第17話 二人の夜は静かに流れて
壁の時計の動く針の音だけが響いてた。
背徳的な快楽の余韻に沈んだままヘッドから天井を眺める俺の胸に、冷たい指が這う。
静かだ……溶けそう……
隣でずっと俺の体に触れて撫でている白鳥の柔らかい肌の感触。冷たい手とは反対に汗ばんだ体は熱かった。
「……憐ちゃん。」
「ん?」
「中で良かったのに……」
とんでもないこと言う。
なんて返したらいいのか分からなくて俺はそっぽ向いた。
多分、俺も白鳥も初めてじゃなかった。行為中、記憶にはない感覚をなぞるように彼女の体を貪った。
求められるまま体を重ねながら、ずっと振り払えない疑問を頭の隅に置いていた。
……何してんだろ?俺……
死にたくなるほどの胸の重みを忘れるくらいには、白鳥との営みは刺激的ではあったけど……
「憐ちゃん。」
「ん?」
「どうでした?」
「……良かったよ。」
なんて馬鹿な台詞を吐いてるんだ。昼間の俺が見たらなんて言う?
そんな自己嫌悪も、ちらりと見た隣に添い寝する白鳥の薄い微笑みに霧散していく。
ああ…多分……
「憐ちゃんは、あんまりでしたね。」
「え、そう…?」
「あはははっ、うそうそ。」
白鳥の指が前髪を撫でる。汗の浮かんだ額が冷えていく。気持ちいい…
「……ちゃんと堕ちた?」
「……どこに?」
「私に。」
耳元をくすぐる声に俺は何も返さなかった。それでも、沈黙の返答に満足した白鳥は、背中を向ける俺の耳元に口付けをした。
「……あ、忘れてた。」
「なに?」
「--好きですよ。憐ちゃん。」
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20時過ぎ、二人で遅い夕食を摂る。温め直したシチューは舌を火傷するくらい熱かった。
俺としてはなんとも気まずいことこの上ないが、白鳥はなんだかご機嫌だ。
「美味しい?」
「ん?…うん。」
「そう。良かった。」
白ワインをお供にシチューを楽しむ。添えられた手作りのパンもサクサクして美味しい。
「このワイン、今日買ったの?」
「今日人と会ってまして…その人に貰いました。」
「ふぅん……」
俺の過去のこと、さっき体を重ねたこと…
お互い触れる事なく、いつも通りの話題を運んでいく。あの時間だけが切り離された別次元の話みたいに。
それが俺の心を休まらせてくれた。白鳥は俺の事をよく分かってるのかもしれない。
「憐ちゃん携帯欲しいですか?」
「携帯?」
「だってほら、今日みたいな時連絡取れないと不便ですし……帰ったらいないんだもの心配したんですから。」
「ごめん…まぁ、確かにあった方が……」
「今度買いに行きましょうね?ちょうど新しいのが出ますから。」
「そんな高いのいらない。」
「いいじゃないですか。折角買うんだから長く使えるのがいいでしょ?」
「……まぁ。」
スマホがあれば調べ物も楽になるかな…
また白鳥に金を出させることになるけど。俺に携帯を買う金はない。
「……そういえば、今日部屋の掃除したんだけど。」
「あら、ありがとうございます。」
「いや、自分の部屋だけ……勝手にお前の部屋入らない。」
「えー?気が利かないな……」
「その時物置で空気銃?みたいの見つけてさ…あれ、白鳥の?」
白鳥は手を止めて「ああ…」と小さく頷いた。白鳥の物らしい。まぁ、当然か。
「昔競技目的で購入しまして…すぐ飽きちゃったけど。」
「へぇ…多趣味なことで。」
「物置にありましたか。どこにいったのかと思ってました。」
「いいのかよ。ちゃんと保管しとかなくて…」
「ガンロッカーどっか行っちゃった。」
「いかないだろ。」
俺が空気銃を見つけたことにも大して気にした様子はなく、「今度撃ってみますか?裏山で。」なんて気軽な冗談を飛ばしていた。
色んなこと知ってて色んなことできる白鳥が、ちょっと遠い存在に感じてた。
風呂からあがって床に就いてしばらくして、ノックもなしに部屋の扉が開いた。
開けっ放しのカーテンから星空を眺めてた俺は突然入ってきた白鳥にびっくりして起き上がった。
「なに?」
「え?寝るんですよ。」
そのまま当たり前にベッドに入ってくる白鳥。かろうじて衣類は身にまとってるが薄い肌着と下はパンツだけという際どすぎる格好だ。ピンクの枕を抱えてるのが扇情的な格好となんともミスマッチ。
「なんで!?」
「一緒に寝るって言ったじゃないですか?」
寝るってあっちの意味の寝るじゃないんかい。
白鳥はオドオドする俺の横にするりと潜り込んで掛け布団の中に沈んだ。ぽかんとする俺を布団の隙間から覗いてクスクス笑ってる。
ついさっき、体を重ねたベッドで、また並んで横になる。狭いベッドは二人の体を密着させてようやく寝れる大きさだ。共有した布団の中で二人の体温が合わさる。
「……どゆこと?」
「たまに一緒に寝ましょうね?」
「え…狭い。」
「だからいいんじゃないですか。」
俺の肩にコツンと額を当てて白鳥は俺の体温を感じるように目を閉じた。自分以外の温もりに慣れなくてむずむずする。
「……昔、まだ雨が怖かった頃。こうしてお母さんの布団に潜り込んでました。」
「雨?」
「小さい頃…雨が怖かった。静かな夜にポツポツって窓を打つ雨音が…風の強い夜、横風に流される雨が暗闇で幾本もの線に見えて……」
「雷とかなら分かるけど……」
「空から水が降ってくるっていうのが、幼い私には理解できなくて。雲も嫌い。晴れた夜が好きだった。」
「雨が降る度にお母さんと寝てたのか?お母さんも大変だな。」
俺がクスリと笑うと彼女もクスクス笑った。声を殺した白鳥が俺の胸元に顔を埋めてきた。
「……お母さんは私を置いてどこかに行っちゃったんです。」
「……。」
「お父さんが心変わりしちゃったから…」
不意に語る白鳥の声が静かな室内で紡いでた。ほんの少しだけ、震えてるような気がした。
「……お母さん、好きだったなぁ。」
「……亡くなったって言ってなかった?」
「死んだも同然です。私の中では…」
「……会いに行ったりとかは?」
「私の中で、綺麗な思い出でいて欲しいから……」
消え入りそうな声だった。その声に俺は彼女の深いところを見た気がした。
のらりくらりとしてる白鳥が、どうして急にこんな話をするんだろうと気になったけど、俺は何も聞かずにただ耳を傾けた。
「花が好きな人で……庭いっぱいに薔薇を植えて育ててた…綺麗に咲いた色んな色の花をお母さんの膝の上で見るのが好きで…」
「……。」
「花が咲くのを、楽しみにしてました……」
「……そっか。」
「……憐ちゃん。」
「ん?」
「辛い思いをするくらいなら、何も思い出さなくてもいいんじゃないですか?」
俺は黙った。
きっと、俺自身どうすべきかなんて答えがないから……
「……憐ちゃんは、もう一回死んでるから、死んだらダメですよ?」
「……。」
「私から、離れないで……」
熱い吐息がかかって体が火照る。俺は彼女の顔を見ないように窓の外に視線を移していた。
空に遍く星々の輝く下で、俺たちは孤独だ。白鳥の根底にあるのも、寂しさなのかもしれない。
俺は、その孤独を埋める為に彼女に生かされたんだろうか…
「……どうして俺だったの?」
俺は訊いてみた。勇気のいる質問だった。
顔を上げて至近距離から俺を見つめる白鳥が、小さな口を笑みの形に変えていた。
「……あなたもひとりぼっちでしょう?」
「……そうか。」
「私は死にませんよ?憐ちゃん…ずっと一緒に居ますから…なので、憐ちゃんに訊きたいこと、あります。」
「なぁに?」
「さっきの返事です。--憐ちゃんは私の事、好きですか?」
急な質問に心臓が縮こまる。耳をくすぐる声になんて答えようかと今日一番狼狽した。
「……分かんない。」
「分かんないのに抱いたの?」
地味にグサリとくる言葉。
「……分かんないけど、これから…好きになる……かも。なりたい……かも。」
曖昧に誤魔化しながら言葉を濁して何とか答えらしいものを返した。
自分のこともふわふわしてる俺にはこれが精一杯。
白鳥はまた小さく笑ってより体を寄せてきた。不甲斐ない答えをとりあえず許してくれたみたいだ。
「--堕ちて。好きになって…きっと、後悔させないから……」
なんで……
ただ同じ孤独を感じたというだけで、なんであなたはそんなに俺を想うのか…
ただ……
ひとりぼっち同士、身を寄せて、思い出を語らってくれた白鳥の好意を…気持ちを今はとりあえず信じた。
そして、今度は俺もなにかひとつでも、思い出を語って聞かせてあげたいなんて思った。
過去に暗い感情ばかりが渦巻いてる。今も。でも、その中にほんの少しの希望を見いだせた気がする。こじつけだけど、そう思えば昔に向かって歩を進められるような気がした。
やっぱり、思い出さなきゃだめだって思えた……
「……俺、白鳥と居たら、大丈夫な気がする。」
「ん?」
「大丈夫……死なないから…もうちょっとだけ、頑張ってみる。」
「……ん。」
甘い薔薇の茨が絡みつくように、俺の心に張っていく。
彼女の言葉の一つひとつが、そうやって絡まり、倒れないように支えてくれる気がした。
お互いなんにも知らないけど、お互いの気持ちを少し分かり合えた気がしたから……
だから、もう少しだけ歩くことにする。後ろに…過去に向かって……
並んで目を閉じる夜は静かで温かく……ひとりぼっちじゃなくなった二人が互いの存在を体温で確かめ合う。
白鳥と過ごす夜は、いつもより長かった。