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君恋し  作者: 菊池まりな


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第十二話 届かぬ文

 七月。


 梅雨が明け、東京は蒸し暑い夏に包まれた。


 忠範は、連日の激務に追われていた。夏は鉄道の繁忙期だ。避暑地への臨時列車、貨物の増便、そして設備の点検──すべてが重なり、運行管理課は休む暇もない。


 忠範の机の上には、未処理の書類が山積みになっていた。


 そして──その中に、書きかけの便箋が、埋もれていた。


 雅子への手紙。


 書こうとして、書けなかった手紙。






 ある日の夕方。


 高木が、忠範のデスクにやってきた。


「伊藤くん、今夜時間はあるかね」


「はい、何でしょうか」


「局長が、食事会を開く。君も参加してほしいそうだ」


「食事会、ですか」


「ああ。幹部候補の若手を集めて、親睦を深めるそうだ」


 高木は、にやりと笑った。


「それに、局長の令嬢も来る」


「令嬢?」


「ああ。美人で、聡明な方だ。お前ぐらいの年齢だろう」


 忠範は、何か嫌な予感がした。


「あの……僕は──」


「断るな。これも、仕事の一部だ」


 高木は、有無を言わさぬ口調で言った。


「七時に、銀座の料亭だ。遅れるなよ」


 その夜。


 忠範は、銀座の高級料亭に来ていた。


 畳敷きの個室には、局長と数人の幹部、そして五人ほどの若手職員が集まっていた。


 そして──和服姿の若い女性が、一人。


「皆さん、紹介します。私の娘、千鶴です」


 局長が、娘を紹介した。


 千鶴は、二十歳ぐらいだろうか。端正な顔立ちで、上品な物腰。明らかに、良家の令嬢だった。


「初めまして」


 千鶴は、控えめに頭を下げた。


 若手職員たちは、緊張した面持ちで挨拶を返した。


「さあ、堅苦しいことは抜きにして、楽しもうじゃないか」


 局長の声で、宴が始まった。


 料理が運ばれ、酒が注がれる。


 忠範は、席の端におとなしく座っていた。


 だが、千鶴が──なぜか、忠範の隣に座った。


「伊藤さん、ですね」


 千鶴が、柔らかく微笑んだ。


「は、はい」


「父から、お話は伺っております。桜井駅での活躍、素晴らしかったそうですね」


「いえ、そんなことは……」


「謙遜なさらないで。父も、伊藤さんのことを高く評価しています」


 千鶴は、品よく笑った。


「これから、ますますご活躍されるでしょうね」


 忠範は、返事に困った。


 千鶴は──確かに、美しく、教養もある女性だった。


 だが、忠範の心には──雅子しかいなかった。


「伊藤さん」


 千鶴が、小声で言った。


「お酒、あまりお好きではないのですか?」


「ええ、まあ……」


「私もなんです。こういう席は、少し苦手で」


 千鶴は、困ったように笑った。


 その笑顔は──どこか、雅子に似ていた。


 いや、似ていない。


 全く違う。


 だが、なぜか──忠範の胸が、痛んだ。


 宴は、深夜まで続いた。


 忠範が寮に戻ったのは、夜中の一時過ぎだった。


 疲れ切って、ベッドに倒れ込む。


 だが──眠れなかった。


 千鶴のこと。


 そして──雅子のこと。


 忠範は、机の引き出しを開けた。


 雅子からの手紙が、丁寧に束ねられている。


 最後に届いたのは──もう二ヶ月前だ。


 忠範は、手紙を取り出して読んだ。


「伊藤さん、お元気ですか。こちらは、相変わらず忙しい日々です……」


 雅子の丁寧な字。


 優しい言葉。


 そして──少しだけ、寂しさが滲んでいる。


「……ごめん、小野さん」


 忠範は、小さく呟いた。


 自分は、彼女を放っておいてしまった。


 仕事に追われて、手紙も書けなくなった。


 忠範は、便箋を取り出した。


 今度こそ、書こう。


 ちゃんと、自分の気持ちを伝えよう。


 だが──。


 次の日も、その次の日も、忠範は激務に追われた。


 便箋は、机の上に置かれたまま。


 白紙のまま。


 そして──一週間が過ぎた。






 同じ頃、桜井では。


 雅子が、工場の寮で窓の外を見ていた。


 夏の夕暮れ。蝉の声が、うるさいほどに響いている。


 だが、雅子の心には──静寂があった。


 忠範からの手紙は、もう二ヶ月以上届いていない。


 雅子も、返事を書いていなかった。


 書けなかった。


 何を書けばいいのか、分からなかった。


「雅子さん」


 志津が、部屋に入ってきた。


「お手紙、来ていませんか?」


「……ええ」


「伊藤さんから?」


 雅子は、首を横に振った。


「そう……」


 志津は、心配そうな顔をした。


「でも、きっと忙しいんですよ。東京は、大きな街ですから」


「ええ……そうね」


 雅子は、微笑んだ。


 だが、その笑顔は──悲しかった。


 その夜。


 雅子は、再び便箋に向かった。


 書こう。


 もう一度、手紙を書こう。


 彼が忙しくても、自分の気持ちを伝えよう。


「伊藤忠範様」


 ペンを走らせる。


「お元気ですか。こちらは、暑い日が続いています。


 伊藤さんからのお手紙、しばらく届いていません。お忙しいのでしょうね。


 私は、相変わらず工場で働いています。毎日、同じことの繰り返しです。


 でも、伊藤さんのことを思うと、頑張れます。


 東京での生活は、いかがですか。お体に気をつけてください。


 また、お手紙をください。待っています。


 小野雅子」


 雅子は、手紙を封筒に入れた。


 明日、郵便局へ持って行こう。


 だが──。


 雅子の心には、不安があった。


 この手紙は、ちゃんと届くだろうか。


 そして──忠範は、読んでくれるだろうか。






 翌日。


 雅子は、工場の昼休みに郵便局へ行った。


 手紙を窓口に出すと、局員が受け取った。


「東京ですね。三日ほどで届きます」


「ありがとうございます」


 雅子は、郵便局を出た。


 だが──その時。


 雅子は、気づかなかった。


 手紙の宛先を、間違えて書いていたことに。


 「東京鉄道局 伊藤忠範様」──そこまでは正しかった。


 だが、住所が──。


 雅子は、忠範が最初に教えてくれた住所を書いていた。


 だが、忠範は先月──寮を移動していた。


 局からの指示で、別の寮へ。


 その住所変更を、忠範は雅子に伝えていなかった。


 手紙を書く暇がなかったから。


 そして──。


 雅子の手紙は、間違った住所へ送られた。


 そして──宛先不明で、戻ってきた。


 一週間後。


 雅子の元に、手紙が戻ってきた。


 「宛先不明」の印が、押されている。


 雅子は、愕然とした。


「……届かなかった」


 手紙が、忠範に届かなかった。


 雅子は、その場に座り込んだ。


 どうすればいいのか、分からなかった。


 新しい住所を、知らない。


 忠範から、連絡がないから。


「伊藤さん……」


 雅子の目から、涙が溢れた。


「どこにいるの……」


 同じ頃、東京では。


 忠範も──雅子への手紙を書いていた。


 ようやく、時間ができたのだ。


「小野雅子様」


 ペンを走らせる。


「ご無沙汰しています。本当に申し訳ありません。


 こちらは、連日の激務で、手紙を書く時間もありませんでした。


 でも、毎日小野さんのことを思っています。


 実は、先月寮を移動しました。新しい住所は──」


 忠範は、新しい住所を書いた。


 そして、手紙を封筒に入れた。


 明日、郵便局へ持って行こう。


 だが──。


 翌日、忠範は緊急の出張を命じられた。


 地方路線で事故があり、調査に行くことになったのだ。


 一週間の予定。


 忠範は、慌てて荷物をまとめた。


 そして──。


 机の上の手紙を、持って行くのを忘れた。


 封筒は、書類の山に埋もれた。


 そして──そのまま、忘れ去られた。


 こうして。


 二人の手紙は──届かなかった。


 雅子の手紙は、間違った住所のせいで。


 忠範の手紙は、出されなかったせいで。


 二人の絆は──少しずつ、断ち切られていった。






 八月の終わり。


 雅子は、工場で倒れた。


 過労だった。


 連日の暑さと、激務と、そして──心労。


 すべてが、彼女を蝕んでいた。


「雅子さん!」


 志津が、駆け寄った。


「誰か、医者を!」


 雅子は、意識を失っていた。


 額には、熱い汗が浮かんでいた。


 そして──その手には、忠範からの古い手紙が、握られていた。


 同じ頃、東京では。


 忠範が、局長に呼ばれていた。


「伊藤くん、座りたまえ」


「はい」


 忠範は、緊張しながら椅子に座った。


「君の働きぶり、素晴らしい」


 局長は、満足そうに頷いた。


「このまま頑張れば、将来は約束されたも同然だ」


「ありがとうございます」


「ところで」


 局長は、身を乗り出した。


「君、結婚の予定はあるかね」


 忠範は、息を呑んだ。


「……いえ、まだ」


「そうか」


 局長は、にやりと笑った。


「実は、うちの千鶴が、君のことを気に入っているようでね」


「え……」


「もちろん、強制はしない。だが、君も考えてみてはどうかね」


 局長の言葉が、忠範の胸に重くのしかかった。


「……考えさせてください」


「ああ、急がなくていい。ゆっくり考えたまえ」


 局長は、満足そうに頷いた。


 忠範は、局長室を出た。


 廊下で、立ち尽くした。


 胸が、苦しかった。


「小野さん……」


 忠範は、小さく呟いた。


 だが──。


 その声は、虚しく消えていった。


 二人の距離は──もう、手紙だけでは埋められないほど、遠くなっていた。



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