第10話 誰もいない店で
冷え込む朝の空気の冷たさに目を覚まして、体を布団から起こした。体から離れていく感触が柔らかくて驚いた。
…そっか、家ができたのか。
『杜の隠れ家』での初めての一夜は、深い眠りからの目覚めと共に終わった。その後に待っていた目覚めは記憶を失ってから今日までで一番気持ちのいい朝だった。
部屋を出て廊下に出る。まだ外は深い藍色に染め塗られ、寝坊助の太陽の目覚めの気配だけを覗かせていた。
まだ寝てるかもしれない同居人を起こさないように静かに階段の踏み板を踏む。軋む階段は建物の歴史を感じさせた。
裏口から外に出た。半覚醒状態だった脳と体に突き刺さる外の冷気は頭の中の靄を一気に吹き飛ばす。すっかり目の覚めた俺は大きな伸びをひとつ。
裏口からは小嶽山の山影がよく見えた。冬の冷たい澄んだ空気の中で朝日を待つ山が雄大に佇んでいた。
裏口の周りには雀が沢山集まってる。水の溜まった灰皿スタンドを止まり木に、餌をせがむように鳴いていた。
起きてしばらく、時刻は朝の7時になったが、同居人が起きてくる気配はない。今日は朝から店を開けると言っていのだけど…
自室に戻ってテレビをつけた。冷蔵庫から拝借したミネラルウォーターを飲みながら朝のニュースを観る。
…あ、この人知ってる。
朝の顔のお天気キャスターの顔になんだか引っかかりのようなものを感じた。昔見た気がする。多分昔からテレビに出てたんだろう。もしかしたら少しずつ記憶が戻ってきてるのかもしれない。昨日からそんな兆候がある。
天気予報を聞き流しながら俺は白鳥から借りたパソコンを再び覗く。
昨日の検索履歴から画像検索をかけてみた。ダメ元だったがやはり母さんの写真なんて出てこなかった。
今週はずっと晴れるらしい……
8時半を回って一度白鳥の部屋をノックしてみた。返事はない。朝は弱いのかもしれない。
「…店は何時に開ければいいんだ。」
と思ったが『杜の隠れ家』は起きてから寝るまでだった。店主が起きないならまだ開かないってことだ。
腹が減ったので朝食を用意した。白鳥がいつ起きて来るのか分からないから、とりあえず自分の分だけ。
大きな冷蔵庫の扉を開く。中を覗いたら中身はビールやらワインやら焼酎やらウイスキーやら……
「…酒ばっかじゃん。結構飲むんだ……」
一応食材もそれなりに入ってたが、丁寧に分けられて日付が書かれてた。量から見て店に出す料理用だと思うので手はつけない。
それ以外だと食パンくらいしか無かった。一枚取り出してついでに牛乳とメープルシロップも取り出した。
ダイニングキッチンでひとり朝食。食パンを牛乳で流し込みながら廊下の固定電話の横にあった電話帳をひいた。
「…市役所市役所……これか。」
朝食を胃に流し込んだ俺はそのまま固定電話の受話器を取った。市役所の番号にかける指が若干震えてた。
母さんの遺骨を引き取ろうと思った。
身寄りのない遺体は自治体が引き取って火葬してくれると聞いたことがある。さっきネットで調べたところしばらくは役所で保管され、引き取り手のない場合は無縁墓等に埋葬されるんだとか。
藤城が言うには母さんは親族等はいなかったようだ。いたとしても彼の口ぶりからして引き取りは拒否したんだろう。
唯一の身内は俺だけだがその俺は昏睡状態。多分遺骨はまだ役所に保管されてると思う。大体5年くらいは預かってくれるらしい。
市役所の職員は俺の説明した事情に丁寧に対応してくれた。
案の定遺骨は市役所にあり、引き取りたいと願い出たら諸々の手続きをしてくれた。とりあえず明日、遺骨を引き取り向かうことにした。
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9時半を回った。
店主は部屋から出てくる気配はない。死んでるんじゃないだろうか…
もう一度部屋の扉をノックしても返事はなかった。仕方ないので扉を開ける。
ゆっくり開かれた扉が軋み、錆びた蝶番の歪な音が静かな室内に響き渡る。
薄暗い室内は引かれたカーテンから差し込む朝日だけに照らされて、空気中の塵が陽光にキラキラ輝いてる。
膨らんだベッドの布団の中で部屋の主が夢に沈んでた。頭まで被った布団の中ですやすやとまどろみの奥で目を閉じてる。本当に寝てた。
「店長、店開けないの?」
声をかけながら勢いよく掛け布団をひっぺがす。めくれ上がる布団が俺の手に引っ張られて冷たい空気をかき分けた。
ベッドの上で猫みたいに丸まってる白鳥は一切の衣服を身につけず、産まれたままの姿で眠ってた。丸出しな色々に思わず布団を勢いよくかけ直す。
「…んん?」
「…服っ、風邪引くってば!!」
顔ら辺がかぁっと熱くなっていく。我ながらなんとも初心な反応だ。
眠そうに半開きの目を擦りながらサラリと長い銀髪を垂らし、白鳥はようやく長い眠りから目を覚ます。すっぽんぽんでまだ半覚醒状態の無防備極まる姿はいけない劣情を掻き立てる。
「……ああ、おはようございます。よく眠れましたか?」
「ああ…いや、寝る時全裸?」
「おかげさまで。」
「おかげさま?」
裸体を晒し事を全く気にする素振りも見せず、白鳥は大きく伸びをする。垂れ下がってた髪の毛が引っ張られて危ないところが見えそうだ。
「早く起きて!店開けるんだろ?」
「はいはーい。」
呑気な声を響かせながらのっそのっそとベッドから脱出する白鳥から逃げるように部屋を飛び出した。
「…勘弁してほしい。」
本人が気にしないなら別にいいんだが……やっぱり俺の方が気にする。
お互いほぼ知らない同士でひとつ屋根の下、裸族を貫くのはどういう神経なんだろう?
下で待っていた俺のもとに白鳥が降りてきた。ちゃんと店の制服を着ていて安心。
「…いやぁ、いいものですね。ねぇ?」
「ああ、いいもの見せて貰ったけど……何が?」
「誰かが起こしに来てくれるの、明日からもお願いします。」
「勝手に起きてくれ。」
勝手に用意したトーストをテーブルに置くと、ゆっくり小さな口でもぐもぐ食べ始めた。さっきまであんなだらしない様子だったのに、ひとたび部屋から出たらかっちりした印象の店長だ。
「お店、開けます?今日。」
「開けるって言ったじゃん?色々教えてくれるんじゃないの?」
「じゃあ開けてきてください。」
のんびり朝食を楽しむ白鳥を置いてため息と共に店に出る。テーブルの上にひっくり返された椅子を下ろして店の扉の鍵を開けた。外に看板を置いて『CLOSE』から『OPEN』にひっくり返す。
客が来たらどうすると少しヒヤヒヤしながらカウンターで突っ立ってたら、15分ほどして白鳥が出てきた。時刻は10時を20分ほど回ってた。
「さぁ張り切って働きましょー!」
「……何したらいい?」
「暇なのでコーヒー飲みます?」
全く張り切った様子のない白鳥が棚からいくつかの豆とコーヒーミルを取り出してきた。
「…店の商品勝手に飲んでいいの?」
「だってずっと置いていても悪くなるし……」
そういやこの人、俺が来た時も飲んでた……
「これがブルーマウンテン、これがキリマンジャロ、これがブラジル、これがグアテマラこれがコナ、これがモカ、これがマンデリン これがコスタリカ。」
「ほぅ……」
「まぁ適当に覚えといてください。」
いくつかのガラス製容器をカウンターに並べてから、棚の中のいくつかの豆を取り出す。
「これがうちのオリジナルブレンド。」
「…へぇ。」
白鳥はそのブレンド豆をコーヒーミルを目の前で使ってひいていく。
「お湯。」
「ああ、お湯…」
指さされた先、カウンターの奥まった位置に小さなコンロがあった。
言わるがままお湯を沸かして言われるがままお湯を注いでいく。強く甘い香りが漂いだした途端喫茶店って感じがした。
ああ…俺喫茶店で働いてんだ。
「最初に全体にお湯を注ぐ感じで……少し待ってからゆっくり注いでいください。」
「…こう?」
「ゆっくり。」
「こう?」
「遅すぎ。」
出来上がった『杜の隠れ家』特性ブレンドのコーヒー。初めて淹れたコーヒーを舌に乗せて味わってみる。出来は分からないけど、なんだか特別な味わいだった。
「…美味い?」
「美味いですとも。下手くそが淹れても美味しいのが、うちのオリジナルブレンドです。」
「……下手?やっぱ?」
「うそうそ、上出来です。」
誰もいない店の中で並んでコーヒーを味わった。店内と木の香りとコーヒーの苦味が胸を暖まらせる。
『杜の隠れ家』をゆっくりとした清流のような空気が流れてた。
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「あ〜疲れたぁ。休憩!」
コーヒーを一杯飲んだだけで疲れてしまった店主は、そのまま俺を連れて店の裏側までやって来てた。フィジカルもやしである。
「なんもしてないじゃん。まだ。」
「あなたはね?私はほら、新人の指導で疲れたから。」
店を放ったらかしで煙草休憩に勤しむ二人。足下に群がる雀達を見つめながら並んで紫煙を吹かしてた。
「…白鳥。」
「ん?」
「明日、市役所に行かなきゃ行けないんだけど……」
「二日目でもう休み?」
「すぐ済むから……母さんの遺骨を、引き取りに行きたいんだ…」
「…ふぅん。」
さして興味のなさそうな白鳥の返事が横から返ってくる。確かに二日目でもう休みたいだ、なんだか申し訳ない気持ちになってきた。
「じゃあ車出してあげます。」
「店いいの?」
「明日はお休みにしましょうか。」
やる気があるんだかないんだか……白鳥は簡単に言ってのけてヘラッと笑った。
「…ごめんね。」
「いいですよ。お母さんに一度くらい会っておけばいいですよ。」
「……うん。」
どういう気持ちで言ったんだろう。俺も、どんな気持ちなんだろうか……
母さんに会う--そんなふうに考えてはなかったけど、思い出すこともできない母さんとの初対面だ。
骨になった母さんを前に俺はどんな顔をするんだろう……