第7話 魔導書の名前はタイゼン!
魔法大全と名乗った男は、腰を上げると体ごとくるりと振り返り、微笑みを浮かべて小首を傾げた。
「興味深いことにエターテ・メメルと話されていたようですが?」
「エターテ・メメルのこと知ってるの!?」
「知ってるもなにも──む……妙ですね」
長い人差し指を額に当てる。その眉間にはしわが寄っていた。
「どうしたの、急に?」
「記憶がシャットアウトされています。エターテ・メメルを知っているが、付随する記憶が出てこない。だけど、マスター、エターテ・メメルは知っています」
知っているのに思い出せない。それって。
「ただのど忘れじゃ?」
「失礼な。私は、魔法大全、記憶を忘れることなどありません。いいですか。情報としてはエターテ・メメルのことを知っている。だが、その情報にアクセスしようとすると、拒否されてしまう。ちょうどそんな状況です」
「自分の記憶なのに?」
「ええ。原因不明です。他にも該当するものがあるかもしれません。マスター、何か私に質問していただけますか?」
「じゃあ、ナナキ・レッシュベル!」
魔法大全は、肩をすくめた。様になっているのがなんだかイヤだけど。
「マスターのことを忘れるなどと。歴史的な人物はどうですか? 魔法史に残るような人物は」
「じゃあ……カッシェロ・アルバーノ!」
「もちろん、知っています! カッシェロ・アルバーノ──カッシェロ……」
また額に人差し指を当ててトントンと叩く。その仕草はどことなく苛立たしそうに見えた。
「思い出せない……なんでしょう。やはり、何かがおかしいようですが、マスターが魔法を習得するのに支障はありません。さきほどの会話から察するにマスターはまだ十分に魔法を扱えないよう。一つ、お教え差し上げましょう」
そう言い切ると、魔法大全は深くお辞儀をして私の方に歩み寄ってくる。
「わわわって、顔が近い!」
「失礼。ナナキ・レッシュベル様」
人差し指が額に優しく触れた。
「私の目を見てください。しっかりと」
見てって、ちょ、恥ずかしい。
「早くしてください。時間はあまりないのでしょう」
そうだ。今日も朝から講義がある。シャワーを浴びて支度して、朝食を食べないと。
「ですから、早く。向こうへ行けば時間はたっぷりあります」
「向こうへ?」
見上げた先には黄色の瞳があった。吸い込まれそうなほどに綺麗なその瞳の中にある真っ黒な瞳孔が徐々に大きくなっていく。
「えっ……」
気づいたときには、辺り一面黒色に覆われたような空間にいた。
「魔力の波長を合わせました」
真っ暗闇のその奥から人形のフォルムが現れる。光源はどこにもないのに、はっきりと認識できるのが不思議だ。暗闇の境界をかき分けるように歩む人影は、不意に止まった。
「って、また裸!?」
服を纏っていないのは明らかだ。慌てて両手で目を覆う。
「失礼。また服の概念が抜け落ちてしまったようです。今、着ますから」
パチンと、指が鳴る。着たの? 服着たの?
「どうぞ、目を開けて構いません」
言われた通り目を開くと、そこにいたのは絹糸で紡がれた真っ白なローブを身にまとった魔法大全。
「でも、待って。その服見覚えがある。確か、エターテ・メメルの従者の」
エターテ・メメルは一人で戦っていたわけじゃない。その傍らには常に彼女に付き従う従者が一人いた。どこか幻想的にすら見える汚れのない白のローブを頭からすっぽりと被った従者。だけど、エターテ・メメルの記憶はないんじゃ……。
魔法大全はニコリと微笑むと、ローブの裾をヒラヒラさせた。
「マスターの中にあった記憶から再現した服装です。外見的には男性の服の中で最も印象が強いようでしたので、拝借させていただきました」
「記憶から再現した? どういうこと?」
わからないことだらけだ。ここはどこなのか、魔法大全とは何者なのか。まだ疑問に答えてもらっていない。
「なるほど。確かにその通りですね。なぜ、そんなに慌てていらっしゃるのか、ここへきてようやくわかりました。説明不足でしたが、お許しください」
「えっ? えっ?」
「この暗闇の空間──」
魔法大全はわざとらしく両腕を開いて、くるりと一回転する。
「なんだと思いますか?」
「なにって……なに?」
「ここは魔言空間。いわゆる原本とされる生きた魔導書のみが構築できる空間です。マスターは、ここで魔法を覚えることになる」
「私が、魔法を覚える?」
魔法の習得は、今は魔導書でしか使われていない特別な文字──神聖文字の解読から始まる。というのは、通常使用される魔導書は、セカンド。つまり、生きた魔導書のコピーのコピーだから、込められた魔力は薄いものになり、それに符合する魔法使いしか解読することができないからだ。
「その通りです。その魔導書と符合するかどうかは、魔力の多寡だけでなく適性も関係してきます。一属性しか扱えないものから、全ての属性を扱えるオールまで。ちなみにマスターもオール属性の持ち主です」
「オール? 私が、まさか──」
何を言っているのか呑み込めない。早口というのもあるけど、それ以上に内容が信じられないことばかりだった。
「順を追ってお話しましょう。私は魔法大全。名前を魔法大全と言います。マスターには、好きなように読んでいただければ」
好きなように? 魔法大全じゃ固いというか名前らしくないし、かといって全然違う名前をつけるのは変だし。
「いい名前が見つかりましたか?」
「ああ、うん、タイゼンはどうかな? 異国風の響きだけど」
「タイゼン……いい響きですね。では、そのようにお呼び下さい」
軽く頭を下げると、タイゼンは話を続ける。
「ご存知のとおり、魔導書は、魔法使いの魔言が記された書物です。そこにはその魔法使いが生前といいますか、魔導書に成る前に開発した魔法が記されています。だいたい一人につき一つ、人によっては2、3の魔法を織り込んでいます」
だから魔導書をどれだけ読めるかが魔法使いの力量とされる。魔導書をたくさん読めれば、それだけ魔法を扱えるからだ。一つの魔法だけしか扱えないよりは、複数の魔法を扱えた方が有利。
「ただ、生きた魔導書だけは魔法使いの魂が宿っています。つまり、魔法使いそのものが魔導書に成っているのが生きた魔導書。生きた魔導書の特徴は、今言ったように魔言を解読せずとも直接魔法を教えることができる点にあります」
前髪を直す。その指が震えていた。直接魔法を教えることができるということは、魔言を読まなくても魔法を覚えられるということ? 魔導書を読めなくても魔法が使えるようになるということ。
「お察しの通り。ナナキ様がたとえ魔導書を読めなくても、この空間で魔法を教えて差し上げることができます。そして、この魔法大全は8属性全ての魔法を──私が記憶している限りですが──習得している。マスター、つまり魔導書としての私を扱うことのできる主であるナナキ・レッシュベル様は思うがままの魔法を扱えます」
「待って」
だとすると、まだ疑問が沸いてくる。なぜ、私なのか。そして、魔法大全は一体誰なのか。魔法史で習った人物の中でもオールの魔法使いは限られている。『魔法使いの始』であるカッシェロ・アルバーノか、『光の女神』エターテ・メメルか。
「その2つの疑問に正確に答えることはできません。私の記憶が封じられているようですから。おっと、言い忘れていましたが、魔言空間では、マスターの心を読み取ることができます。私の魔力とマスターの魔力が一致しているので。つまり、おそらくは、そういうことです」
「どういうこと?」
首を傾げる私にタイゼンは優しく微笑みかける。その仕草までもが想像していた従者と被る。って、この気持ちも読み取られるのか? 早く言ってよ、もう。
「私と符合できるのが、膨大な魔力を有するマスターしかいないということ。そして、私もマスターもなぜだか制限が掛けられているということです」
「制限?」
「はい。私の場合は記憶の一部にアクセスできない。そして、ナナキ様はその身に膨大な魔力を有しているにも関わらず、魔言を、神聖文字を読み解くことができない。その理由は気になるところではありますが、今は置いておきましょう。なぜなら、私達魔法使いは魔法を使えるかどうかが全てですからね」
タイゼンは説明は終了とばかりに手を叩いた。どこか挑発的な視線をこっちへ投げかける。
「では、実践へ移りましょう。あれこれ理屈を並べるよりも動いた方が早い。なんでしたっけ。『こねくり回すよりも耕せ』でしたっけ?」
「……そんなことわざ知らない」
「なるほど。では、火、水、風、土、雷、光、闇、無──何から始めますか?」
決まっていた。もし、なんでも魔法が使えるのなら使いたい属性はこれだと。一度は諦めかけた夢だから、口に出すのは躊躇がある。
「いいのですよ。なんでもおっしゃってください。私が教えて差し上げられるものならば、全力でナナキ様の願いに応えます」
「……うん」
拳を握り締める。強く、強く。
「光の魔法。私は、エターテ・メメルのようにならなきゃいけない。約束を果たすんだ」
言った。言ってしまった。浮かぶのは、入学式のあの記憶。新入生と先輩達を前に同じことを言っていた。緊張しながらも笑顔で。そのあとすぐに起こることなんてまだ何も知らない私は、ただただ希望に満ち溢れていて、たくさんの拍手に包まれていた。
だけど、今度はあのときとは違う。笑顔なんて起こらない。バカにされたっていい、けなされたっていい。私はもう、諦めないって決めた。
目の前にいるタイゼンは目を細めて大きくうなずいてくれた。
「マスターの決意、受け取りました。それでは光の魔法の基本魔法、光球を習得します。手をかざしてください」
「こ、こう?」
見よう見まねで腕を上げる。魔法を覚える初歩は、魔言の練習だと聞いていた。魔導書を手元に置いて、何度も魔言を唱えるんだ。
「必要ありません。あれは、魔言から読み取ることしかできない者のやること。私と、マスターの場合は違います」
「このポーズは何か決まりがあるの?」
「ありません」
えっ……じゃあ、どういう。
「ふふ。マスターは、光球をどんな魔法だと思っていらっしゃいますか?」
「どういうって……」
光球は、光を創り出す魔法だ。魔法使いによって大きさは変わるけど、だいたいあのマルメ魔導書店のオナベルさんがやったように部屋を照らす程度の──。
「違います」
あまりにもバッサリと否定されたからすぐに反応できなかった。タイゼンは言葉を続ける。
「光球に限らず、全ての基本魔法は実は最も実用的な魔法なのです。光の球を創り出すという極めて単純な現象ですからね。ですが、使い手の実力が伴えばこのように」
タイゼンの口が素早く魔言を結ぶ。途端に暗闇の世界が白光に包まれた。眩し過ぎて目を開けていられないほどの。
「うわっ!」
光が体を突き抜けていく。目をしっかりと瞑っているのに関わらず、光源に呑み込まれたみたいに明るい。辺りが暗闇に包まれたのを確認して、少しずつ目を開けた。
タイゼンの掌の先では、まだ光と闇が入り交じっていた。暗闇が深すぎるからか、光は通過できずに上空を漂いやがて闇に吸い込まれるように消えていった。
「どうですか?」
「どうって……」
鼓動が高鳴って、上手く言葉が出ない。過ぎ去るまではほんの一瞬だったけど、確かに『熱』を感じた。あれがもっと長く続いていたら。
「死にますね」
当たり前のようにそう言うタイゼンは、変わらず笑っていた。
「死ぬって、そんな簡単に」
「妙なことを……。ああ、なるほど、マスターの気持ちは了解しました」
心の内が読まれた? まだ何も考えていないのに。
「景色が見えますから。学校? でしょうか。ナナキ様と同じような若い魔法使い達が机を並べて学んでいます。実に、平和的に。なるほど、今はこうなっているのですね」
……そうか、タイゼンは過去の魔法使い。もしかしたら、今のような一応の秩序も存在しないような遥か過去の……?
「そうです。私は──」
「ん?」
タイゼンは、苦々しく唇を噛むとため息をついた。
「まさか、また?」
「今確かにあったはずの記憶がなくなりました。忌々しい。ただ、ナナキ様。人は簡単に死にます。今が平和に映ろうとも、ひとたびことが起こればあっさりと。これは悲観でも諦念でもなく、単なる事実です。このことは、覚えていてくださいね」
にこやかに述べられたはずなのに、背中がゾワァと冷たくなる。背中に氷柱を入れられたときのように。
黄色の瞳が鋭く光った気がした。
「まあ、ですから対抗する魔法、回復する魔法も生まれたわけです。気軽に1発魔言を唱えてみましょう」