4アンジェリカ・ドゥ・ドラローシュ
「やあ、おはようアンジェ」
ようやく支度が終わり、向かった先の食堂には「父」の姿があった。
「おはようございます、お父様」
ドレスの端をちょんと摘み、淑女のお辞儀とやらのまねごとをする。まだ六つの娘がそれをやれば、親の欲目で愛らしく見えることだろう。
父が満足そうに頷いたことを確認して、アンジェリカも席に着いた。
朝からもうすでに疲労困憊である。
元軍人として、というより、好き勝手生きてきた自覚のあるアンジェリカにとって、使用人たちによる朝のお支度は苦痛でしかなかった。
どこへ出かけるでもないのに豪華なドレスを着せられ、髪を結われ、化粧をこれでもかと厚く塗りたぐられてからようやく朝食、という毎朝のサイクルに六年経った今でも慣れることができないでいる。
「さあアンジェ、神に祈りを」
(くだらない)
両手を組み、形だけの祈りを捧げる。薔薇のように鮮やかなピンクの髪がはらりと揺れた。
それは、アンジェリカの母の髪と同じ色をしていた。
母は、アンジェリカが六つの誕生日を迎える前に逝去した。
急に胸の痛みを訴えて、ぱたりと倒れたのだ。
家に在中している魔法士を呼びつけ、すぐさま回復魔法を! と騒ぎ立てていたが、残念ながら外傷がないと既存の魔法では治せない。
いったい奥様の身になにがあったのか。倒れた原因もわからず、治療することもできずに誰もが右往左往するだけであった。
当たり前だ。
アンジェリカの母はドラローシュ公爵家の一人娘、王家の血を引く尊い身であったため、医者だろうと魔法士だろうと、危篤の母の身に触れることが許されなかったからである。
まあ、触れたからといって息を吹き返したかどうかと言われれば、きっとそんなことはないのだが。
アンジェリカは、母に駆け寄ることもせずに壁に背を預けて、わらわらと群がる大人たちが大騒ぎしているのを冷めた目で眺めていた。
傍目には急なことに狼狽える少女にしか見えなかったことだろう。
結局だれも母に正しい処置をすることができず、意識も戻らず二日後には息を引き取った。
その後魔法士は、呪いを掛けられていたとかなんとか言って、「原因がわかりません」と言い切ることはしなかった。そんなこと言ったらどんなお叱りがあるか分からない。回復魔法の使い手がいながら貴族を死なせてしまったとなっては、お叱りだけでは済まないだろう。
けれども魔法士ともあろう者がそんなことを言ってしまえば、じゃあ今度は母アンジェリーナに呪いを掛けたのは一体誰か。そんなことで再び大騒ぎである。
もちろん、母が呪殺された事実はない。
アンジェリーナは元々どうしようもない偏食家だった。肉を好み野菜は食べない。野菜が食卓に並ぼうものなら大激怒して料理長を鞭で叩くような女だった。当然、田畑で泥にまみれあくせく働く領民たちも、「そんなもの」を作っていると虫けら扱いが当たり前。そのおかげで、困ったことにドラローシュ領の生産農家はかなり不遇されており、広大な領地をただ遊ばせているのが現状だった。
食べきれない量の肉料理を用意させ、調味料でこれでもかと濃い味付けをさせる。野菜だけでなく、パンのような炭水化物も「太るから」といってこれまた口を付けない。
そのくせ食後に甘味は出させ、毎食酒を用意させて一人でがぶがぶと飲んでいた。
なにがしたいのかよくわからない馬鹿舌の女だったが、自らを「美食家」と自称して社交界でもずいぶん大きい顔をしていたのだそうだ。
肉も調味料も高価なものだ。砂糖も酒も同様に。量を多く用意させて、けれど口を付けるのはごく僅か。残して見せるのが贅沢の極み、貴族の特権。そんなことを本気で思っていたのだから始末におけない。
だが、そんなでたらめな食生活をして怠惰な生活を送っていたかと言えばそうではなく、世の貴婦人同様、体型維持のために日々涙ぐましい努力はしていたようで。
最期まで、母は絶世の美女のままだった。
それだけはある意味幸せだったかもしれない。
因みに余談であるが、残された料理は廃棄するように母は仰せであったが、父がこっそり配下の者に分けさせて廃棄分を少なくしていたらしい。
贅沢ばかりで公爵家の財産を食い尽くすのが当たり前の母と違って、父は常識的な侯爵家の生まれの次男である。食以外のものも贅を凝らそうとする母にはずいぶん辟易としつつ、しかし入り婿でしかないため逆らえなかった父は、外見が母によく似ているアンジェリカにも意見を言ったことがなかった。
話が逸れた。
ようするに、母の死因も前世のアンジェリカ同様、自業自得なのだ。
濃い味付けに偏食。その上、水代わりに酒。
高血圧による合併症が原因の、病死だった。
水煙草も嗜みとは言えないほどの高頻度で吸っていたし、体型維持のためにやっていたダイエットもやり方を間違えていたものだから、わざと自分の寿命を縮めているのかなと思ったほどだ。
病の兆候はもちろんあったし、過去の記憶と魔法に関する膨大な知識を持つアンジェリカは、そっと治してあげることもできた。
けれども、放っておいた。そうしたら死んだ。
ただそれだけのことである。
この世界では食と健康はまだイコールで繋がっていない。
あの馬鹿みたいな食生活によって命を落とすことになったなど、アンジェリカ以外の誰も思い至りはしなかった。
けれど母がいなくなり、ようやく人間的な食事がテーブルに並ぶようになったかと言えばそうでもない。
アンジェリーナに育てられ、母の息がかかる侍女たちからアンジェリーナのようになれ、とまるで洗脳じみた教育を未だ受けているアンジェリカである。そのため、食生活の改善は微々たる程度しか進んでいないのが現状であった。
食事について改善を求めた直後に、侍女風情が母の真似をして料理長を叩いたのだとか。
それ以外にも、母がいなくなったあとの使用人たちは、まさにやりたい放題であった。
「アンジェリーナ様が亡くなって、アンジェリカ様もさぞ不安でいらっしゃるでしょうから。アンジェリーナ様に代わってわたくしどもが、アンジェリカ様をお支えします」
これは、アンジェリカが実際に聞かされた妄言である。
アンジェリカが望まぬとも、勝手に宝石やらドレスをあてがわれるようになった。アンジェリカがなにも言わずとも、アンジェリーナが今までやっていた贅沢を周りが勝手に用意するのだ。
もちろんただアンジェリカに無許可で高額な買い物をしているわけではない。それに紛れて一体いくら跳ねているのやら。浅はかにもそれがばれていないと本気で思っているようだった。
それもそのはず。父は家のことをほとんど把握していないのだ。
父は相変わらず多忙で、食事くらいしかアンジェリカと顔を合わせる機会がない。母や母の使用人による、公爵家を潰したいのかと問いたくなるほどの無駄遣いに、休む間もなく働くしかないのだ。
使用人たちの悪行について、知っているのはアンジェリカだけ。
まあ、これに関しては解決するつもりではいるのだが。
(もう少し、あと少し)
この魔窟にも、一応は信用できる者がいる。それが父の執事である初老の男だった。
(楽しみだな、地獄の底に突き落とすのが)
アンジェリカは父の執事が絶対に父を裏切らないことをしっかりと調べてから、彼に現状を打開するため協力を依頼していた。
念には念を。人選を誤ればすべて水の泡になってしまう。
そもそも母の生前、自分の世話係となる使用人以外との接触がほとんどできずにいて、父の執事とまったく交流がなかった。
というのも、母が王家の血筋を引いていることを誇りに思っており、それ以外をことごとく見下していたのが一番の理由であろう。故に、アンジェリカが下々の人間と会わないようにと囲い込まれていたのだ。
使用人はおろか、あの女は自分の旦那ですら見下していた節がある。
おかげでアンジェリカは、屋敷の使用人のことをほとんど知らない。
その上、母の息がかかっていると勝手に思われているため、母を嫌っている使用人たちに近づくだけで警戒される始末だ。
ようやく「こいつなら信用できる」と確信を得た頃には、母の死後から三ヶ月ほど日が経っていた。
その間にも使用人たちの勝手は続いており、傍目からはアンジェリカがアンジェリーナを引き継ぎ、豪遊していると思われているようである。
まだ社交デビューもしていないのに、すでに「わがままなお嬢様」と認知されているのだそうだ。
自分の評判にさほど興味はないものの、すぐに着れなくなるドレスを何着も持っていたり、年齢に合わない装飾を身につけていたり、ずらりと侍女を侍らせていたりと悪い話に事欠かない。
その侍女は元々母のおつきだったのがアンジェリカにスライドしてきただけなのだが。その全員が好き勝手しているおかげで、アンジェリカは浪費家である、と噂話はどんどん広がっていく。
そして、父もその話が耳に届いているだろうに、アンジェリーナに強く言えなかった過去を持つためアンジェリカにも意見できないでいる。
いや、アンジェリカに意見されても困るし、もしかしたら執事からアンジェリカの依頼について聞いているからかもしれないが。
それにしたって、我が家にいながらアウェイな気分である。事の依頼をしている執事のことは確かに信用しているけれど、向こうはまだおそらくアンジェリカを信頼していない。
もともとアンジェリーナを嫌っていたひとりである。早々向こうからの信頼など得られないだろう。
アンジェリカは、未だ執事の名前を知らないでいる。それがすべての答えだ。
祈りの真似事の裏で思考を巡らせていると、給仕が食事を運んできた。
今日も朝から肉。表情には出さないように、けれどもげんなりとした気分になるのは仕方のないことであろう。アンジェリカが見た目通りの子供だったならば、朝昼晩同じボリュームでも喜んだだろうか。
父の方はというと、アンジェリカと違う料理が運ばれている。少し恨めしく思いながら極々少し味付けが大人しくなった肉料理にナイフを入れていると、それを口に運ぶ直前に父が「ああ、そういえば」と声を掛けてきた。
「はい、何でしょうお父様」
「アンジェリーナ……お母様が生前打診していたお前の婚約について、ついに内定したよ。食後にその話をするから、ここで待っておいで」
唐突にもたらされた爆弾発言である。なにも口に含んでいなくてよかった。口に入れていたらそのまま吹き出していたかもしれない。
ひとつ呼吸を置く。ナイフとフォークをかちゃりと置いて、アンジェリカは前方を睨んだ。なにもなかったかのように食事を始める父がいるだけである。
「お父様」
「なにかな、アンジェ」
「お母様が、なんですって?」
つい責めるような口調になってしまったが、アンジェリカにとっては本当に寝耳に水な話だった。婚約者? そんなのアンジェリーナから一言も聞いたことがない。
「ああ、お前に相応しい相手がね。もしかして聞いてなかったかな」
「聞いておりません」
「王家には王子殿下が三人いらっしゃるだろう。アンジェリーナは王家の親戚にあたる血筋だからね、お前を王妃に据えるためになにやら打診をしていたんだ。だけどアンジェはうちの一人娘だからお嫁に出すことはできないし、第一王子殿下にも既に婚約者が内定していたから……。アンジェリーナに黙って第二王子と第三王子のどちらかに婿に来てもらうという話で陛下にお話させてもらっていたんだ。王子であればアンジェリーナも文句は言わないだろうから。まあ、内定する前にアンジェリーナは亡くなってしまったけれど」
父も食事の手を止めて、アンジェリカをまっすぐに見据える。
当事者に内緒でずいぶん勝手な話だ。怒りを覚えるより先に呆れてしまった。
そして同時に思う。
(ふむ、興味深い)
性格が歪むような環境。わがままの権化のような母。そんな母によく似た娘を前に、強く出れない当主。
ここにきて、王子殿下との婚約。
まわりの大人に言われるがまま成長した子供ならば、どうなっていたことだろう。
(おそらくは、正しくアンジェリーナのようになっていただろう。それ以上に傲慢な娘になるであろう要素が、そこかしこにある)
文字通り「そう」育ったアンジェリカは、果たして王太子になれないかもしれない王子たちに興味を持ったであろうか、と。
「あ……アンジェ?」
黙ってしまったアンジェリカに、父はさっと顔色を変えて狼狽える。母は逆上すると理不尽にわめき散らす女性だった。父の目には、小さくなったアンジェリーナとしか映っていないかもしれない。
ここでアンジェリカがブチ切れても、おそらく父は諫めることもできないだろう。
もしもここにいるのが母だったら、相手が第一王子じゃないことに烈火の如く怒り散らしていたはずだ。なぜなら、三人の王子の誰も立太子していないとはいえ、第一王子が時期国王として最有力だから。
そう思っていると顔に書いてある父に気づいて、アンジェリカは思考の渦から戻ってくる。はあ、と小さくため息をついた。
「お母様もだけれど、一言くらい相談して頂きたかったわ」
「ご、ごめんよアンジェ。いきなり言われて戸惑ったことだろう。私たちはアンジェが喜ぶと思っていたんだ。嫌ならすぐに辞退するから……」
いや、それはそれでどうだろうか。そんなことをすれば公爵家の沽券に関わる。
そもそもが公爵家側の都合で、王家に娘の婚約について打診していただろうに。それを、いざ決まったら「やっぱりやめます」などと、子供が言ったことだとしても許されることではない。
それを許せば王家を軽んじたことになる。王家としても「はいそうですか」と軽々しく受けていい話ではないのだ。
そんなことも理解が及ばないのか、と。
(ああ、いけない。仮にも父親だ)
つい、部下に向けるように叱りつけそうになってしまった。気弱な印象が強いから、父は上司よりも部下のような雰囲気があるのだ。
それも、母による「教育」の賜物だろうけれど。
アンジェリカはひとつ咳払いをして、顔に笑みを張り付けた。
「婚約はお受けします」
その言葉に、正面に座る男はあからさまにほっとしたようである。
そもそも公爵家だなんて家に生まれているのだ。もとより政略結婚に異を唱えるつもりなんてない。
アンジェリカの性格上、大きくなったら好きな人と結婚したいな、などとは思っておらず、むしろ結婚相手が決められているのは、煩わしいことがひとつ減った、くらいにしか思っていないのだ。
早ければ生まれる前から婚約しているとかも珍しくないのだし、六つになった今ようやく決まったというは遅いくらいなのかもしれない。
ただ、蚊帳の外で話が決まったことがいらだたしいだけで。
とりあえず、どちらの王子が婚約者になったのか、食後にまた話があるだろう。
未だに娘に対して萎縮している父を放置して、アンジェリカは何食わぬ顔で食事を再開させたのだった。