14.失われた勝利
中立な観客が見たら、決勝に相応しい好ゲームなのかもしれない。賢静と聖望館は互いに2点ずつ取り合って延長に入った。どちらのチームにとっても今大会初めての延長戦。
「タイブレークは13回からだっけ?」
「おい! これ決勝だぞ。タイブレークなんかねえよ」
「え?」
「いまさら何言ってるんだ?」
ベンチそんな間の抜けた会話が交わされた直後、白球が見事なアーチを描いてバックスクリーンに飛び込んだ。幸矩達もベンチで手を叩いて大はしゃぎした。10回表、主砲ハジメのツーランホームラン。後続はあっさり倒れるが、これで4-2、深紅の大優勝旗が幸矩の脳裏にちらつく。
そして幸矩達はベンチを飛び出して、最後の守備へとつく。目指すは優勝、そしてそれは目前に思えた。もちろん全国の球児が憧れ、ただ一校だけがつかめる優勝旗はそれほど甘くない。
10回裏、聖望館の先頭バッターは9番、ただし7回に代打で出てきた好打者だ。この何があっても出したくない先頭バッターを、賢静は内野安打で塁に出してしまう。ただのサードゴロのはずがイレギュラーして大きく跳ねたのだ。
続くトップバッターはショートライナーでアウト。桜井がよく飛びついたが1塁には投げられなかった。続く2番バッターの当たりはセンター前、打球にコーイチローが飛び込んだ。落下間際のボールをすくい取りツーアウト。ランナーも慌てて1塁に戻った。
たった1球で状況が大きく変わる。それが野球だ。これでツーアウト1塁。あと一人だ、しかし打順はここからクリーンナップに入る、3番、4番、5番。全員が一発を量産しているパケモノどもだ。
高らかになるトランペット。選手を応援する声。両校の応援が混じる、最終局面独特の雰囲気が甲子園に満ちる。日差しが選手たちに照り付ける。
まずは3番、この夏も評判の怪物一年生、高桝。プレーに雑さと丁寧さが奇妙に同化している選手で、この状況でもふてぶてしい笑みをうかべているのはたいしたものだ。初球のストライクを悠然と見逃す。幸矩から見てもいい球だった2球目のアウトローをこともなげに右中間へ飛ばす。
幸矩は中継のためのポジションに走り、ランナーの様子を伺う。強肩のライト麟が一気にバックホーム。まっすぐホームに向かっているし、2塁は間に合わない。幸矩はカットせずスルーする。完璧なバックホームを見たからか、ランナーは途中で3塁に戻った。ツーアウト2、3塁。打順は杉原、化物達の王様。逆転のランナーになるが歩かせるしかないだろう。
ベンチから球審に伝令が走る。監督も歩かせるしかないと思ったようだ。今年から始まった申告四球で杉原は1塁へ歩く。10回裏、ツーアウト満塁、点差は2点のリード、そして打順は今日に限ってはノーヒットの5番。どんな結果であれ、終わりはもうすぐに訪れる。お互いに相手を追い詰めたぎりぎりの状態が続く。
「頼むぞバック、赤倉、打たせろ打たせろ」
幸矩の声は応援と、最終版の雰囲気に邪魔されてマウンドまでも届いていないだろう。
初球アウトローのストレート、ボール。少しでも届くように必死で声援を送る。
「ナイスピッチング、球走ってるぞ」
2球目も外角、今度は縦に落ちるカーブ。力強いスイングと衝突した白球が、快音とともに青空に吸い込まれていった。高く高くフライが上がる。でもこれは高いだけじゃない。これは届いてしまう。幸矩にはそれがわかった。
もうできることはほとんどない。うつむかないこと、そしてみんなを見ること。レフトのヒロシがフェンス際でボールを待ち構える。ショートの桜井が中継のために走る。1塁ランナーの杉原が幸矩に目もくれず走り抜ける。ハジメが3塁ベースのそばで打球を見守り、その横を2塁ランナーが駆け抜ける。センターのコーイチローがレフトに向かって全力疾走する。彼らはまだ確信していない。幸矩だけがほんの数秒後の未来を確信していた。
そして、幸矩が落ちてこなければいいのにと願ったボールが、フェンス際に構えるヒロシの少しだけ後ろ、ヒロシの手の届かないフェンスの向こうに落ちた。
広い広い甲子園が歓声で爆発した。バッターランナーが小走りで2塁を踏んで3塁に向かう。真司がホームベースの手前で立ち尽くし、その後ろで次々にホームインするランナーを振り返る余裕もない。その後方に、バックアップに入っていた赤倉がうずくまっているのが視界に入った。
幸矩は自分の心臓が大きく音を立てたのがわかった。時間がない。試合が本当に終わってしまう。
今すぐ行動しなければならない。それなのに怖くて動けない、足がすくむ。野球を始めてから、これ程恐ろしくなったのは初めてだ。
馬鹿め、自分にできることはすべてするんだろうが。
幸矩は自分を叱咤して足を動かし、だれもいないマウンドの脇を通り過ぎる。バッターランナーはすでにホームインし、チームメイトから祝福を受けている。3塁側アルプススタンドはお祭り騒ぎだ。
幸矩には時間がない。
幸矩は重い足を引きずって、聖望館の選手が喜び抱き合っているホームベースへ向かった。歓喜の中心に杉原がいて、こんな時なのにいつもと変わらない控えめな笑みを浮かべている。その杉原が幸矩に気がついてこちらを見る。挨拶をしに来たと思ったのかもしれない。こちらに一歩踏み出し、感情を抑えた幸矩を労るような、勝者だけができる鎮痛な面持ちを幸矩に向けた。それを見て胸が締め付けられるが、幸矩は杉原を止める仕草をしてやり過ごす。そして球審の前で歩みを止めた。杉原がこちらを見ている。もう後には引けない。
「すいません。アピールしたいので、ボールをいただけませんか?」
この大歓声の中でも球審にはちゃんと声が届いたようだ。球審の表情が凍りつく。幸矩の声が聞こえたとは思えないが、それでも何かが起きていることに気が付いたのだろう、控え目な笑みを浮かべていた杉原の表情もまた強ばる。幸矩は球審の震える手から新しいポールを受け取った。
何か自分の足で歩いている気がしないな。
そう思いながら幸矩は3塁ベースへと向かった。杉原が幸矩のあとを着いてくるのがわかった。整列のためにホームに向かって来た3塁塁審が、幸矩達に気が付き3塁ベースに戻る。背中しか見えないが、きっと3塁塁審の表情も固くなっているだろう。幸矩がこんなことをするとは夢にも思ってもいなかっただろうから。
聖望館の選手達が杉原の動きに気がついたのだろうか、後ろから歓喜の声が聞こえなくなった。聖望館の、そしてようやく起き上がった賢静の選手たちの視線を感じる。喜び合う3塁側スタンドの中にも、ちらほらと幸矩たちの不気味な動きに気が付く人が出てきたようだ。
幸矩は3塁ベースを踏み、グラブの中にある球審からもらったばかりのボールを見せて、アピールする。複数のランナーが3塁を通過しているので、自分の見たものをはっきりと伝える必要がある。スタンドの歓声が少しずつざわめきに変わり始め、球場が少しずつ、少しずつ静かになっていくのがわかる。
「2塁ランナーが3塁ベースを空過したとアピールします」
ここまで来るまでに幸矩が何を言い出すのかわかっていなかったのだろうか、3塁塁審は凍りついたまま動かない。アウトでもなくセーフでもなく、今するぺきジェスチャーをしてくれない。杉原の硬い表情は変わらない。
ただジェスチャーで指名される人物の方からこちらに来てくれた。もしかしたら彼だけが、幸矩の行動を予測していたかもしれない。幸矩はボールを見せて先程の言葉を繰り返す。
「2塁ランナーが3塁ベースを空過したとアピールします」
2塁塁審は一拍の呼吸を置いたあと、拳を空に突き上げた。
「アウト!!」
再び絶叫が甲子園を覆った。
やってしまった。あのまま負けておけばよかったのに、取り返しのつかないことをやってしまった。このようなアピールプレイが嫌がられることはわかっている。皆の、選手たちだけでなく、マスコミも、野球関係者も、一般の人たちも嫌がる。こういった、卑怯で、後出しで、告げ口みたいな、だまし討ちのようなプレーは嫌われるのだ。潔さがまるで感じられない。最高潮に盛り上がった試合に水を差した空気の読めないやつ。あの1年生、高桝の将来にどのような影響するかもわからない。
それにもし2塁塁審が確認していなければ、みっともないバッドルーザーとしてもっと惨めな姿をさらしていたに違いない。それなのに自分はやってしまった。そう、俺はみっともなくても勝ちたいのだ。全力で勝ちに行くと誓ったのだから。
二人の審判が小走りで走り出すのがわかった。今の判定について、そして試合がどう終わったのかを4人で協議するのだろう。ただ、それは事実とルールを互いに確認するだけのものだ。審判たちに置いて行かれて、幸矩はその場で立ち尽くした。そしてそこに杉原が近づいてきた。
杉原が来るのに気が付いても、幸矩は怖くてそちらを見ることができなかった。杉原が幸矩のすぐ前でその歩みを止める。場所も考えずに殴られるかもしれない、そして殴られたほうが楽かもしれない。
だが杉原はそのまま幸矩に抱きついてきた。体格の大きな杉原は力も強い。
「花村は正しい!」
密着した状態で杉原が叫ぶ。
「お前はえらい!」
杉原の表情は見えないが、かすれだした叫び声から、杉原が泣いているのがわかった。あの瞬間にもいつもと変わらぬ笑みをたたえていた杉原の嗚咽が聞こえてくる。
「花村が、さっきの、アピールに、ど、どれだけ苦しんだのか…それがボクには、わかる」
杉原のあらゆる感情が混じり合った嗚咽を聞きながら、幸矩の押さえつけていた感情が爆発した。号泣以外に幸矩にできたことは杉原を抱く力を強めることだけだった。審判が球場にアナウンスを始めたが幸矩には、何も聞き取れなかった。
どれだけ時がたったのか、いつのまにかアナウンスが終わって、杉原の声が聞こえる。
「行くか」
そうだ、整列が始まる。杉原の目はまだ赤いが、表情はいつもの微笑に戻っていた。二人で整列に向かう。
「花村のさっきのアピールの勇気は、一生誇りにできると思うよ」
杉原はもういつもの杉原だった。目すら既に赤みが取れている。一方でまだ感情が昂ぶっていた幸矩はありがとな、と返し、なんとか言葉の続きを紡ぎ出すことができた。
「でもさ、こんな状況で自分たちのことより、俺のことを心配できる杉原はさ、俺なんかよりもっともっと素晴らしいヤツだと思わないか?」
それに答えず杉原は幸矩の背中を叩き、幸矩は杉原の背中を叩いた。
「だからさ、杉原。あの1年のケアも頼むよ」
「花村に言われるまでもないよ」
先ほどまで感じなかった太陽の熱が急に戻ってきた。
選手達と審判達が整列して二人が列に並ぶのを待っていた。




