表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

後編の1


34.



前期のテストが終わって、瀬奈は大学の教室を出た。

結果は、散々。

伯母に何て報告しよう?・・それを思うと頭が痛かった。




「ねぇ、よそ者が、邪魔してんじゃないわよ。」


そんな時、廊下に3人組の女が立ち塞がり、意味不明の罵声を浴びせかけられた。

見れば、いつも高子の周りにいるメンバーだ。


「何のこと?」「小野さんと付き合ってンのって、あんただったのね。

呆れた。高子様が小野さんをずっと想い慕っていたこと、周りで知らない者はないのよ。

わずかな隙間を縫って、ちょっとうまくやったからって、いい気になるんじゃないわよ。」


とり囲まれ、行く手を阻まれる。「そんなこと、知らなかったですし・・。」ほぼ言いがかりに近い。


「ふーん。じゃあ教えてあげたから、別れなさいよ。」


「そんなこと言われても、それは筋が違います。」融さんが、私がいいって言ったから。不遜に聞こえるが、瀬奈としては、そう答えるしかなかった。



そんな答えに、取り巻きメンバーらは、ちっと舌打ちをして、

「高子様はね、小野さんの神社にお嫁入りしても困らないように、

小さいころから、琴や踊りのお稽古をしているのよ。年季が違うの。あなたできるの?」


「・・それは・・できません。けど。」


「そーでしょ。・・の下で体くねらすのは上手かもしれないけど。」ははははと、3人に下衆っぽく笑われる。・・何で、そんなこと言われなきゃいけないの?怒りで体が熱くなる。


「ほんと。相応しくないってこと、自覚しなさいよ。

でも、高子さまは、けなげよ。

『いいんです。今は惑わされているだけです。私が欲しいのは心だけ。過去も、気にしません。きっとそのうち目が覚めて、私の深い気持ちをわかってくださいますわって。』

そうおっしゃるのよ。」

だから?・・瀬奈はただ頭を押さえる。恋に恋する夢見がちな台詞。返す言葉が無かった。


「すいません。次の授業行きたいので。通してください。」

瀬奈は、強引に、突破した。しかし相手はまだ言い足りないのか、後ろから次々と言葉を浴びせてくる。


「長谷家くらいの家柄でないと小野家に釣り合わないわ。あなたの実家なんて、破産したって聞いたわよ。」どうしてそれを?瀬奈の顔色が変わる。

「それに第一地元のしきたりなんか、全然知らないでしょうが。それで地元に根付く神社の嫁になんかなれるわけないでしょ。恥かく前に、とっとと、国に帰ったら?」


瀬奈を貶める言葉が突き刺さる。でも、刺さった所から血が噴き出して傷だらけでボロボロになっても、

はいそうですか別れますなんて言うわけにはいかない。瀬奈は、歯を食いしばった。


くるっと後ろを向く。

「すいません。ご助言ありがとうございます。

でも、私は融さんと付き合ってるだけ。神社のことも地元のこともわからない。

今はただ、あの人のことが、好きなだけです。

・・だけど確かに。知らなかったこととはいえ、少し前に出会ってしまって、高子さんをガッカリさせてしまったことは悪いとは思ってます。でも、

恋って、そんな・・思ったからって必ず叶うなんてものじゃない。

それに譲れるものでもない。わかってください。」

そうキッパリと言って、また歩き出す。


出会った直後くらいならまだ間に合ったかもしれない。でも、もうダメ。彼から目をそらすことすら出来ない。

きっと、誰にも分からない。こんな苦しげな胸の内。

そして、融さんの苦しさも、きっと私以外の誰にもわからない・・。



融はあれからしばらくは、神社で寝泊まりしていた。

ある朝、手水場で顔を洗っていると、コーギーを連れたトヨキチおじさんが通りかかって、

そして、おじさんは、じいさんからの話をなんだかんだ伝えてくれた。


「まあ、あんなことやった割には、じいさん萎れてるぞ。

ずっと一人も、寂しいもんだからな。

帰ってやれよ。融。じいさんも、少しは反省してるって。」


「そう。」本当かな?と懐疑的な気持ちはわき起こったが、

それでもじいさんが弱ってることを伝えられるにつれて、意地になっている気持ちはまた揺らぐのだった。反抗も、相手が受け止めてくれるから出来るのであって、

かよわい老人ぶりを見せつけられると、こちらとしても、折れざるをえない。


「まあ、お前が怒る気持ちわかるよ。

あの子、いい娘だよな。なのに、たかだか地元じゃねえよそ者って言うだけで、頑なに反対してよ。

おまけに、これ見よがしに長谷家のお嬢さんを持ち上げたりしてな。ありゃ嫌味だったわ。

俺んちの娘も頭から湯気吹いて怒ってたぜ。」


へーー?融としては、

意外な味方の出現に少し驚いていた。


「俺も、じいさんに言ってやったから。

融、小さい頃からいろいろとあったろ。そのせいで、

自分を通さず、人が言うより先に我慢してしまうタイプに見えてたから心配だったけど、

自分をあれだけ出すのは、初めて見た。これは安心だ。痛快だったよって。」

そんな言い方をする。そんな風に見られていたのかと、ちょっと苦笑いしてしまうが、

トヨキチさんはトヨキチさんなりに、心配してくれてたんだなぁと感じた。


「まぁ、これは、ウチの孫の信からの受け売りなんだけどさ。

じいさんも、結局若ぇもんが、折れてくれてるってことわかんなきゃいけねーよな。だってさ。それそっくりじいさんに、言っといたし。

そしたらじいさんの返事は、そんなこと、わかっとるだってよ。」

本当にわかってんのかねぇ?そうは言いながら、トヨキチおじさんは、

「まあ、とりあえずまたケンカしに帰ったらどうだ?わだかまってるだけじゃ、解決になんねえし。」そんな執り成しで、家に戻る気になった。


まあ融としては、意地を張ってはいたが、

内定先からの郵便は実家に着くので、どうせ取りに行かなければいけないし。という所もあったので。

タイミング的に、いい落とし所だった。


しかしトヨキチおじさんは、それに付け加えて、こんなことも。

「お前のあの娘、いい子だなぁ。くるくる働き者でよ。

もううちでは、みんなあの娘のファンだぜ。うちの信の嫁に来てくれるんだったら、即、オールOKなのに!」


その言葉に、融は、一瞬感情をサカナデされて、むっとなった。トヨキチさん、一言多いって。


「うん。じゃあ家戻るよ。トヨキチさんありがとう。

瀬奈にも言われたんだ。・・じいさんは、じいさんなりに、僕に良かれと思ってやってるから、許してあげなよってさ。」


ほう・・やっぱりいい子なんだなぁ。・・トヨキチおじさんは、そんな融のことばに感心したようにそう言葉を漏らした。





35.




「融。」

朝、家を出掛けにじいさんから声を掛けられた。


「何?」振り返る融。

「この郵便は何だ?」じいさんが、つきつけてきたのは、内定先からの書類。袋が開けられていた。「あ・・勝手に開けたな?」


「転勤可能って?お前、この土地を出る気なのか?」

怖い顔で、問い詰められる。

ああ・・ギリギリまで秘密にしておこうと思ってたのだが・・。



「しょうがないんだよ。そう書かないと、就職なんて決まらないんだから。」融は、そう言って誤魔化そうとしたが、

「許さんぞ。」

じいさんのそんな頭ごなしの言い方に、ムカついた。意地になって言い放つ。

「許さなくても、出て行くよ。こんな所にいてられないよ。」

また言い合いだ。


「ここを継ぐのは、お前しかいないんだぞ。」

「確かに、その為に、僕は育てられたんだね。でも、僕自身にも意思はあるし、やりたいことはある。」

そうは言い返したが、やりたいことなんて・・本当にあるんだろうか?心の奥に自問自答が浮かび、揺らいでいる。


「わしだって・・。」じいさんが、何か言いかけた。「意思はあった。」

「出ていきたかった。」

え? 初めて聞く話に、融に衝撃が走った。


「・・・だが、人間が一人でできることなんて所詮小さい。天秤にかけてみるんだ。

この大きな世界の潮流の中で、人々の意志を繋いで次に渡すことに比べたら、一人なんてたかがしれてる。何ができる?

それが、わからないのか。見えないのか。」


激してそう言った瞬間、じいさんの体がゆらりと傾いだように見えた。


え?!目を疑う暇さえもなく、そのまま崩れ落ちるようにじいさんは倒れた。

「じいさん、じいさん!」

融は、とり縋り、慌てて救急車を呼んだ。




「あれ、君って、融の・・。こんなところでバス待ってても、来ないよ。

どうしたの?」

車が急に停まり、窓から顔を出して、話しかけてきたのは、トヨキチさんの孫の、あの例大祭の日、和太鼓を奏していた、信さんだった。落ち付いた物腰の、おだやかな声。


確かに瀬奈はその時、やっと病院行きのバス路線を探し当てて、バス停にまでたどり着いたのだが、

発車時刻表を見ると本数は朝に数える程。もう今の時間は走ってないようで、途方に暮れていたのだった。


「あの。西星会病院ってどこにあるんですか?遠いの?

バスもう無いし。ここから、どうやって行ったらいいんでしょうか?」信さんに、矢継ぎ早に質問をする。

タクシーも考えたが、あまり遠くだと、手持ち金が心許ない。


困っていた。融から急にメールが入ってて、『悪いんだけど、西星会病院に来てくれないかな。』とだけあって、

なぜ?それってどこ?どうやって行くの?と質問を返したが、忙しくしているせいだろうか、なしのつぶてで、返事がなかったこともあり。


「ああ。そういや融のおじいさん、また入院したって言ってたね。その病院?

おじいさん、悪いの?」

「いえ。それは、大丈夫と聞きました。先日倒れたのは、血圧が上がっただけだったって。

それはそう連絡もらったんですけど・・。今日は何故か急に呼びだされて。」


「そうなの。融も大変だね。

よかったら、送って行ってあげるよ。乗って。」そういって、助手席を示す。

「病院、ここの山の裏側にあるんだ。バスで行くと、大周りするから、車の方が案外近い。」


「いいんですか?時間とか?」そう言いながら、瀬奈は乗り込んだ。

ちょっと座席の高い、ワンボックスカー。

後ろには、大きい、お祭りの時に見るような大太鼓が乗っていた。


「ああ。今日は丁度、太鼓受け取りの日でさ。仕事はいつも遅出だから。大丈夫だよ。」

そんな意味不明な言葉を返して、信さんは、車を発進させた。

・・・よくよく聞くと、地元の和太鼓サークルを指導していて、練習場所と練習用の太鼓の確保に苦労してるらしい。

小学校の備品の太鼓を金曜に借り受けて、日曜に公民館で練習して、また月曜に返しに行かなくちゃいけないだそうだ。


「だからこの車、週末ほとんど太鼓がでーんと場所とってて邪魔だって、じーちゃんも母さんもねえちゃんも、文句ばっか言ってるよ。」

そんな話に、瀬奈は、くすくす笑った。そうか。信さんは、小さい頃からずっと和太鼓一筋に続けてるんだ。いいなぁ。


「そういや今度、稽古場ライブあるけど、来る?招待状あげるから。融と一緒に来てよ。」前を見ながら、何気なくお誘い。


「太鼓だけでライブ?ですか?」

鼓笛隊の太鼓くらいしか、思い浮かばない瀬奈は、そう聞き返した。


それに対して信さんは、

「そうだなぁ。見てない人には、想像もつかないか?」とくすっと笑い、

「まあ、来てくれたらわかるよ。子供たちも、結構みんな上手だよ。」


「ええ。じゃあぜひ。」

そんな話をしているうちに、大きな病院の建物が見えてきた。


信さんは、慣れたようにその入口付近に車を停めた。


するとそこに、

「瀬奈!」

声が聞こえた。駆け寄ってくる人影。融だ。


その姿に気づき、

「ああ。融。君の彼女、困ってたから、送り届けたぞ。」

信さんは、手を上げて、そう挨拶して、


「あ、そうだ。瀬奈さん。これ」と思い出したように、カバンから、和太鼓のライブチケットを2枚出して、

手を伸ばして渡した。


「ありがとうございます。」笑顔でそれを受け取り、

瀬奈は、頭を下げて信さんの車を見送った。



そして車が見えなくなると、

融は、なんだか不機嫌そうに瀬奈に突っかかってきた。



「何で、信に送ってもらってンだよ。」「たまたま通りかかって。

だって、私、病院どこにあるのかも知らないし、途方に暮れてたから。それでバスの乗り場探してたら、そこ今の時間バス来ないよって、信さんが声かけてくれて・・。」


まだ融はムスっとしている。

「そんなライブのチケットまでもらって。どんなに話がはずんだのさ。」「・・・。」

「タクシーで来たら、いいだろ。僕がお金払うのに。」八当たりも甚だしい。

「だって。・・私、地元じゃないんだもん。そんなの急に来いなんて言われても場所すらわからないのに、タクシーなんて乗れないよ。」瀬奈のつい漏らした一言で、

なんだか二人は、ぎくしゃくした。




沈黙が降りる。


「ごめん。悪かったよ。もとはと言えば、僕が急にこんな所に、呼びだしたから・・。」

少し思い直したようで、融の方から謝った。


「・・どうしたの?急に。」

手を取り、二人で、空いている待合室の一番後ろの席に座る。


「じいさん。倒れたときに、救急車でたらい回しにされたからさ、こんな辺鄙な所の病院で。

しかも完全看護じゃないんだ。入院の手続きもまた1からで。役所とかヘルパーさんの手配に忙しくて、

君にずっと会えなかったから・・。でも院内では電話も掛けられないし。

もう、これは君に来てもらうしかないと思って・・。」


「おじいさんは、大丈夫?」「うん。特に問題はなかった。心配したけど、例大祭で少し無理して疲れがたまっていたところに、血圧が急激に上がったせいだって。人騒がせだよ。

だけど年が年だからさ。大事をとって少し検査するから1週間ばかり入院って言われて・・。」

「僕が、大丈夫じゃないよ・・。」はあっと溜息をついた。


「瀬奈が・・足りない。」融は、そう言うなり、

人目もはばからず、瀬奈の体に手を回すと、ふわっと抱きしめた。

冷房の効いたちょっと寒いくらいの待合室で。触れ合ったところが温かく、

心まで、じーんと来る。「私も・・会いたかったです。」二人はしばらくそのままでいた。


誰でも体温は同じくらいなのに、

なぜこの人と、こんなに触れ合いたいんだろう。

そして、どうしてこんなにも心にまで沁み渡るんだろう。



「実は相談したいことがあってさ。

ずっと考えていたんだけど・・突拍子もない話だから・・瀬奈にしか言えないし。」


「何?」瀬奈は、問い返す。


「あの、神社の社で僕らが見ていた夢。夢の続きが気になって・・」


・・そうだった。

クロは、あれからいつも神社の楠に登っていた。焼け焦げたその枝に体を埋め、

そして遠くを見遣って。


それを見たとき、瀬奈も実家の方向を探したが、

この地は盆地で、それ程高い山はないが、周囲全部の視界を阻まれて、遠くを見渡すことはできない。

そこだけが隔絶された世界のように、閉塞している。


瀬奈の胸の奥にも、

夢の中での、いやな予感がまだ残っていた。

あちらのお妃様も、一家が離散した。寄る辺ない・・身。


こうやって、眺めていたんだろうか。

見えない場所を見遣って。

なすすべもないままに。



「みぃやを・・あの夢の中の飼い主に返してやりたいって思って。

それで・・調べ物してたら、

神社の神庫で、こんな紐綴じの本を見つけて。」




36.


鞄から出して来たのは、

ボロボロの和紙の束、表紙だけ後付けなのか少し新しい紙が貼ってある代物。

墨で書かれた文字のまわりに虫食いがあったり、いかにもな時代を感じる。

表紙の文字は、かろうじて和邇神社百五代宮司と読み取れた。

日記のような、周りに起こった出来事の書付けのようだ。


慶長9年・・江戸時代最初のころ、不思議なことが起きた。

飢饉に苦しむ領民の前に、雨乞い祈祷の後、地が大きく揺れ、突如豪華な牛車が現れたと。


百八代の周辺雑記にも、出てくる。元文4年、その150年ほどのち。

また祈祷の後、今度は一転空が真っ暗となりこぶし大の雹が降り注ぎ、その最後に屏風が降ってきたと。


そして和邇神社では、その屏風は神様からの預かり物と考え、

次の雨乞いの祈祷のとき持ち出され、お返しいたしましょうぞと、巫女が感謝の舞を舞うと、つむじ風が巻き起こって、空高く跳ね上がり、一瞬に消えたとある。


他にも、一夜にして、文書を食い荒らすねずみがいなくなった話。

祈祷の後、雷が轟き、突風が吹き、地を揺るがす地震があり、そして何かが現れる。そして消える。

そんな話が、次々と見つかった。


「そして祖先が、雨乞い祈祷のよりどころにしていたのは、この書らしい。」

融がまた奥から出して来たのは、何度も写本された「陰陽五行書」。

各人で、自分なりの研究や解釈を書き加えていた者も多かったようで、

いろんな人の名前で、何冊もあったそうだ。

そして次に出して来たのは新しいノートで、融の字で、それらを全て書きうつし、そこにいろんな文字や数字を書きくわえてあった。


「僕なりに考えてみたんだ。

みぃやが来た日。その日は水の陰の日にあたる。方位は庚・・西方だ。

陰陽五行説とは、中国でおこった陰陽思想にと五行説の考え方が合わさったもので、基本は、木、火、土、金、水の五行があって、それぞれ陰と陽がある。

木が燃えて火が生まれ、そして火が燃え尽きて土に返る。

しかし土は水を濁して、流れを堰止める。

水のつかさどる陽の日に、乙・・東方より雨雲を呼んで、また雨を降らせれば。その水がせき止めていたモノを押し流し、前回と逆に流れるんじゃないかと思う。

そのひずみに、僕らの願いが通れば、みぃやは、飼い主の許に戻れるんじゃないだろうか?」


「そんなこと、本当に?」できるの?と、半信半疑な瀬奈。


「わからないけど。やってみようよ。

古代から人々は、祈りを捧げてきた。その歴史がずっと続いていることには、きっと何らかの有効性や意味があるんだよ。

とりあえず、みぃやが、あちらから来たことはほぼ間違い無いし。来れたのなら、帰れるはずだろう?それに僕らができることは、これくらいしかない。・・だって、

瀬奈は、いいの?あのままで。」思い出す、悲しげなみぃやの声。そして、泣いていた夢の中の瀬奈。

いやだ・・このままでは、絶対に。


「でも、じゃあ、何をすれば?」瀬奈は尋ねた。


「雨乞いの儀式をする。この書に則ってやってみよう。

ほとんど、この前の例大祭と同じだよ。祝詞をあげて、次に巫女が舞を奉納する。ただ、このまえ長谷家のお嬢様がやったようなぬるい舞じゃない。剣舞だ。かなり激しい踊り。」

古代から・・人々は願いを神に、祈った。そう。昔から変わらず。

そしてそれはバーターなものだ。願いが大きければ大きいほど、その踊りも過酷になる。

神楽舞を奉納していたのは、おそらくずっと、その歴史の始まりから遡る。きっと昔は、命を賭けて踊っていた。


「そして瀬奈。君が舞うんだ。この思いは、他の者には任せられない。

みぃやの為に。そして、平安時代の・・僕ら二人の為に。」

間違いはなかった。あれは、夢で見たのは、あの時代にいた、僕らだ。


「でも、そんな。急に神楽舞を舞えなんて言われても?」瀬奈は、戸惑った。


そんな瀬奈に、大丈夫。この土地のおばさんは、みんな踊れるから。

トヨキチさんちのおばさんに教えてもらえるよう、お願いしよう。


「この舞を踊ることは、特別な意味を持つ。

だからこれは、君をこの地に縛ることになるかもしれないと、躊躇していた。

でも・・君に・・やってほしい。」


「わかった。やる。やってみる。」瀬奈は、決心して答えた。

心の中に、いろんなもやもやとした不安は感じたが・・それでも、やるしか方法はないような気がした。





その夜、下宿に戻ると、クロがやってきた。

胸に抱いて、話しかける。

「クロちゃん、困ったね。ほんと、どうしたらいいんだろう?」

にゃあ。と小さく答え、トレーに入れてあげたキャットフードを、はぐはぐとおいしそうに食べた。


「・・前期のテストすごく悪かった。こんなじゃ、伯母に報告できないわ。

大学を辞めろって、言われるかも。

私、器用じゃないから・・2つのことを両方いっぺんにできないよ・・。どうしよう。」

呟く。


「帰りたい?」クロに聞くと、にゃあと、また小さく答える。

よしよし・・頭を撫でる。クロは、その日は、瀬奈のお布団で眠った。


それから・・

瀬奈の夏休みは、ほぼ神楽舞の練習に費やされ、瞬く間に過ぎて行った。



そして今日は、水の陽の日。

祭壇をまつって、融と瀬奈は、極秘に準備を進めていた。

折りしも、その夏は異常気象で、日照りの日が続き。

そして不思議なことに、

まだ、蝉の声を聞いていなかった・・。




「小野さん、私・・。」

融は、用事が済んで神社へと急いでいた石段の手前、鳥居あたりで呼びとめられて、振りむいた。

見るとそこには、長谷家のお嬢様。長谷高子の姿が。

待ち伏せていたのか?


「なに?」息を吐いて融は、仕方なく返事をする。

急いでいるのだが、ついて来られても困る。さっさと話を終わらせなくては・・。


「どうしても・・諦めきれないんです。だって、ほんの、わずかのことで。こんなのって、酷い。」ずっと苦しくて・・。そういって、高子は、涙をぽろりと落とした。



その姿を冷ややかに眺めて融は、

「・・・君は、

恋に恋してるだけだよ。

本当の僕は、君の眼に映っている僕じゃない。

瀬奈より先に、君がコクってきたとしても、きっと受けて無いから。

だからそんな・・押しかけられて来ても困る。」噛んで含めるように言った。


高子は、瀬奈と融が別れるのを本気で待っていたらしい。

せいぜいもって、3か月と踏んで。

しかしここに及んでも、別れたという話はなくて、焦れに焦れてこの日やって来たようだ。


「小野様、就職ダメになったんでしょ?聞きました。

今から就活なんて、大変ですよ。いい所はもう終わってますし。

私の婿になって頂けたら、父の会社に入れますよ。

そうしたら、地元を離れ無くていいし、おじいさんの面倒も変わらず見れます。

小野様、あんなこと言ってたけど、本当は、おじいさんのことや神社のこと、心配なんでしょ?

父の会社でしたら、

神社の宮司を務めながら、非常勤で余裕で兼務できますし、

これは、おねえさまでは、実現できない話でしょう?」

したり顔で言う、年下の女の子。自分には、こんなにメリットがありますよと、強調する。恋ではなく何かの取引のような。壮絶にズレている。何かの意地としか思えない。


「そうですかハイ・・なんて言うわけないだろ。

君に頼るつもりなんて無いから。

でも・・なんで、僕の就職がダメになったこと、知ってるんだ?」融は、怒りを通り越して、呆れ顔で聞く。


「その会社の専務さん、父の古くからの知り合いです。いろいろ聞かれたみたいですよ。

90歳近いおじいさんと、爺孫の二人家族なのかとか。どんな事情があるんだとか。

じいさんそんな年で、介護になったら仕事どころじゃないだろう?もしや 今も入院していることを隠しているんじゃないか?とか。本当に、転勤なんてできるのか?和邇神社の168代宮司?なんだそれは・・知らなかったな。なんて・・。そんな話もしてたみたいですし。」何らかの意図も感じる。この娘にして、この父・・か?


融は、そんな話に脱力した。

事情も知らずに、個人の秘密にずけずけと土足で入ってこられ、そして決めつける神経と言うのは、どうなのだ?

もともとその会社にはそんな詳しい事情は打ち明けていなかった。

決まった時は、神社を継ぐ気など毛頭なく、じいさんも元気だったせいもあり。

しかし周囲の見方というものは、そんなものなんだな。溜息しか出ない。



「まあ、この前会社から呼びだし受けた時、じいさん倒れて入院でバタバタしてて、

連絡が取れなかったせいもあって、無断欠席してしまったんだ。

あとで謝ったけど、その後、突然の内定取り消し。

まあ休んでしまったことは事実だし、仕方ないとは思ってたけど、君のお父さんのその口添えも後押ししたのかな・・。」嫌味だった。



・・しかし、嫌味も通じないのか、高子はなおも取り縋る。

「私、小野さんが、好きなんです!

だから・・こんな状態だったら、大変だと思うから。

恥を忍んで、こんなこと言いに来てるんです。

ここまで言わせて・・なんでわかってくれないんですか?私とつきあった方が、絶対うまく行くのに。」

その言い分が寒すぎて、心が冷え冷えとした。


「でもおねえさまだって、小野様が就職できないって知ったら、

きっと離れていくわ。ただでさえ、お金には困っている人みたいだから・・。」「周りを不幸にする恋なんてダメですよ。長続きしないです。おねえさまと知り合ってから、小野様は、どんどんダメな方向に向かっていると思います。

本当に、疫病神よ。」次々と言い放つ。

その歪んだ唇を信じられない思いで見つめていた。何かがフラッシュバックする。だめだ・・囚われるな!




「悪いけど。

僕は瀬奈が好きだ。そして、僕は彼女を必要としている。

彼女じゃないと、ダメなんだ。

そっちこそ、それをずっと見ていながら、そんなこと言いだしてくるのがわからない。」

睨み返した。


「帰ってくれ。女は殴りたくない。

これ以上君の話を聞くと、君を殴ってしまいそうだ。いいのか?」そう言って、冷ややかな目を向ける。



高子は、そんな融を見遣り、あーあという声をあげ、

「わかっていただけなくて、残念です。

でも、小野様のそんな気持ちが、おねえさまを孤立させてますよ。

お互いに不幸になる恋なんて、最悪。

いつでも、気が変わったら言ってくださいね。」不敵な笑みで帰って行く。


どっと疲れた。なんて言い分なんだ。

でも・・確かに僕は瀬奈の重荷になっている。それは感じていた。

そんな心の隙を突かれ、血が吹き出す思いがわき上がってしまった。

そうだ・・それで僕はあの時、君を手放してしまった。そんな後悔に融は、ふと我にかえる。


・・・それは、いつの時の自分の想いだ?・・・




瀬奈は、その時すぐそばの藪の木の陰で、出ていきそびれ、クロを抱きしめたまま、蹲っていた。

クロが走り出したので、追いかけてきたのだった。

胸がまだどきどきしていた。

高子が言った言葉・・疫病神・・胸に突き刺さっていた。

融さんの、就職がダメになんて・・知らなかった。


『お互いが不幸になる恋なんて・・最悪。』

そんな声がまだ脳裏をこだましていた。




37.



「融さ・・ん。」


高子の姿が消えて、

瀬奈は、立ち上がって名を呼んだ。


「いたの?」融の問いに、瀬奈はこくっと、頷く。「話、聞いた?」うん。また頷く。


「内定取り消し・・受けたんですか?」

そう言って、瀬奈の目から涙が流れる。ひと筋、ふた筋。


融は、駆け寄って抱きしめた。クロが足元にとんと降りて、じっと眺めている。

「だめだよ。泣かないで。君は、僕の為になんか、泣く必要はない。」


「でも・・私、疫病神っ。」「違う!君は・・太陽だよ。

僕は、ずっと。いろんなこと諦めて生きてたんだ。

君と出会ってとても楽しくて、毎日に色がついた。僕は変わった。天の岩戸から、瀬奈が出してくれたんだ。」

「周りをみんな不幸・・って。」

「違う!今そんなこと言う人がいても、それは違う。それに、時間は流れるんだ。

これから僕達が、みんなを幸せにしていこうよ。証明しようよ。

ねぇ。自信を持って。」



さあ、早く。社に向かう。

雨乞いの儀式を執り行わなければ・・。


・・


「ダメだったね。」

瀬奈は、クロを抱っこして撫でている。

祝詞をあげて、瀬奈は習った剣舞を舞ったが、空はことりとも揺るがず、降り注ぐ日差しは、ただ少し西に傾いただけだった。


「何か足りないのかな。」

横から手を伸ばし、みぃやを奪い取り、今度は融が撫でる。

みゃみゃみゃと、甘えるみぃや。

こうやって本殿で猫を挟んで瀬奈とくつろいでいると、なんだか家族という気がする。

遥か昔には、こんな時があったような、遠い記憶が呼びさまされる。おだやかな時間に、ささくれた心が回復していくようだった。


「足りないのは、私の気持ち・・だったかも。」瀬奈はそう答えた。動揺はまだ収まって無かった。いろんなことで、頭の中がぐちゃぐちゃで。

「そうだね。さっき、変なこと言われすぎて・・。でも、気にすることないから、瀬奈。」


「次の水の陽の日は、10日後だ。またやってみよう。」

そう言って、慰める。巫女姿の瀬奈。髪も下ろし、かんざしを挿して。



「クロ帰れるかな?」そう言って瀬奈が、下ろした髪を、何気なくすっと両手で掻きあげる。

融は、その髪に手をのばし、くしゃっと握った。「大丈夫だよ。」

そして髪をひと房手に取ると、唇を寄せ、

「甘い香りがする。」

それに誘われて、肩に手を伸ばし、そして唇を合わす寸前。

あっと・・!融の動きが止まった。


「ごめん。儀式まで、巫女は身を清めなければいけないんだった。

また、過ちを犯すところだった。」

そう言って融は、あわてて飛び退いた。


そう。二人は、今、清い関係。自分たちの取り決めで、

みぃやを返してあげるまでは、キスも我慢していた。

2人にとってアルイミ最強の願掛け。瀬奈の匂い立つ魅力を前に、融は必死に耐えていた。



「ねぇ。あの二人のつづき・・」少し戸惑いがちに、瀬奈の方から口を開いた。

夢のつづき。

「怖いけど・・でも・・知りたいよ。融さんは、どう思う?」


「ああ。行こう。」同じ気持ちだった。そう言うと、融は笛に口をつけた。

そしてあの龍笛を、吹き散らかした。

龍のような、その舞い上がる音が。社の杜に響く。


そして・・みぃやがひと声鳴いた。そして、二人の意識が、飛んだ。





東宮様の身辺がにわかに慌ただしくなってきた。

遂に、長谷右大臣の姫君が裳着を終えられて、大人の仲間入りをされたこと。

人々は、ひそひそと噂し合い、

誰もがこれからの長谷家のますますの躍進、繁栄を疑わなかった。


そんな時、瀬奈は・・

我が身に起きた懐妊の兆しに、

嬉しくも悲しくも、立ちつくしていた。

第一子、真一まさひと出産の時より、6年の間を置いて

東宮様の、二人目の御子が。このお腹に宿った。


しかしそれを告げた時の東宮様の、悲しげな顔を忘れることが出来ない。

「瀬奈・・。そうなのか。君と僕の間に新しい命が生まれることは喜ばしいことだが、

今は、君とまた。あの時のように、

離れなければいけないことに、悲しみが溢れてしまう。

この時ばかりは、我が身を呪う。なぜ東宮などという身分に生まれついてしまったのか。

君が、苦しんでいる時、そばにいてあげられないのだ。許せ。

産まれてくる子は、かわいい。だがそれより君が危険にさらされる方が耐えがたい。」

だから・・子をなさぬように気を付けていたのに・・。そう呟く言葉に瀬奈は、驚きを隠せなかった。東宮様・・そんなお考えで、あらせられたの?


東宮は、縋るように瀬奈の手を取った。

「融様。」その手の力に、瀬奈は悲しくなった。懐妊は単純に嬉しかった自分なのに、このお人は、喜びより心配が先に立つ。それほどに愛されていることに涙が零れた。

東宮様の御心ばへは、いみじうありがたきことと思し召します。

「ごめんなさい。でも、私は大丈夫です。それは、心配して頂かなくとも。」

しかしそんな返事にも、東宮様は、瀬奈へと踏み込みその体を掻き抱いて「・・里下がりはまだ許さぬ。

僕は・・悲しくて我が身が張り裂けそうだ。君が隣にいない悲しみは、言葉に尽くし難い。」

そんな・・不吉です。今生の別れでもあるまいに・・。


「帰ってきます。必ずや。あなたの御子を腕に抱いて。」


・・


だがそうは言っても、里下がり先すらなかなか決まらない。

第一子の時とは状況が変わっており、長谷家の意向を気にして手を上げる者も出なかった。

そして、瀬奈の実家は既に離散させられ今や跡形もなく

心細さに、気が遠くなる。



「私の所に、来られますか?」

そんな時、見兼ねて声を掛けたのは、蔵人頭の尾塙。

東宮様の口添えもあったのだろうが、わが屋敷の離れを・・と申し出てくれた。


普段は使わぬ場所で、

狭く、汚き所にて・・相応しくないとは思し召しますが。

それでも・・よろしければ。今から少しは手を入れて、お迎えするよう整えますゆえ。



右大臣は、上機嫌だった。

思い描いた目論見が、ことごとく上手くいく。


「しかも、丁度良いではないか。あの唯一の身分の低い妃が出産の宿下がりとな。

その子は無事産まれようとも、親王にも内親王にもなれはせぬ。

それより、

妃不在の間に、わが娘が正后で入内となれば。

東宮様も、ひとり寝がお寂しいことであろうし、その御心に入り込むには、うってつけ。」



しかし、入内の打診に、東宮様が色よい返事を返さないことより、

長谷右大臣は、帝に奏上し。

あげく梨壺に乗り込んだ。


「東宮様。

なぜでいらっしゃいますか?

正后を持たずして、親王もあらせられないまま、わが娘の入内を拒む理由は見つかりませぬが。はて。何かお考え違いをしてられるのでは、ないでしょうか?

正后が今の今までいらっしゃらない状態が、異常だったのです。


このままでは、厄災を引き寄せること、火を見るより明らか。


東宮様は、猫をけしかけて添え伏しを追い出した、あの頃よりは大人になり申され、今や分別もある、美しく立派な男にご成長なされました。

最初の御子真一様も、親王様にはあらせられませぬが、それでも御聡明ですくすくとお育ちのようす、なによりでございます。

でも、東宮様がお考えを誤られると、どうなるか、おわかりですかな。

あの身分の低い妃も。真一さまも。なぜあのお二人が平穏無事に過ごされているのか、お考えになられたことがありますか?厄災から遠ざけられて。


もとより、人は野良猫として生きられるわけもなし。

特に貴方様は、古代より繋がるすめらみことの子孫として。

おわかりいただけますね?何が大事か?」

言葉の端々に恫喝が横切る。長谷大臣が言わんとすることは、東宮様の心を切り裂いた。


「確かに・・恩には感じておる。

我が息子真一が熱を出した折りも、

そちが加持祈祷の僧侶の数幾数十人ぞ。頼む所に大事を祈り、今の無事がある。」


「それだけではございません。東宮様の大厄祭。病・厄災・呪詛などより、すべて御身を守るため、加持祈祷手を尽くしております。それだけでなく、本命祭 月曜祭 太白星祭。

・・すべて東宮様の御身、すなわち、すめらみことの血筋を絶やさぬためのその欠くべからざる営みのすべてに。あなたには、生まれ落ちた時より逃れること能わざるお役目がおありになる。」


それはすべて1つのことを指していた。

・・子を成せと。そしてそれは瀬奈でなく、身分のある長谷家右大臣の娘を入内させ、時代の日嗣の皇子を産み参らせるのだと。


「東宮様は、世間を知らなくて困ったものです。

この都の外には、死屍累々。

毎日生きられるだけでも、奇跡に等しい。ましてや東宮様として多くの者に傅かれ、

寒さに震えることも無く、飢えに苦しむことも無く、

生かされていること、それにより与えられたその責務の重さを聡明な東宮様が、分からない訳はないでしょう?


なんのために、あなた様は、ここに居られるのか?


そう。

次に、繋げるためでございます。

その御血筋につながる親王を、ぜひにと、入内し正后となる我が娘に、お授け下さい。」


東宮は、返す言葉を持たなかった。



わかっていた。許されるものなら、あの頃に戻してくれと神に祈っただろう。

クロの首に別れの手紙をくくりつけて、瀬奈に向かわせた時。思い出だけを胸に、生きていけばよかった。会わなければよかった。生きながら死んだような日々を送ればよかった。

なまじ知ってしまった幸せのために、引き裂かれる心がこんなに辛い。

そして、自分はこれから傀儡の王として、木偶として、

一番大事な瀬奈の心を、何度も何度も土足で踏みにじるのだ。

わかっていたのに、そんな日が来ることは・・。なぜその前に我が身は滅びてしまわなかったのだ。


心が、人質になっているようだった。

妻を思う、そして我が子を思う、その我が心が。





38.



瀬奈のお腹は、日に日にせり出し、里下がりと思しき時期をもう過ぎても、

東宮様は、瀬奈をそばから片時も離さなかった。


閨にて瀬奈の髪を梳き、その耳元で囁く。

「僕は、君しか愛せない。新たに誰か入内したとしても、僕の君への気持ちは、変わるものではない。」夜ごと繰り返される睦言。

「融様・・でもそんなお考えは、だめですよ。世の決まりには従わない といけません。それに、きっと他の女人を知れば、またそのお方の魅力にイチコロになってしまうものですよ。融様って、変に世慣れない所がおありになるか ら。物語のどこかの殿方みたいに、雅でその姿うつくしくあらせられるのに。不思議です。

私のことなど気にならさらず・・。」くすっと笑って何気なく言ってるそぶりのそんな言葉が、己に突き刺さって、血が吹き出している。瀬奈は、既に傷だらけだった。

好きな人に、他の女人を愛せなどと・・心にも無いことを!でも、私の立場では、こう言うしか無い・・瀬奈は力なく思う。


「君しか見えない私に、よくそんなことを言えるものだね。やはり、君の口は塞いでしまわないと・・。それに、世の決まりとな?

君からそんな言葉が出てくるとは。屋根を歩いていた人がな。」「まぁ!」その話を持ち出されて、瀬奈は、真っ赤になる。

くっくっくと東宮様は愉快そうに笑い、

「そんなものが世の決まりなら、僕はもうこの世に住む意味など無い。大人になんてなるのでは無かった。あの子供のままで、わが命など、尽きてしまえばよかったのに・・。」

そう言って、瀬奈の肌にただ唇を這わした。


「ダメです!そんなこと言ったら、言霊が・・怨霊を引き寄せてしまいます。

わが子真一のためにも生きてください。それに、そんなことがあったら、私だって生きていけない。」瀬奈は、とり縋った。

東宮様の目が、暗くどこを見ているのかわからなくて怖かった。


そんな瀬奈の叱責に、東宮は、はっと我にかえるように、

「ああ、すまぬ。

ただ、もうどうしようもない所まで来てしまった。

君には、僕がこれから何をしようと、僕の本当の変わらぬ気持ちを分かってほしいだけだ。頼む・・。」

そんな言の葉が、むなしく四散して部屋を覆い尽くすのをただ見ているようだった。




東宮の態度に焦れた挙句、周りは強行に及び、

秋の佳日、高子の入内がとり行われることとなった。

長谷右大臣の権威を誇示するような、

贅を尽くした、花嫁支度の優美さに、御所全体が沸きたつ。


片や瀬奈は、住み慣れた藤壺を追い出され、襲芳舎に押し込められていた。

その場所は、そこだけ忘れ去られたようにひっそりと静まりかえる。

東宮様は、婚姻のその三日後まで瀬奈の許にお渡りされることは許され無い。いろんな者の目が光り、それはそれは厳重に見張られていた。


御所に在る時でそんなに長く会えないのは、瀬奈にとって、初めての出来事だった。

近くにいるのに、遠い・・融様。

二日目の夕暮れ時に、

遠く風に乗って、笛の音が聞こえてきた。そして、合わして奏する琴の音も。

なんて優美で、美しい。

あれはきっと、入内された長谷家の高子様のお手。この世のものとも思えぬ音色が、笛の音に絡まるように艶めいて、馬酔木の花の色のような輝かしさに満ちていた。


その瞬間に、瀬奈の体がかっと熱くなった。

我が夫の奏する笛の音。それすらも、もう私のものでは無くなってしまった。

あの幼き日、せがむ私に吹き鳴らしてくださった。あの音はもうこの耳に聞こえない。

自分の心の闇に囚われるかのように・・暗いどろどろとした気持ちが広がる。・・私って浅ましくて醜い。

そして悟った。高貴な身分の、なんてお似合いの二人。自分の箏など叶わない。自分では、あそこまで夫を引き立たせることは出来ない。

自分の身の程をいやというほど思い知らされる音色だった。涙がただ流れる。


うっ。そして突如湧き起こった痛みに、お腹を押さえて蹲る。

周りはほとんどお祝いに浮きたつように出払っていて、侍女やお付きの者はおらず、

丁度雑事に忙しく走り回っていた蔵人頭の尾塙が、異変に気付き、慌てておそばへとやって来た。


「大丈夫でいらっしゃいますか?」寝かされ、その汗をぬぐわれて。

「ああ・・蔵人さま。お騒がせして申し訳ありません。

何とか収まりました。

でも、もうそろそろ産み月と言うのに、こんなところでうろうろしている我が身が情けなくて・・。」涙で腫れた目元は、痛々しい。


「おいたわしい。東宮様には、困ったものですね。

いえ。分からなくはないのです。いろいろと。ずっとおそばにおりましたゆえ。

しかし、人にはその立場というものがある。私としても、蔵人頭という職務ゆえ心を鬼にして東宮様にはご助言申し上げ無くてはいけないのです。

その旨、説得申し上げます。お妃さまにおかれましては、どうぞ、遠慮なく、わが屋敷にいらしてくださいませ。そして無事御子をお産み下されますように。」

明後日の朝には・・必ずや東宮様は来られましょう。尾塙はそう優しく言うと、

また慌ただしく、仕事へと戻って言った。



その尾塙の言葉通り、三日が過ぎるや否や、飛ぶように来られた東宮様は、


「体は大丈夫か?」「さびしくさせて、すまない。」

そういって、瀬奈の体を掻き抱こうと手を伸ばしたが、瀬奈はそれを寂しく、撥ねつけた。


「あやまらないでくださいまし。謝られると、悪いことをされたように思ってしまいます。

東宮様が正后様をお迎え入れあそばすのは当たり前のこと。

今までが、

恵まれ過ぎていただけでございます。私に何か勘違いを起こさせるほど。

そう、きっとそんな気持ちが、厄災を引き寄せると周りをずっと苛立たせていたのですわ。

ですから東宮様も、私のことはもう必要以上にお気になさらず、正后さまへと寵愛を向けてくださいませ。

私には、こんな素敵な子ども・・真一を授けていただき、そして、次の御子もこの体に。身に余る光栄でございます。」


東宮様の目を見ずに、一気に捲し立てた。


「瀬奈・・そんなこと・・本気で言ってるのか?君への気持ちは、変わらぬと言ったじゃないか。」信じられない瞳で、

融は、瀬奈に追い縋る。

「正后とはいえ、また長谷家の姫君は幼い。

僕にとっては、真一と遊ぶのと何も変わらないんだよ。それゆえ、何だか我が身に急に娘が出来たようで、一気に老けこんだ気がして恥ずかしいよ。物語を読んで聞かせてあげたり、

絵合わせをして遊んだり、昨日は姫君にねだられて、笛を聴かせてあげた。しかし琴があんなにお上手とは知らなかったな。小さき頃より、ずっと練習していたらしい。

今度君にも聞かせてあげたいと思ったよ。」


妻のかわいいヤキモチを和らげようとしてか、そんな心配するような閨の色っぽいことは何もないのだよと強調した東宮様。

しかし、その内容に、瀬奈は自分の思い出が踏みにじられたような気になっていた。

もうだめ・・私は・・何の為にここにいるのだろう?ただ邪魔しているだけかもしれない。わからなくなった。



「東宮様、そんなお気遣いは御無用です。

今は、

身分違いの妃が、分不相応な夢から、醒めただけにございます。

なので、

もう里下がりをお許しくださいまし。」

瀬奈は、ふうふうと、肩で息をしながら訴える。


「いやだ。そんなこと言わないでくれ。

私は、この手を離すのが、こわい。尾塙にも泣いて頼まれた。お妃さまがお可哀そうだと。でも、離すと君がどこかに行ってしまう気がして・・どうしてもできない。」まるで、大きなだだっこ。

でも瀬奈は、心を鬼にして、東宮様を突っぱねた。


「融様。お諦めくださいませ。そんなこと言って、その先は、何があるのですか?御所で出産など、考えられないこと。融様の恥として、末代までの語り草になります。

私は、必ず帰ってきます。だから、その手を離してください。」

キッパリと告げた。

・・・わたしだって、この手を離すのは怖い。でも、東宮様の為に、この手は離してさしあげるべきだ。それはよく分かっていた。





荷物をまとめて里下がり先へと向かう時、

にゃにゃにゃにゃ・・・遠くから、猫の声が聞こえてきた。

カリカリと何かを砥ぐ音。ドタバタと音が。何かにぶち当たるような音。



「みぃや・・みぃやなの?どこかにいるの?

幼き頃の恋が、こんな遠くへ来てしまった。それなのに、人はどうして生きて行けるの?

もう私の思いは、どこへも行き場がない。」

瀬奈は、用意された網代車の中で、ひっそりと呟いた。



伴うのは、侍女二人と真一。真一は御所に養育係がいないゆえに連れてきた。

前にもまして、寂しい道行きだった。





39.



「融さん。やだ・・こんなの。

別れちゃうの?私たち。」


本殿の中では、目を覚ました瀬奈が、

見ていた夢の続きに、現実と区別がつかなくなったみたいに、

ぎゅっと融にしがみつき、

「いや・・いや。別れるなんて嫌。

ずっと一緒にいたいのに。」そして、だだっ子のようにバタバタする。


そんな姿に、融は何かが鷲掴みにされ、

瀬奈のその手を取って、かるく口づけた。


「大丈夫だよ。瀬奈。

しっかりして。」そして抱きしめて、その体の柔らかさを確かめ、熱を伝えあう。

こっちが、現実だ。今ここにいる。僕・・そして君。

「大丈夫、あの時代の僕らも、

無事お産が終わったら、宮中にまた戻ってきて、きっとうまくいくって・・。」


・・・本当にそうだろうか。権威ある家からの正妃が入内し、東宮様が、いくら瀬奈に本当に愛しているのは君だけと誠実を訴えても、

好きであればあるほど、二人の心は壊れていき、そして離れていくんじゃないだろうか。そんな嫌な予感しかしない。



そしてそのまま覆いかぶさり、口づけようとした融を、

ああっと何かに気がついたように、

「ダメ、ダメ・・今はダメ。」瀬奈は手を突っ張って、突然押しとどめた。

「身を・・清めてないと!」

愛おしいのに・・これ以上進めないって、どんな我慢大会だ。


みぃやが、にゃーにゃーと、横で鳴いていて二人はそちらを見遣った。

仕方なく融は、瀬奈から体を離し、

みぃやに手を伸ばし、抱っこして撫でた。


「絶対、帰してあげるから。待っててね・・。」

にゃ?分かってるのか分かってないのかみぃやは、とんと床に下りると走り出し、カリカリと引き戸を引っ掻いて、開けてあげるとまた楠へと飛んで行った。




「瀬奈さん、もう十分上手。私には、これ以上教えることなんて、何もないわよ。」

トヨキチさんちのおばさんはそう言うと、

練習のあと、

お茶飲んで行きなよと、戸棚から貰いもののクッキーまで出して来てくれた。


そして茶の間で寛ぐ。

ほんと申し訳ないけど、このところ神楽舞の練習で連日お宅にお邪魔している。

おばさんは、最近退屈だから嬉しいわと、上機嫌だ。


大きくて広いお屋敷。3世帯で住んでいるらしい。離れには娘夫婦が。そして末の息子の信さんは、車で10分位のところにいるらしい。



「やっぱり、あれ?

長谷家のお嬢様になんて取られたくないって言う、女の意地?」くすっと笑っておばさんが聞く。


その返事に真っ赤になって困惑している瀬奈に、「あらあら、照れることなんてないわよ。

私らだってそれなりに意地よ。ここの神社に昔から関わっている者の意地かしら。

この前は、あのお嬢様のぬるい神楽舞見て、腹立っちゃった。昔の私たち、もっとすごい舞をしていたのにって。なんかバカにされた気がして・・。

でもそれ夫に言ったら、そんなのおばさんの舞より、若くてかわいいピチピチした子の舞の方がずーっといいに決まってンだろうって、言われちゃってね。なんか、よけいに腹が立ったわぁ。

あら、このクッキーおいしいわよ、食べて食べて。」先にバクバク食べながら勧める。


おばさんは瀬奈の相槌なんかあっても無くても、一人で喋りまくっている。

「でもねぇ。信は、わかってくれたのよ。

かあさんの怒りも、もっともだねって。やっぱり持つべきものは、やさしい息子よね。

でも娘が結婚して離れを陣取っちゃった時に、信は、この家出ちゃったのよ。週末だけ、ご飯食べに戻ってきてくれるけど、ちょっと寂しいわ・・。」

そう言いながら、忙しく瀬奈のお茶を継ぎ足す。


「信はさ、親バカかもしれないけど、見る目ある子なのよね。

小さいころから、妙に聡くて本物を見抜くっていうかさ。小さい頃に神社で、葉子ちゃんの踊りを見たことあるのよ。その時、食い入るように見てたわ。それで和太鼓したいって言い出したのよね、確か・・。」

あっとおばさんは、何かが閃いたようだ。

「神楽舞、信にも見てもらったらどうかしら?もしかしたら私が間違って覚えている所があるかもしれないし・・。」


「ところで、融君はどうしてるの?たまには一緒に来ればいいのに。」話がポンポン飛んで忙しい。


「今、ちょっと用事が出来て、忙しいみたいなんです。」そう言葉少なに告げる。就活を再開しなければならなくなり、またスーツを着て飛びまわっていた。


「あら、もうこんな時間?

そうだ。ごはん食べていく?ついでだから食べていけばいいじゃない。瀬奈さん一人暮らしなんでしょ?

もう9人も10人も一緒だって。」


いえ、ご迷惑ですから、帰りますと、瀬奈は固持したが、

「はい、これお願い。」とキャベツや玉ねぎ。ざるに包丁にまな板。なんだかいつのまにか手伝わされて、焼肉大会。お味噌汁よそって炊飯器も持ってきてよそって、配膳して。あ、あれ?

何だか、若奥さんポジションだし・・。


そのうちわらわらとトヨキチおじいさんや、おばさんのダンナさん、息子さん夫婦。そして離れから娘さん夫婦も、赤ちゃんを抱えてやってきて、にぎやかだ。

そこに遅れて、信さんもやってきた。

「あれ?なんか見慣れない人が・・なんで?」「おじゃましてまーす。」とりあえず挨拶。


この肉は焼けたから早く食べなとか焼けて無いからまだとか、つぎつぎ赤ちゃんを抱っこして、誰かの所で泣き声。めちゃくちゃ忙しい食事がおわると、また次は、片付けに忙殺される。お嫁さんや娘さんたちも手伝うけど、これは大変。


「あ、瀬奈さん。もう暗いし、帰り、信に送ってもらったら?」洗いものをとりあえずやっつけたおばさんが言う。「いや、近いですし、そんなの悪いです。」瀬奈は固辞したが、

「大丈夫だよ。帰り道だし。」信さんがさりげなく言う。


・・


「かあさん、最近みんな独立しちゃって、喋る人無くて、おしゃべりに餓えてて。

ごめんよ。話しだしたら止まらないだろ?途中でぶった切らなきゃだめだよ。」信さんは、車を出しながら、くすくすと笑ってる。

帰りそびれた姿がおかしくてたまらないらしい。


「でも、すごい大家族ですね。楽しい。」瀬奈はまだ上気していた。「まあ、煩わしいこともあるけど、離れたらあのうるささがちょっと懐かしかったりでさ。」そう言って、信さんは、少しはにかんだ。


「あ、そういえば・・瀬奈さん、神楽舞、かあさんに習ったんだって?だいぶ上手くなったって言ってたけど。」


「あの・・それで・・見てもらえませんか?」唐突に切り出した。「え?俺が?」


「ええ。おばさん。信さんの方が、よく覚えてるんじゃないかって。」


・・・実のところ、このまえ雨乞いがうまくいかなかったのは、自分の踊りに問題がある気がして、瀬奈としては誰かに見てもらいたいと思っていたのだった。


「なにか真剣だね。何か理由があるの?」信さんの問いに、「それは・・あるんですけど。でも・・」瀬奈は、言い澱む。こんな話、しても信じてもらえるとも思えない。


それを何か聞いてはいけないことなのかなと信さんは思ったのか、サラっと流し、

「まあ、別に言いにくいんだったら言わなくてもいいよ。

でも、踊りなんて、融に見てもらえばいいんじゃないの?」


「融さんの前では1度踊ったけど、

でも融さんは、それほど細部は覚えてないみたいなんですよ。」お母さんの踊った剣舞を1度見て衝撃だったけど、その印象ばっかり強くて・・と言って。

お母さんと過ごしたのは、5歳まで。その年は祭りのお稚児さんをやらされていたとも聞くし、それ以前は小さすぎて・・とか。細部までは自信がないらしい。


「だから・・お願いします!」瀬奈が頭を下げて頼むと、

「わかった。じゃあ、明日太鼓の練習あるから、夕方公民館に来て。

いつでも見てあげるよ。」そして、着いたよ・・下宿このあたり?そう言って、車を停めた。





40.



公民館は、町のはずれにあると聞き、

瀬奈は大家さんに借りた自転車で、汗を拭き拭き、やっとそこにたどり着いた。

タンクトップにショートパンツ姿。


踊りを見てもらうのが目的なので、この上に着る巫女の衣装も、モチロン抱えて持ってきた。

太鼓の音が聞こえる第一集会室を覗きこむと、

そこには黒のTシャツにおそろいの法被姿で、子供たちから大人まで、20人位が練習をしていた。一糸乱れず叩く姿。汗が飛び散る。何だかすごい。


「あ、来たの?」その中でもひときわ法被を粋に着こなした信さんが、

瀬奈に気付いて振り返った。


「あーー、信さん、もしかして、カノジョ?」「恋人?」太鼓の音が中断して、周りがざわめく。

「違うって。友達の彼女だよ。」信さんは表情を変えずに、そうしれっと訂正して、

「神楽舞の踊り手さんなんだよ。

ちょっと太鼓と合してやってみたいって言われてさ。みんなごめんね。ちょっと休憩!」そんな理屈で周りを休ませて、瀬奈を舞台の中央に引っ張ってくる。

「じゃあやろうか?衣装つけなよ。剣舞だよね。」

そして、早速縦笛の人を呼んで、指示する。「ちょっと僕の太鼓と合してやってくれない?」



そんな駆けつけ突然の披露タイムとなった。遠巻きに周囲は興味津々な目。

ええーーっ?・・人前で舞ったことのない瀬奈は、焦りまくる。


「ふふっそんな気負うことないよ。別に間違ったって、取って食わないし。」信さんのやさしげな眼差しが揺れる。


しかし音楽が鳴り、太鼓のリズムに導かれ踊りが始まると、信さんの眼差しは鋭くなり、

ある所に差し掛かると、

信さんが突然、ダンと太鼓を叩きつけ、つかつかと瀬奈の許に来た。

そして問答無用に、ぐいっと手を掴まれる。

「そこ、手が違う。こう掌を上じゃなくて、手の甲を上。やってみて。」

そんなことが何度か繰り返された。

「そこ、右じゃない。左!」「もっと顔上げる。・・そして、剣を高く。」

「足をもっと蹴りあげる。」

ふわっと衣装が舞う。前より激しく、だけど切なく。神に請い。誘惑するしぐさ。そして一転、力なく地に伏せて。


・・


「カッコイイ!!なにこれ・・神楽舞っていうんですか?私も踊ってみたいーー。」

ねえねえ信さん、私にも教えてよ!

高校生くらいのすこし目元がつり上がった女の子が、信さんに纏わりついてきたが、


「神に捧げる踊りだからな。

君は、もっと身を清めなければ無理かもよ。」軽くあしらい、そんな軽口を叩く信さんは、さっきの姿とは別人みたいに見える。「ひどーーい、信さん!」


・・


「驚いた。舞い降りた、天女みたいだったよ。」

疲れた?と言って、信さんが座りこんだ瀬奈に紙コップに入れた麦茶を持って来てくれた。


「私も驚きました。信さん、よく覚えてるんですね。」


「そうだな。僕もよくわかったよ。あれは・・自分にとって特別だったんだなって。

融のお母さんの神楽舞を見た時の衝撃は・・。」

信さんが遠い眼をした。そのときのこと思い出しているんだろうか?


「もう姉にからかわれてさ。その時、よっぽど呆けた顔してたんだろうな。」信さんの顔が、少し上気しているように見えた。

・・すぐ前で見ていた。なんだか自分のものを全部持っていかれたような・・あれから何度夢に見て、何度飛び起きたことだろう・・。


「ありがとうございました。これで・・出来そうです。」瀬奈は、礼を言った。


もう暗いし・・今日も送っていくよ。もうすぐ終えるから、最後まで待っててよ。え?自転車?大丈夫だよ。ワンボックスカーだから、押し込みゃ、乗るよ。

そんなことを言って、信さんはまた練習に戻っていった。

そしてまた、第一集会室は、和太鼓の連打の音が響きわたる。何だか郷愁を誘う懐かしい音。





「信さんは・・」「え?」「つきあっている人とか、いないんですか?」瀬奈は運転席の信さんに尋ねた。

さっきあの目元がつり上がってる子を筆頭に、高校生何人かにとり囲まれて、本当に信さんの恋人じゃないんですか?違うんだ?ああ、よかったぁなんて言葉を浴びせかけられた。


「ああ。いない・・なぁ。なんかうまくいかないんだよね。」

「そうなんですか?」「僕は、付き合うってのが、なんだかよくわからないみたいで・・。いつもあなた、私のことなんて、ちっとも好きじゃないでしょう!とか、捨て台詞吐かれる。パターン。」

そんなことを淡々と告げる信さんが可笑しくて、瀬奈は、くすくす笑う。


「融が羨ましいな。」「え?」

「あいつは、なんだか答えを見つけたみたいだからさ。なんだか同志が、抜け駆けされたような気分。」ふふふと、信さんは、相変わらず分からない笑みを口元にたたえている。



「でも、みんな信さんのこと好きみたいですよ。」そう、さっきの太鼓サークルのメンバー。結構囲まれて、怖かった。


「うーーん。みんなってのが曲者なんだよね。

みんなを少しずつ愛するわけにはいかないし。」平安時代じゃあるまいし、ね。なんて。

瀬奈はそんなセリフに、ドキっとする。「寵愛の妃ができると、それはそれで、大変だよ。日本においては、場の調和と、彼女の存在が、うまく共存できないからね。」

信さんが、そんな不思議なことを言い出した。

「場の調和に一番合う子を選んでおけば問題ないと分かっているんだけど、

心は、その子を求めてないみたいな。

でも心のままに、場を乱してまでも求めるってことは、もともと出来ない性分なのかも・・多分。」難しい問題だなぁ・・なんて一人ごちている。



「難しく考えすぎなんじゃないですか?家族のみなさんも、心配されてましたね。」そんな瀬奈の言葉に、

ああ、ウチの家族さ。みんな結婚早いから。この年でまだ予定もないって、信じられないみたいでさ、うるさいんだ。


「ああ・・だから・・ごめんね。この前の食事のときも、姉も母も、融君と別れて信とつきあっちゃいなさいよ・・なんて、しつこく戯言言っててさ。」

「もう、耳タコものでしたね。」瀬奈は、くすくすと笑う。「姉なんて、ほらほらお前、こんな可愛い赤ちゃんを早く見たくない?なんて、脅迫してきたし。」

「ほんと、赤ちゃんかわいいですよね。明るいご家族でいいな。」そう、瀬奈は、なんか一員に加えてもらったようでそれは楽しかった。

「そーだよ能天気でさ。人を見たらくっつけようと思ってさ。」

全く・・人の気もしらないで・・。信さんは、心でそう呟くと、人知れず溜息をついた。



「瀬奈さん、あの・・もし・・。」そこで突然信さんが突然何か言おうとした。


「え?」瀬奈は、聞き返した。融と××れたら・・そんな風にも聞きとれた。だが信さんは、「もし・・その。」そこまで言い直して、少し考えてから、

「融と、神楽舞やる時、太鼓いるんだったら、呼んで。」そうぶっきら棒に言った。


「ありがとうございます。」

それは、嬉しい。太鼓がある方が絶対踊り易かった。融さんに聞いてみよう。でも、信さんとのこのやりとり、どう説明しよう?きっと機嫌が悪くなるよね・・。


そんな話をしているうちに、瀬奈の下宿のそばに差し掛かった。

「あ、着きました。この辺で・・。」

ああ、そうだね。われに返って、信さんが車を停めた。「自転車下ろさなきゃね。

ちょっと待ってて。」エンジンを切って、鍵を取って後ろに回る。


瀬奈は、助手席から降りた。と、その時、道の端に立っている人が目に入った。融だ。

気付いたときにはもう、瀬奈の前に立ち塞がっていた。

「瀬奈、どういうこと?なんで、信といるの?

もしかして、僕に隠れて・・つきあってるのか?」その掛けられた声の落ち着きぶりが、逆に怖い。


「え・・違うよ。

信さんに頼みごとがあって、それで・・。」瀬奈は慌てて言ったが、


「なんだよ。隠れるように、コソコソと。

バレバレだよ。昨日も信と一緒の所、見たよ。やっぱり見間違いじゃなかったのか。

そりゃ、僕より、信の方がいいよな。家族総出で歓迎してくれるし、

やさしいし、いい奴だし、僕なんかと付き合うよりドラブルもないだろう?

嫌なことも言われないし、きっと幸せになれるって。」


「融さん、何言ってるの?」捲し立てる融を信じられない眼差しで見詰める。


「僕の今の気持ち、わかる?

僕が就職ポシャッて、また就活で毎日こんなしんどい思いをしている時に、こそこそかげで逢引きなんてされて。許せないよ。

そりゃ、ここんところ連絡しないで、ほっておいて悪かったよ。メール一本打たなくて。でも、だからって、これはないよな。酷いよ。そんな女と思わなかったよ。」そう言って、見たこともないような、冷たい目を向けられた。


「違うって!なんで・・なんで私の言葉、信じてくれないの?」

瀬奈は、融から掛けられたあまりにひどい言葉に、勝手に目から涙が流れだした。声が詰まる。



「おい。誤解だって。その言い方はないだろう?

少しは、話を聞いてやりなよ。」信さんが、その言葉を聞きつけて、車の後ろから慌てて回り込んできた。


融に対峙する。睨みあった目に、火花が飛ぶ。


「神楽舞を見てくれって言われたんだよ。」「ウチのかあさんに習ってたようで、

そこでかあさんが、俺の方が細かいところ覚えているかもなんて言ったんだってよ。

それで今日太鼓の稽古場に来てもらって点検してたんだ。

昨日は、かあさんに夕食にって引きとめられて、こき使われて遅くなったから、送ったの!」

瀬奈の代わりに信さんが全部言ってくれた。


融は、その言葉に少しバツの悪そうな顔を返した。「ほんとに、それだけなのか?」


「それだけだって。俺が、人の彼女に手を出すわけないだろう?」信さんが、

少し寂しく笑って言い返す。・・まったく、人の気も知らないで・・だ。また信の心の中にこのセリフが、浮かび上がる。




「疑って、すまん。」「いや。もうすべてうちのかあさんが悪い。もう、何考えてんだか。

李下で冠を正さずなのにな。

でもさ、お前も・・。」


そこまで言って、セリフを切り。そして、信さんは、融の耳元に近付いて小声で、

「ちゃんと捕まえておいてくれよ。頼むわ。じゃないと俺、何するかわかんないぞ。」

そんな捨て台詞を吐く。



「じゃあ!俺、帰るな。」信さんが車に戻った。そして、「仲良くな、二人。・・なんて俺が言わなくても・・だろ。犬に食われそうだ。」

そう言って、手を振って去って行った。




41.



「瀬奈・・ごめん。」融は、謝った。


「うんん。私こそ、何も言わないで、勝手なことして・・ごめんなさい。

でも、

この前のときから、自分の神楽舞が、間違ってるんじゃないかって、自信が無くて。

結局クロもあのままで、雨すら1粒も降らなかったから・・。」

クロは悲しそうだった。それを見て、瀬奈も悲しかった。


「いてもたっても、いられなかったの・・。」瀬奈は、胸の内をそう打ち明けた。

あのあと東宮様とお妃さまがどうなってしまうのか。考えると、叫びだしそうだった。怖いけどすごく怖いけど、知りたくてたまらない。でも自分が出来ることは、踊りを頑張ることしか無くて・・。


そうだったのか・・融は、深く反省した。

思わず頭に血が上って、酷いことを言ってしまった。

でも、瀬奈はそんなこと一つも責めずに、自分が悪いなんて・・

気がついたら、また抱きしめていた。「本当に、ごめん。うまくいかず、イライラして、君に当たるなんて、サイテーだ。」「うんん、私こそ何の力にもなれずに・・ごめんなさい。」「そんなことないって!」



「あ、クロ。」そこに塀を伝って、にゃあと現れた猫。「来てくれたの?」しっぽをピンと立てて。


「ねえ瀬奈、あのあとの二人を、また見に行かないか?」融は、そう言ってまた神社へと誘った。夜の本殿へ行こうと。

見るのが、怖い・・。でも、瀬奈は、見たいという欲求に抗えなかった。

「わかったわ。自転車返してくるから、待ってて。」


そして下宿から出てきた瀬奈の手を取り、融は無言で、神社へのその暗い石段を登った。クロが追いかけてくる。

やっぱり夜の神社は、何だか不気味だ。瀬奈は、融の手をぎゅっと握った。




ここでお過ごし下さい、と案内された尾塙の屋敷の離れは、

狭いなりにもこじんまりと整えられていて、

高い調度品などはないが、程よく使い勝手の良いものが揃えられ、居心地が良かった。

真一の為にか、文机に硯箱なども置いてある。


今となっては、瀬奈に味方などしても何も利を生まないばかりか、時の権力者の目の敵にされるだけ。それゆえに、尾塙のその心遣いは、ありがたくて涙が出た。



だがしばらくのちに、突如意外なことを言いだされた。

「申し訳ないですのですが、お妃様。

実は・・私の姉上に、やんごとなき事情が起こりまして、急に里下がりを願われました。

姉上も、もうすぐ臨月なので、他の場所もそんな急には見つからず・・。

もともとがこんな狭い所で心苦しいですのに、また更にもう一人住まわる所を分けてくださいなどと言えた義理でもないのですが・・・もしよろしければ、お許し頂けませんでしょうか?お願いいたします。」

苦しそうな表情で、尾塙が頼みに来られた。


「そんな。私の方が居候なのに。

そんなお許し頂くなんて。こちらこそ、そのお姉さまに申し訳ないです。」

瀬奈は一礼して承諾した。なんのなんの、狭さなんて、かつての瀬奈の大家族の頃に比べたら、大したことございません、と。


そして、半分を明け渡すこととなった。

・・・それにしても、尾塙さまの姉君様って、どんなお方なのだろう?仲良くなれるかしら?

ふつうなら、二人・・なんてトンデモナイことだが、

心細く過ごす身の瀬奈には、少し期待で心が弾んでいる所もあった。



姉君は、敦子あつこと名乗った。瀬奈より10歳も年上。

妊婦同士、まずそのお腹の大きさに親しみがわく。ほっといても同志のような、これから同じような戦いに挑む2人として、すぐに意気投合した。


真一は、ここでは唯一の男手として、子供なりにかあさまを助けようという優しい心から、重たい荷物を持ち、奮闘していた。

「かわいいわね。真一さま。なんだか弟の小さい頃思い出すわ。こんな子ができたらいいな。男の子が欲しい・・。」姉君は、そう言いながら、

しかし真一を見遣る眼の寂しさが少し気になっていた。



「実は、姉の夫君は先ごろ急な流行病で亡くなられたのです。」事情をあとから尾塙に、そう明かされて、瀬奈は、耳を疑った。


姉君は、いつも明るく、パワフルで、前向きで、輝く笑顔の人。毎日活発に、着物を洗い張りしたり、ほどいておしめに作り替えたり、手が先に動き、どんどん進めていく。瀬奈の侍女の2人が、そのあとを追いかけていくほど。


「そうなの。夫の忘れ形見なの。やっとこの年で出来たのに、生まれるより前に夫は死んでしまうなんて・・。

でも、沈んでいても、しょうがないでしょ。

住んでいた田舎には、縁者も少なくてね。一人でいると却って寂しさも募るから、

それで産むときだけでもこちらに来てはどうかと、やさしい弟が言ってくれたのよ。」

姉君は、そう話した。

でもそんな事情を明かされなおのこと瀬奈は、自分の事情なんて全然大したことじゃないわと、

明るい姉君に、励まされる思いだった。


瀬奈も姉君の働きに負けじと、下働きのじいにいろいろ教わって、空いた場所に畑を作ったり、花を育てたり、そして、収穫したものの、泥を落としたり、干したり、日々のお菜の足しにするためにいろいろ作ったりしているうちに、

小さい頃の生活を思い出していた。はだしで駆け回っていたあの頃。

真一も、朝起きるとまず畑を見にいって、楽しそうに作物を眺めていた。初めて見る物ばかりのようで、土の中の虫に驚いた様には、みんなで大笑い。そんな日が、続いていた。



そんなある日、戸口に見たことのない人が立っていた。

皆、忙しくしていて、「どなたですか?」瀬奈が応対すると、

「こちらとお伺いしたのですが、お方様は、いらっしゃいますか?」礼儀正しい物腰。


御簾越しに、凛々しい青年が見えた。都の宮中の身なりではなく、全身黒の動きやすそうな服。

敦子さまを尋ねて来られたようだった。

その男は、無造作にその手の花を1輪、瀬奈に渡した。清楚な白い花弁が5枚ついている珍しい花。峠の崖に咲いていたと言って。



「あら・・信なの?ありがとう。遠いところ来てくれたのね。」敦子が気付いて奥から出てきて、その男は、軒先で跪いた。「はい。屋敷は安泰にしております。この年は作物も豊かに実り、蓄えも十分。たたら場も、変わらず順調、 このところは少し物騒なのか遠方からも買い付けが増えております。

田舎でとれたつまらないものばかりですが、お方様の弟さまへの贈答にと、先ほど屋敷の方に運び入れた所でございます。」

「まあ、ありがとう。そうしてくれると、私もここで気がねなく暮らせますわ。

信はね、亡き夫の甥なのよ。家や作業場の取り仕切りをすべて任せて来たの。

山の中腹の隠れ里のようなところに屋敷があるの。」


「お方様、次の年の作付けは、いつからどのように行えばいいでしょうか?」


「そうね。冬が長そうですから、植え付けは、ギリギリまで待った方がよいかもしれないわね。あと一ノ沢の東を2反ほど、開墾しておいてほしいわ。」


そして用事が済んだのか、

信と呼ばれていた男は、次の瞬間、風のように掻き消えていた。


部屋には残されて白い花が、花瓶に一輪。ただ揺れるばかり。




「姉は、教養もあり美人の誉れ高く、

生前の我が父は、帝に入内させたいとまで考えていたのですが、

僻地に跋扈している「介」の官位を持つとある男に一目ぼれされて、浚われるかの如く遠く鄙びた田舎に連れて行かれたのです。そのため、私とも、長らく連絡も取れませんでした。」

時々瀬奈の許には、尾塙がやってきて、宮中の使いとして瀬奈に東宮様からの品物や文を渡すついでにそんなことを打ち明けたりしていた。



「ふふっ。弟から、聞いたの?

そんなの昔話。連れて行かれた時は、都が恋しくて毎日涙にくれていたけど、

いつしか忘れてしまったわ。

亡くなった夫は、私を大事にしてくれたの。子も長らく出来なかったのに、妻は、私ひとりだけ。」

針を動かしながら、その時だけは遠くを見遣って、敦子様は話した。


「帝に入内していたら、どうなっていたのかしらね?

中宮様以外に、女御様が4人、更衣様5人、他に尚侍さまも多数いらっしゃるでしょ。弟に聞いたわ。最近もまた一人、親王様が生まれたとか。

私は父を早くに亡くして後ろ盾もなくしましたし、

子も出来にくかったから、本当に価値もない妃で、

どこかに埋もれてしまったでしょうね。」


「そんなの、敦子様ほどの御方なら、ご寵愛を受けたのでは・・。」瀬奈の返答に、


「あらまあ・・そうでした。瀬奈様は、東宮様の、ただ一人の寵愛の妃であらせられましたわね。

噂には聞いておりましてよ。猫を味方につけた東宮様って。」くすっと笑う。

話の矛先が自分に向いて、瀬奈は、たじたじとなった。

その噂の寵妃が、コレ?って思われているのではないかと・・

それを思うと、・・身が縮む。


「ええ・・私ごときに、身に余る光栄だったと思います。

でも、あとで思うと、それはただいろんな偶然が重なったうえに浮いていた浮草の如く。

それももう・・先日正后さまが、入内されましたわ。」

そう寂しそうに告げた。


「でも、それは長谷家の権力や家の力のごり押し・・と、みんなよくわかっておりましてよ。

元気な子をお産みくださいませ。

そんなものに、負けないようにね。」

姉君さまが力強く励まして下さる。

その瞳がゾクっとするほど色っぽい。不思議な人だった。


「でも・・ほんと、女の生き方って難しいですわね。確かに。

こちらから選ぶこともできず、ただ殿方の想いに、翻弄されて。

多くの妻の中の1人として生きるのは、とても心が苛まれるでしょうね。

でもだからと言って、寵愛を独り占めにしてしまうと、それもまた、なんと大変なことでしょう。」

瀬奈はそんな言葉に、目から鱗が剥がれおちる思いだった。

このお方は、鳥のように俯瞰する目をお持ちだと。ただ感嘆する想いに。



「幼き頃、屋根を走って東宮様に会いに行かれたのですって?」姉君が突如そんなことを言い出した。瀬奈は、ぶっと吹き出し、ごほごほと誤魔化す。な、なんでソレを?


「あらら。弟に聞きましたわ。東宮様と瀬奈様と猫の物語。

弟は長らく東宮様のお猫様係を務めていて、その実直な働きが認められて着実に取り立てられて蔵人頭まで出世したのですわ。

猫の首に文をつけて、やりとりされていたのでしょ?

さすがの私でも、そんなことできませんわ。」楽しそうに笑う。「二人の素敵な出会いの話に、その恋を応援してさしあげたく思いますのに、

でも、結婚してめでたしめでたしにならないなんてね、宮中では困ったものですわ。」ふうっと力なく溜息をついた。


でも・・きっと・・また私達は何度でも、生まれ変わりますわ。

私もまた来世生まれ変わったら、夫と出会って、

このお腹の子の話をして、二人で笑いあいたいものですわ。


・・




42.



里下がり先へ届く東宮様からの文はいつも、

みんな息災に暮らしているかとの問いかけと、何か必要なものがあれば言ってくれ、

という短い内容だった。


知らされてはいた。その文は、文使いに渡される前に、

長谷大臣が検閲をして、その内容によっては廃棄されていることも。尾塙がそっと耳打ちして教えてくれた。


なので、その御心を疑ってはいない。東宮様も、お辛い場所におられるのだと思う。

でも、

あの頃の、みぃやが運んできた文の楽しさに、ついひき比べてしまう。



それに、

何か必要なものとの問いかけの返事を、東宮様宛に書いても、

それが贈られてくるのは長谷家からであった。


産着も、長谷家から高級な絹のものが贈られてきた。真一の欲しがる書物も、滋養のある食べ物も、贅を尽くした腰帯も。

いかにも、東宮様の拵えはすべて長谷家から出ていますという、力の誇示だった。

なので、もう何も頼まなくなった。

乳母の手配も、何もかも、自分でするしかなかった。



しかし、そんなこと以外は、敦子様との楽しい日々。

そんな毎日を過ごしているうちに、

二人の臨月はやってきて、

先に産気づいたのは瀬奈。敦子様の励ましは僧侶の読経などより心強く、

あっというまに元気な産声が聞こえた。


「瀬奈様。女の子です。かわいいおひいさまです。」侍女がまた泣いている。

真一が、おそるおそる抱っこした。「いもうと?」小さい手。そこに指を添えるとぎゅっと握り返す「すごい。全部小さい。手も足の指も。なんてかわいい。」

そして瀬奈は、もう乳母など頼むことなく、自分の乳を含ます。

なんだかんだと、自分でできることは自分でしよう。そんな決意の現れだった。



そして、本当はもっと先の予定だったのだが、それから2週間と置かず、

次は敦子様が産気づいた。

初産なので、時間がかかる。

丸二日陣痛が続いていたが、まだ生まれない。

衰弱がひどくなった。部屋を暖め、水を運び、食事を口まで運び、汗を拭く。産後で辛い体にも関わらず、瀬奈は動き回り、祈った。ただ敦子様、そしてお腹の子の為に。

亡くなられた夫君。どうぞ、手を貸してあげて!


お願いします・・この御方をお助け下さいませ。



そんな明け方、やっと産声が聞こえた。小さき声だが、しっかりと泣いている。

瀬奈は、あわてて飛んで行った。後産もちゃんと出たようだ。


「敦子様!男の子でございます。」瀬奈の侍女がこの子もとりあげた。もうベテランの域だ。

「ああ・・あなうれしや。

瀬奈様のお陰でございます。お産の見本をこれと見せてくださったから、なんとか耐えることができた気がします・・。すべてあなたの・・」


「喋らないでいいです。ゆっくりお眠り下さい。

お疲れ様でございました。それならば私の方こそ、

楽しく過ごさせてもらいました。そのおかげでこんな安産で。こんな楽しいことは、本当に久しぶりでした。

宮中で、夫の訪れを待つだけのそんな生活がすべてで、忘れてました。いろんなことを。」

「思い出せました。土に親しむとか、針仕事や機織り、下々にまかせっきりにしていた諸々のことなど。」

思いの丈を訴える。本当に、感謝しかなかった。


「それならば・・よかったわ。

私も本当は、夫の後を追って、死んでしまいたかったの・・。」敦子様が、ぽつっと言った。え?瀬奈に驚きがあった。

「でも、真一様とお妃さまの楽しいご様子を見て、考え直しました。私も、この子と一緒にまた生きていくの。」



「もし・・宮中の生活に疲れたら・・私の所にいらっしゃい。

また一緒に楽しく過ごしたいわ。」


敦子さまは、それだけを言うと、そのまま眠りその後三日三晩目を覚まさなかった。よほど力を出し切ったらしい。

そのあいだ、瀬奈は、その男の赤ちゃんの分まで乳も与えた。

二人分あげても、まだ余るくらい乳は張り、迸っていた。


瀬奈の女君は、由布子、敦子様の男の子は、雅孝と名付けられた。






そして瀬奈が宮中に呼び戻される少し前、

どんな思惑が交錯したのか、突然に帝の譲位があり、


東宮様は即位、新帝になりあそばした。

だが子はいるが、未だ親王のない身、帝の下から2番目の阿汰親王が東宮宣下を受けた。


それには、柳左大臣の意向が関わっているらしいと噂が流れた。

何よりも、

柳家は早速と東宮となられた阿汰親王に、添い伏しの姫を差し出したからだ。


長谷右大臣は、その動きに、すこし歯噛みした。

「新帝に、わが娘の入内までは、時を稼いだが、

わが娘の懐妊までは及ばす。東宮は持って行かれてしまった。

して、次はどう出る?」



そしてまた帷子の辻。

停まっている網代車。待ちかまえるは、長谷右大臣だ。

「道満か?」「長谷大臣。またもや何用だ?」しつこいなぁ、おんし。そう言って、蘆屋道満は、また変わらぬ姿を現した。


「ここまでうまくしたが、次の一手はどうなる?」


ほっんと堪え性がないのお、おんし。道満は、あざ笑うかのように、

「時を待てばうまくいくわい。なんといっても、あの東宮が、帝となり申した。

それにとりあえず選ばれしとはいえ阿汰親王は、凡庸よ。

そのうち何か問題を起こして、廃嫡の憂き目にあうだろうよ。」

かるく嘯いた。


「しかし・・待っている間に何が起こるかもわからぬ。

少しでも早く・・わが娘の懐妊を迎えたいのよ。」じりじりとそのうちめらめらと、

その願望は燃え盛っている。ここまでくれば、あと1手。その気持ちも分かるが。



・・勝負においては、焦るものが必ず負けるものだがな・・道満は心の中でそう思ったが、

ふふっと笑い、したり顔で述べた。

「焦りめさるな。まあだが、一つ知恵をつけてやろう。

あの身分の低い妃を、出家させるように追い詰めたらどうだ?

あの女が出家すれば、その子の養育係が宙に浮く。そこを長谷家が名乗り出るのよ。前の東宮・・今や新帝となりし融どのは、

もう父親の顔だ。子を人質にとることが出来たら、もう言いなりだろう。」


なるほど・・。

長谷大臣は、頷いた。「して、どんな手をとる?」


「すでにおんしがやっていることだ・・。目新しいことではないわ。

1つは、

お渡りをする廊下に見張りを立て、ことごとく帝の動きの妨害をすればよい。今まで売った恩をたてに恫喝すれば軽いだろう。

帝だけにあらず、身分の低い妃、その子たちにも、

この3度の食事、衣服、冬にも暖をとれるこの暮らしは、いったい誰が与えてやっているのか・・とな。笑いながら恫喝するのは、おんしの得意技であろうし。」


道満は、愉快そうに、くっくっくと笑う。


「そして2つめは、次々に帝に高価な衣装や香を贈り、身につけ焚きしめるたびに長谷家の権威を見せつけ、その身の程をわからせようというものぞ。女と言うものはな、そういうものに、敏感よ。」



なるほど。それに、女官にも言い含め、あの妃を孤立させることも肝要じゃ。長谷大臣も付け加えて言った。

「そうよの。情報も大事だ。」道満は、そう同意して結論付けた。

「いずれにしても、

寵愛など、ひとときの幻にすぎぬものよ。それに気づけば、失意のうちに宮中を去ることになろうぞ。」




そんな場所に、瀬奈は戻ってきた。


「瀬奈、やっと戻ってきたか。」喜んで迎えに立とうとした新帝の融の許に、長谷大臣とその後ろに控えし、安倍晴明は冷たく告げた。


「新嘗祭までは、まだ神に認められた帝ではございません。

正后様と共に、聖水沐浴をし、神人共食をなし、他の者はお遠ざけください。

五穀豊穣を祈願し、身を清め、御衾秘儀の儀式に、皇祖神天照大神との神人共寝の儀を、お済ませになりませぬと・・御代に不吉なことが起こりましょうぞ。」


もう帝は、大人として十分成熟なりあそばし、

何より民の身を案じ、

そんなことは出来ぬと、突っぱねられるような、そんな子供の心は、もうお持ち合わせにならなかった。




瀬奈は、寂しい、ことっと音もしない襲芳舎に押し込められ、

由布子を胸に抱き、真一と過ごしていた。


「とーさまには、お会いできないの?」「お忙しいのよ。帝になりあそばしたので。」そう子どもに告げる。がっがりと項垂れる真一。

「ねぇ。あそこに植えてきた苗は、もう実を結んだかな?」「どうでしょう。尾塙が来たら、聞いてみましょうか。」



思い出すのは、敦子様との楽しい語らいばかり。

そして、毎日乳が張って痛かった。ずっと二人分の乳を与えていた瀬奈は、敦子様の御子、雅孝と離れてしまい、その分が余って困っていた。敦子様は、乳の出が悪く、

田舎に戻ったら乳母を捜すと言ってたけど・・見つかったかしら。雅孝はひもじい思いをしてないかしら・・。そんなことまで案じていた。


この宮中で、唯一の味方といえるのは、長年つき従ってくれた侍女が2人だけ。それも、日々女官たちに迫害を受けている。

そしてもう一人。長谷家の嫌がらせを物ともせずうっちゃって、尾塙が時々現れるくらい。

一番の味方であるはずの融様は、まだお渡りすらも叶わなかった。


「もう、私のことは、お忘れなのかな・・。実家の力もなく、何も持たない私のことなど。」



やっと新嘗祭が終わり、融さまに会えるかと思いきや、


「祭りのあとは、正后さまのところに通われるのが、決まりです。五穀豊穣の祈りも、

すべて帝の御代が存続との為の祈り。」

なにを下っぱ妃風情が言ってるのかというように、冷たく言い放たれた。


信じられない思いで女官を見つめる。

「それに、内親王でもない子に、帝がそんな心を掛けるなどと、期待する方が間違っているように思われますが・・。」そんなことまで不思議そうに言われる。


真一の時は、少なくてもそうではなかった。飛んできて、労わってもらって、抱きしめてもらって。

産まれたのが、女だったから?二人目だから?


そんな・・。融様の御子であることには、変わりありませぬ。

由布子をただ抱きしめる。



やっと融様に会えたのは、それから何日も後だった。

「すまない。やっと会えた・・瀬奈。ご苦労だった。でかしたぞ。」ありがとうございました。そう答えながらも、でも固く閉じた瀬奈の心はなかなか開かない。

「由布子を抱いていただけますか?」融は、受け取ると軽々と抱き上げた。慣れたその父親ぶり。

何やらふと違和感すらも感じる。正后さまを娘のように感じると言っておられた融様。

もしや私のいない時の寂しさを、正后さまをお可愛がりになって、埋めておられたのでしょうか。

「男もいいが。女の子はかわいい。」はい。そう答える言葉が引っ掛かる。


「とーさま、真一は、今論語を、勉強しております。」一生懸命告げようと顔が真っ赤だ。「そうか。父になり変わってよく皆の身を守ってくれた偉いぞ。真一。褒めてやるぞ。」


そんなところに、「長谷大臣がお呼びでございます。」

早速の使いが来た。空気が凍る。

「何だ?あとにしろ。」「前よりご所望だった、兵術の本を商人が持ち込んできました。帝が非常にご所望になっていたもので、すぐに確認して頂きたく・・申し訳ありませんが、お急ぎで、知らせにまいった次第でございます。」

そうか・・融はその報に喜びは隠せず、

「あの本は、入手を諦めていたものだ。よもや手に入るとは、どんな伝手を使ったものか・・。」そう呟いた。

いまや、長谷家の財力をもってすれば、不可能などないのだろう。


「瀬奈すまない。また来る。」融は、そう言うと名残惜しく部屋をあとに、去って行った。

その後ろ姿を、由布子を抱いた瀬奈と真一は、残念そうに見送った。





・・「もし・・宮中の生活に疲れたら・・私の所にいらっしゃい。

また一緒に楽しく過ごしたいわ。」・・



でも、無理な話だった。宮中を辞するためには、出家するくらいしか方法は思い浮かばない。でも出家をしてしまったら、もう子供二人と融には会えない。永遠に。


だけど、敦子様にそう言って頂いたことは、瀬奈の心の救いになっていた。ただ心で想像をめぐらすだけでも、それは幸せな時。


・・一番鶏の声で目覚めて、家の前を流れる沢の水を掌のひらですくって、顔を洗い。

やわらかな日差しを受けて、揺れる稲穂に。遠くにかすむ山々を眺め。根野菜の泥を落として、朝餉の菜にして。みなで食卓を囲んで、とれたては、やっぱりおいしいねって真一が笑って。綿を収穫したら、糸を撚って布を織ろう。縁側では仲良く兄と妹がふざけあってころころと、猫のようにじゃれあって・・。





そんなときに、またしても、耳を疑う話が入ってきた。

正后さまが、ご懐妊せられたとのことでございます・・と女官が冷たく告げた。

長谷家は、喜びにあふれかえっているようだった。




43.




こんな日がくることは、わかっていたのに・・。なぜ、私は。こんなに衝撃を受けているのだろう。

融さまは、私だけのものじゃない。この国の帝。そして折々の行事にその隣に並ぶことが許されるのは、正后様だけ。


あの日、「遠いところをようこそ」って、笑ってくれた東宮様は、もうどこを探してもいない。笛を、聞きたいかい?って、目の前で吹いてくださった、憧れのお兄様。

恋は・・だんだんに色褪せて遠ざかる。

でも失ったものだけじゃない。得たものもあったけど。楽しかった融様との日々。生まれてきた真一に由布子。

でも・・ここにいると、その全てを自分の手で壊してしまいたくなる。

だれか・・助けて。



お妃様、帝のお渡りにございます。そんな声が聞こえ、あわてて顔を上げた。でも・・こんな顔、見られたくない。袖で顔を隠す。


「瀬奈・・やっと、やっと来れた。

すまない。」

みすぼらしい襲芳舎に現れた融様・・帝は、何よりもまず瀬奈を抱きしめると、優しくその髪を撫でた。

帝の衣擦れに併せて、焚きしめた香が、ふっと薫る。

高貴なその香りは、前にご挨拶申し上げた時に正后さまが纏っていたその香りと同じ。


「息災だったか?」何も変わらぬ笑顔。でもそれすらも、どこか嘘くさく見えてしまうのは、何故?

「無事でしたから、今、ここに私はいるのですわ。」瀬奈はそう言って、横を向いた。

・・・何だか、責めるような口ぶりになってしまう。

あれもこれも、いろんなことがあったのに、

でも、過ぎてしまえば、結局元に戻っていて。今更思いだして1つ1つ積み上げて語る力もなく、それより先に伝えることを諦めてしまう。


「聞いたのか?」・・・躊躇いがちの融の言葉少なな問いかけが。「はい。」

正后さまのご懐妊のことだろう。

融は、また瀬奈を掻き抱いた。高貴な香りに包まれて噎せそうになる。

「だが・・違うのだ。君だけは信じてくれ。あれは、何かの間違いか、それか・・。」

・・・なぜそんな言い訳をするの?瀬奈は、ただぼーっと見上げる。そしてその耳を何の意味もなさない音がむなしく通り抜けていくのを感じた。

そして融のその一生懸命な姿が見えて、それを言わしている自分を、とても罪深く思う。


「変な、お気遣いは、無用です!御子が出来たなんて・・めでたきことではないですか!

労わってあげてくださいませ。まだ幼き身でしかも初めてで、大切な時期なのですから。女は、不安なものなのですよ。

ただ私は、

お祝いの品を贈るべき立場なれど、何もできない。それが口惜しくございます。」そう。瀬奈の身の回り品は、帝にお頼みすると、すべて長谷家より届く。何か用意したくても、長谷家にお頼みするしかない。贈り物を贈る先に用意させて、それを贈るバカはいない。


「瀬奈・・そんなことは、気にする必要はないよ。」何気なく掛けられた言葉が、心を抉る。

融様にはわからないのかもしれない。置かれた立場の違い・・それが、こんなに心を苛むものだとは。


「でも。まあ考えようによったら、これで・・やっと君の所に来れるな。」

そんな言葉に、驚いて、融を見遣った。

・・なに?この人は、何を言ってるの?その隙に私の許に通えるとか?


「長谷大臣も、安心して今日やっといなくなったから。」そう言うや否や、融は早急なしぐさで、唇を合わすと、

次に瀬奈の胸をはだけて、その手を袷に差し込んだ。

「あ・・何を・・。くっ、痛うございます。融様・・。」張り切った乳が固くしこって、

触れられると、激痛が走る。

「胸が、石のように固い。大丈夫なのか?」「くっ・・大丈夫です。融様。」

どんなに痛くても、そう答えて耐えるしか無かった。


瀬奈は、そのまま寝台へと運ばれたが、

だが、高ぶった融を受け入れることはできなかった。潤わぬ体が、肉と肉の擦れ合いに悲鳴を上げる。・・全身でそれを押しだそうとして、体がせり上がる。

押さえつける融の荒々しい仕草に、香が部屋中に広がり噎せ返り、

瀬奈はこみ上げる吐き気を感じて、涙まで滲む。

これは・・何?心と体が一致をみない。いや、どこか深い所で一致しているのか。

心の弱く薄皮の所が、剥がされめくれ上がって耐えかねて、血を流して痛む。

奥深い所で、声を上げられぬ心が、叫んでいるのだった。



「すまぬ。産後の辛い体のことも考えず・・僕は。」

はっと我に返り、そう謝る帝がいたが、

「いえ、私こそ・・お相手できずに、申し訳ありません。」瀬奈は、ただ泣き崩れていた。

帝はそれから、ただ瀬奈の体を抱きしめ、共寝していたが、

明け方うつらうつらしていた所に、

長谷大臣の車がお戻りでございます、と呼びにきた蔵人頭 尾塙の呼び声が聞こえ、

あわてて帝が寝台を抜け出して帰って行く気配を感じた。


熱が遠ざかる。由布子の泣き声に目を覚ました時、瀬奈の体はすっかり冷え切っていた。


どうしてだろう。

来て頂いて、お顔を見ること叶い、とても嬉しかったはずのに。

融様にお応えすることが出来なかった。

私の体は、ただ、固く閉じて・・。

それすらも出来ぬ私は・・それこそ、何の価値が?




「お妃様。

よもや出家など考えられては、おりますまいな。」尾塙だった。

流していた涙を見られたか・・。


「尾塙様。それは、無いです・・。

だって、出家すると、融様だけでなく、子供たちにも会えなくなってしまいます。

それに、融様をそんなことで苦しめたくありません。」それは本心だった。だけど・・


「長谷家は、お妃さまを出家させるように仕向けて・・います。

帝のお渡りを邪魔したり、帝に贈り物をして恩を売って恫喝したり。

瀬奈様がいなくなった方が、都合がいいのです。

そうなれば、真一様と由布子様の養育係を立てなければいけないですから、

長谷家はそれに名乗り出て、新帝を好きに操ろうと、そんなお考えです。

 でも真一様は、正后様が親王様さえ産み育てれば、使い捨てられて、あとは出家させるか始末されるか・・そんな末路しかありませぬ。おいたわしいことでございます。」


「そんな・・真一。」私の身分が低いばっかりに・・。瀬奈はさめざめと泣いた。


「瀬奈様。そういえば、

長谷家は、帝に、鬼より賜ったとの伝説を持つ、名だたる龍笛を献上されたようです。そのことは、ご存知でしたか?」


瀬奈は、はっとした。「そうでしたの・・このところずっと、藤壺より風に乗って美しい龍笛の音が聞こえていましたわ。それに合わせて奏される琴の音も・・。」

夜毎聞こえる笛と琴のその調和音が、美しくて哀しくて、ずっと瀬奈の胸を締め付けていた。そして知らず沸き起こる紅蓮の炎が自分を焼き尽くすのも感じていた。

私の入る隙間など、どこにあるのでしょう。



「でも・・尾塙様。私は、出家すら出来ない身なれば、もう身動きがとれませぬ。

私は、ここにいる意味などあるのでしょうか?このまま、ただ壊れていくしかできぬのでしょうか・・?」

ただ問いかける。


もう既に壊れているのかもしれなかった・・。私の心は、もう行き場がない。





「瀬奈さま。逃げられますか?」


「え?」尾塙の言葉に、耳を疑った。「私はもうこれ以上、見ていられないです。今度、由布子さまのお宮参りのときに、

あの少し遠い八幡宮へと申し出てくださいませ。そしてその時、真一様も、同時に七五三のと称して、必ず連れていくのですよ。

そこに、わが姉君の使いの者を来させましょう。

忍びの里への道中は、山道もあり、女の足ではきついかもしれませぬが。それでも3日歩けば、峠の山に出ます。」



「いえ。この宮中での辛さに比べたら・・そんな山道など大したことはありません。

でも、尾塙・・そんなこといいのですか?バレたらあなたに迷惑がかかるのでは?」


「いえ。私は、絶対口外などいたしません。

それにもとより、わが姉君のことなど、誰も知りません。

とうに小さいころに行方知れずに、忍びの里に浚われたと・・思われております。」


・・瀬奈様も、誰にも、私の姉のことはお話しされてないでしょう?その問いかけに、ただ頷いた。里下がり先であったことは、心配をかけるかと帝にも告げて無かった。


「ただ・・帝とはこれきり、もうお会いできないこととなろうかとは・・。」尾塙は、沈痛な面持ちで告げる。


「そうね。」瀬奈は神妙に頷いた。それだけがとても悲しい。融様・・愛しい私の。

でも、今はどんなに愛を囁かれても、辛いばかりです。生家が没落して、

何もお力になることもできない。その上、ただ私がここにいるだけで、融様は私の目を気にして、長谷家とのやりとりもぎこちなくさせてしまう。わが身がこんなに情けないとは・・。


「私はここにいると、もう融様に迷惑をかけることしか出来ぬように思います。

これから子と共に消えることも、多大な迷惑でしょうが。

でも尾塙様、そのあたりは、うまく伝えてくださいませ。

今まで十分愛していただきました。

愛する子を二人も授かり、でもその二人は私の身分ゆえに、後継ぎには認められぬ子です。

連れて行くこともお許しくださいと。私はこの二人がいないと生きられぬのですから。

これから私は、

融様から与えられたその思い出を胸に、生きていきたいと思います。私のことは、もう死んだものと思って、諦めてくださいませ。そして願うことが叶うなら、また生まれ変わりたい。そしてその時は融様と幸せに暮らしたいですわ。

お願いします。逃げる手助けを。尾塙さま。」


「わかりました。では、姉に伝えておきます。

姉も、瀬奈様のことを大層心配しておりました。」



そして、帝の下っ端妃は、お宮参りの八幡宮の山から、忽然と姿を消した。共にいた二人の子の行方も杳として知れなかった。


「全身黒ずくめの忍びのようなものに、囚われて浚われたと聞いたが?」「その男は、峠道を飛び越えて姿を消しました。」「もしや帝に恨みを持つものか?」


それは柳家が手に掛けたものかと疑ってみたが、それをして、三人を始末したとしても、特に何の利があるようにも思えぬ。

長谷大臣は、あまりの摩訶不思議な出来事に首を傾げた。

帝の御子という、手駒まで消えたのは残念だったが、

だが、とりあえずわが娘がこの後無事に出産を果たせばよいこと。

瑣末なことだ。帝の御代に、影響のでるものではないだろう、そう高をくくっていた。




しかし帝は、その一報を聞き、ただ衝撃のあまり・・倒れてしまった。


祈祷が行われた。健康回復の。長谷家の威光をかけて、百人を超える僧侶が集められ、紫宸殿では昼夜の渾身の読経がなされていた。


その喧噪の中、尾塙はつつっと歩み寄ると、帝の耳元でそっと囁いた。

「お妃さまは、生きておられます。お子さまも元気であらせられます。」

帝は驚きの目で、尾塙を見返した。


「逃がしました。どことは聞かないでくださいまし。

そして、伝言でございます。

・・もう十分に愛して頂きました。これ以上ここにいても、迷惑がかかるだけなので、

姿を消すことお許しくださいと。これからは、思い出を胸に生きていきたいと。

そして叶うなら、また生まれ変わって、その時はまた、幸せに暮らしましょう。との仰せでした。」


「そうだったのか・・尾塙。そうか。

わかった。多分、これが現世で、僕の出来る最善のことであろうぞ。ありがとう。礼を言う。

願わくば、来世には、必ずや出会いたいものだ。」

そう言って、寂しく笑い、目から、涙が、零れおちた。



にゃーにゃー。その時、読経にまじって、悲痛な猫の声が。


「・・ああ、クロ。迎えに来てくれたのか?

あの日屋根を伝って僕を励ましてくれた君が、去ってしまった。

もう何も見えない。生きていくことは、苦しいことばかりなのか。

これからの僕は、ただ生かすための読経を受け、傀儡の王として、木偶として、命さえ長らえばいいのだろうか。

だが、そのためには、心が邪魔だ。」




あ・・?

「ごめんなさい。融様・・。」

瀬奈が、融の胸に、ただとり縋って泣いていた。


神社の本殿だった。また長い夢の果てに、朝を迎えていた。



「瀬奈・・夢だって。大丈夫だよ?泣かないで。」


「・・ごめんなさい。知らなかったの。融様。

そんなにそんなに・・愛してくださってたなんて。


あの時の私をお許しください。

子供を、父親から奪うような真似を。

母でも父でも、どっちにせよ親にかわりはないのに。

ごめんなさい。私のした勝手を。


お許しください。」


「瀬奈・・しっかりして!」

揺さぶった。でも、まだ泣いている。


「いいんだよ。

君の身が大事。僕のことなど・・君は気にしなくていい。」

融は、帝が我が身に憑依したらきっとこう言っただろう言葉を、答えた。


その瞬間。あっ、と、

瀬奈の目が開いた。


「あれ?」何だか瀬奈はちょっと不思議そうな声を出した。「寝ぼけてたみたいだよ。瀬奈」

そう言うと、「やだっ・・。」そういって、融の胸に顔を埋めた。


・・今の瀬奈は、何だったのだろう。夢を見て、その気持ちが乗り移ったのだろうか。

そしてその答えを知ってた僕も・・。



にしても、お妃さまはその子二人と、逃げて敦子様のお屋敷へと向かわれたんだ。

東宮様は、帝になり、正后さまに御子が。

そして浚われたの報に宮中で倒れ。

二人の道は、もう交わらない、別々の道を行く。



みぃやは、

その時、ただ悲しげに鳴いていた。




44.



「ならば・・・私は、鬼になって永らえようぞ。」


そして帝は、カッと目を見開き、

伏していた床より立ち上がり、ふらふらとその長身の姿を現し、

まだ渾身の読経が続いている紫宸殿を一瞥した。



「煩い!もうよい。

尾塙。龍笛を持て。」

怒声を浴びせ、前髪のすき間より覗く血走った目で虚空を見遣る。

「御意。」

蔵人頭は、慌てて走った。



そして、差し出される龍笛を受け取り、口をつけ、

帝は奏した。その音は、すると何故にか何重にも木魂して、四方八方から聴こえ出し、

人々は、これは本当に一人で吹いているのか?と訝しがり、怯え、その目には、何人もの奇怪な鬼の姿が帝の背後に重なっては映り、そして消えて。

誰もが、驚きのあまり、固唾を飲んでただ見守っていた。


そんな中、何かが宿ったのか一つの影が徐々にその輪郭を濃くして、邪悪な鬼神と思しき姿が浮かび上がった。

その姿は帝に似て、ただその背には美しい黒々とした羽。瞳の奥には漆黒の闇。

帝は、それに対峙した。

口には、翳い笑みを浮かべながら。


「よく来てくれた。

この世は無常・・我が無念は、空へと放つ。

心はいらぬ。もう・・私は、何も持たぬ。

何も見えぬ。何も感じぬ。

現世に未練などない。燃やし尽くせばいい・・こんなもの。」


そこへ・・振り上げた龍笛の先に、閃光が光り、

笛は無残にも砕け散った。


次にバリバリバリと、すごい音が・・轟き、天を地を揺るがし、

紫宸殿の柱が、真っ二つに裂けた。

そして目の前を黒い影が横切り、犇めいていた僧侶たちの衣に火の粉が降り注ぎ、次々と燃えあがった。



「ひっ!」慌てふためき、衣を脱いで、逃げ惑う僧侶たちの姿。

「たすけてくれーーっ」「火が、火が。」

庭先へまろび出て、転げまわる者もいる。押し合い、我先にと逃げようと将棋倒しになり。総勢100人余りが、阿鼻叫喚の壮絶な地獄絵図を描く。


それを見て帝は愉快そうに笑い声を上げ、言い放った。

「鬼が我が心に応えてくれたのだ。

ふふっ 凶事ではなくこれは吉事。余は地獄の底から蘇りし。陰陽師など、呼ぶに及ばす。

お前たち、何を恐れているのだ?こんなものただの雷ではないか。

星が流れようが、虹が出ようが、

それはただの、天からの贈り物だ。」


そう言い残すと、自室の清涼殿へと戻ってしまった。



そのあと、バタバタと気色ばみ殿上に飛んできた、柳左大臣以下官人たちは、

その惨状に慌てふためきおろおろし、事態の収拾にあたると、

すぐさまお抱えの陰陽師を呼び寄せ、調べさせた。


「これは、紛うことなき、先の帝を呪い殺そうとして流刑にされた穂積家一族の祟りに相違ございません。

そして先日、神隠しにあった妃は、無体な目にあって、殺されたのでしょう。

その恨みつらみの怨霊が、あの笛に取り憑いて・・この惨状を引き起こしたのにございます。

早くに祈祷の儀を行いませんと・・帝の御代に不吉なことが。」


柳左大臣は、しかしそれを聞き、これは面白くなったと、にやりと笑った。

そして、

内裏の奥に逃げ込んでいた、今や帝を好きに操っている目障りな、時の権力者に呼びかけた。

「長谷大臣、やりすぎましたな。

あの龍笛は、鬼から騙して奪ったとも聞き及んでますし、そんなものを帝に献上するとは、

なんとも縁起の悪いことをされたものですな。

そして次に狙われるのは、貴方ではないですかな?

何やら、正后さまご懐妊と、勢いづいておられますが、

さて、無事にお産みになられますことやら?

それと、

まさか今までの数々の計らいごと・・道満からの入れ知恵ではないですかな?

あんな奴の言うことを聞くと・・ろくなことは起こりませんものを・・。」


長谷右大臣はそう言われて、ただ憎々しげに、柳左大臣を睨み返した。




帝は思っていた。

・・そうだ。

もう自分には、何も怖いものなど無い。

どう転んでも、所詮死ぬだけだ。

長谷右大臣に従う必要など何もない。それに気づいた。


大事なものを失くすということは、同時に護るべきものもないということ。

自分の命すら護る必要がないのなら、何に従うことがあろう。


しかしその時融は、

ふと、

部屋の隅に見慣れない黒いかたまりがあるのに気付いた。濡れてぶるぶる震えている。


「何だ?」それに目をやり近づくと、

くるんとそれは反転自分の許に走り寄ってきて、そして、胸に飛び込み、

ペロペロとその掌を舐める。

融は、目を疑った。

「クロ・・クロなのか?生きていたのか?」


にゃうにゃう。その猫は、ただ甘える。だだっと融の首に乗り、襟元にその柔らかさをすりすりと伝える。その仕草、その姿、あの日のままだった。

不思議だ・・あれから10年は経っているはずなのに。毛並みはふさふさ。いい香りがして、どこかで大切にされていたのか・・。



「慰めにきてくれたのか?」にゃう。神妙な返事は、可笑しかった。背を撫でる。そのしなやかに柔らかな体。温かい。


そこでクロは、徐にとんと下に降りると、文机にある上質の紙を1枚銜え、

融の許にもってきた。


「何だ?それは・・文を書けということか?」にゃう。「瀬奈に、持って行ってくれるのか?」にゃう。


そうか・・。


融は、墨をすり、おもむろに筆を執った。



『君に謝らなければいけない。

私は、自分の身の上を呪い、諦めて戦うことをしなかった。

野良猫になって生きることさえも怖れず、君と共に生きる道を探せばよかった。私はもっと強くなるべきだったと。別れたあとで、初めて気付いた。

許してくれ。

来世では、同じ轍は踏まない。だが、もう遅きに失する。

だから、もう私のことなど忘れて、幸せに生きて行ってくれ。

そう願うことが、私から君へのせめてもの贖罪だ。』



さらさらと書きつけた。

そして紙を撚り、クロの首につける。

歩きだして、クロは一度振り向き、そのつぶらな目を輝かせ。

次には、風のように走って行った。


融は、その後ろ姿を見守った。何処へ?




45.



由布子のお宮参りより連れ去られた態で、

迎えに来てくれた信と、山を踏みわけ辿り着いたのは、広大な隠れ里だった。

そしてその中心には、地方豪族として力を蓄えつつあった「介」の位を持つ、

帯刀家のお屋敷があった。そこの主として、夫亡きあと敦子様が君臨しておられた。


「信、ご苦労だったわね。

付けられては、いないわね。」「もちろんです。お方様。」澄んだ瞳で返答する。



「敦子様、また会えてうれしゅうございます。」

再会に感激の涙を流す。それに、もっとうらぶれた場所かと思っていたが、

峠を下りてここまで通ってきたあぜ道沿いでは、多くの者がこざっばりとした服を着て、楽しそうに働き、豊かな実り、素晴らしい別世界のような風景を見た。

「瀬奈様、長旅、お疲れのことでしょう。ゆっくり体を休められよ。」迎えたのは、貫録の女主人である敦子様。会う場所が違うと、かなり印象も違って見える。

瀬奈は、少し気後れを感じながらも、

ほら、真一、ご挨拶なさい。里下がり先でお世話になった敦子様ですよ。そう言うと、真一は土間に手を突き、


「われら家族3人侍女2人、御厄介になります。一生懸命働きますゆえに・・何でも、お申しつけください。」教えたわけでもないのに、道中、子供心に覚悟なすところがあったのか、そんな挨拶をし、

その大人っぽさに、目を瞠る想いがした。



「ああ真一。また一段と、大きくなったようね。

ここには、田畑、たたら場や機織り場、仕事はいくらでもある。そして働く者には、食い扶持を分け与えておる。それほど裕福ともならないが、それでも都で厳しい税を取り立てられるよりかは、ましに暮らせおる。近頃は、聞きつけて都より逃げ込んでくる者も多い。」



そう言って敦子様は、険しい目をされた。「もしや、戦が近いかもしれぬ。」

「真一、そなたは明日から信に剣術や護身の稽古をつけてもらいなさい。

いざと言う時、母と妹を守るのは、お前しかいませんよ。」


そんな言葉に、「はい!」頬を紅潮させ、真一は答えた。



その時、奥の間から赤ちゃんの泣き声が聞こえた。敦子様は慌てた風に、

「それと、瀬奈様。早速で申し訳ないのだが、わが子雅孝が・・むずがって。

良い乳母も見つからず、困っておりました。瀬奈様、この子にまた乳を与えて下さらぬか?」

「もちろんです。私も、ずっと乳が張って、苦しくて・・。」

雅孝を受け取って、早速乳を与えると、ぐいぐいと飲んでくれるその力強さに、

瀬奈は、知らず溜まっていたなにもかも、

袋小路に嵌っていたどうしようもなかった気持ちや鬱屈した嫉妬の炎や、そんなものまで、なにもかもがすぅーっと消えていく心地良さに、身を任していた。

そして赤ちゃんは、満足そうに、にこっと笑った。


生かしているようで、生かされている。そんな、言葉がふと浮かんだ。



そして、瀬奈は屋敷にほど近い畑を任され、農作業に精を出しつつ、

時折侍女が抱っこしてくる由布子と雅孝に、交互に乳をやり、

あとは炊事に機織りの手ほどきを受け。あっというまに、一日が終わる、そんな生活を送っていた。

疲れはあるが、やりがいはあり、何より子供の輝く笑顔に癒され、余計なことは何も考えずとも、過ぎていく。



そんなある日、

朝方に鳴いた一番鶏がバタバタと騒いで、卵を産み、

瀬奈が朝餉のお菜を収穫に、畑に出ると、そこに、まんまるい黒い生き物が一直線に駆けてきた。

みるみるうちにそれは大きくなり、

「にゃうーー!」嬉しそうに跳ねて、瀬奈の足元にじゃれついて、見上げている。


「わっかわいい。よく慣れた猫ちゃんね。

あれ・・みぃや?もしや・・みぃやなの?やだ・・こんなに汚れて。」

その毛は葉っぱや泥だらけ。どんな道を駆けてきたのか?


瀬奈は、まさかと抱き上げると、なんとその首に、こよりのような紙が巻き付いていた。


それを見て、全身の毛が逆立ち、かっと体が熱くなった。

時が巻き戻る思いだった。これは・・もしや・・融様からなの?

焦ってみぃやの首から外し、震える手で手紙を開く。この字は、まぎれもなく融様の・・涙で滲んで見えない。必死に拭って、その文字を目で追った。そして。


・・・そんな。もったいのうございます。

溢れそうな涙をこらえて、何度も胸に押し抱いた。


それから瀬奈は慌てて台所にとって返し、みぃやにごはんを上げた。

にゃうにゃうと嬉しそうなみぃや。「ご苦労さま。」そして撫でる。相変わらずふわふわと気持ちがいい。


そこに真一が通りかかり、「かあさま、それは?・・わぁ、猫?」そう言って抱き上げる。その姿は、最初に出会った頃の融様にも似て、瀬奈はただ感慨の面持ちで眺めていた。

それにしても、みぃやが姿を消してから10年は経っていると思うのに、みぃやは全然年を取った雰囲気が無い。

われは、もう二人の子持ちよ。ふふっなどと、みぃやに話しかける。にゃ?

ありがとね、みぃや。でもよくここがわかったね。

にゃあ!

・・苦労したんだよなんて、言ってるのかな?


そして夜を待ちかねて、瀬奈はまたあの日のように、返事をしたためた。



『一言も私を責める言葉なく、あなた様らしいと、感じ入りました。

もったいないお言葉。あなた様は何も悪くない。弱い私が悪いのです。

文を、ありがとうございました。こんな嬉しいことはなかったです。

あの日々は、私にとって夢のよう。今も私を幸せな気持ちへと運んでくれます。

だけど、夢を見過ぎました。あの場所では、心が苦しくて、もうこのままではとても生きていけないと逃げた私をお許しください。

息子は元気です。

ますます逞しく、あなた様譲りの凛々しさです。私の背を追い越しました。

あなた様も、体に気を付けて。』



書ききれない思いが溢れ、却って平凡なことばかり。読み返して瀬奈は笑った。


そしてみぃやの首につけ、

「でもね、みぃや。無理はしなくてもいいからね。

もう十分。あなたは、このまま融様を御慰めしてあげてね。」そんなことも言ったが、

分かっているのか分かってないのか、にゃう!ひと声鳴くと、


また都の方向へ向かって、出発していった。




46.



「瀬奈、何しているの?」「伯母さん!」


和邇神社から、下宿に朝帰りしたところに、

瀬奈は、待ちかまえていた伯母さんと、バッタリはち合わせをした。


「まったく・・成績表送られてきたわよ。どうなってるの?頑張って勉強するって言ってたのに・・。」


「ごめんなさい。伯母さん。」「おまけに、朝帰りなんて・・貴方の両親にどう説明したらいいのよ。

ねぇ・・どこ行ってたの?」伯母は昨夜こちらに着いて、一度下宿を訪ねたがいないので、ホテルに泊って今朝また出直して来たらしい。


「・・友達のところ。あの・・ごめんなさい。これから、また勉強、頑張るから・・。」

言葉少なに、言い訳をする。


「ねえ瀬奈。これから、うちへ来なさい。詳しく話、聞かせてもらうから。」そう言って、手を取り引っ張られた。

だが瀬奈は、それを慌てたように、乱暴に振りほどく。伯母さんの神経を逆なでするほどに。


・・・そんな。今から行けば明日帰ってくることなんて出来ない。

「ごめんなさい。明日、大事な用事があるの。」明日は、また巡ってくる水の陽の日。雨乞いを・・そしてクロをあの時代に戻してあげなければ・・。そのためには・・。


「それが終わったら、ちゃんと帰るから・・。」瀬奈は懇願した。お願い・・お願いしますっ。



伯母さんは、そんな頑なな瀬奈を見て、はあっと溜息をついた。

「そう。じゃあ、ちゃんと帰ってくるのよ。」


「それにしても瀬奈、顔色すごく悪い。心配事あるなら、相談なさい。あんたはいつも、自分だけで抱えちゃうんだから。悪い癖よ。」一度大学諦めた時も、そうだったわね。伯母はそんな風に呟いた。



「・・・。」瀬奈は、言い当てられて、どきっとした。心配ごとはあった。でも口に出せなくて。

でも、そんな。たった一度のことなのに。でももう2週間も遅れていた。心なしか体がいつになく疲れやすくて、眠くて。これって、もしや・・。





帝は変貌を遂げていた。


「武器を揃えろ。地方の豪族に対抗するためには、軍隊を整備しなければならぬ。」

呼びつけた官人へ、矢継ぎ早の指示を出していた。

帝を警護する役所として検非違使は設けられていたが、そんなものでは話にならないと。もっと組織的に、育成して増強すべきと、机を叩いて命じた。

その机には、兵術の本がうず高く積まれており、その蓄積した知識もあろうが、

それだけでなく、帝自身に今まで周りに眩まされて閉じていた、外への目が開いたと言ってもいいだろう。



長谷右大臣は、驚いて清涼殿に上がり帝に物申した。「何をこの雅な世界に、野暮なことを持ち込まれるのか?大陸にかぶれるのはいい加減にして、そんな勝手なことはおやめ下さい。」

あきれ果てた、進言と言う名の命令だったが。

「雅が何ぞ?これからの世は、笛を吹くより剣術の方が役に立とう。

それにしても、無礼ではないか。誰に向かって物を申す?帝の勅旨はこの国では一番の力を持つ・・のではなかったかな?」はははと帝は笑ってみせる。鋭い目が交差した。


「畏れながら、帝におかれましては、気にかけるべきことは、もっと他におありではないですかな?

まだ貴方様には後継ぎが無いのですよ。

我が娘のお腹もずいぶんせり出してきました。もっと労わってやって下さいませんか。娘は、いつも不安そうな憂い顔をしており、心配です。

まだ小さき身なれば、その夫のやさしき言葉なくしては、耐えきれぬものと存じます。

なにより、この国の為、親王や内親王を産み参らす我が娘に、労わりの言葉を・・。」

親としての、不満も募っていた。


自分が目論んだこととはいえ、幼き身で入内させ、

その新枕を監視するような真似までしてこぎ着けた懐妊。

しかし、その夫たる帝は、自分には関係ないような顔をして、そっぽを向いていた。


長谷大臣は思った。それでもまだ入内の頃は、やさしき夫の姿をしていたものを・・。

姫のわがままに応えて、物語を読み聞かせたり、貝合わせに興じたり。笛を奏してもらい、姫は楽しそうであった。

しかし懐妊となったときから、それらは、パタっと無くなり・・。

・・いや、違う。そうではない。長谷大臣は考えを打ち消した。

あの下っ端妃と子らが拐かされ、帝が打ち伏し、その後笛が雷を呼んだあの日からだ。それに思い当り、ぞっとした。

目の前の帝はもしや、何かに取り憑かれているのかもしれぬと。


「ああ。早く里下がりするがよい。邪魔だ。」

帝は、そう関心なく、冷たく言い放ち、長谷大臣はその意を強くした。心に、鬼が・・棲まわったのか。



「長谷大臣、まさかこんな世がずっと続くなどと思っているわけではないわな。」帝は、長谷大臣に向かってまた笑いかけた。

世に栄華が永劫続いたためしは、ないと。そう言って。

「気にくわぬなら、わが首をすげかえればいいだけだろう。

お前にはそれができる。

違うか?」はははは、とまた勝ち誇ったように笑った。長谷大臣は、背筋にうすら寒いものを感じ冷汗が滲んだ。


攻め手が後ろに回られて、逆に絶体絶命の劣勢となる。

長谷大臣は、娘の懐妊が、逆に人質に取られた心持ちを感じた。

にしても・・ここまで人は変わるとは・・だが、無事産み参らせば、その時はまたこちらに主導権を取り返せるだろう。その時は裏取引で柳家と手を結び、帝を出家に追い込み、東宮を即位させ、その次の東宮に我が子を。まだ懲りもせず長谷大臣は夢見ていた。






冷たさに、そばの者をみな震え上がらせていた帝ではあったが、


ある日、殿上を駆けてきた猫に向けた顔だけは違っていた。

笑み綻んで。それが却って、狂気を感じさせて、人々はまた背筋に冷たいものが走った。



クロが泥だらけで戻って来たのは、内裏を走り出でた日から、丸十日のち。


「クロ・・御苦労であった。」そう言って、撫でて話しかける帝の声は、甘く恍惚として、まるで恋人に囁くような声であった。そしている時は片時も離さず、共に寝て。

人々は噂した。

そういえば姿を消した妃は、その昔猫娘と言われていたと聞く。その化身に取り憑かれあそばしたのではないかと。





47.



文使いこそ、わが使命。クロの行き来は続いていた。


『君が元気に楽しく過ごしているようで、なによりだ。

籠の鳥が、解き放たれた心持はいかばかりか。

などと、嫌味の一つも言いたくなるな。

だが、嬉しい。

君の元気こそ、僕が一番望んでいたことだから。

子も息災で、なにより。』



『遠い地で、なにやらきな臭い噂も聞き。

離れおり、案じることしか出来ぬ身の、無力さに打ちひしがれます。

無理はなされず。

ところで、もうそろそろ臨月を迎えられるのでは。

ご無事に元気な赤ちゃんがお生まれになりますよう、お祈り申し上げております。』


・・少し躊躇しながらも、瀬奈は、

正后さまのご出産のことを書きつけていた。

何より真一をこちらの地に連れてきたことに負い目があるゆえに案じられた。

だが、融のそばにいると平静でいられなかった正后さまのご懐妊も、こうやって遠くにいると、何も無かったように書くことが出来る。不思議だった。



『誓って、触れてもいない。

なので、あれは何かの間違いか、誰かが手引きした者とであろうと思っているうちに、

臨月と聞いて驚いている。何が生まれるのか、私には摩訶不思議だ。


三途の川を渡る時は、手を携える約束だろう?

君だけだよ。

そう方々に出かけて行かなければいけないのなら、敵わない。

この手に触れてもいいのは、君だけだと、あの日言ったことをお忘れか。』


・・そんな衝撃な文を受け取り、

読むなり瀬奈は、ばふんと顔が赤くなった。

全く、あの人は。なんでここまで女たらしなの。私なんてたらしても、何も出ないのに。

知らず体が疼いた。もう、なによ。あの日が・・蘇る。

もうもう、綺麗さっぱり忘れ去って、生娘に戻るくらい清らかだったのにぃ!瀬奈は、じたばたした。


「かあさま、どうかされたの?顔が赤い。熱でもあるの?」

真一が心配そうに聞いてきた。この子は本当に、よく気がつくやさしい子。融様にとても似ている。

・・ああそうだ。突然に閃いた。

あの頃私は気付かなかったけど、聡し融様には、わかっていたのだ。

私達は最初に出会ったときから、悲しい別れが必ず来ると決まっていたということを。


「何でもありませんよ。ただ・・。そなたの父様のことを考えていました。」

瀬奈は、そう正直に言った。どきどきしていた。また再び恋をしているみたいに。

だが、そんな気持ちを誤魔化そうと、

別のことを口にした。

「ところで真一。剣術の腕を上げたと、信に聞きましたよ。敦子さまにもお褒めいただきました。頑張ってるのね。」


真一は、頬を染めながら、だけど真剣に訴えた。

「ああ、だけど。すごく強い子がいるんだよ。

沙羅と言う子で、女の子なんだけど、どうしても敵わないんだ。」「あら、綺麗な子なの?」「ぜーんぜん。髪いつも振り乱してるような子だよ。だけど僕には、容赦ないんだよ。いつも目の敵にされて、ぶった切られて。真剣だったらもうあんたのこと5回は殺してるのにな残念だわとか、平気で嘯いてさ。

でもね。ずるいんだよ。すぐ蹴りで僕の剣をはたき落とすんだ。

だけど信も、それ見て邪道だが・・まあ戦場ではルールなどないからなって、笑ってるんだよ。酷いよ。」

そんな息子に、瀬奈は心でくすっと笑う。




『だめですよ。私なんてたらしても何も出無いですから。

貴方の方こそ、私のことなど忘れて、幸せに暮らしてください。

産まれてくる子に、罪はありませぬ。

愛は、注ぐ為にあるもの。子はかわいいです。

三途の川で、一応待ってますけど、来なくても全然平気ですから。

待ち疲れたら勝手に行きます。』


・・こんなこと書いて、いいのかしら?と思ったが、

何だか愉快だった。

面と向かって言ったら、怒られそうだけど、文なら許してくれるよね?



片やそれを受け取った側は。


全く・・瀬奈は、人の気も知らず・・融は、文を手に、くくっと笑う。

子どもの頃の元気な瀬奈を思い出して痛快だった。

クロが不思議そうに、そんな融を見上げている。


「まったく。クロの口がきけたら、もっと聞いてみたいところだな。

そんなに楽しそうなのか?わが君は?」

にゃう・・にゃうにゃうにゃう! クロだって、きっともっといっぱいお話をしたいと思っているに違いない。

そうか。頭を撫でる。ならばよい。

クロ・・ありがとう。伝えてくれて。さあ、にぼしをあげよう。ご苦労だったな。



『信じてもらえないのは、悲しいな。

よくあちらでは笛を所望されたが、その言葉に、安堵していたのだよ。そうすれば、君以外の女人が、この手に触れなくて済む。

笛を吹く時は、いつも君の耳に届けと願っていた。奏す時は、いつも君のことを考えていたよ。君の為に吹いていた。

だから今はもう吹けぬ。笛も壊れてしまった。』



そんなこと・・今言われても。

文を見て、瀬奈は、絶句した。

我が身を切り裂いた嫉妬は、結局、自分の心の内だけにあったことだった。

融様のお心は、もっと大きく包みこむ、広い所にあったのだ。

今わかったことだけど。



『人は、生きるために働き、働くために生きて、

その中に楽しみをみつけ、愛を知り、子を育み生きていくのですね。

空を見上げていると、

この同じ空の下に、あなた様もいらっしゃるということに不思議さを感じます。

私の父母やきょうだいも。

そして、そのことに安堵を感じます。

この平和が続くこと。そして、あなた様の幸せをお祈りしています。いつまでも。』



何かを暗示するような、文が届いた日に、

宮中は、にわかに騒がしくなった。



「いよいよ・・か。」融は、クロを抱き上げて頬ずりをしながら、小さく呟いた。




48.



「死産と?」「はい。誠に残念ながら・・。」

帝は、奏上仕りし蔵人頭の尾塙から、話を伝えられた。


「しかし・・下女たちの話では、もともと妊娠も何もしてなかったのでは・・という噂です。」尾塙は声を潜める。

「そうか。」帝は、納得した。

まだ幼き姫君は、父親からの御子をなせとの重圧から、そのようなことになったのではないか?と考えられた。その位、父親の監視は異常で、重荷だっただろう。




高子の経過は、こうであった。


里下がりの許可を得て、華々しく手車に乗せられ、宮中を退出し、

長谷大臣のお屋敷に下がった高子は、

臨月になっても、未だ陣痛が始まらず、長谷大臣は落ち着かない日々を過ごしていた。


僧侶を集めて、加持祈祷など行うが、兆しなく。

しかし、辛抱強く行ううちに、やっと陣痛らしきものが起こり、高子は呻き出した。


だが、見守る侍女たちが見たものは・・さらさらと流れ出す水で。最初は破水かと思われたが、それにしてもおかしい。ただ、大量の水が・・流れ出すのみで、

それらはみるみる敷布を濡らし、そして、せり出したお腹は、それによりどんどんしぼんで行く。



「何だ?どうなのだ。お子は?まだ生まれないのか。」

泣き声が聞こえないことに苛立ち、訝しがり、行き交うものを捕まえてはせっつく長谷大臣に、周りの者たちは戸惑い、青い顔をして、申し上げた。

「正后様は、水をお産みになりました。」そうとしか言えない。


何?・・もしやこれは、何かの祟りか?

しかし見守るものは、思っていた。まだ幼き姫君は、父から寄せられる過度な期待に、月のモノが止まって、これは懐妊だと喜ばれるまま、体が暗示にかかって臨月のようになったのではないか?と。そのくらい、父親の監視は、幼い身を苛んだのであろう。

畏れながら・・と、侍女は、やんわり告げた。きっと期待から来る重圧のせいですわ。可哀そうな、姫さま、と。


「ただ、幸いなるも、正后さまは、出血すらもなく、お元気であらせられます。」ケロッとしているというのが、正直なところ。重たいお腹も無くなって、すやすやとお休みになっておられます、と侍女は告げた。


「なんだそれば。

帝には、死産とお伝えするしかないな。恥ずかしくて、本当のことなど、言えぬわ。

水を産んだ、などと。」

そう吐き捨てた長谷大臣の言葉を、しかし几帳の後でうつらうつらしていた高子は耳にしてしまい、その衝撃で伏したまま、部屋から一歩も出られなくなった。



「また参内しなさい。そしてまた子を成せばいいこと・・。」長谷大臣は、しまったと思ったが、後の祭り。

その後、必死に執り成すも、

しかし高子は恥ずかしさの余り、ひきこもったままで歩くことすらおぼつかず、布団から離れられないその姿。参内は当分無理のようであった。



長谷右大臣は、頭を抱えた。

これでは・・もう間に合わぬ。だがもう、あの自分の意のままにならぬ危険な帝を野放しにするわけにはいかない。猶予は無かった。

仕方ない。長谷右大臣としては、甚だ癪ではあったが、柳左大臣の謀略に乗る他無いかと考えを巡らせていた。





迎えに来た融のバイクの後ろにまたがって、

融にしがみつき瀬奈は、ずっと考えていた。


・・もしかして、出来たかもなんて言ったら、

どんな反応されるかな。困ったような顔されるかな。就職もまだ決まって無いのにとか。

まだ今は、無理だよとか・・。


体は密着しているのに、心は遠い。

ぼーっとしていて、着いたことにも気がつかなかった。

「瀬奈?どうしたの?着いたよ。降りて・・。」融の不思議そうな声が。


公民館が見えた。二人は、信さんの稽古場に来ていた。


雨乞い祈願の時に、太鼓を頼むため。

前に信さんが、太鼓が必要なら呼んで・・と言ってた言葉を伝えると、

融はあっさり、頼みに行こうと、それで、ここまでやって来た。

明日は、万全を期したいから・・と言った。



会議室を覗くと、ちょうどみんな休憩してる所で、

「信!」融が呼んで近づいて行き、瀬奈も後ろをいく。

「なんだ。太鼓?明日?・・急だな。でも午前中なら大丈夫だ。」

信さんはサラリとOKしてくれた。


まわりの女の子たちも、瀬奈の姿に気付いて、


「あ、神楽舞の・・おねーさーん!」

前にも親しく話した、

あの、目元がつり上がっている高校生の女の子が寄ってきた。


「ひどいんですよ、信さんったらねぇ。私にはまだ無理なんて・・。」訴えてきて、

「ひょっとして、おねーさんの、カレシ?」なーんて、言いながら、

そばに来て、ひょいっと隣の融を見た。


その瞬間、ぽろっと手にもったペットボトルを落とした。

「もしかして・・サッカーのFWだった。もしや・・あの。きゃあーー!!握手してください。ファンなんですぅ!」その女の子は、大騒ぎを始めた。


「え?誰かと間違えてんじゃないの?」冷静な融の反応だったが、


「いえ・・地元の××高校でしょ。惜しくも敗れた県大会の決勝の試合も 見に行きましたよ。1ゴールしたのに・・最後乱れて追いつかれちゃって、PKで。惜しかったですよね。それと、高校の文化祭にもお邪魔したことあります よ。舞台で女装した赤ずきんしてましたよね。最後に狼陥れて、めっちゃやっつける劇!ウケましたよ。それに、和邇神社でも・・ずいぶん昔にお祭りの笛吹いてるのも見たことあるし。」


すっごい、この子、筋金入りのオッカケだ!しかも、文化祭の黒歴史まで!


「でも変じゃん。祭りで笛吹いてたのなんて、高校サッカーに出るだいぶ前だよ。

その頃君、すごく小さいだろう?幼稚園くらいで・・。

僕が高校の時も、君は小学生だろうし・・。」


テキトーなこと言ってるだろうと、融が突っ込むと、


「お父さんが、連れてってくれたんです。お祭りも。

高校の文化祭も、サッカースタジアムも。一緒に行こうって、いつも私を連れて。

だから・・きっと最初はお父さんが追っかけだったんですよ、多分。」

そんなことを言いだした。


ん?君、名前は?そう聞いた時の融の声は少し震えていた。女の子は、「え?日野ですけど。」

・・・それは、覚えがあった。昔、書類でふと目にした、父の旧姓だった。

「あ・・。」

そうだった。何故気付かなかったんだろう。しみじみ見る。

女の子の、目元。少し細めの、融によく似たその眼差し。この子は、もしや、僕の・・妹?そうか、隣町での父の暮らし。



「・・君のお父さんって、もしかしたら知ってる人かもしれない。

一度会ってみたいな。」融は平静を装って、そう言った。


「えーー、ほんとに?喜びますよ。

笑っちゃうくらい子供みたいな父で、サッカーのゴール決まった時なんて、スタンドじゅう、きゃあきゃあ言って、どすどす飛び回っていたんですよ。はずかっしいったらありゃしない。他人のふりしましたよ。

そういえば、今度の、ここの稽古場ライブに来ますよ。

娘の晴れ姿見に行ってやるって、言ってたから。」チケットまだありますよー。ポケットから、ひらひらと出して、いりますか?その子は聞いてきた。


「信さんにチケットもらったから、融さんの分もあるし、大丈夫。楽しみにしてるよ。絶対、行くね。」瀬奈は、横からその子に言うと、「そうなんだ。ありがと。」にこにこと、その子が笑った。


「じゃあ、その時、父さん、紹介しますね。」「ああ、よろしく言っておいて。」

そういって、融は、その女の子が差し出す手と、握手した。


・・まだ何も伝えていないんだろうけど、事情は追い追いわかっていくだろう。

だけど、父は、自分のことをずっと気にかけていてくれた。それがわかっただけでも、

胸に熱いものがこみ上げた。





49.



公民館を出たとき、

「よかったね。」瀬奈は、融に声を掛けた。

「ああ。」「信さん、太鼓OKしてくれて。」そっちか・・融は、そう思って、

父のことはまた今度話そうと、

言葉少なにバイクに乗り込み、エンジンをふかす。


「これで明日、やるだけだな。」

明るい気持ちだった。みぃやをあの時代に返してあげたいと思い続け、そして、明日こそは出来るような気がしていた。

神社の方も用意は万端。舞台の設えも、全て済んでいる。


バイクはエンジン音を響かせる。瀬奈の下宿はもうすぐ。

「・・あの、あのね。融さん。」瀬奈は、意を決して話し出した。「なに?」「出来たかも・・しれないの。」「え?なに?」

聞こえないようだ。

「来ないの・・まだ。月の・・アレ・・が。」


バイクの爆音にかき消され、伝わらない。

そのうち下宿の前に到着して、融はバイクを停めた。


「どうかしたの?さっき、何言ってた?」「出来たかもしれないの。あの時・・の。」


瞬時、ヘルメットの奥の融の目が見開かれた。


「そんな・・ダメじゃん。それじゃ無理だよ。なんで、今?

本当?確実なの?」矢継ぎ早に、吐き出されるそんな言葉。


瀬奈は、心が冷めていくのを感じた。やっぱり・・迷惑・・なんだ、と。

項垂れて答えた。「まだわかんないから・・明日、検査薬買ってくる。」その言葉に、

融の少しほっとしたような空気を感じた。

「僕が買ってこようか?」「いい。融さん、近所じゃ噂になっちゃうでしょ。私が、買う。」「じゃあ、お金渡すよ。」「いらない。」「なんで?」そんな押し問答。



「ごめんなさい。」「瀬奈が謝ることはないよ。でも・・。たった一度で・・。

僕のせいだろ。

ごめん。あの時、君に悪いことした。僕が悪い・・。」

そう言って、瀬奈を抱きしめてくれたが、

「だからって、今じゃなくても・・」融は、頭を押さえ、見るからに混乱していた。


融のあまりにもの取り乱し方に言葉も掛けられず、瀬奈は、身の置き所を無くしていた。

僕が悪い・・なんて、そんな言葉を聞きたいんじゃなかった。

やっぱり、融さん、困らせちゃった・・。




そんな時、大家さんの部屋の灯りが再び着いた。声が聞こえる。

先日来訪してきた伯母さんから、瀬奈を見てくれるようにと頼まれたのかもしれない。



「それについては、結果出てから、考えよう。もう遅いから・・。」融は、そんな言葉で、体を離した。熱が、遠ざかる。

「じゃあ、また明日。忙しくなるから、よく寝てね・・。」


そんな別れの言葉を残して融が走り去った後、

瀬奈は下宿に駆け戻った。

ベッドに腰を掛けると、体の力が抜けて急に悲しくなって、涙が溢れだした。





「おんし・・絶対追いかけると思ったがな。案外、堪え性があるのな。」


清涼殿にて。

天井より、突然聞こえてきた声に帝は、顔を上げた。


「誰だ?」「蘆屋道満と申す、陰陽師のはしくれよ。」ふっと、そのボロボロのなりの姿を現した。

「なぜここにいる?」「近頃、帝の御身をば頼む、祈祷の声聞こえせねば、

結界も破れるというものでな。まあそれでも、猫がいる間は、ネズミの姿は入り込めないが、あの優美な御猫は、今お出かけと見えるので。」


確かに、帝の為にと、

これ見よがしに次々と行われていた大厄祭など数多くの加持祈祷はなりを潜め、内裏は静まりかえっている。

つまり大臣たちは、

思うようにならない帝には永らえる為の祈祷は必要ないと判断したのだろう。



そこで帝は、いかにもあやしい道満と向き合った。

「で、何用だ?」「その耳に、入れに来てやったのよ。

出家の求めを断ったと聞いたのでな。」


執拗に、出家を迫られた。

時代の変あるべしとの卦が出たのでございますと、聞こえがしに、内裏での大騒ぎの声を響かせ、

これは変事です。帝に置かれましては、禊を。祈祷を。そして、出家されるがこの厄災を逃れる一番の方法ですと、お抱えの陰陽師までもを連れてきた茶番。そして、そうされないと、お命が・・と迫られた。


だが、脅かされて、出家するのも、どうなのだ?出家の意味が違うと突っぱねた。

そして帝は、不敵な笑いを浮かべて、我は命など惜しくもない。と答えたのであった。

「で、今度は、長谷大臣から差し金か?道満といえば、長谷大臣に陰でずいぶんいらぬ入れ知恵をしていたようであるからな。」指摘した。


何だ、知っておるのか?と道満は、馴れ馴れしい言葉遣いになった。


「それでわしは今や、長谷大臣に追われる身よ。

自分のやり方がまずかったのを棚に上げてな。全部わしのせいだと吹聴しておるわ。

でも、わしも、別に長谷大臣の味方をしていたつもりはないのよ。」


本当なのか、嘘なのか、言葉を弄す。惑わす言葉はお手の物であるだろう、この陰陽師くずれは。


「で、帝さまよ。

いよいよおんしの身は危ういぞ。もう大臣は、なりふりかまわなくなっている。

明日には、この清涼殿の周りに、火が放たれる。盗賊の火つけと見せかけてな。

そして、その前におんしの気を失わせてここに置き去りにすると・・そんな手筈を打ち合わせているのを耳にした。」


「何を出鱈目を?」しかし道満は真剣だった。「女官に気をつけられよ。柳大臣の息がかかっている。

香の中に唐から伝わった草烏頭に曼荼羅華の実を入れ、誤った態でそばにて嗅がせて気を失わせる気だ。だから、嗅いだふりをして息を止めてな、気を失ったふりをするがよい。」



「なぜ、そうしろと?」「そのあと、わしが、救いに来てやるからだ。」


は?帝は驚いた眼をした。

「なぜ来る?」この男、信用などできなかったが、帝は、そう問いただしていた。


「おんしを逃がすためよ。この閉塞した檻から、な。」にやりと笑った。「しかし、火が鎮火した後、ここに骸もなければ、逃げたと分かり、我はまた後を追われるだけであろう?」帝は聞いた。


「そこは、替え玉の骸を置いておくのよ。なんの。行き倒れの骸など、都の外に行けば、死屍累々と積んであるわ。背格好の似ているのを1つ見繕っておいてやろう。」そこまで考えているのか?帝は、道満を見詰めた。


「おんしも逃げればよい。この屋敷を出でるのだ。わしが結界の隙間の迷路を案内してやろう。そして都を出たら、猫の後を追い掛けられよ。さすれば、おんしの最愛の君に会えるというものだ。しかも帝という外物を脱ぎ棄てた姿で。ええじゃろう?

なんの。

こんな閉塞した世界に、もう未来などないわ。

おんしにだって、分かっているだろう?貴族の関心事と言えば、和歌や楽器、そして一番の望みは、自分の娘を帝に入内させて男児を産み参らせ外戚になること。

おんしの思っている通り、地方の豪族は力を付けているぞ。中央への不満も多い。

これからは、武力がモノを言う時代ぞ。」



「しかし・・お前の狙いは何だ?

長谷大臣に付き、入れ知恵をして、実権を握らしてうまみを吸うのが目的ではなかったのか・・。」


「わしの狙いか?ははは。そんなものは・・。

長谷も柳も、小さいわ。

しいて言えば、面白いことが好きなのよ。歴史を動かしている快感よの。


それに、

わしが義に感じておったのは、おんしの御猫だけよ。


話し相手なのだ。随分いろんなことを教えてくれての。

楽しいぞ、あやつの話は。

こたびは、少し先の世へも行ってたようだしな・・聞きたいか?おんし生まれ変わっても、またあの女といちゃついておったと。」道満の、いやらしい笑いが部屋に響いた。



先の世?また瀬奈と?

信じがたい、胡散臭い言葉だったが、頭の隅では、信じてみたいと思わせる話だった。


「道満。じゃあ、頼もう。

もしお前が来てくれなくて、焼け死んだとしても、

このまま宮中に飼い殺されてる今と、大したかわりがあるもので無し。

お前の策略に乗るぞ。」


「帝・・さすがおんしは、話が早い。聡いの。惜しいわ。もっと後の時代だったら、

もっと自由に、力がふるえただろうにな。そしてまたどこかの長に収まっただろうて。」


そんな言葉に、融は、ふふっと笑い、

「うさんくさいお前などに軽く騙される愚かなこの身に何を言う。

でも、頼んだぞ。」


おおっ。おんしの御猫に誓って。必ず来る。


道満はそう言って、

そしてその姿は、掻き消えた。


静かだった。






50.




祈りに込められた願いは、哀しみを帯びている。

そこには、満たされない思いがある。そしてそれは、どんなに望んでも、

叶えられないことは、世の者およそわかりきったことであるから。

でも、それは祈りのとき、

諦観のしじまに、ただ美しく純化されて、人を優しく導く。

今、ここにあるもの。それ以外は、何も無く。広がるは、無限の宇宙。

脆くも逞しく、人はまた立ちあがり生きていく。繋いでいく。


神よ。

戯れでもいい。ただ一度だけでも。わが願い、聞き届けてください。



龍笛の切ない響き。導く太鼓の音。瀬奈は、舞っていた。

神楽舞。剣を持ち、その切っ先を自分へと向ける。

光る刃。実りの穂を刈り取るように、わが命さえも神に捧げます、と。

鬼気迫るその胆力。

それにつれ、周囲はだんだんに暗さを増す。

犠牲になった数々の生贄の霊が影を落としているかのように。



信は、息を止めていた。

漂う緊張感に、これは生半可なことじゃない。驚いていた。

今日ここに来るまで、信は、

ただ・・瀬奈さんが、神社の宮司様の花嫁に相応しいと認めてもらうために頑張っているもの位に思っていた。


しかし思えば確かに、熱意が普通じゃ無かった。瀬奈は、神楽舞を、わずかの間に、すぐに身に着けて。母も吃驚していた。

信のお嫁さんに欲しいけど、あんなに小野さんの息子に一生懸命だったら、今は無理ね・・などと母は無責任にもズケズケと言い放ち、それを聞かされた信も、少々の落ち込みを感じたりしたのだった。


しかし、考え違いをしていたのかもしれない。

それだけではない。これは何か、二人の切なる想いのようなものがあると、感じられた。だがそう感じることは同時に、二人の縁はもっと強固で、

もはや自分の入る隙間など無いと痛感することでもあったのだが。



そして舞台の神楽舞は、中盤へと差し掛かっていた。

いつのまにか覆う空は真っ暗だ。

燦燦と降り注いでいた日差しは、あっというまに、雲に覆われ。

舞姫は飛びあがった。空へ。そして、蹲る。地へ。

しかし、

そこでバランスを崩したように、視界から、その姿が消えた・・。



あっ?!


「瀬奈・・どうした?」融は、笛を中断して、駆け寄ろうとした。

だがしかしその時、


突然、遠くから、別の笛の音が聞こえてきた。

「だめだ、続けろ!」 な、なに?

融が驚いて振り返ると、そこには、宮司様であるじいさんが立っていた。

「じいさん。何で、ここに?」


「話は後だ。続けるんだ。融。途中で止めることは、神の前では許されぬ。」

じいさんはそしてまた、手に持った笛を吹き続けていた。


「でも、瀬奈が・・。」蹲って立ち上がれないようだった。もしや・・体が・・。融は顔面蒼白となっていた。


でも、そうだ。祈祷を途中で止めるということは、死をも意味する。

融は、気がついた。

儀式と言うものは、それくらい重いモノであった。半端な気持ちでは、神の怒りを買う。


まだ設えた舞台の上の舞姫は、蹲ったままだった。みなは、ただ見守る。



「ごめんなさい。続けますから・・。」やっとの思いで体を起こして、瀬奈が息も絶え絶えに言った。「ちょっと強く打っただけです。あと、もう少し・・だから。」


その時に、突然、もう一つ笛の音も聞こえた。

誰だ?不思議に思う間もなく、

融も笛を再開し、三方から聞こえる音が一団となる。

じいさんの笛がその中で1番、しっかりと、導いていた。あとの2つがそれに続く。


瀬奈は、痛む膝をかかえ、渾身の力を振り絞って立ちあがった。

そして、くるりと体を反転させ、手の剣を頭上に振り上げた。


すると、その瞬間・・空から閃光が走った。あっ!「瀬奈、あぶない!」

瞬時、融は走って舞台の上に入って、膝から崩れ落ちた瀬奈に覆いかぶさっていた。



雷だった。

だがその雷は、二人へと落ちようとする直前に、大きな楠に引っ張られたのか、向きを変え飛んだ。そして、どーんとすごい音と衝撃が伝わってきた。肝が冷える。だが、これを乗り越えないと、祈りは届かない。



その衝撃の余波の中、

じいさんの笛はまだ続いていた。まだこれで終わりでは無かった。


「融。触れてしまったな。舞姫に・・。

このままでは、続けられぬぞ。しかし、まだ雨は降らぬ。どうすれば?」苦渋の表情を浮かべる宮司。


「続きは、私がやるわ。」その時、舞台袖の狛犬像の真後ろから、飛びだしてきた姿があった。

笛を手にした女。巫女姿だった。



その姿に、まずじいさんが驚いた。


「おまえ・・葉子!」17年ぶりに会う、実の娘。「なんで、ここに?」

「話はあとでする。続けて。」


そして、堂々とその剣を受け取ると、融と瀬奈に舞台から降りるように指示し、

剣舞を引き継いだ。



中空を舞った。また次々に閃光が走り、放物線が幾重にも。フラッシュバックのように映し出される。


ああ、あの時の。記憶の中にある、母の踊りが一挙手一投足変わらず、そこにあった。

まるで時を超えたように。あの時のままの。母は、忘れていなかった。


居場所を求めて彷徨った魂が、鎮められ、それぞれの持ち場所に納まるかのように。

長い間、隔たっていた気持ちは、

神を前に祓われ・・どこからか吹いてきた、澄みわたる風にやさしく撫でられる。


その時、父は娘を許し、娘は父を許し、息子は母を許した。



信は、ただその舞を見て、鳥肌が立っていた。

子供の頃の自分を揺さぶった、あの踊りを前に、

そうだ・・僕というのは、このために、今このためにあるんだとも、感じていた。

子どものころから、ずっと続けてきた和太鼓。今や、プロ集団からも誘われる腕前で、

勧誘も受けていたが、自分は何か表現者としては、欠けているような気がしていた。

でも、違う。自分が表現するんじゃない。ただ、僕はこの世界をアレンジしているだけなんだ。長い間求めていたのは、これだったんだと、軽い興奮を覚えていた。


瀬奈は、葉子さんの神楽舞に、年月の重さと、敵わなさを感じながらも、

この場所にいることに、不思議な縁を感じていた。

まだまだだと思った。だから自分は・・もう、ここから逃れられない。



最後の笛の音が・・消え。儀式の終了を示唆した。

するとそこにおもむろに雨が・・最初はぽつぽつと、そして次第に大粒に、大地に降り注ぎ、沁み込んで行く。

見る見るうちに、土砂降りとなり。

みな、立ちつくして、修行僧のように、滝のような雨に打たれていた。



「クロ!」そこで気付いて瀬奈は、楠の下へ走った。融も続く。

木の上にいたクロは姿を消していた。


「きっと、帰ったんだよ、あの時代に。」「そうね・・。」

もう会えないんだと、こみ上げるさびしい気持ちと引き換えに、クロ頑張って!お願いとただ願う。

あの時代の、孤独な帝の魂を救ってあげてとの、祈りを籠める。



「体は・・大丈夫?瀬奈。」でも目の前にも、孤独な帝がいた。

「ごめん。労わってあげられなくて。

途中で僕は、なんて過酷なことを君に強いているんだって、後悔していた。」僕のこと、許せないだろう?そんな孤独な瞳が向けられる。

「ううん、いいの。私も融さんと力を合して、クロを返してあげたかったし、どうしても成し遂げたかったから。」・・でも、みんなの力を借りちゃったね。それでも出来てよかった。「ああ。」

微笑み合う二人は、自然に唇を合わしていた。



そして、顔を上げると、雨は、もう上がっていた。

ほんの一瞬の出来事であったようだった。

もうおひさまが雲間から覗いて、信じられない輝きを放っていた。

濡れた土から、湯気が蜃気楼のように立ち上っていた。




51.




「昨夜、融に電話で呼ばれたの。

もし、儀式がうまくいかない事態になったら、助けてくれって。


あのさ。

これって、息子に言われた初めてのわがままなのよ。

どうしたって、これは行くしかないだろうって。」


そして葉子は、控えていたという。

「この前来たとき、融は気付いていたのね。私が笛と踊りをまだ練習しているってこと。」


そうだった。あの時、屋上から聞こえていた笛の音。融に幻影を見せたのは、他でもない母の奏でる音だということに、

はっと気付いた。


「それとね。

とうさん、ありがとう。」葉子の美しき横顔。凛としたその眼差し。ぽつりと紡がれる言の葉。


「なんのことだ?」じいさんは答えた。


「見守れて幸せでした。私の旅も終りました。ごめんね、父さん。」


「そうか。」

何年も会ってないとは信じられないような、穏やかな会話だった。

荒れ狂う海が、時間とともに、凪いでいくように、

そこにあるのは、ただ湛えられた静かな水面。


この二人は、反目し合っていたのではないのか?融は、不思議な気がした。




「母さん。ダメモトで連絡したんだけど、来てくれて、ありがとう。

にしても、じいさんまで来るとは思わなかったんだけど・・。」


そんな融の言葉に、じいさんは、少し語調を荒げて、


「あのな、融。ずっとこそこそと何やっとんのかと。わしはここの宮司なんだよ。わしに、話が伝わらんとでも思ってたのか?

今朝早く鳥居のところに信くんがいたから、問い質すと、これから神楽舞を奉納するなんて聞いたのよ。」

そんな話に、信が、ごめん・・と融に手刀で謝った。まさか、内緒なんて知らなくて・・余計なことまで言っちゃって、と。



「それにしても、あれを何故知ってた?」じいさんは、融にまた重ねて問い掛けた。

雨乞いの儀式のことらしかった。

「調べたんだよ。歴代の宮司様の書付けを過去にさかのぼって読んで、さ。」


「よくわかったな。あれは秘儀なんだ。一子相傳の。」

じいさんは、言葉少なだった。多分、和邇神社何千年の歴史の中では、何度も行われたことのあるものなのだろう。


「過去にはよく行われていた。それにまつわる逸話も数多く残っている。

大昔から人が行き来する言い伝えだ。娘と恋に落ちて、だが男はもとの世界にまた戻ってしまったなどという、伝説もあったな。」


ばあさんも・・。そう言いかけて、じいさんはそこで躊躇したように口を噤んだ。


しかしそれを葉子が、引き取って言った。

「母さんも、小さい頃に、会ったのでしょ。平安の人に。」


え? 融と瀬奈と信は、一様に驚いた。


「あれは多分、安倍晴明様だったと、母さん言ってたわよ。」



「ああ。そして、ばあさんは、長くその男が忘れられなかったようだ。

わしと結婚してからも、時々、ぼーーっと川面を見て、

手紙を、川に流したりしていたな。」


それって、まるで七夕伝説みたい、と瀬奈が呟いた。


あっ、融の脳裏を、文面がよぎった。切ない想い。

・・こんな夜は、ねこをあなたと思って、掻き抱きます・・

茶箪笥から出てきた手紙は、水に濡れてにじんだ箇所があった。

あの手紙は、ばあさんがその男に宛てたものだったのか?



「だから家の取り決めでわしと結婚はしたが、

ばあさんは、相手は誰でも良かったんだろう。

ずっとその男が来るのを待っていたよ。

夫婦なんて、近いが遠い。そんなものだ。」そんなじいさんの言葉に、


「それは、違うよ!」葉子は、断固と否定した。



「なぜそんなことが言えるんだ、葉子。

おまえ、もしや・・内緒でばあさんとずっと、やりとりしていたのか?」


突然かけられた嫌疑に、母は驚いて声を荒げた。


「何で?ないわよ、そんなこと。

でも、なんでそんなこと急に言い出すの・・とうさん?」


「いや。なんとなく、そんな気がしたんだ・・。」

ばあさんに対して蟠っていた疑惑。ずっと膨れ上がっていた何か。


「ばあさんが、あの日のお前の背中を押したんじゃないかと思ってな。

本当に好きな人と結ばれる願望を、お前に託して。

でも、それを気取らせないように、

ばあさんは、ずっと、お前を許さないふりをしていた・・そんな気がしたんだ。」

かなり屈折した思いを吐露した。


「違うわよ、とうさん。

それは、とうさんの考えすぎ。母さんは、私を最後まで許さなかったと思う。

かあさんは、私を叱った。そして諭したよ。家庭を守っていくのは、

強い意志だって。それと一緒に言ってたよ。とうさんがどんなに強靭な人であるかも。自分がどんなに幸せかってこともね。

でも私、

その時は、言ってることの意味が、よくわからなかった。幼すぎたのよ。

ずっと家で安穏としている母さんに何がわかるのよって、反発して家を出てしまった。

かあさんにとっては、とうさんこそが、かけがえのない人だったの。それは間違いないことよ。」


「なにを・・そんなことが、今更わかったって、どうなるんだ・・。」じいさんがぽつっとつまらなそうに呟いた。でも、言葉と裏腹に、

融の目には、なんだかじいさんが嬉しそうに見えた。


・・思いやる気持ちの掛け違い、生きているうちに、絡んだ糸は解けなかったけど。しかしそれもまた生き方。神は時に、残酷な仕打ちをする。

でも。かといって、不幸せでも無い。恋は・・男と女の結びつきは、よくわからない。



「じゃあ、帰るわね。」葉子の言葉に、


「待って下さい!融さんのお母さん。」瀬奈は、呼びとめた。


「また来てください。そして、例大祭には、また踊って下さい。

お願いします。待ってます。」


「いいの?」少し楽しそうに・・そう答えたお母さんは、


「でも、こんないいお嫁さんが来てくれるなんて、

いいわねぇ、融。離すんじゃないわよ。

ふふ。私なんて出る幕なさそうだけど。」


あっ・・その言葉に、融と瀬奈は顔を見合わせ、じいさんを見遣った。

融は、思いっきり瀬奈を抱き寄せると、

「じいさんがいくら反対してもさ。僕らは別れないから、それは言っておくよ!」

宣言したが、


「許しとるよ。」え?「すまんかったな。親が破産したと聞いただけで反対して。」

なに?あんなに悩まされたのに、じいさん、そんなことをアッサリと・・。


「あの舞を見て、間違いだと悟った。こんな子は、なかなかおらん。

すまかったな。」


融としては、はぁ?となったが、じいさんは、謝る時も言葉少なだった。



「ありがとうございます。」瀬奈は、深々と頭を下げた。


そこに信も、

「よかったね。僕も、きっと瀬奈さんの舞を見てもらえたら、

許しがでるような気がしてた。だから、ぜひ見て下さいって・・。」



じいさんをこの場に引き寄せたのは、信だった。



皆は、それぞれ家に帰り、

融と瀬奈とで、後片付けをしていた。


いろんなものが雨に濡れてしまったので、タオルで拭いて、

また天気のいい日に乾かそうと、分かる場所に置く。



「融さん、よかったね。でも、お母さんを呼ぶなんて、

私、そんなに信用無かったの?」


そんな瀬奈の問いかけに、

まじまじとその目を見詰め、

「だって。

昨夜、急にあんなこと言いだして・・。

もし君のお腹の中に赤ちゃんが出来てたら、

巫女の役目が果たせないから、そしたら雨も降らないだろうし、クロだって返してあげれないと思ったから・・。

気がついたら、前に聞いた母の携帯番号に電話してたんだ。」


あっ・・


「でも、クロも帰れたし、多分まだいない気もするけど。

それとも、神様が目をつぶってくれたのかな?

ごめんね。

どっちでも僕は・・。」


そう言って渡された妊娠検査薬を持って、

瀬奈は、トイレに駆け込んだ。・・陰性だった。


そして・・

「あの・・ごめんなさい。始まっちゃった・・みたい。」と瀬奈は恥ずかしそうに告げた。





52.



「嘘よ・・嘘です!」

瀬奈は、敦子様から知らされた、その知らせに泣き崩れた。


帝のおわす内裏。そこへ盗賊なのか何者かによって火が放たれ、

焼失せしそのあとから、帝の骸が見つかったと知らされた。


大臣たちは大慌てで荼毘に付し、

阿汰東宮を帝へと即位させ、その下の弟である、

まだ3つにも満たない阿明親王に、東宮宣下を行った、と。


それは、あらかじめ示し合わせていたかのように、あっという間のことだった。

そして宮中は何事もなかったように、また平静を取り戻したかのように見えた。

帝の首がすげ替わったことなど、何の意味も無いように。

ただ変わったのは、長谷右大臣の権威の失墜。時の実権は、

いまや柳左大臣に移りつつあることだけだった。



それでも、内裏の中にいる者達が気付かぬうちに、それはひたひたと音を立てて

近寄りつつあった。時代の変わる音。外からのざわめき。


出家させられた貞明を復権する動きが加速する。

この時を狙っていたのか。地方では、兵を挙げた 武士集団が、

それぞれ結託して、各所に於いて反乱を起こしていた。



「かあさま、大丈夫?」

真一が、しゃくりあげる母の背を、やさしく撫でる。

「真一・・とうさまが・・亡くなられたと。」「大丈夫だよ。来世には、またどこかで、

会える。きっと。縁がそうさせる。だから、しっかりして、かあさま。

いつまでも悲しがっていると、由布子が不安がるよ。ね、だから・・。」

この子だって、まだ小さいのに・・。運命に翻弄され、父から引き離され、この地にやってきた我が息子。でも、知らぬ間に、母を励ませるくらいに逞しく成長している。


そして、そばで、じっと見上げるつぶらな瞳。由布子。

まだやっと1つになったばかり。

「そうね。ごめんなさい。おいで、由布子。」呼びかけ、瀬奈は抱きあげた。いたいけな、まだ幼き子。

そうよ・・。あの人の遺した子どもたちをしっかり育て上げなければ。

真一、由布子。かあさまは、頑張ります。そう心に誓った。



敦子と信は、そんな母子を、ただ見守ってくれていた。




「どうかされたのか?」

朦朧とした視界の中に、全身黒ずくめの男が映り、顔を覗き込んでいた。


「ここは?あの世か?

して、そなたは、三途の川の渡し人なのか?」融は、うわ言のように尋ねた。


「何を言ってる。大丈夫か?

もしや山賊に遭われたのか?」


融は、全身に傷を負っていた。誰かが差し向けた追手か、あるいは盗賊か。追われ襲われ迷い、山道を彷徨うこと幾日か。目の前の男も、またそいつらの一味であるかと、警戒は怠っていなかったが、しかしもう体が言うことをきかなかった。

「ああ。多勢に無勢で・・応戦しているうちに、足を踏み外し、山肌を転げ落ちて・・

ここに。」


落ちた所が、草木の生い茂った小川のそばだった。手を伸ばし水を含みここまで生き延びた。しかし、挫いた足では、立ち上がることもできず・・。

もはやこれまでか、と。


夢を見ていた。


迎えてくれる瀬奈の笑い顔。とうさま、お帰りなさい。真一と由布子も。

そこでは、帝と言う、僕を縛っていたモノを、

すべて脱ぎ捨てた姿で、君とともに生きていた。

土を耕し作物を育て糧を得て、子を慈しみ、年を経ていく。そんな暮らし。



自暴自棄になっていた自分を、励ましてくれた君。

君の笑顔を一瞬でも、翳らせたくはなかったんだ。

あの、宮中での強張った笑顔、涙の痕。そんなものはもう見たくない。

君は、ずっと幸せでいてほしい。



気配を感じ薄眼を開けると、そこにはクロがいた。

先にはぐれたが、見つけ出してくれたようだ。

必死に顔を舐め、傷を舐めて励ましてくれる。

「ああ、クロ。だめだ。もうこれ以上、行けそうもない。」

・・さっき見ていたのは、夢だったのか。気付いて、打ちのめされた。

僕は、ここでただ、死んでいくのか。

瀬奈・・君にひと目だけでも会いたかった。




「立てるか?手を貸すぞ。里村まで、来られるか?」その黒ずくめの男は手を差し出して、


「この猫が、俺の服をひっぱり、こっちだと連れてきたんだ。」

そう言った。

・・そうか。クロが呼びに行ってくれて、誰か人を連れてきてくれたのか・・。



「大丈夫か?おい。しっかりしろ!」

その男の声が、だんだん小さくなり、融は、そのまま気を失った。



最終章に続く

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ