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そして彼は逃亡を決意した

作者: 四片皐月

 滝のように流れる汗が、Tシャツを濡らして背中に張り付く。顔に流れる汗をカバンから取り出したタオルで拭いながら、信号が青に変わるのを待つ。

 この10年ほどで夏は灼熱の気温となるのが当たり前になっている。私が子供の頃は気温が30℃を超えることなど、ほとんどなかったものだ。環境破壊による地球温暖化が叫ばれて久しいが、この気温上昇の中にいれば否応にも意識させられる、というものだ。

 もっとも、文明の利器の恩恵に預かってそれに浸った身としてはそれのない時代に戻るのは辛いので容易ではないが。

 信号が青に変わり横断歩道を渡る。高架下を通って、自宅の最寄り駅に向かう。


 私が、過去に勤めていた会社の同僚だった橘川と再会したのは2週間前の木曜夜のことだった。

 自炊に飽きた私は、ふらりと立ち寄った居酒屋の前で幽鬼のように立ち尽くしていた彼に声をかけた。声をかけた後に橘川だと気づき、記憶の中にある彼の姿との乖離にひどく驚いた。

 再会した直後は「ああ」とか「そう」とか一言の返事が多かったが「疲弊の極み」とでも言うような状態の彼を1人にしておくのは気が引けた。ほとんど連絡などとっていなかったが、今日限りの縁になるかもしれない、と思いながら彼を引っ張って店に入り、適当に目に入った冷菜とビールを頼んだ。

 しばらくは私の近況を一方的に聞かせる状態だったが、そのうちに彼も意識を取り戻したかのように合いの手を入れたり、笑うようになった。


「最近は忙しいのか? 繁忙期の摩耗しきった先輩のような有様だったから、つい声をかけてしまったが」

「忙しいといえば忙しいかな。システム移行のプロジェクトをしているんだけど、移行元の仕様がはっきりしていなかったり、実作業を依頼した会社が全然納期を守ってくれなかったりして進捗が遅れてるから、その遅延回復でいっぱいいっぱいだよ」

「そいつは、お疲れ様だ。私でよければ、いくらでも愚痴を聞くぞ」


 私たちの仕事は、いわゆる「IT土方」だ。

 企業内で使われるシステム開発や保守運用を担うことが多い。華々しく「あの会社のサイトを作ったのは、ウチだ」と言えるものもあるが、ほとんどは一般客の目に触れることのない基幹システムだったり業務サポートシステムの開発だ。

 業界に飛び込んだ頃は圧倒的な人材不足が叫ばれており、専門にプログラムを学んでいなくてもシステムエンジニアとして採用されたものだ。15年ほど経って人材不足はより深刻になり、今や文系出身のシステムエンジニアも珍しくはない。

 それが要因になっているのか、忌憚なく言わせてもらえば、まだまだシステムエンジニアの現場は土方と変わらない。

 納期までに製品を作りあげ、納入するためには残業は当たり前、徹夜も休日出勤もそれなりに起きる。月間45時間の残業で済ませたいなら、納期までの余裕はしっかりとってもらいたいが、コストの面からいつだって色々カツカツだ。

 入社後に聞いたことだが、IT業界は新3Kの現場だと言われていた。「きつい、帰れない、給料安い」に「心を病む」だとかのKが追加されて5Kなどと言われているが、待遇がそこそこいい企業もある。

 そうは言っても、働き方改革が叫ばれて数年経った今でも、そのイメージは消えていないようだが……

 そんなIT土方にどっぷりと浸かって、精神的な体育会系に成長した私たちは国が実施を要請するストレスチェックごときでは炙り出せないほどのストレス耐性を持っている。

 むしろあれで高ストレスに引っかかる時は、既に心身のどちらかが病んでいて要治療状態ではなかろうか。


「今日はやめておくよ。今の所は休日出勤をするほどではないから、今度気晴らしに付き合ってくれ」

「構わんよ。橘川は確か、映画鑑賞が趣味だったよな」

「映画はしばらく行けてなくて、今何やってるかわからない。水森はおすすめあるかい?」

「私も大して詳しくはないが……某スパイ映画の新作が出ていたかな」

「水森はスパイ映画すきだね、前もスパイ映画おすすめされたなぁ」


 そう橘川が声をあげて笑った。弱音や愚痴を口にしたがらないという記憶のままだったことが少し心配だったが、自分から気晴らしを口にできる程度にはまだ余裕があるのだろうと思った。

 改めて連絡先を交換し、その日は別れた。

 そして、今日はその気晴らしの日、と言うわけだ。



 駅の改札で私の姿を見つけた橘川が駆け寄ってくる。黒いTシャツの上に薄手のジャケットをきて、涼しそうな顔をしている。

 この炎天下で暑くはないのかと聞けば、冷感スプレーを使っているのだと言う。なるほど、少しでも体感温度を下げるにはいいだろう。

 改札を通って、2駅先の映画館に向かうためホームに移動する。歩きながら、昨今の気温上昇に悪態をつきつつ、橘川の受け答えに疑問を持った。

 どうも、はっきりと返事を返すときとそうでない時があるのだ。たまに聞こえづらそうにしているので、周りの音でうまく聞き取れていないのかもしれない。

 ホームで電車を待っていると、ぎくりと橘川の体が固まる。

 不思議に思えば、遠くにかつて上司だった男が立っていた。技術志向の会社の中では、少し珍しく管理業務にも長けていた。


「……熱田(あつだ)さん、って覚えてるか? 確か、転職なさったと聞いているが」

「あ、あぁ。水森が、転職した、後に、熱田さんも……」

「あの人、昔に比べて酔い方が悪くなったって聞いた」

「現場は、見てない。でも、結構、噂に、なってた。……知らなかった、だけなのか、悪くなったのか、俺には、わからない、よ」

「そうか。……似た人を見かけたから話題にしたが、他人だったみたいだ。昔はあの人の仕事のやり方に理想を感じたけど、それ以外に問題がありすぎて苦手なんだ。当人だったらどうしようと思ったよ」

「行動範囲は、かぶってないから、大丈夫だよ。……仕事ぶりは俺も憧れてた」


 悪い噂が流れていた元上司に似た人を見て、途端に緊張しだした橘川に、まさか被害者になっていたのでは、と確認したが、本人が否定する。

 少し安堵した私は今日見に行く映画へと話題を変えた。しばらく話していると、橘川の方の緊張も解けたようだった。



 映画を堪能したあと、他愛ない話をしながら夕食をとる店を探していた。夕食をとるには時間が早く、夜営業を始めている店はほとんどなかった。


「酒の提供もなさそうだなぁ……仕方ないか、昨今の情勢じゃ」

「俺は酒に拘らないよ」

「……酒豪と名高いあの橘川が……」

「人並みだよ、ひとなみ」

「そういう言い方するやつは、大概酒豪だ。少なくとも、私の職場では酒豪と認定される」

「なら水森も酒豪だろ。この間も駆けつけいっぱいのあとは延々と日本酒のんでたじゃないか。俺は美味い飯とそれにあう美味い酒が好きなだけだよ」


 揶揄うような笑みを向けた橘川は、ふと酒屋に視線を止めた。


「どうしても飲みたいなら、出来合いの料理と好みの酒を買って、宅飲みしよう。会食は大人数でなければ、大丈夫だろ?」

「あぁ。やっぱりそっちもそういう話が出てるか」

「そりゃあ出るさ。よし、酒を選ぼう」


 目に入った酒屋で見知った銘柄の日本酒と軽めの赤白を1本ずつ買った私たちは、橘川の家に向かった。途中のスーパーで漬物を買い、いくつか酒のつまみになる乾物も手に入れた。

 初めて橘川の家に上がったが、シンプルなパイプベッドと32インチほどの大きなモニターが置かれただけのそこは生活をするための部屋には見えなかった。

 折りたたみ机のそばには会社から支給されたのだろう、管理番号のシールが貼られたノートパソコンが置かれている。

 モニター台の下にはプラスチックの箱が2つ納められており、その中にはところ狭しとスマホが納められている。箱にはペタペタと緑のロボットのシールが貼られていた。

 離職して久しい、それも連絡を最近まで取っていなかった私の元まで橘川のアプリエンジニアへの傾倒っぷりは届いている。その片鱗がこの2つの箱という訳だ。

 部屋をぐるりと見渡せば、ところどころ緑のロボットのフィギュアが飾られていた。


「すまない、あまり片付けられてなくて」

「いや、橘川らしい部屋だと思ったよ。特にアレが」


 私がフィギュアを指さすと、わざとらしく驚いた顔を橘川が見せる。


「水森も知ってるのか」

「他の同期と飲んだ時にな。『橘川テストセンター』には笑ったし、最近ロボットも買ったって?」

「可愛くないお値段の、どこかのメーカーのより数段可愛いロボット君な。あのサイズのロボットを一般人が買える、というのはすごいことだ」


 嬉しそうに橘川がいうが、いくら業務でも自腹でスマホを数十台も買い、会社よりもテスト機を所有している一般社員は「一般」でいいのか疑問だ。

 その後も料理を皿に盛り付けながら、橘川とプログラムやシステムの設計の話で盛り上がる。どこの企業であっても、アレはない、これはいい、という話は共通だ。派閥の違いがあるので、全ては共感できないが。

 ちなみに、ここで言う派閥は社内政治に関わるものではなく、好きなツールや技法を指す。あまり強く主張すると宗教戦争状態になってしまうので、議論する場でない時はほどほどにするのが、群れの中で生きるシステムエンジニアの振る舞いだ。


「今の職場じゃこういう技術話をしなくてな。久々に話すと楽しいもんだ。今でも片瀬さんなんかはこういう話題を好むんじゃないか? 同じ部署になったと聞いてるぞ」

「いや、片瀬さんは、飲み会に、こないから」

「私は接点があまりなかったが、飲まない人だったか? 宴会で見かけた記憶があるんだが……」

「部長、は、忙しい、からな。飲まれる、けど、一次会の、終わりに、顔出す、程度、だよ」

「片瀬さん、部長になったのか、知らなかった。確かに歴代の部長たちは、忙しくて飲み会を全部参加されるようなことは少なかったな」


 机の上に料理の乗った皿を並べ、グラスに買ってきた酒を注ぐ。

 カチリ、とグラスを鳴らしてから互いに酒を呷る。すぐに干してしまった私のグラスに橘川がすかさず酒を注いだ。

 少し息苦しそうにしているのは、酒を呷ったからか。……それとも話題のせいか。

 なみなみと注がれた酒を一口含み、私は覚悟を決めてその言葉を口にした。


 「なぁ、橘川。転職を考えたことはないのか」



 転職。

 私は親の介護が必要になり、橘川が勤める会社を辞めた。

 数年前にようやく介護施設に親を入所させることができ、今は在宅勤務ができる会社にフルタイムで勤めている。

 そういった理由であれば、転職はマイナスにはならないが、自身のキャリアアップのために積極的に企業を渡り歩く、というのは歓迎されなかった。

 派手に上層部と喧嘩別れをした、という話がなくても、その出ていった者は不義理を働く不届き者と見做されていたし、離職者と頻繁に連絡を取り合うこともあまりいい顔をされなかった。次の離反者はお前か、と。

 もちろんそれを表面に出すことはなかったし、キャリアアップのための離職を頑張ってと送り出す者は多いが、内心では「上層部に目をかけられていたくせに、何が不満だったのか」と裏の理由を探る。それが職場の空気を濁らせていく。

 出ていけない者の僻み、と侮ってはいけない。

 これが疑心暗鬼を呼び、大量離職を招き、職場が荒れることがある。その混乱と足場を崩されるような感覚を、残った者は嫌っていた。私はそう考えている。

 転職は悪ではないという風潮が出てきたのは、ようやく人の出入りに社会が慣れたのかもしれないし、ある種の諦念を持ったのかもしれない。


「転職?」

「あぁ。橘川はアプリエンジニアとしては、頭一つ抜きん出ていると思っている。転職で不利になることはあるまい?」

「いや、アプリエンジニアとしては不利だよ。この5年ほど実務で関わってない。ブランクになってるし、今の開発技法に慣れてないから、それを理由にいくつか書類審査で落とされた」

「そうなのか……ん? 書類審査??」

「転職活動はやってるよ。辞めるって決めたし」


 さらりと「辞める」と口にした橘川は先ほどまでの息苦しさが嘘かのように、買い込んだ唐揚げを頬張っている。

 転職についても、まるで「来月引っ越します」とでも言わんばかりの気軽さだ。

 一世一代の説得を試みようとしていた私に、申し訳なさそうに唐揚げを飲み込んだ橘川が視線を向けた。一口、酒を飲み、私に向き直る。


「水森はもうだいぶ前に辞めてるし、あそこに帰ってくる気はないだろうから、全部話すよ。……とはいえ、どこから話すか」


 あんまり旨くないだろうけど、酒の肴だとでも思ってくれ。

 そう橘川は前置いて、彼の近況を話始めた。




 水森も知っている通り、俺は対外的にはシステムエンジニアと名乗ってるけど実態はアプリエンジニアだ。だけど、実業務でやってるのはサーバシステムの開発プロジェクトがほとんどだ。この5年はアプリプロジェクトにはまったく関わっていない。

 会社には、希望を伝えてある。5年以上前からずっと。

 6年前に評価制度に見直しが入って、大量に役職者が増やされたことがあるんだ。俺もその時に役職についた。

 信じられるか? 社長が執務フロアにきて、手招きするからなんかやらかしたかと思って会議室入ったら、明日からお前係長ねって。

 前後に色々あるはずのアレコレすっ飛ばしてたから、ちゃんと自分の実績とみあった評価だったのか自信を持てるまで3年くらいかかった。

 うちの会社の場合、役職がつくとプロジェクトのサブリーダーかリーダーになって、実装はしなくなることが大半だろ。そのタイミングで、実装できなくてもアプリプロジェクトには関わりたいって希望してた。

 が、何年経ってもプロジェクトには関われないし、もう仕事外でアプリ触る機会を作ろうって思い始めた頃に、ちょっと雲行きが変わってきた。


 係長になると、当然部下がつく。

 その時は2年目くらいだったかな。そいつは「なんで技術の会社に入ってきた?」って9割9分の人間が思う程度には、一般的にいう「やる気」のないやつだった。多分、考え方、……いや、文化が違ってたんだと思う。

 ともかく、そいつは取引先に出す納品物の質が基準に満たしてなくて、俺が直すことが多かった。最初のうちは指示出してたんだけど、5回を超える頃には時間もないし、って。

 システムエンジニアって大半、コミュニケーションが下手じゃないか。俺もそういう自覚あるし、下手だからそう言うのを減らせるエンジニアになってるんだよね。実際は全然違うけど。

 コミュニケーション下手が災いしたのかさ。あと2日でプロジェクトが終わります、残りは社内向けのドキュメント整備して終わりって頃に、その部下から突然メールがきたんだよ。


「今まで色々工夫して我慢してきましたが、あなたのようなパワハラ上司と一緒に仕事はできません。残り2日であっても我慢ができません」


 頭をがっつーんって殴られたような衝撃だった。目の前が本当に真っ赤に染まって、座ってるはずなのに、ぐらんぐらん頭回ってさ。精神的ショックでこんなになるって初めての経験だったよ。比喩じゃないんだな。

 頭がグラグラしてても、「我慢もできないほど、一緒の仕事はいやだ」って言われたら、上司に相談するしかないだろ。係長といえど、人事権がないからさ。

 まぁ、一部で大事になったよね。そいつも注意を受けたけど、俺もやり方が悪い、って注意を受けた。

 修正出ないしと思って手直ししたことを伝えてなかったところとかもあって、そういうのパワハラっていえなくもないからって。

 なんで、直接拒否を伝えてきたのかって?

 俺ならわかってくれるって思ったらしい。どうしたかったのかは未だにわからない。直接はちょっと衝撃が強すぎて無理だったから、メールでは謝った。隣の席だったけど。

 それからは、部下に威圧してるって思われないようにそれまで以上に気を使うようになった。その後に仕事した部下たちは、我慢できる程度だったみたいで、クレームはこなかったよ。でも、間違いなく俺は強く指示を出すことができなくなったし、部下を持つのが怖くなった。


 そういう管理職としての自信が粉砕されたまま仕事をしていたんだが、あるシステム移行のプロジェクトを引き継ぐことになったんだ。

 前任のプロジェクトリーダーが退職するし、そのシステムは会社の主要取引先のものでこれが予定通りに移行できないと取引先の業務が大幅な打撃を与えるってやつで。その会社の案件実績もあって、「当たり前」のシステム構築の知識と経験がある人間じゃないとリーダーはできないって言われて。

 引き継いで、設計に入った頃からちょっとずつスケジュールが怪しくなった。他社に実装作業を外注してたんだけど、そこが納期をほとんど守らない会社でさ。

 実装に入って2ヶ月くらいたった頃に、メンバーを全員入れ替えます、実装言語も変えますって連絡がきて。最終的な納期には絶対間に合わせるって約束で、上司に相談した上で許容した。間に合わなかったけどね。

 納期は最終も含めて5回くらいぶっちぎられたし、絶対にこの仕様通りのフォーマットで作ってくれって依頼してたところを互換性のない独自仕様にしてこられてリテイク出したりもした。

 もうその頃にはその会社の事、信用できなくなってた。


 俺はここまで何もかもを信用できない相手と仕事したことはなかったんだよ。部下でいきなりとんずらして行方不明になったやつもいたけど、発言を何一つ信用できないってほどじゃなかった。

 だって、そこまで信用できないなら、最初から仕事は頼まないじゃないか。

 自分たちで作り直す時間も人もいない。少なくとも、俺は調達できる権限を持ってなかった。他の会社には断られていたから、その会社に頼んでるから、別に頼むこともできない。

 もっと早い段階で自分たちで作るって方向に動けばよかったのかもしれない。でもその判断ができそうな時期では、まだその会社を信用していた。

 上司にはずっと状況を報告して対応について相談していたけれど、それも含めて自分で考えてくれ、って言われて。頭ひねって、なんとか有効かなって出した案にも、良いも悪いも言われない。

 そのうち、案件営業からは「お前は喋るな」って言われるようになった。俺の言い方だと、「指示に従った結果だ」って言い張られるからって。


 水森は、今日の俺の話し方が可笑しくなってたのは気づいてるよな。だから転職しないのかって聞いたんだろ?

 俺もさ、なんでこんなに緊張して単語でしか話せないんだって疑問になったよ。

 上司とその営業がいる会議だと、単語で区切るような話し方になってしまう。結構会議前に練習したり、カンペ作ってみながら話したりとかしてたんだけど、どんどん酷くなるんだ。

 前にもこういう状態になったことあったな、って思い返したら、熱田さんが上司の時だった。その時は俺もリーダー業務につき始めたばっかりの時でさ。熱田さんからみたらつけ込まれそうって判断したところを延々ダメ出しされることが日常茶飯事だった。

 ん? 場所?

 フロア内だよ。全体が見えるから、パーティションでもなかったらどこからでも見えただろうな。

 本人も俺も自覚なんてしてなかったけどさ、毎日1時間近く揚げ足取りみたいなダメ出しを部長にされっぱなしの係長の姿ってパワハラだって言っても通りそうだよな。

 この時にも同じように単語で区切ってて聞きにくい、って言われてた。今ほど酷くなかったけど、ちょっとキツいなとは思ったよ。

 話し方はどうしてって?

 意図して切ってるんじゃなくて、息が続かないから話せないだけ。ダメ出し絶対されるから、それがプレッシャーになって、過呼吸にでもなりかけてたんじゃないかな。

 そのプロジェクトが終わった頃に上司……もういいか、片瀬さんにさ。あれは酷かったよね、よく頑張ってたよって言われてさ。

 俺、その時にこの人はちゃんと見てくれる上司なんだなって思ったんだよ。見てって大声あげないと見てくれない上司が多かったけど、言わなくても見てくれるんだなって。

 そこで、ある種の忠誠心って言うのかな。そういうのを持ったんだと思う。そのあとはなかなか良いように使われてた気もしたけど、最大限、片瀬さんにも会社にも利益が出るようにって腐心した。


 そのうちに、この情勢になっただろ? プロジェクトの人数も少なかったこともあって、早い段階からリモートになってさ。

 基本はグループチャットでやりとりするんだけど、見えないところでやりとりしようと思えばいくらでも隠せるようになった。

 よく部下の育成では叱る時はみえないところで、褒める時は見えるところでって話があるけど、叱りやすくなったんだと思う。ほら、見えないところかどうかって気にしなくてよくなかったから。

 片瀬さんの期待値に届かない対応は叱られるんだけど、それがほぼ毎日でさ。

 叱られるのは仕方ないよ。期待値に達してないんだから。

 でも、褒める相手が固定化することが、ものすごくストレスになるとは思ってなかった。

 その褒められていたのは、ほぼ新人なんだけど、すごく優秀でね。センスもよかったけど、努力もしっかりしてて、褒められて当然だった。

 ほぼ新人だから、期待値も低い。何やっても彼は褒められるんだけど、それに比べて俺はダメだなって。いつの間にか、彼が褒められてるのを聞いたり見たりしてるうちに、自分が嫉妬してるなって気づいた。

 それが奮起に繋がってる間は良いけど、贔屓だって見えるようになったらまずい。特に一番作業内容が近かったから、オンラインで話したりもしててさ。後から、棘だらけの話し方したなって、反省するのも毎日になった。

 出勤してた頃は平気だったのって、全然違うチームの様子も見えてたからなんだろうな。

 情緒は不安定になって、決めなきゃいけないこともほとんど考えられない。

 あと稼働時間が、一発アウトなぶっちぎり方してたのも、拍車をかけてたと思う。


 明らかに俺が機能不全になってるって判断した片瀬さんから内密に話したいって言われたのが、2週間前。水森に再会した前日だった。

 予想はしてたよ。プロジェクト外されるかなって。

 いざ話を聞いたら、プロジェクトには残留で、リーダーをほぼ新人くんと入れ替えるって話だった。彼以外に入れ替えができるメンバーがいなかったけど、サポートがあればできるだろうって判断になったんだと思う。

 まぁ、実質的な降格だよ。

 嫉妬でいつ攻撃的な対応するかわからないって不安になってたことは、その時は誰にも伝えてなかったから、残されたのは仕様を知ってる人間が減るのを避けたんだろうね。

 信用されてたのか、どう扱っても良いと思われてたのかはわからないけど、リーダーの交代も自分でプロジェクトメンバーに伝えろって言われて、まじかって思った。

 伝えた時に、メンバーから「えっ!?」って言われたのは、だよね、って思ったし、まだ忘れられないかな。どういう「えっ!?」かはわからないけど。

 ……どういうって、「現リーダーの代わりが2年目?」なのか「実質の降格を自分で言わせるんだ?」なのか「自分も使えないって思われたらこうなるのか?」なのか。全部かもしれないけど。

 ともかく、この状態で、この先も働いていく自信はなくなった。

 会社に愛着はあるけど、他の部署の空気も苦手だから、どこに異動になっても辛いなって思ったんだよ。

 そしたら辞める選択肢しかなかった。

 それでも迷った。本当に辞めて良いのか、逃げじゃないかって。今のタイミングで辞めたら、絶対に後を濁す、良いのかって。

 その時に会ったのが水森で、愚痴を言って良いって言われてさ。

 前にお前言ってただろ。


「後を濁すような辞め方はしないで欲しいけど、逃げなきゃ取り返しのつかないことになるなら、濁しても許す」


 だから、辞めようってストンと判断できたんだ。



 

 ここまで話した橘川は、目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら、グラスを傾けた。

 彼の話を聞く限り、かなり過酷な環境にいたように思うが、少し涙ぐむ程度で済ませられるものだろうか。


「経緯はわかったが、かなり過酷な環境だったように思うぞ……訴えても良いんじゃないか」

「俺の話だけで判断するならな? ちょっとあたりがキツかっただけで、正当な業務命令の範囲って言われるんじゃないかな」

「いや、過呼吸のような症状もあるし、それだけじゃないだろう? 昼間、聞こえにくかったりしてたんじゃないのか」

「耳鳴りは前からだから、違うと思う」

「お前は、本当に、なんでそう平然と……」


 ははは、と声をあげて笑う橘川は本当に吹っ切っているのだろう。空になったグラスに酒を注いでやると、礼とともにそれを飲み干した橘川はニンマリと笑う。


「過去最高の英断だっただろ」




 その後、彼は知り合いに紹介されたという企業に務めることになった。時折、連絡をとり、飲みに行く仲になった。

 今も嬉々として、スマホアプリの開発に携わっているとのことだ。


最後まで閲覧いただき、ありがとうございました。

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