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第66話 ブラックコーヒーを一杯

 黒衣が翻る。白い息を一つ漏らすと生きた魔導書の一つ、魔法大全は魔言を呟いた。


 寒々とした林の中から賑やかな大通りへ一瞬のうちに移動する。もう慣れた行為だが、タイゼンは使う度に便利さを実感していた。


 いつの頃か正確に思い出すことは本人にも不可能な過去の一地点、つまりはタイゼンが普通の人間として生きていた頃。魔法は争いのための手段、道具でしかなかった。


 仲間たちは死と隣合わせの戦場でたたかい、日々散っていく。日々、生き残るためにより強力な魔法が開発されていく。他よりも強く、他よりも速くなければ死の連なりから逃れることはできない。


 その連なりの中のどこで自身は死を迎えたのか、どこで普通の人間から魔導書へと変わったのか。肝心の記憶はまだ頭の片隅に眠ったままだ。


 ところどころ変色した灰色の石畳の表面には薄っすらと氷が張っていた。転ばぬように速度を落として注意深く歩いていく。道行く人々がすれ違う度にちらりと視線を向けていく。


 陽気な天気のなかで黒衣が珍しいのか、それとも褐色の肌が珍しいのか。どちらとも判別はできないが、タイゼンにとっては不愉快ではあった。


 聞こえるようにわざと舌打ちをする。狙われた小動物のように怯えたような表情を浮かべて逃げていく姿を見ることで少し溜飲が下がる。


 喧嘩なら買うが暴れるわけにもいかない。タイゼンの生きていた時代と違い、今は表面上は平和なのだ。争いは忌諱されるべきものであり、武力の誇示ではなく話し合いで解決することが優先されるべきことでありそれができることが優秀であるとされる。


 不自由極まりないが、自由も数多くある。なにせ今ならば周りを警戒することなく、ゆっくりコーヒーを味わうことができるのだ。


 大きな一枚板で作られた看板に書かれた『魔女の宴』の一部分が屋根から垂れてきた水滴に濡れて、テラテラと光っていた。ピークは終えたのか、外までできていた列はなくなっていた。


 ドアに付けられたベルを鳴らしながら再び店内へと足を運ぶ。出迎えてくれたのは、店主、カニャ・キャンダルだ。


 カニャは瞳をわずかに開くとすぐに笑顔になり、タイゼンに向けて気さくに手を振った。


「あら、おかえりなさい。タイゼンちゃん。どう? 感動のお別れだった?」


「別に。まあ、普通だな。お互い永遠の別れでもないし、会おうと思えば会える距離だ。大袈裟なんだよ、ナナキは」


「そんなこと言って〜心配だから見に行ったんでしょ?」


 質問には答えずに肩をすくめると、タイゼンはゆったりとした足取りでカウンターへと向かう。暖房の火がリズミカルに音を爆ぜていた。


「コーヒーを一杯。もちろん──」


「ブラックね」


 横目でカニャの顔を見やると、ハットを目深に被り直した。


「ああ」


 くぐもった声はすぐに客の笑い声に掻き消えていった。

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