12.眼前の敵
準々決勝までは賢静学園はリードしている時間帯が長かった。しかし準決勝は後手後手に回っている。初回、2回、3回、6回と1点ずつじりじりと失い0―4のまま終盤に入った。7回裏、ヒロシがツーランホームランを打ち2―4、ようやく追撃態勢に入った。しかし下位打線からの8回は凡退。2点差をつけられたままで最終回に入った。劣勢のまま最終回に突入したのは、地方大会から通しても初めてだ。
「ゼッタイ追いつくぞ!」
最終回の攻撃前に円陣を組むのもこの夏初めてのことだ。幸いながら好打順。この回先頭バッターのコーイチローを皆で送り出す。3球目、快音を鳴らしボールが外野に飛ぶ。
「行け!」
ベンチで誰かが叫ぶが幸矩には相手のセンターが追いつくように思えた。それでもボールと相手の選手を注視し続け、センターのグラブに収まるまでを見届けた。ワンアウト。
ベンチの上、3塁側スタンドからのため息が聞こえてくる。だが茜さんなどこの試合から千葉から来てくれた人たちもいる。その人たちに負けた試合だけを見せて千葉に返したくない。気を取り直して桜井に声をかける。
「狙ってけよ。ピッチャー疲れてコントロールも甘くなってるぞ」
先ほどのコーイチローの打席のリプレイのように桜井も3球目をセンターへ返す。ただし今回ボールはセンター前に落ちた。ワンアウトランナー1塁。これで希望が出てきた。ベンチも、そしてスタンドも一転して盛り上がる。ここで4番ハジメ、一発出れば同点に追いつくことができる。
初球、外れてボール、幸矩はそう思ったが判定はストライク。だがハジメは気にしてなさそうで頼もしい。2球目、痛烈な打球が3塁線を破る。歓声沸き起こる3塁側スタンドのそば、あらかじめライン際に寄っていたレフトが素早くボールを拾った。桜井は無理をせず2塁に戻る。ワンアウト1、2塁。これでチャンスが広がった。
吹奏楽が、声援が、球場が逆転の期待にざわめく。ここで5番、7回にツーランを打っているヒロシ。
かっ飛ばせヒロシ。もう一本ぶち込んじまえ。
だが声援むなしく4球目を高く打ち上げてしまいインフィールドフライを宣告される。ショートが内野フライを処理した。ツーアウト。当然ランナーはそれぞれの塁に張り付いたままだ。
そういえば賢静野球部には、インフィールドフライにも関わらずランナーに走れと指示するサインがある。そういった状況で走ることによって野手にプレッシャーをかける作戦である。これまで使ったことはないし、これからも未来永劫使うことはないだろう。
6番の木沢が左打ち用のバッターボックスに入る。幸矩もネクストバッターズサークルに向かう。8回に代打を二人使ってなければ、幸矩まで打席が回ったら代打だったに違いない。
「レッツゴー、ケンセイ」
最終回、2アウト1、2塁。必至の応援に幸矩はスタンドを振り返った。そういえば1年前の準決勝で俺は声援を送る側だったな。あれは千葉県大会の準決勝だったけれど。
「レッツゴー、ケンセイ」
この声援の中には、幸矩の家族も、クラスメイトも、当然茜さんもいるはずだった。この準決勝からは全校生徒が動員されている。賢静学園では初めてのことだ。
反対の1塁側からは、お決まりのあと一人コールが沸き、双方のギャップに違和感を覚える。
5球目、並行カウントから木沢のバットが打ち返したのは力ないセカンドゴロだった。普通にアウトになる事が幸矩にはわかった。ゲームセットだ。
セカンドが前進し、ボールを取って、掴んで、そして掴みそこねたのかボールを落とした。慌ててセカンドがボールを右手で拾い直し、そのまま1塁に投げる。ファーストがボールを掴む。木沢が1塁にヘッドスライディングする。タイミングはほぼ同時!
1塁塁審が手を大きく広げてセーフのジェスチャー。セカンドの送球がそれたように見えたので、ファーストの足がベースから離れたのかもしれない。一度のミスが次のミスを連れてくるのは高校野球のお約束だ。
「たまにはこういうこともあるよね」
幸矩は誰にも聞こえない独り言を言った。試合は幸矩に託された。
「7番、セカンド花村君」
歓声の中アナウンスが聞こえる。高校時代にこのアナウンスを聞くのが最後にならないように祈りを込めて、幸矩はバッターボックスに入る。ペンチからのサインはダミー。好きにしろってことだ。
守備位置は若干前目、2回戦のランニングホームランがなければ、露骨な前進守備が敷かれていたかもしれない。
初球、低い。先程ハジメがストライクを取られたのを思い出したが今回の判定はボール。
今のがこの回の18球目。このピッチャーは初回から一人で投げているから、もう肩で息をしている。幸矩をラストバッターにしようと、懸命のピッチングをしている。大丈夫か? お前はもう、木沢でゲームセットにし損ねたことからもう切り替えられているか?
2球目の変化球、打ったボールが真後ろに飛ぶ、キャッチャーが走っていくが、この当たりだとネットに当たるはずだ。幸矩は打球を見ずに軽く素振りをする。真後ろってことはタイミングは合っているはずだと自分に言い聞かせる。
3球目、高い、ボール。4球目、今度は低い、ボール。カウント3―1。ここで監督が待てのサインを出した。5球目、思いっきりストライクだが幸矩はサイン通り見逃す。これでフルカウントになった。
そして監督がまたサインを出す。このサインは初めて見るサイン。おそらく他のチームにはこんなサインは存在すらしないだろう。さすがギャンブル監督、この土壇場でやってくれるぜ。
わかった、わかりましたよ。
レッツゴーケンセイ!
あと一球、あと一球
双方の応援団が最後の力を振り絞る中、ピッチャーがモーションに入る、ツーアウト、フルベース、フルカウント、ランナーが何も考えずに一斉に走り出す。ここで幸矩はサイン通りにバントの構えをした。
ワンテンポ、いやツーテンポ遅れてファーストとサードがダッシュしてくる。ここで幸矩は絶妙のバントを決めた。ボールが狙い通りサードに転がる。この時点で幸矩は間に合うことを確信しながら1塁へ走った。
ファーストベースの左手前をベースカバーに入ったセカンドが踏んで手を伸ばしている。幸矩は空いている右奥を踏んで1塁を駆け抜ける。ファールグラウンド側へではなくて、フェアグラウンド側に切り込んで前方を見る。
2塁ベースにカバーがいない!
ファーストはこちらに戻ろうとしていて、サードが2塁へ走っている。ピッチャーはホームベースの後方をカバー。外野陣はまだ内野に来ていない。そしてショートは3塁ベースの内側でこちらを見ている。だからこのままではあっさりと2塁に行けてしまう。幸矩は1塁を回って数歩のところで急停止し、後ろを振り返った。これまで数えきれないぐらいベースランニングをしてきたが、実戦でこんなことをするのは初めてだ。
1塁塁審が戸惑いながらセーフのジェスチャーをしている。確信はあったが、それでも最悪の事態を間逃れたのでまずはよし。そして1塁に入ったセカンドは塁審よりももっとうろたえていた。ボールを持った野手が1塁ベース上にいるのだ。それなのに、ほんの少し先に、1塁に戻ろうとも、がら空きの2塁へと逃げようともしないバッターランナーがいる。
「よっつ!」
内野陣の誰かバックホームしろと指示するが遅すぎる。今から投げてもハジメのホームインを阻止できない。セカンドがホームをちらっと見て、また幸矩を見た。目の前の幸矩にタッグすれば、タイミングによってはゲームセット、間に合わなくても延長戦だ。そう思っているに違いない。幸矩は少し笑った。
幸矩はギリギリまで動かない。タッグされそうになってから、後ろに身を躱す。セカンドが駆け寄ろうとするので2塁に逃げる。ランダウンプレーのための人が寄ってくる。
「よっつ!!」
再び悲鳴のような誰か、おそらくはキャッチャーの声がする。つい先ほどピッチャーが投げ始めてから、塁上や塁間で止まったのは幸矩ただ一人。桜井、ハジメ、そして木沢。ランナーは誰一人、ほんの一瞬も止まらずに本塁まで駆け抜けようとしている。幸矩は追ってくるセカンドから全力で逃げる。すでにランダウンプレーの人数が集まりつつあるが、ほんの数秒タッグから逃げるのは簡単だ。
そして逃げ回る幸矩の目に、セカンドベースの手前にいた相手のサードが崩れ落ちるのが見えた。3塁側スタンドからファンファーレが鳴り響く。幸矩は塁間でストップし大きく吠えた。3人の走者一掃のバントヒット。スリーランスクイズのサインを、なんとかアドリブ込みで達成した。サヨナラ勝ちだ。
崩れ落ちる相手ナインの横を、幸矩は仲間たちと合流し整列するために軽く走った。
そしてこれがこの大会、幸矩の最後の安打となり、最後の打点となった。




