


「驚いたか」


 田村は、不敵に笑った。


「保釈されたんだ。証拠不十分でな」


「……」


「工場はクビになったが、まあいい」


 田村は、部屋に入ろうとした。


「待ってください」


 雅子は、扉を閉めようとした。


 だが、田村の手が、扉を押さえた。


「話がある」


「お断りします」


「聞け、小野」


 田村の目が、鋭く光った。


「お前、異動するそうだな」


「……それが、何か」


「隣町の工場──そこは、もっと酷いところだぞ」


 田村は、雅子の肩を掴んだ。


「やめろ。俺と、一緒に来い」


「離してください」


「お前には、もっといい道がある」


「いい道?」


「ああ」


 田村は、不気味に笑った。


「俺と結婚しろ」


 雅子は、愕然とした。


「……何を言っているんですか」


「俺は、お前を愛している」


「やめてください」


 雅子は、田村の手を振り払った。


「私には、愛する人がいます」


「あの駅員か」


 田村の顔が、歪んだ。


「まだ、あいつに未練があるのか」


「未練ではありません。私は、伊藤さんを──」


「あいつは、もうお前のことなど忘れている」


 田村は、冷たく言った。


「東京で、別の女と付き合っているそうだ」


「……え?」


「俺の知り合いが、見たんだ。あいつが、綺麗な女と食事をしているところを」


 雅子の顔から、血の気が引いた。


「そんな……」


「信じないのか? なら、これを見ろ」


 田村は、懐から紙切れを取り出した。


 それは──新聞の切り抜きだった。


「東京鉄道局の親睦会」という見出し。


 そして──写真。


 忠範が、和服姿の若い女性と並んで写っている。


 女性は、美しく、上品だった。


 雅子の手が、震えた。


「これは……」


「局長の娘だそうだ。あいつは、出世のために、令嬢に取り入っている」


「違う……」


「違わない」


 田村は、雅子の顎を掴んだ。


「あいつは、お前を捨てたんだ」


「やめて……」


「分かれ、小野。お前と、あいつは違う世界の人間だ」


 雅子の目から、涙が溢れた。


 田村の言葉が──心の奥に突き刺さる。


「俺なら、お前を幸せにできる」


「……離してください」


 雅子は、田村を押しのけた。


「出て行ってください!」


 田村は、舌打ちをした。


「……分かった。今日は、帰る」


 彼は、扉へ向かった。


 だが、振り返って言った。


「だが、諦めないぞ。お前は、いずれ俺のものになる」


 そう言って、田村は去って行った。


 雅子は、その場に崩れ落ちた。


 震えが、止まらなかった。


 その夜。


 雅子は、一人で泣いていた。


 新聞の切り抜きを、何度も見た。


 忠範が、別の女性と──。


 それは、仕事の一環かもしれない。


 ただの親睦会かもしれない。


 だが──。


 雅子の心には、疑いが芽生えていた。


 忠範からの手紙は、もう三ヶ月も届いていない。


 自分の手紙も、届かなかった。


 もしかして──。


 彼は、本当に自分のことを忘れてしまったのではないか。


 東京で、新しい恋を見つけたのではないか。


「伊藤さん……」


 雅子は、小さく呟いた。


「あなたは……どこにいるの」


 返事は、ない。


 ただ、沈黙だけが──雅子を包んでいた。


 翌週。


 雅子は、隣町の工場へ異動した。


 そこは、桜井の工場よりも大きく、そして──さらに過酷だった。


 女工の数は倍以上。監督も厳しく、休憩時間も少ない。


 雅子は、朝早く起きて、列車に乗り、工場へ通った。


 帰りは、夜遅く。


 疲労が、日に日に蓄積していった。


 そして──桜井駅を、通らなくなった。


 忠範がいた、あの駅を。


 もう、あの場所に戻ることはない。


 雅子の心は──少しずつ、諦めの色に染まっていった。


 同じ頃、東京では。


 忠範が、高木と話していた。


「伊藤くん、局長の申し出を、どう考えている?」


「……まだ、決めかねています」


「そうか」


 高木は、ため息をついた。


「だが、あまり長く悩むのも良くない。局長は、早めの返事を期待している」


「分かっています」


「それに──」


 高木は、声を落とした。


「君、故郷の恋人とは、もう連絡を取っていないんだろう?」


 忠範は、黙り込んだ。


 確かに──もう三ヶ月以上、雅子と連絡を取っていない。


 手紙を書こうとして、書けなかった。


 そして──時間だけが、過ぎていった。


「なら、もう終わったと考えた方がいい」


「でも……」


「君の将来を考えろ。局長の娘と結婚すれば、君の出世は約束される」


 高木の言葉が、重くのしかかった。


「……考えます」


「早めに頼むぞ」


 高木は、そう言って去って行った。


 忠範は、一人残された。


 机の引き出しを開けると、雅子からの古い手紙が入っている。


 忠範は、それを取り出して読んだ。


「伊藤さん、お元気ですか……」


 雅子の優しい字。


 温かい言葉。


 だが──それは、もう三ヶ月も前のものだ。


 今、彼女はどうしているのだろう。


 まだ、自分のことを──。


 忠範は、頭を抱えた。


「小野さん……ごめん」


 小さく呟いた。


 だが、その言葉は──雅子には届かなかった。






 十月。


 田村新吉は、隣町の工場近くで、雅子を待ち伏せていた。


 彼は、雅子の異動先を調べ上げていた。


 そして──諦めていなかった。


 夕方、工場から女工たちが出てくる。


 その中に、雅子の姿があった。


 疲れ切った顔。やつれた体。


 だが、田村の目には──それでも美しく見えた。


「小野」


 田村が、声をかけた。


 雅子は、驚いて振り返った。


「田村さん……なぜ、ここに」


「お前を、迎えに来た」


「迎えに?」


「ああ」


 田村は、近づいてきた。


「お前を、連れて行く」


「何を言っているんですか」


「俺と、一緒に来い。この工場を辞めて、俺と暮らせ」


「お断りします」


 雅子は、背を向けた。


 だが、田村が腕を掴んだ。


「離してください!」


「嫌だ」


 田村の目が、狂気に染まっていた。


「お前は、俺のものだ」


「違います!」


 雅子は、必死に抵抗した。


 だが、田村の力は強い。


「助けて!」


 雅子が叫ぶと、通りかかった男たちが駆けつけてきた。


「おい、何をしている!」


 田村は、舌打ちをして、雅子を離した。


「……覚えておけ」


 そう言って、田村は逃げ去った。


 雅子は、その場に座り込んだ。


 震えが、止まらなかった。


「大丈夫ですか」


 男たちが、心配そうに声をかけた。


「は、はい……ありがとうございます」


 雅子は、何とか立ち上がった。


 だが、心の中には──深い恐怖があった。


 田村は──もう、正常ではない。


 彼の執着は、危険なレベルに達していた。


 雅子は──逃げ場を失っていた。



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