最終話.夏を待つ季節
幸矩と茜は錦糸町で地下鉄に乗り換えた。混んだ半蔵門線の中で二人の距離は自然と近くなる。お互いのクラスの様子、生協など大学の構内の設備、そして週末に見に行く映画の話をした後、幸矩は唐突に話題を変えた。
「あのね、俺、また野球をやろうと思うんだよね」
野球部を引退してから、幸矩は受験勉強に集中していた。茜の助けもあり、幸矩はなんとか茜と同じ大学に潜り込む事ができた。そして、入学したばかりの二人は連れ添って通学している。
夏の甲子園の直後にはいろいろなことがあった。心無いことを面と向かって幸矩に言う人もいたし、杉原はじめ敵チームでも幸矩のことを慮ってくれた人もいる。ネットでは過激な意見が多かったが、野球を生業とする人たちは概ねアピールプレーを責めたりはしなかった。またメジャーリーグの選手たちから幸矩にいくつかの温かいメッセージが届いたことには驚いた。
茜が幸矩を見つめる。
「うん、それがいいと思うよ。野球部の人たちも、いつ来るのかなー、って待ってると思う」
幸矩にはそれほどの自信はない。
「厄介者が来たと思う人もいるだろうけどね。そもそも俺のこと知ってるのかな。」
みんな知ってるよ。そうかな。
「時間が取れなくなるけど、ゴメンね」
合格が決まってから二人はいろんなところに出かけた。買い物とか、映画とか。プロ野球を見に行ったこともあるし、まだ泳げないけど海にも行った。
茜が微笑む。
「いいよ。私、野球やってる幸矩かっこいいと思うよ。ちゃんと応援に行くからね」
そう言って顔を少し赤くする。
「でもうちの野球部は、全然勝てないと思うよ。敵はどこのチームも強いのにウチだけが弱々だからね」
「だから幸矩の力が必要なんじゃないかな。甲子園で優勝旗を受け取った人ってそうはいないんじやない?」
高校野球の歴史の中で、あれだけ盛り上がらない優勝はないだろう。幸矩はそう思ったが口には出さなかった。
野球は続けると決めた。受験が終わってからも決断を先延ばしにしていた事が、茜に話したことで確定した。だが、幸矩にはもう一つなんとかしたいことがある。それは目の前の魅力的な女の子との関係を、次のステップに進めることだ。
実は、幸矩が思うに彼の今後の人生にとって、大きな意味を持つかもしれないイベントが先日あった。一昨日の入学式の前に、幸矩は茜と待ち合わせを行ったのだ。双方が両親連れであることを知った上でのことだ。
おめでたい場でのことなので、どちらの両親もにこやかに挨拶を交わしていたが、その内心にはいろんなことが渦巻いていたのではないかと思う。入学式の間、幸矩と茜が新入生の席にいる間も、双方の親同士は一緒に保護者席にいたようで、式典が終わってからも、双方の親を引き連れた状態で昼食を取った。昼食の場で幸矩と茜は互いの両親の場で相手のことをほめちぎった。
「茜さんのおかげで、僕が今この場にいることができると言っても過言はありません」
「幸矩君は強いだけじゃなくて、やさしいんですよ。細かな気遣いにいつも助けられています」
晴れ着を着た若い男女と、やはりフォーマルに決めた双方の両親。お店や周囲の人がどのように見ていたのかを想像して幸矩は楽しくなる。茜が何を考えていたのか幸矩にはわからないが、少なくとも抵抗は感じていなかったように思える。うまい具合に二人して外堀を埋める共同作業ができたのではないか、と妄想してしまう。
付き合い始めてまだ1年に満たないが、こうして大学に入って数日で本人だけでなくその家族も巻き込むことに成功した。さあ、さらなる高みへ一緒に進まないか?
「あのね」
幸矩の呼びかけに茜が笑顔を向けてくれる。
「えっと、茜はサークルとかどうするの?」
幸矩は内心をおくびにも出さず、まずは無難な話題で会話を続けた。
「私はね、応援団に入ろうかと考えてるの」
たった今、幸矩が野球部に入ると聞いた時に決めたんだよ。そう言う茜を見て、幸矩は少し自分が恥ずかしくなった。でも応援団って野球部以上に忙しいよね。応援するべき部活、サークルも? が大学には数多くあるだろう。練習を考えると週末はもちろん平日も忙しくて会えない時間が増えるのではないかと思う。だが、自分を応援するために応援団に入ると言う茜に、彼女が忙しくなるのは嫌だからヤメろ、そう言えるほど幸矩は恥知らずではなかった。
「ありがと。でも応援団も忙しいだろうから、会えるときはなるだけ一緒にいたいな」
幸矩はうまく動揺を抑える事ができた。そして茜と二人、手をつないで渋谷駅を降りた。
完
ありがとうございました。




