7日目 「独壇場時代」の悲劇
今日も今日とて夏休み。今日は寝ずに久保建英のトレーニングマッチを見てしまったので、5時寝13時起きになってしまった。これは僕と同い年にもかかわらずスペインで活躍する久保建英が悪いので反省はしないでおく。明日こそは規則的な生活を送ってみせよう。
ある物事において圧倒的な活躍をしている人について言う時に「〜〜のことについては彼の独壇場だ」のような言葉を使うことがある。この表現はごく一般的に用いられていて、多くの人が理解できるレベルで浸透していると言っていいだろう。ただ、この表現はもとはといえば誤ったものなのである。もともとこのような場面で使われるのは「独擅場」という表現であったが、文字が似ていてなんだかんだ意味が通ってしまう「独壇場」という表現が一定数の人々に定着し、さらに勢力を広げていったために今の状況が存在しているのだ。僕はこの「独壇場時代」において、幸運にもこのことを幼い時に知ることができたので、この表現を使いたい時には決まって「独擅場」を使っていたし、自分は「正しい日本語」を使っているのだ、と悦に浸っていた。しかし、僕はこの時大きな勘違いをしていたのだ。そう、僕が知ることのできる程度の豆知識を世間の大多数が知らないなんてことはありえないのだ。もし誤用だとしても一定数がそれを使う状況が出来上がってしまえば、人々はその誤用を受け入れるし、なんなら表現の一種として受け入れさえもするのだ。僕はそんなことに気づかずに勝手に悦に浸っていたことがある。今日またこのことを調べてみたら、NHKのホームページに「本当は独擅場だけど独壇場を使ってるよ〜」のような記述があり、そのページの更新日時は2003年7月1日であった。僕が生まれたのが2002年であるから、僕が生きているほとんどの時間で「独壇場問題」は解決されていたのだ。
このことを振り返って、なにより僕が心に留めておきたいことは、「正しい日本語」というものは存在しないということだ。言葉というものは使っていくうちに変わっていくし、僕たちもその変化に対応しながら生きているのに「完全に固められた日本語」というものを信じてしまってはいけないよ僕は思う。最近では「ら抜き言葉」が一番目立っているように思えるが、もしかしたら数百年後には完全に誤用ではなくなっているかもしれない。今という時間の中で今の文法事項を気にすることはもちろん大事であるが、凝り固まった像に囚われる続けることはあまり意味のないことのように思える。
カッコつけてるけど、ただの過去の赤っ恥話程度に聞いてくれると嬉しいかもしれません。