第6話 男が侵入した!?
ベッドから逃げるように床へ落ちたせいで、腰を強く打つ。でも、そんな痛みを気にしてる状況じゃない!
「だ、だれ!? ちょ、動かないで! 叫ぶよ!」
「もう叫んでいるではないですか、マスター」
穏やかな声でそう言うと、全く見覚えのない男は毛布から抜け出して、床へと足を運ぶ。いや、だからそうすると見てはいけないものが見えてしまうわけで。
「なぜ、目を瞑っているのですか、マスター」
「自分の体見て言ってよ!」
「体、ですか? 警戒されないようにマスターと同年齢の男性の身体を纏っているはずですが。もっと大人の方がよかったですか? それとも子ども」
「そうじゃなくて! 裸、裸! とりあえず毛布かぶってよ!」
「腑に落ちませんが、マスターがそうおっしゃるのなら」
毛布が擦れる音が止んだところで目を開ける。男は、毛布にくるまったまま顔だけを出して微笑みを浮かべてこっちを目ていた。
「こうでよろしいでしょうか?」
「……えっ? えっと、まあそれでいい──じゃなくて! ちょっと待ってこの状況を整理するから。朝起きたら」
「私がマスターの横に」
「そうそう、貴方が横に寝ていて」
「迂闊でした。眠ってしまうとは、最近の寝具は肌触りがいいのですね」
「そう、寝てた。裸で」
「確かに服はまだ纏っていませんでした。何分この身体も外側に纏っているので、気がつかず」
「いや、違うな」
「はい?」
「なんで男が私の部屋にいるの!?」
当然の疑問が最後の最後に出るとは、相当に混乱している。本当に混乱している。昨夜はちゃんと鍵を掛けて寝ていたし、部屋にはもちろん誰もいなかった。窓は開いてないし、どっから侵入を! というかなぜ侵入を?
「ああ、その答えは実に簡単です」
男の体がもぞもぞと動く。まさか、何? 立ち上がろうとでもして──!!
「貴方が私のマスターだからです。マスター、ナナキ・レッシュベル。申し遅れましたが、私は魔法大全。貴方が持つ生きた魔導書です」
「わかった。わかったから、まず服を着て!」
ん? 今なんて言った? 魔法大全? 生きた魔導書? 恐る恐るなんとか顔だけを見ようと片目だけを開ける。そこにあるのは、間違いなく男の顔だった。シューレスタットでは珍しいやや褐色の肌に、高い鼻、ぱっちりと目力の強そうな黄色い瞳。全体的に柔和な印象を与える顔だが、魔導書なんかではない人間の顔だった。
「信用されていないと見えます。当然です。すぐに信用されても困りますから」
「いや、あの……」
「それでは、これならどうでしょう」
男は、顔の横で指をパチンと鳴らした。
途端に毛布がふわりとベッドの上に落ちていく。男の姿が消えたのだ。いや、消えたんじゃない。床に、それまではなかったはずの魔導書が落ちていた。真っ黒な表紙は昨日もらった生きた魔導書。念のためにと視線をテーブルにずらして確認するも、そこに置いたはずの魔導書はない。
「……貴方は本当に、生きた魔導書なの?」
「そうです。マスター、ナナキ・レッシュベル」
本から男と同じ声が発せられる。とても信じられないことだけれど、生きた魔導書は人と同じような姿を持てるらしい。
「それでは、人形に戻ってもよろしいでしょうか?」
「えっ、う、うん! あっ、でも服は──」
瞬く間に魔導書は消えて、代わりにベッドの前に男の姿をした魔導書が現れた。タイトな黒のコートにより色の深い漆黒のローブを羽織った男の顔を改めて見上げる。両耳を覆うほどの黒の髪の毛は、絹糸みたいに滑らかで爛々と輝く瞳はどこか子どもっぽさを残している。背は高く、しなやかに伸びる手足が瞳の印象と合わせて俊敏さも窺わせた。……っていうか、めちゃくちゃカッコいいんじゃ。
男はその場でひざまずくと、微笑みをたたえた顔を上げて真っ直ぐに私を見た。
「同じ過ちは繰り返しません。改めて、魔法大全と申します。マスター、私を入手した貴方なら全ての魔法を修得することができるでしょう。私の知っていた範囲に限りますが。して、まずは何から始めますか? 視界を猛火で覆い尽くす烈火か、あるいは鞭のようにうねる電鞭か、先に回復魔法を覚える手もございますが」
「あの……」
人はキレイなものを好むものだ。人によってその基準は違うとはいえ、人は誰もがキレイなものを追い求める。だから、この彫刻のような整いまくった容姿に、一瞬瞳を奪われたじろいでしまうのも無理はない。だが、私はこの瞬間に気付いてしまった。
この魔導書はきっと、話が通じない。
「そんな怖い魔法はいらないんです。というか、そもそも急にマスターとか、魔法大全とかどういうことですか?」
「ですから、マスターはマスターです。魔法大全は私のこと。どうぞ、遠慮なく魔法大全とお呼び下さい。マスター」
いや、だから。マスターの意味とか聞いているわけで、だいたい魔法大全って名前? 名前なの?
「えぇっと──」
どう聞いたらいいものかと言葉を選んでいると、ドダダダと廊下を走る音が聞こえてきた。
「そうだ! 叫んだから──」
後ろのドアに飛びつくと全く同時くらいに激しくドアがノックされた。
「ナ、ナナキ!? 大丈夫? 何だかすごい断末魔みたいな叫び声が聞こえたけど!」
いつもはのほほんとしているカルルカの声が深刻そうに焦っていた。それはまあ、早朝から変な声が聞こえたらさすがのカルルカも動揺するのか、とかなんとか感心している場合じゃない。
「あはは、おはよう〜カルルカ〜。大丈夫〜ちょっと、ちょっと寝ぼけてて、カニャさんに無理矢理コーヒーを飲まされそうになった夢を見ていただけだから」
口からでまかせとはいえ、なんというウソ。寝ぼけてるのか、夢を見ているのかどっちだよ。
「本当? だって、ゴーレムが振り上げた拳に潰されそうになるくらいの悲鳴を上げてたよ?」
どんな悲鳴だ。
「いや〜大丈夫! ごめん、本当!」
ためらいがちに「えっと」とか「うーんと」とか言ってなかなか安心してくれないカルルカ。心配してくれているカルルカを騙すような言い方は気が引けるけど、どうぞと部屋の中に引き込むわけにはいかない。私自身まだよくわかっていない、魔法大全とやらがいるんだから。
あっ、そうだ。
「あの、カルルカ、昨日はありがとうね。私のかばん持ってきてくれて、あの、手紙嬉しかったよ」
話題を変えてみることにする。それに、手紙が嬉しかったのは本当だし、どこかで伝えようと思っていたから嘘にはならない……よね?
「それは全然。ナナキ、本当に大丈夫? 昨日、結局講義に戻ってこなかったし、心配してたら朝悲鳴が聞こえたから、もしかしてナナキに何かあったんじゃないかと」
「あー昨日は、ほら感情が昂ぶっちゃって! でも、もうね、大丈夫だよ」
「……本当?」
なおも不安そうな声。でも、まあ、確かに急に怒って講義抜け出して帰ってこなかったと思ったら朝から悲鳴が聞こえたら誰だって心配するはず。でも──。
「うん、全然大丈夫だよ!」
と声を弾ませるしかなかった。こんなことをしなければいけない元凶となった生きた魔導書は、興味がないのか暖炉の前にしゃがみ込んで手を暖めていた。いや、おい。
「ナナキ……」
「うん?」
カルルカの声に振り返る。ドアに当てられていた手がそっと離れたような気がした。
「ナナキがそういうならきっと大丈夫なんだよね。だけど──」
「だけど?」
「エターテ・メメルのこと、気にしないでいいよ。魔法史の講義で習ったけどさ、いろんな魔法使いがいるし、今みたいに学院がない昔の魔法使いなんて魔法を習得する過程はみんなバラバラ。だからナナキも、自分のペースで魔法を覚えていったらいいんだよ。私ができることがあればなんでもするから」
「カルルカ!! あーなんてもう、なんてもう!」
今すぐ扉を開けて抱きつきたかったが、そうはいかない。あーもう、もどかしい!
「ありがとう、カルルカ! じゃあ、後でカルルカの創ったゴーレムを見せて!」
それから二言三言言葉を交わすと、カルルカはいつもの声で「バイバイ」と離れていった。レンガの廊下を歩く足音が遠のいていく。完全に聞こえなくなるまで待って、私はドアから離れた。
「お話は終わりましたか?」