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君恋し  作者: 菊池まりな


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第十一話 東京の空気

 五月の初め。


 忠範は、東京行きの列車に乗っていた。


 窓の外を流れる景色——故郷の山々が、次第に遠ざかっていく。


 胸の中には、期待と不安が入り混じっていた。


 東京。大都会。鉄道の中枢。


 そこで働けることは、鉄道員として最高の栄誉だ。


 だが──。


 忠範の手には、雅子からの手紙が握られていた。


 昨夜、別れ際に渡されたものだ。


「東京へ行っても、お元気で。私は、ここで待っています」


 短い言葉だったが、その中に──雅子のすべての想いが込められていた。


 忠範は、手紙を胸にしまった。


 絶対に、帰ってくる。


 そして、雅子と──。


 東京駅。


 忠範が降り立つと、そこは想像以上の喧騒だった。


 大勢の人々が行き交い、列車が次々と到着し出発していく。地方の小さな駅とは、まるで別世界だった。


「伊藤忠範くんだね」


 声をかけられ、振り返ると、三十代半ばの男性が立っていた。紺のスーツに中折れ帽、鋭い目つきだが、どこか温かみがある。


「はい」


「僕は、高木。東京鉄道局の運行管理課だ。君を迎えに来た」


「ありがとうございます」


 忠範は、深く頭を下げた。


「さあ、行こう。局はここから近い」


 二人は、駅を出て、賑やかな街を歩いた。


 東京の街は、活気に満ちていた。自動車が走り、モダンな建物が立ち並ぶ。女性たちは洋装で、男性たちは背広を着ている。


 忠範は、圧倒された。


「驚いたかね」


 高木が、笑いながら言った。


「東京は、地方とは違う。ここは、日本の心臓だ」


「はい……」


「だが、慣れれば楽しいところだ。君なら、すぐに馴染めるだろう」


 東京鉄道局。


 煉瓦造りの重厚な建物だった。


 中に入ると、廊下には職員たちが忙しそうに行き交っている。


 高木に案内され、忠範は局長室へ通された。


「伊藤忠範です」


 忠範は、緊張しながら敬礼した。


 局長は、五十代後半の、威厳のある男性だった。


「ああ、伊藤くんか。噂は聞いている」


 局長は、満足そうに頷いた。


「桜井駅での君の働きぶり、素晴らしかった。線路破壊を未然に防ぎ、犯人逮捕にも貢献した」


「恐縮です」


「君のような優秀な人材が、本局には必要だ」


 局長は、立ち上がった。


「ここでは、全国の鉄道網を管理している。責任は重いが、やりがいもある」


「はい」


「頑張ってくれたまえ」


「ありがとうございます」


 忠範は、運行管理課に配属された。


 デスクには、すでに書類が山積みになっている。全国各地の列車運行状況、事故報告、安全管理の通達──地方駅とは比較にならない量だ。


「大変だろう」


 高木が、声をかけた。


「でも、君ならできる」


「はい、頑張ります」


 忠範は、すぐに仕事に取り掛かった。


 だが、頭の片隅には──常に、雅子のことがあった。


 彼女は、今頃どうしているだろう。


 工場で、変わらず働いているのだろうか。


 忠範は、早く手紙を書こうと決めた。






 その夜。


 忠範は、局が用意した寮に入った。


 狭い部屋だったが、一人暮らしには十分だった。


 荷物を片付けると、すぐに机に向かい、便箋を取り出した。


「小野雅子様」


 ペンを走らせる。


「東京に着きました。無事に到着し、今日から本局で働き始めました。


 東京は、想像以上に大きな街です。人も多く、建物も立派で、最初は圧倒されました。


 でも、ここで頑張って、いつか小野さんを迎えに行けるようになりたいと思っています。


 小野さんは、お元気ですか。工場の仕事は、大変ではありませんか。無理をしないでください。


 僕は、毎日小野さんのことを思っています。どんなに離れていても、僕の気持ちは変わりません。


 また、手紙を書きます。小野さんからの返事を、楽しみに待っています。


 伊藤忠範」


 忠範は、手紙を封筒に入れた。


 明日、郵便局へ持って行こう。


 窓の外を見ると、東京の夜景が広がっていた。


 無数の灯りが、星のように輝いている。


 だが、忠範の心は──遠く、桜井の地へ向かっていた。


 同じ頃、桜井では。


 雅子が、寮の部屋で窓の外を見ていた。


 遠くに、駅舎が見える。


 だが、もう忠範はいない。


 彼は、東京へ行ってしまった。


 雅子の胸には、空虚感が広がっていた。


「雅子さん」


 志津が、部屋に入ってきた。


「元気、ないですね」


「……ええ」


「伊藤さんのこと、ですか」


 雅子は、頷いた。


「彼は、東京で頑張っているわ。私も、ここで頑張らないと」


「でも……寂しいですよね」


「……ええ」


 雅子の目から、涙が一筋流れた。


「とても、寂しいわ」


 志津は、雅子を抱きしめた。


「大丈夫です。きっと、また会えますよ」


「本当に……そうかしら」


「はい。だって、伊藤さんは雅子さんのことを愛しているんですから」


 雅子は、小さく微笑んだ。


 だが、心の中では──不安が消えなかった。


 数日後。


 忠範からの手紙が、雅子の元に届いた。


 雅子は、工場の昼休みに、中庭で一人、手紙を開いた。


 忠範の丁寧な字で、東京での様子が綴られている。


 雅子は、手紙を読みながら、涙を流した。


 嬉しかった。


 彼は、自分のことを忘れていない。


 ちゃんと、想っていてくれる。


 雅子は、すぐに返事を書こうと決めた。


 その夜。


 雅子は、寮の部屋で便箋に向かった。


「伊藤忠範様」


 ペンを走らせる。


「お手紙、ありがとうございました。東京での生活、順調なようで安心しました。


 こちらは、相変わらず忙しい毎日です。田村さんたちが捕まってから、工場の規律が厳しくなりました。でも、私は変わらず働いています。


 伊藤さんが東京へ行ってから、毎日が長く感じます。朝、駅であなたに会えないことが、とても寂しいです。


 でも、あなたが東京で頑張っていると思うと、私も頑張らなければと思います。


 どうか、お体に気をつけて。また、お手紙をください。


 小野雅子」


 雅子は、手紙を封筒に入れた。


 明日、郵便局へ持って行こう。


 窓の外を見ると、星が輝いていた。


 同じ星を、忠範も見ているだろうか。


 雅子は、そう思いながら、目を閉じた。


 こうして、二人の文通が始まった。


 最初の頃は、週に一度、手紙が届いた。


 忠範は、東京での仕事のこと、街の様子、そして雅子への想いを書いた。


 雅子は、工場での日常、志津のこと、そして忠範への想いを書いた。


 二人の絆は──手紙によって、保たれていた。


 だが、時間が経つにつれ──。


 忠範は、次第に仕事に追われるようになった。


 東京鉄道局は、想像以上に忙しかった。朝早くから夜遅くまで、書類に埋もれる日々。休日出勤も珍しくない。


 手紙を書く時間が、少しずつ減っていった。


 週に一度だった手紙が、二週間に一度になり──。


 そして、一ヶ月に一度になっていった。


 一方、雅子も。


 工場での生活は、相変わらず厳しかった。


 田村たちが捕まった後、監督たちの目は一層厳しくなった。少しでもミスをすれば、すぐに罰金を科される。


 疲労が、雅子を蝕んでいった。


 手紙を書く気力さえ、失われていった。






 六月の終わり。


 忠範は、高木に呼ばれて、局内の食堂で昼食を取っていた。


「伊藤くん、仕事には慣れたかね」


「はい、おかげさまで」


「それは良かった」


 高木は、満足そうに頷いた。


「君の働きぶり、上司たちも評価している」


「ありがとうございます」


「ところで」


 高木は、忠範を見た。


「君、故郷に恋人がいるそうだね」


 忠範は、驚いて顔を上げた。


「……はい」


「まあ、気にしなくていい。ただの噂だ」


 高木は、笑った。


「だが、忠告しておこう」


「忠告?」


「遠距離の恋は、難しい」


 高木の表情が、真剣になった。


「特に、君のように将来を嘱望されている人間にとっては」


「……」


「本局では、私生活も評価の対象になる。結婚相手も、重要だ」


 忠範は、黙って聞いていた。


「もちろん、恋愛は自由だ。だが、君の将来を考えるなら──」


 高木は、視線を落とした。


「もっと相応しい相手を、見つけた方がいい」


 忠範の胸が、痛んだ。


 また、同じことを言われた。


 田村と、同じことを。


「考えておきたまえ」


 高木は、そう言って席を立った。


 忠範は、一人残された。


 食事を、喉に通すことができなかった。


 その夜。


 忠範は、寮の部屋で雅子の写真を見ていた。


 桜井駅で、一度だけ撮った写真。


 雅子は、照れくさそうに微笑んでいた。


「小野さん……」


 忠範は、写真を胸に抱いた。


 高木の言葉が、頭から離れない。


「もっと相応しい相手を」


 だが──。


 忠範は、首を振った。


 自分は、雅子を愛している。


 それだけは、変わらない。


 どんなことがあっても。


 忠範は、便箋を取り出した。


 久しぶりに、手紙を書こう。


 だが──。


 ペンを持つ手が、止まった。


 何を書けばいいのか、分からなくなっていた。






 同じ頃、桜井では。


 雅子も、手紙を書こうとしていた。


 だが、同じように──。


 何を書けばいいのか、分からなかった。


 忠範からの手紙は、もう一ヶ月以上届いていない。


 彼は、忙しいのだろう。


 それは、分かっている。


 だが──。


 雅子の心には、不安が広がっていた。


 もしかして、彼は──。


 自分のことを、忘れかけているのではないか。


 東京には、もっと素敵な女性が、たくさんいる。


 自分のような女工よりも、彼に相応しい人が。


 雅子は、便箋を閉じた。


 書けなかった。


 窓の外を見ると、雨が降り始めていた。


 梅雨の、長い雨だった。


 雅子の心も──雨に濡れていた。



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