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37なまえ




「私の名前はアンジェリカ。おまえの名前を教えてくれるかな」


 小さい子供にでも向けるような声で、問う。契約書に書かれた名前がいわゆるところの「名無しの権兵衛」だと知っているから。

 じっと目を見つめられて、子供はすこしたじろいだ。目が泳ぐ。はじめて、連れられて歩く、その場に棒立ちになる、それ以外の動作を見せた。


「しゃべれない、わけではないね?」


 お姉さまが言葉を選んで、さらに言葉をかける。

 それに対して子供は、困って困って、結局頷くだけが精一杯であった。

 でも、お名前は? って問いの返事になるわけもなく。


「……い、」

「ん?」

「……なまえ、なんてない」


 たっぷりの沈黙のあと、子供はそう答えた。


「……契約書に書かれた名前は本名ではない、と……?」


 それに対して疑問符を浮かべたのはお父上のほうだった。ひとりごとのようだが、ほとんど無音の空間ではよく通る。子供はこくりと頷いた。それにお父上は唖然として息をのむ。

 が、わたしたちは「おそらく本名じゃない」ということを予想していたので、そこまで驚かないんですけれども。


「親にはなんて呼ばれていたの」


 ロックスさまが無遠慮にそう言う。途端に、子供は目の色を変えた。


「親なんていない!」


 彼の大声を聞くのもはじめてである。

 執事さんもちょっぴり驚いていた。そもそも、彼の声を聞いたのも今日がはじめてなんじゃなかろうか。こんな大声出たんだ。

 親と死別したとか、そもそも捨て子とかで親を知らずに育ったにしては言葉に対する沸点が低すぎる気がする。

 ということは。


(親という存在を嫌っているなにかがあるんですかね)


 真っ先に思い浮かぶのは、ドメスティックバイオレンスとかネグレクトとかだろうか。なんなら親に売られたからとも考えられる。はたまた全部盛りだろうか。あとでロックスさまに聞いてみよう。

 子供は大声を久しく出していないからか、咳込んでしまっていた。


「じゃあ名前のはなしは置いておこう。私がこの契約書に名前を書き込めば、私はおまえの主人になる。それはわかるね?」


 こくりと一回頷く。


「でも、書かない選択肢もある。誰の奴隷にもならないことも、今なら選べるよ。どうする?」

「……え?」


 そう言われて、子供は狼狽えた。ただでさえ顔色が優れないのに、顔を青くさせている。

 自由になってもいいよ、してあげるよ。そう言われているのにだ。

 けれど。


(その質問はいささか残酷すぎやしませんか)


 奴隷商の元で散々暴力に見舞われてきた子供が、奴隷になる以外の道を選べるかというとそうでもない。そうあるべきと刷り込まれてきただろうからなおさらだ。


「あ、……う」


 案の定言葉に詰まって呻くような声だけが出た。

 ここで仮に「自由になる」選択をしたとして、このまま外に放り出されてそのあとは?


「……へ、へんぴん、って、こと、ですか……?」


 か細い声で、言う。

 返品。

 それはもう、ひとりの「人」ではなく、「商品」と散々刷り込まれてきたが故の言葉だった。


「もう、あそこには戻りたく、ない、です。あそこはいやだ」


 だから、また奴隷商のところへ戻される。そう勘違いしてもしかたがないのかもしれない。

 子供の頬を涙が伝っていく。


(じゃあ、「死にたがっている」のって)


 返品はされたくないけれど、奴隷として「モノ」として扱われるであろう未来に、ただただ絶望していたからだろうか。


「あー……アンジェ、奴隷契約についてなんだが……」


 お通夜のようにしんとした空間に、お父上がとても言いづらそうに水を差した。

 アンジェお姉さまはしゃがんだ格好のまま、顔だけお父上に向ける。


「名前が別物であることには驚かされたが……すでに契約書に名前を書き込んで血判まで押してあるだろう。契約が宙に浮いているだけで、その子はもう奴隷以外にはなれないんだよ」


 つまり、ご主人さまがいないだけで、奴隷には違いないということ。

 そう言われたお姉さまは、ちょっと考えて、なんかすごく面倒くさそうなお顔をなさった。どうも、「そういうことを言いたいんじゃないんだがなあ」って言いたげである。


「だから、その子の主人にならないと言うのは少し残酷なことなんだよ、アンジェ」

「ええと……、まあ、いいか。そういう刷り込みがあるならば仕方ない」


 結局、アンジェお姉さまは説明とか諸々を飲み込んだ。

 その様子から察するに、契約書から解放する方法とかがあるのだろう。どうせ契約書の仕組みも、すでにお姉さまは丸裸にしている。

 だからこそ、奴隷の主人にならない選択肢も提示できているのだし。


「そんなに泣かなくても、契約書に私の名前は書くよ。そうしたらおまえは私の所有物だ。書き込んでしまえばもう覆せない」


 でも今それを説明するのも詮無いことだ。奴隷契約とはこういうものである、という常識にとらわれているお父上とかこの子供に、そんなことないんだよって一から説明し直すのも、なかなかに骨が折れるだろうし。


「だからその前に、名前だけ書き直してしまおうか」


 しかし、内容が確定する前ならば変更が利く、というのもなかなかに常識外れの発言なのである。


「ええと……アンジェ、だからね……」

「そんなことできるの?」


 常識に凝り固まっているお父上がなにか、聞き分けのない子供に諭すようなことを言い出す前に、ロックスさまが言葉を被せた。


「記入されている名前はこの子の本名ではないということは、そもそもがこの内容を書き込んだのは本人ではないということ。この契約書で最も大事なのは横に押された血です。名前はただのコマンドにすぎない」

「コマンド?」

「命令に従わせるための動作とでも言おうか。例えば座るように命令しようとして、ただ「おすわり」と言っても奴隷側は命令を拒否できる。が、この契約書に則って言うと「ジョン、おすわり」まで入力すると、必ず命令が遂行されるように術式が組まれている」


 つまり契約書に書く名前は、本人確認でもなんでもないわけだ。


「じゃあぶっちゃけると未記入でもいいってこと?」

「その場合、命令とそうでない言葉の区別ができなくなるだろうな。この契約書の術式はそこまでお利口にはできていない」


 言いながら、お姉さまは契約書の記入済みのところを指でなぞった。


「なら、おまえが嫌ではない名前にしよう」


 お姉さまは立ち上がると、子供の手を引いてお姉さまがもともと座っていたところに座らせた。そしてその前に、血判だけ押された契約書を置いてみせる。名前のところが空白になっていた。

 お父上が「ほんとに消えてる!」みたいな顔をしているのがちょっとおもしろい。


「なにか案はないか」

「振りが雑い~~! ティアラはなんかない?」


 ここではじめてわたしに発言許可がおりました。超困る!

 散々言っていたとおり、ファンからの呼称は「ジョンさま」だったわけですし、公式から本名の公開はありませんでしたからね。あったかもしれないけれど少なくともわたしは見たことない。

 それにきっと、この子は本名で呼ばれることを望まないだろう。

 その上この子自身、こう呼ばれたいみたいなのはないだろうなあ。

 だから今回の場合、わたしに求められているのはゲーム知識ではなく、単純にネーミングセンスということだ。

 超困るーー! ロ様のあだ名考えたのだって、結局エミリーさんだったじゃーん!


「急に言われても困るんですけど……」


 でも。

 白いような淡い緑のカラーリングに赤い瞳。

 作中でお気に入りの奴隷を連れ歩いていたお姉さまは、自分が所有するペットを見せびらかしたいような台詞があったんですよね。

 なんだっけな。

 珍しい吸血鬼の亜人だから? そのわりには、「私」はこの子が亜人だということを知らなかった。

 ならばそれ以外の理由だろう。


(わたしが知らなかったってことは、作中アンジェお姉さまがジョンさまが吸血鬼だと知らなかったまであるし……)


 たしか、そう。

 純粋に「美しい」から、だ。


(お姉さまはおしゃれとか貴金属に興味ないから忘れてたけど、そういえば「あっちのお姉さま」のほうはそういうの大好きだったんだよな)


 奴隷を飼うのが、一部の成金にはステータスとなっているこの世界で。

 絢爛豪華なドレスを何着も持っていて。

 アクセサリーもたくさん所有して、いっそ下品なくらいごってごてに着飾って。

 その上で後ろから「宝石みたいな奴隷」が着いてくる、優越感。

 追加版で攻略対象になるような外見の奴隷だもの、見せびらかしたくてしかたないに決まっている。


「翡翠って知ってますか? 緑色の宝石で、深緑とか、珍しい色でラベンダーみたいな色のやつもあるんですけど、一番翡翠だなあってわかりやすい色が淡緑色なんですよ」


 ほら、ちょうどその子供の髪の色なんて、翡翠みたいじゃないですか。









れじぇんずあるせうすはやったことないです

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