7. 恋バナは聞こえないところでやれ
保健室に顔を出すのは一週間ぶりだった。
「二年生になってから全然来なくなったねえ須埜原くん」
小春先生はにまにま笑いながら言った。この人は僕をからかうような物言いをするときはいつも脚を組むのだが、そうすると白衣の裾を割ってタイトスカートから伸びる脚線美をじっくり堪能できる。我ながらキモいが一年生のときにほぼ保健室登校だった理由の二割くらいは先生の脚だった。
それが――最近、たしかにちゃんと教室に行くようになった。
「クラス、楽しくなった?」
「そんなわけないでしょ。階層がはっきり見えるようになったってのに」
「話し相手ができたんじゃないの?」
即座に白石の顔が浮かんだが頭を振って否定した。
話し相手ではない。向こうがなんか絡んでくるだけだ。席が近いから。
「ええと、それで、その。先生に訊きたいことがあって。たとえばの話なんですけど」
僕は小春先生の笑顔から目をそらして言った。
「ちがうカーストの間で、その、たとえばですよ、つきあったとしたら、どうなるんですか。上の方が下に合わせて降格するんですかね」
「降格? ないない。カーストは転生しなきゃ変更されないって言ったでしょ。下がることもないんだよ」
「ああ、そういう」
「でもインドだと異カースト間で結婚しちゃうと親族から嫌がらせされるらしいね。最悪、父親に殺されたりする」
「え、ちょ、ちょっ?」
「日本だと『階層』ってとこばっかりがクローズアップされるけど、実際のカーストってもっと複雑で、排他的なコミュニティが大量にぐちゃぐちゃ混在してるみたいな感じだからね。上の方ならいいってもんでもないらしいし。バラモンの女性とか結婚相手が全然見つからないらしいよ。まあスクールカーストはそんな複雑さはないけど、異カースト間でつきあうと元いたコミュニティから疎外されるってことはあるんじゃないかなあ」
嫌がらせ?
殺される?
いやまさか。
詳しく聞きたかったけれど、そのときちょうど予鈴が鳴ったので僕は保健室を出た。
すぐ外の廊下で、恰幅の良い白衣のおばちゃんと鉢合わせする。
「あらっ、須埜原君。来てたの」
養護教諭の松穂先生だった。生徒から(陰で)マツホ・デラックスと呼ばれて親しまれているビッグマムで、僕も入学時からたっぷりお世話になっている。
「ごめんねちょっと忙しくて。寝てく?」
「あ、いえ、ちゃんと授業出ます」
「えらーい。頭痛は? お薬出そうか?」
「い、いえ、大丈夫です」
「行ってらっしゃーい」
うちの高校は生徒数が多いから保健の先生は何人いても足りないだろうな、と思う。手をかけさせている原因の一人は僕なので、大変だと案じるくらいなら保健室に気軽に行かないようにすればいいのだけれど、メンタルなよなよの最下層民なので万が一の逃げ場を失ってしまうのは厳しかった。今後ともお世話になります。
我が二年二組をあらためて観察していると、小春先生の言っていたことを実証するカップルの例がさっそく見つかった。
男子の方は、真野良義くん。
授業で先生にあてられたとき以外で喋ったのを聞いたことがない、眼鏡で猫背の数学部所属、真っ黒けの奴隷だ。
ところがこの真野くん、僕の二つ後ろの席の竹中美奈子さんとつきあっているようなのだ。
竹中さんはすらっと背が高い女子バドミントン部員の平民。
人数の多い平民女子はクラス内でさらに二つのグループに分かれていて、そのうち体育会系派閥が竹中さんの所属だった。
どういうつながり?
ていうか高校でクラスメイト同士つきあうって話、あるんだな?
中学ならわからんでもないけれど、高校生ともなれば交友範囲が広がるし女子はだいたい年上に惹かれるもんだからクラス内でのマッチングなんてあり得ないかと思っていた(彼女いない歴十六年のあてにならない見解です)。
ともかくこの二人、週に一度ほど女子バドが休みのときには一緒に帰るところを目撃されている。
「あいつどうやって彼女作ったんだよ……」
「おかしいだろ、絶対に俺たちといっしょに彼女いないまま卒業だと思ってたのに」
「裏切られたわ……」
シュードラ仲間たちの間での真野くんはかなりの言われようだった。これがコミュニティからの疎外というやつなのか。
真野くん側だけではなかった。
帰り支度をしている間、女子ヴァイシャのみなさんの会話も漏れ聞こえてくる。
「――美奈子最近つきあい悪いよね」
「あーね」
「まあしゃあない」
「とくに隠さんの勇気あるなーって感じ」
閉鎖的階層社会、恐ろしい!
少しでもはみ出た者は全力排除!
こんなきゅうくつな集団生活を見せつけられると、自由なアンタッチャブルの身が誇らしくなってくるな。なにしろ全社会から疎外されてるからな!
「えっ、あの二人つきあってるのっ?」
白石が興味津々の目でヴァイシャ集団の会話に飛び込んだ。声がでかい。そしておまえはクシャトリアなんだから少しは遠慮しろ。
「いつからいつから? 一年生のときからかな? 同じクラスだったとか? 部活はちがうよね、委員会とか?」
「え……いや、さあ……」
ヴァイシャ女子たちは困惑気味の視線を交わす。
「うちのクラスにカップルなんていたんだね! ぜんっぜん気がつかなかった!」
見かねた葉山なぎさが黄色オーラをふよふよ漂わせながら寄ってきて言った。
「気づいてなかったのまりさぽだけだよ……」
「えっ嘘っ?」
「美術の時間の二人組でスケッチとか露骨だったじゃん……」
渡良瀬咲子もあきれて言う。クシャトリア仲間はいつもながら白石に容赦がない。
「なんで教えてくれなかったの!」
「わざわざ教えるようなもんでもないでしょ」
「わたしも恋バナしたい!」
「えー。勝手にすれば。クエスト周回しながら聞いててあげるから」
葉山なぎさは冷淡に言ってスマホ片手にゲームを始めてしまった。
白石は僕の机に腰をのせる。なんでだよ。あ、白石の椅子を渡良瀬が使ってるからか。よそに行け。……いや、僕はもう帰るからいいんだけど。
荷物を鞄に詰め込み、立ち上がって教室の後ろの戸に向かう。
「なぎちゃんから話してよ、恋バナ得意でしょ」と白石が言うのが聞こえる。
「えー。まあいいけど。あたし個人としてはぁ、やっぱり緒方監督の解任は早すぎたって」
「それは鯉バナだよ! カープ女子にしかわかんないよ!」
「ちゃんと反応してくれるまりさぽ大好き」
「えーわたしと恋されちゃっても」
「はいじゃあ次は麻里紗の番」と渡良瀬。「彼氏いるんでしょ」
教室から出ようとしていた僕は思わず足を止めて振り返ってしまった。
なぜか白石もこっちを見ていたので視線が合ってしまう。お互いあわてて目をそらした。いやべつに気になってるわけじゃなくて、ただその、純粋な好奇心でね?
「彼氏なんていないけど!」
白石がぎょっとするくらい大声で言った。
へえ。いないの? ふうん。
僕には関係ないけど。そう聞いたところでなんとも思わんけど。
「あんな爛れた業界にいて彼氏無しとかあり得ないでしょ」
「ねー。カメラマンとかスタイリストとかすっごい手が早そう」
おいビッチども、白石をそっちの領域に引き込もうとするな!
またも振り向いてしまった僕と白石の目がまたも合う。
なんでこっち見てんのっ? 僕も僕でなんで見てんの!
「そういうのないから! ほんとに!」
白石が声を荒らげた。僕はいたたまれなくなって教室を逃げ出した。
いない、と本人が言っているなら、そりゃまあ、いないんだろう。あるいは事務所の方針でいないってことにしてるとか? いやいや。アイドルじゃないんだぞ。モデルだ。彼氏がいるのが世間に知られたからって大したダメージじゃ――んんん? なんか大したダメージな気がしてきたな? 白石にじゃなくて僕に。
なんでだ?
気の迷いだ。
恋バナなんてどうでもいい。
学校社会そのものから疎外されているアンタッチャブルには金輪際関わりのない話だ。僕は胸のもやもやを黙殺して足早に階段へと向かった。
* * *
ところが恋バナの方から僕に関わってくるのだから迷惑千万だった。
翌日の放課後、僕がいつも通りにさっさと帰ろうとすると、太司が寄ってきて耳打ちした。
「ちょっと、須埜原、話があるから残っててくんない?」
見れば太司だけではない。うちのクラスでいちばんちびっこの森本浩二郎もその隣にいる。太司との体格差はマッチ棒とバスケットボールという感じだ。逆側からは青山徳丸も寄ってきていた。いつもカメラを首からぶら下げている自己主張の激しい写真部員だ。
三人分の黒オーラが僕の机周辺にわだかまる。
二年二組の男子シュードラが勢揃いしていた――例の真野くんを除いて、だけれど。
「話って」
「真野のことだよ。わかるだろ?」
ちょうど教室を出ていくところだった真野の背中をちらと見て太司が声をひそめる。
「いや、わからんけど」
「とにかく人がいなくなってから話す。聞かれるとまずい」
十五分くらい後、二年二組の教室内には僕とシュードラ男子三人だけが取り残された。
太司が重苦しい雰囲気の中で口を開く。
「須埜原、DTMって知ってるか?」
僕は目をしばたたいた。
「一応、知ってることは知ってるけど」
デスクトップミュージックの略だよな。知識としてだけなら。まさか曲を作れとか言うんじゃないだろうな? こちとらボーカロイドを試しに買ってみて声の調整にすさまじい根気と努力と経験が必要だと気づいて一通りえっちなせりふを言わせた後であきらめてアンインストールしたくらいの音楽歴だからな?
「そうか知ってたか。じゃあこっちに来てくれ」
太司に手招きされ、僕は教卓の向こう側に回った。森本と青山も険しい顔でついてくる。太司が指さしたのは教卓の裏側のがらんどうになっている空間だった。
身を屈めて、太司が指さした先を見る。
背板の内側に、葉書くらいのサイズの紙が貼り付けてある。
なにか書いてあるが暗がりでよく見えないので僕は教卓の中に潜り込んだ。
……座席表だった。
二年二組の三十人分の机配置にそれぞれ名字が書いてあるやつだ。教卓の天面にも同じものが貼ってある。なんでこんなところに二枚目があるの?
よくよく見ると、暗がりの座席表はところどころに鉛筆で○や△が書き込まれている。
河村、紺野、津田島には○。
青山、窪井、森本には△だ。
「……なにこれ」
「だからうちのクラスのDTMだよ」と太司の声。
「は?」
たしかに座席表の上部に『DTM』と書いてあるが……。
「童貞マップだ」
「帰っていいかな……」
「ちょっ、ま、待てって須埜原!」
「大切な話なんだよ!」
「俺たちの将来にかかわるんだ!」
三人がかりで引き留められた。
「つまり、うちのクラスの男子が童貞かどうかを一覧できるようにしたマップなんだ。○が非童貞。△が童貞。印がついてないやつは未確定」
太司が真剣そのものの顔で言った。
「どこのクラスにもあるだろ。一年生のときもあっただろ?」
いや知らないよ。なんで常識みたいに言ってんの。
「え、これ、童貞かどうか実際に訊いて回ってんの?」
バラモン紺野君や河村たちクシャトリア相手にそんな下世話な質問できるのかよ? 勇気ありすぎだろ。
ところが青山が肩をすくめてやれやれと首を振った。
「そんな失礼なこと訊けるわけないだろ。○印は憶測だ」
「憶測の方が何倍も失礼だと思うが……」
「△印は当然俺らの自己申告だ!」
胸を張って言うことか?
「そしてこの童貞マップをともに制作した仲間である真野が、あんなことになってしまった今、俺たちの絆は危機的状況にある」と太司。「そこで須埜原に頼みがあるんだ。真野がまだ童貞かどうか訊いてきてくれ」
「はあ? なんで僕が」
「だって村上春樹読んでるだろ」
「性の達人だろ」
その認識もう完全に固定化されちゃったの? ほんと迷惑なんだけど?
「それに須埜原は……なあ……」
「うん、こういうの……得意だと思うし……」
「俺らなんか相手が彼女持ちってだけでもう話しかけていいのかどうか……」
「なにがどう得意なんだよ。僕だって気後れするよそんなの」
「だって白石とかとめっちゃ普通にからんでるじゃん」
太司の指摘に僕はのけぞって教卓に頭をぶつけた。
「はあああ? あれはっ、あいつがなんか一方的に言ってくるだけで、僕はべつにほっといてくれよって思ってるし、とにかく、その」
僕なんぞと日常的につるんでいると誤解されたら白石がクシャトリアコミュニティから追放されてしまうかもしれない。ここは強く否定しておかねば。
「とにかく頼むよ。調べてきてくれ」
太司は太い指で僕の肩をぐっとつかんで言った。
「ついでにどうやって彼女つくったのかも訊いてきて」
おまえら絶対そっちが主目的だろっ?