01.最後の夏
真夏の千葉マリンスタジアムのスタンドで、花村幸矩は声を絞り出していた。
「レッツゴー、ケンセイ!」
賢静学園高校野球部では、この応援は得点圏にランナーがいる時、あるいは最終回のツーアウト、追い詰められた時に使う。今は追い詰められている方だ。
「レッツゴー、ケンセイ」
使うのは太鼓と肉声だけのシンプルで力強い応援。賢静の野球部員ならこれで皆が奮い立つ。
夏の高校野球、千葉県大会準決勝、9回表、ツーアウトランナーなし、そして2点のビハインド。幸矩はベンチに入れない仲間たちと必死に叫ぶ。
純粋に仲間を応援する気持ちと、口に出せない自分だけの身勝手な思いをこめる。あと2つ勝てば甲子園、甲子園に行ければ自分が追加メンバーに選ばれるかもしれない。
そんな儚い願いは空を切るバットと相手投手のガッツポーズで一瞬にかき消される。
「俺たちの高校野球も終わったな」
隣で応援してた佐吉の声に答えずに、幸矩はトボトボと整列に向かうレギュラー陣の背中を見ていた。
私立賢静学園高校は千葉県船橋市にあるマンモス高校である。普通科、特進科、スポーツ科の3学科があり、クラスの数は7対2対1。特進科のトップクラスは東大や東工大、私立なら早慶に行く。スポーツだとバレーボールと剣道が全国でも指折りの強さを誇っている。野球は激戦区の千葉で鎬をけずり、6年前に春の甲子園に出ている。その時は1回戦で準優勝校に当たってしまった。スポーツで名前を売り、特進科で進学実績を上げ、普通科で授業料を稼ぐビジネスモデルだろう。幸矩はそう思っている。
幸矩が自分の教室に入ると、それに気がついた何人かのクラスメイト達が声をかけてきた。
「昨日は惜しかったね」
「もう少しだったのにな」
幸矩は昨日負けてはいない。試合に出てないから負けることすらできていない。でもそんなことをクラスメイト達には言えない。
「準決勝だから、当たり前だけど相手が強かったよね。応援ありがと」
クラスメイト達が球場のスタンドに来なかったことを幸矩は知っていた。2、3年の特進科の生徒は補講と言う名の授業が夏休みの半分以上を食いつぶしていて、決勝でもなければ野球部の応援に動員されたりはしないのだ。普段仲のいいクラスメイト達が応援に来てくれないのは少し寂しい。
彼らと少し話してから自分の席に向かう途中、今度は北風さんに話しかけられた。
「応援に行かなくてごめんね」
憧れの北風さんに話しかけられて幸矩のテンションが一時的に向上する。
「いやいいよ。みんな塾とか忙しいからね」
「でも惜しかったよ、もうちょっとで甲子園だったんでしょ。それなのにここで引退なのは寂しくなるね」
北風さんは花村幸矩を慰めたのではなくて、野球部を引退するクラスメイトの苦労をねぎらってくれたに過ぎない。それはわかっているが幸矩は言わずにいられなかった。
「北風さん、実はね」
北風さんが首をかしげる。
「俺、野球部を続けることにしたんだ」
えっ?
北風さんと二人だけでこんな長い話をするのは初めてだ。だから彼女が驚いた時にこんな表情をするのを初めて知った。
ああ、びっくりした。そう言って、北風さんは一旦そこで言葉を切り微笑む。幸矩に、幸矩だけに太陽のような笑顔を見せてくれる。
「花村君達はスポーツ科の人に交じって野球部を続けてるでしょ? それだけでもよくやってるって、前から思ってたんだ」
それから心配そうに幸矩に尋ねる。
「野球部を続けるのは……私にはよくわからないけど、これまで以上に大変だと思うの。だから私にできることがあったら言ってね」
北風さんの優しい言葉に、幸矩は勢いよく返事を返す。
「ホントに? とても嬉しいよ」
考えてみると出られない授業や補講も増えるだろう。野球に時間をかけているから仕方がないのだけれど、特進科で成績下位の佐吉より、上位3本の指に入る北風さんのほうが頼りになるに決まっている。
幸矩はいい気分で自分の机にカバンとスポーツバッグを置いて席に着いた。自席からは、サッカー部とラグビーの練習が見える。野球のグランドはここから見えないが、誰かが練習している音が風にのって聞こえる。
昨日自分たちの夏が、夏の大会が終わったのが嘘みたいだった。でも昨日までとは明らかに違う。あのグランドにはもう3年生はいない。今日の午前中は自主練、昼には引退式がある。
一転してセンチメンタルな気分に浸っているところに佐吉がやってきた。昨日別れた時はまだ青い顔をしていたが、一晩で吹っ切れたようだ。
「おーい、なんでユニフォーム持ってきたんだ? 引退式は制服だろ?」
佐吉が幸矩の机の上に置かれたスポーツバッグを軽く持ち上げる。
「それなんだけどさ」
幸矩は一旦言葉を切って佐吉を見て、さっき北風さんにも話したことを伝える。
「あと一年、野球を続けることに決めたんだ」
マジかよ。本気かよ。
佐吉が幾分大げさに言うので幸矩も、そうそう本気だよ、と大げさに返す。それを見た佐吉は顔を近づけて真面目な口調で聞く。
「親はいいって言ってんの?」
賢静学園特進科の生徒は、2年の夏で部活を辞めるのが不文律になっている、文化部では2年の終わりぐらいまで不定期活動する生徒もいるみたいだけど。
「まあ好きにしろ、って言われたよ」
そう答えると、またマジかよ、と佐吉がふざけた口調に戻る。
「もう1年続けたい、って言ってから、好きにしろ、って返ってくるまでホント1分以上沈黙があったんだよね。弟すらなんにも言わないの」
佐吉が笑ってくれた。なお昨日の試合、両親も弟も千葉マリンに来なかった。スタンドで応援しているだけの幸矩を、彼らは見に来ない。
「そっか。ユキは続けるのか。まあユキは続けたらレギュラー取れそうだもんな」
俺にはムリだけど。そう言って幸矩の背中を軽く叩く。野球部を辞める佐吉が、野球部を続ける幸矩を励ましてくれる
「ホームラン、打てたらいいな」
野球選手たるものやっぱりホームラン打ってみたいんだよね、幸矩が1年の時そう言ったのを、佐吉は覚えてくれていたのだ。