第16話 死んだ方が良かったのかもしれない
どうしたらいいか分からなくなった。
突きつけられたのは現実だけで、どうやら俺はまともじゃなかったらしいということが分かった……
--悪魔に取り憑かれた…
そんな風に表現される程度には、俺は非道い奴だった。
彼女の晒した赤い腕が鮮明に焼き付いている。同時に向けられた視線も……
「……ケイカ。」
一人町を歩きながら俺はその悪魔の名前を呟いた。
彼女の口にした、俺に取り憑いた悪魔…その名前は今まで誰からもどこからも出てこなかった。
何者だろう……その女のせいで俺はおかしくなったのかな?
もし、望月海斗が起こしたという放火事件が、本当は俺のせいで起こったものだったら…
『誰のせいで』なんて言い訳が通るわけもないけど、俺はその悪魔を探さないとって思った。
もしそうだったなら、俺はどう償えばいいんだろうか……
--取り戻さなくていい。
--なんにも返ってこないもの。
--思い出そうなんて思わないで。
ぐるぐる渦巻くように犬山の声が頭を回ってた。
思い出すことが大事なことだと思ってた。那雪菜月の為に…必要なことだと思ってた。取り戻すのが償いだと思った。
でも、望まない人がいた。
--記憶を取り戻したら、、あなたはまた昔のあなたに戻るの?
そして、怖くなった。
漠然としていた不安感が手に触れられるくらいはっきりした形を成して、俺を見つめるように鎌首をもたげた。
全部を思い出したら俺はまた悪魔に取り憑かれるのだろうか?
--あなた“たち”のしたことは忘れない。
何をしたんだ。
何も語らない彼女は、償うことすら許さないと言っている。
忘れてしまうような奴は、もう何も償わなくていいと……
ずっと、苦しんでおけと……
--死ぬ思いしてやっと悪魔から開放されたの。
悪魔から開放……
俺は逃げたのかもしれない。犯した罪から、背負わせた悪魔から…
俺はその『ケイカ』という悪魔から逃げる為に、死のうとしたのか…?
那雪菜月を巻き込んで?
責任から逃げ、償いから逃げ、未来のあった誰かを巻き込んで……
分からない。本当のところは分からないままだ。『分からない』なんてほざく自分がひどく嫌だった。
どうして忘れてしまったんだろう。死ねなかったのなら、せめて記憶くらい…罪くらいは抱えたまま目を覚まさせてほしかった。
俺は、悪魔から逃げれてない……
すっかり胸の内に根を張った悪魔が俺をじっと見つめている。また囁く。
誰も望んでないと。もう全部忘れておけと……
そんな言葉の響きが甘美に過ぎて、ドロドロと溶けそうになっていくのが怖かった。
一人家路に向かう俺の周りには人影もなく、暗い夜の落とした闇だけが俺を包んでる。
空に浮かんだ上弦の月が俺を嘲笑する笑った口元のように空に浮かんで俺を見下ろしてた。
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「どこ行ってたんですか!」
『杜の隠れ家』に帰ってきた俺を白鳥が出迎えていた。
時計を見たら時刻は19時を回ってた。そのまま帰る気力もなくてふらふらと町をさまよった結果だ。
エプロン姿の白鳥はえらく不機嫌そうで、分かりやすく頬を膨らませて怒ってた。
「もー、お留守番頼んだでしょ?こんな時間まで…シチュー作ったのに冷めちゃいましたけど?」
「……悪い。」
「悪いですとも!どこに行ってたんですか?」
「……ちょっと、知り合いに……」
「知り合い?」
部屋に上がっていく俺が横をすり抜ける前で白鳥がキョトンとした。
「……どなたか、お知り合いが居たんですか?」
「……昔のね。」
「え?」
階段を登る足も重い。ギシギシ踏み鳴らす足音が心に影を深く差した。
「あの…あのっ!昔の知り合いって?」
「……。」
「まさか……なにか思い出したとか!?」
答えたくなかった。なんて説明すればいいのか分からなかった。唇が重たい。
一人部屋に戻った俺は窓を開けてベッドに横になった。
仰いだ空には星屑が散りばめられ、暗闇を照らすように輝いている。なんの曇りもない星々が、俺の心をより荒ませた。
母さんはなんで自殺したんだろう……
それも、やっぱり俺のせいなのだろうか。俺が犬山に行った“なんらか”の悪業のせいなんだろうか。
悪い予感と想像はずっとずっと膨らんで、風船みたいに丸々肥える。中に溜まったどす黒い感情が、膨張した胸の中で揺れている。もし弾けたら、きっと俺は耐えられないんだろう。
多分、俺がしたことを思い出したら、弾けて外に吹き出すんだろうな……
思い出さなきゃなんの償いもできないけど、償うべき人には思い出すなと言われた。
自分の気持ちも、知りたくないという方に揺れていた。
どうするのが正しいだろう……
霧のかかった思考がどんどん落ちていく--そのまま上がれなくなりそうだ……
「……あの〜。」
部屋の扉が控えめにノックされ、細く開いた隙間から白鳥の小さな顔が覗いてきた。
「ご飯、食べないんですか?」
「……。」
「いっぱい作っちゃったんですけど〜……」
「食欲なくて……」
「具合でも悪いんですか?」
「いや……」
白鳥は部屋に入らないまま電気もつけない薄暗い室内を覗いてた。廊下の明かりに照らされた顔が部屋の外で輝いて見えた。
「……大丈夫ですか?」
「……うん。」
「……。」
「……白鳥。」
俺はまた彼女の甘さに甘えようとしているのかもしれない。だって、こんなこと彼女に言ったってしょうがないんだもの……
「俺は…死んだ方が良かったのかもしれない。」
「……。」
廊下から差し込む明かりが太くなって、白鳥の足音がゆっくり入ってきた。
床を軋ませる足音が隣で落ちて、彼女の細い肩が俺の肩に触れていた。隣に感じる息遣いすら、俺には苦しかった。
「なにを思い出しました?」
「なにも。」
「じゃあ、どうしました。なにか、言われましたか?」
「……なにも思い出せないのが辛い。」
「……。」
彼女の瞳が赤い月みたいに俺を見つめた。俺は隣に視線を向けられなかった。
「せめて覚えていれば…まだマシだったかもしれない。俺は、取り返しのつかないことをしたのかもしれない。」
「……。」
「全部から逃げたくて俺は死のうとしたのかもしれない…でもそれは、無責任な逃避だよ。今も……」
「……。」
「生きてるんだったらせめて覚えていたかった。忘れるんなら、いっそあの時死んでおけば良かったのに……」
「……。」
白鳥の無言の相槌の中で俺の声が部屋の闇に吸い込まれていく。星の明るさの届かない部屋の隅はぽっかり空いた口のようで、底なしの暗闇が俺の言葉を吸い込んでいく。
「……死にたくなった?」
白鳥の声が俺の耳元で囁いた。痺れるような甘い声……
「……死んだらまた逃げることになるな。」
「……。」
「でも、その方が楽かもしれない…」
自分の口からするりと滑り出した言葉にまた自己嫌悪が加速する。考える度、思う度心が汚れていく--いや、本来の汚さを取り戻していくような気分だった。
「……はぁ。」
白鳥が大きなため息を吐いた。気だるげで、息の詰まりそうな空間に辟易するみたいに。
俺は彼女を見た。白鳥はどこか遠く…部屋の隅を眺めて心ここに在らずって感じだった。
「……白鳥、シチューいいのか?食べてきなよ。」
「……。」
「俺はもう寝るから…」
「じゃあ一緒に寝る。」
部屋から出るように促す俺に白鳥が雑に言い放った。突然なにを言い出すのかと俺が白鳥の方を見ようとした時、彼女はその場に勢いよく立ち上がった。
横から前へ--移動して俺を正面から見下ろす白鳥の双眸が星よりも光ってた。
「……?」
「憐ちゃん。」
その場で膝を折って俺の前に屈んだ白鳥の顔が近い。息のかかる距離で彼女の髪から甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「憐ちゃんが昔何したかは知らないですけど……」
「……白鳥?」
「真面目すぎ。」
いつだって彼女の手は冬の風みたいに冷たかった。細い指が頬に触れて顔を撫でる。伝う冷たさに俺の中でモヤモヤ溜まってた暑い空気が溶けていくようだ。
「あなた、死んだんですよ?」
「……っ。」
死んだって罪は消えない--
言い返そうとしたけど、言葉に詰まった。だったら死のうとしたって責任からは逃げられない。逃げ場がない。
俺はどこまでも自分ばっかりだ……
「……俺は、誰かを…傷つけて……」
「うるさいなぁ。」
白鳥の顔がグンっと近づいた。
溶け合った互いの吐息は、詰めた距離の分近まって、そのままふたつの唇が重なっていた。
押し付けるように触れる白鳥の唇から、火傷しそうなくらい熱い吐息が漏れだす。合わさった唇は柔らかくて、触れていたらそのまま溶けてひとつになりそうなくらいだった。
ゆっくり離れていく唇を、名残惜しそうに俺の唇が見送る。突然の事態に俺の口から間抜けな声が零れてた。
「今私が喋ってた。」
「……は?え?」
「男の泣き言なんて聞きたくないです。」
はっきりと言われて俺は自分の女々しさを自覚する。どうしようもなく救えない気分だ。
「真面目すぎなんですって。あなた……憐ちゃんは一回死んで、過去のことは全部流れたんです。あなたが追いかけてるのは、既に終わったこと……」
「……いや、生きてる。」
「死にました。過去と、過去のあなたの心と一緒に…それでいいでしょ?」
再び彼女の唇が近づいた。冷たい手が服の上から俺の胸に触れた。触れられた心臓が熱くなる。
「それじゃだめですか?」
「……っ。」
ほぼ密着した口元が囁く。甘く、深く--引きずり込むように……
「だめなら……」
また柔らかく唇が俺に重なる。今度は一瞬。触れて直ぐに離れる。
「憐ちゃん真面目すぎだから……そう思えるように--」
「……白と--」
「--堕としてあげます。」
触れ合った唇の隙間からぬるりと舌が滑り込んだ。唾液と吐息にまみれた二人の舌が互いの温度を確かめ合うみたいに絡まっていく…
そのまま体重をかけられベッドに押し倒される俺の上で白鳥は唇を離した。離れていく舌が白い線を繋ぎ、艶めかし赤い舌が濡れた唇を舐めとった。
そのまま--
拒否する暇も心の準備も与えぬまま、彼女は俺の上で薄い部屋着を脱ぎ捨てた--
何も出来ないまま……
重なってくる白い裸体の体温を感じながら……
俺は、初めての夜に堕ちた--