リリー視点:名前の呼び捨て
「ああうん、いつも生物の植物実習の最初はあれになっている。まずは植物に興味を持ってもらおう、ってことで。クラリスさんの結果も担当の先生に聞いた」
先生にクラリスの花のことを話したらそんなことを言われた。婚約者さんのことは言えなかったけど。
「先生はクラリスとはあんまり話したことないんですか?」
「あんまりっていうか、終業式に会ったきりだよ」
そうなんだ。担当しないと会わないものなのかな。首をひねっていると先生が手を横に振った。
「言っただろ、緊張するって。クラリスさんは公爵令嬢で一組。本当はあそこのクラスの生物の担当も俺の予定だったんだけど、さすがに殿下のいるクラスは遠慮させてもらったんだ。リリーさんの話を聞く限りでは親しみやすい方だと思うけれど、ちょっと後ろが怖いかな」
「婚約者さんですか?」
即座に言うと先生は一瞬目を丸くし、くすくすと笑う。花について聞いたばかりだったから思わず言ってしまった。失礼だったかな。
「そう言われる人なんだよな。今彼は生物を選択していないけど一年や二年の頃担当してた時は優秀だけれどいつも不機嫌って印象だったな。でも教師にはきちんと敬意を払う人だったよ。まあレイモンドさんも、かな。イシャーウッド公爵は会ったことがないけど、噂だと怖い人らしい。そんな人の娘に何か失礼なことをしてしまったらと思うと、な」
イシャーウッド公爵って本当にどんな人なんだろう。遊びに行った時は会えなかった。一応クラリスが言ったことを伝えてみる。
「クラリスなら大丈夫だと思います。お父さんも不正する人に怖いだけだって言ってましたからハミルトン先生が怖がる必要はないですよ」
ハミルトン先生の瞳が柔らかくなる。
「リリーさんはクラリスさんに大切にされているんだな。良いことだ」
その通りで嬉しいはずなのに、先生に言われると恥ずかしくなるのはなんでだろう。
本当に、クラリスは初めて会った時から私に優しかった。仲良くしてほしいって言ってくれて、このクリップもくれて……。
そういえば。
「あの。クラリスがポケットから自分の部屋に置いてある物を出していたんですけど」
この魔法については聞いていなかった。クラリスに聞けばすぐ答えてくれるがせっかく先生が目の前にいるんだから。先生も合点がいったように頷く。
「ああ。空間魔法か。あれは三学期から始まる、魔法の中では一番難しい部類だな。といってもクラリスさんがしたのは初歩の物の移動だ。自室と繋げるなら難しくない。寮に入らず首都以外から通学している学生がいるだろう? その人達が使っているのが空間魔法だ。あれは学園からの手助けもあるからリリーさんなら今もできると思う」
難しいと聞いて居住まいを正したが安心させる声音に落ち着く。私にもできると言われるのは自信に繋がる。先生は本当に話が上手い。そう言われるとやる気が出てきた。
先生から授業範囲以外での魔法を聞くのは初めてだけどさらに説明してくれる。
「上級になると一度も行ったことのない場所に飛べたりする。マグニフィカ王国は広いから視察とかに使われている。魔力が結構必要だから魔具の力を借りることが多いかな。俺もうちの領に帰る時はそれを使っているよ。自宅なら危なくないから、茶葉とか食べ物とかもそれを使ってもらってるんだ。今ちょっと見せようか?」
「え?」
首を傾げていると先生が空に向かって指を一本出し丸を描くようにする。その空間だけどこかに繋がった。たくさんの色とりどりのお花が見える。庭かな?
「綺麗ですね」
「ありがとう。うちの自慢のお花畑だ。昔から植物に囲まれて育ったんだ」
先生が眩しそうにその場所を見つめる。行ってみたい。先生が生まれ育ったところ。
しばらく見ていると徐々に小さくなって、消えてしまった。
「と……魔具がないと遠いところはそんなに長時間できないや。ごめんな?」
「いいえ。ありがとうございます。あの、物の移動は今でも教えてもらえますか?」
「勉強熱心だな。もちろんいいぞ」
熱心なのは先生のおかげだ。完璧にできたら、馬車の送り迎えもやめてもらおう。そのほうが先生と長く一緒にいられる。頑張ろう。
* * *
馬車の送り迎えをやめてもらい空間魔法で登下校するようになった。養父母もリオンも私の上達ぶりに驚いていた。学園で繋げることができるポイントはいくつかあって、私は庭園近くと教室の近く、それから植物園の近くにも繋がるよう設定した。植物園の近くに準備室があるからだ。
先生は褒めてくれたし、レッスンの時間が長くなることも喜んで受け入れてくれた。先生の授業準備の時間を取ることにはならないかと心配したが
「元々学生からの質問タイムとして取っている時間帯だ。言っただろ、遠慮することはないって。いつでもどうぞ」
そう言ってくれるので甘えよう。クラリスからも
「安全面を考えても、素人の私より教師の資格を持つハミルトン先生に教わったほうが上達が早いと思うわ。もちろん何かあったら遠慮せず私に聞いてね」
そういえば、私は魔法を暴発したことがきっかけで実家で一人だったのに、二人に教わる時には好奇心が先で暴発のことなんて頭になかった。二人が教えるのが上手だからだと思う。
紅茶のことも、やはりハミルトン先生には負けてしまうが二杯目からは私が淹れる、ということになった。おかわりするぐらい私って先生と一緒にいるんだ。
今日も頑張ろう。
と、準備室の扉が開いていた。ノックをする前に声が聞こえる。他の学生が質問に来ているのかな。私は先生を独り占めしすぎかも、と心配し少し覗いてみる。
「ね、いいでしょ?」
「うちの植物は貴女の動物の餌のためのものじゃないぞ」
「分かってるわよ。でも少しくらい融通利かせてよ。持ちつ持たれつで行きましょ」
「どこが双方向なんだ。一度辞書で調べてみてくれ」
ハミルトン先生と一緒にいたのは学生じゃなかった。ナタリー先生だ。ハミルトン先生に向かって両手を合わせて何かお願いをしている。
……あれ。先生、敬語じゃない。
「えー、面倒ね」
「教師が何を言っているんだ」
「大丈夫、調べなくても頭の中に入っているって意味よ」
「じゃあ正しく使ってくれ……って、こんなこと話してる場合じゃなくて」
「あ、そうね。えーと何だったかしら?」
ナタリー先生が人差し指を顎に置き小首を傾げる。ハミルトン先生が小さな溜め息をついた。
「嘘だろ。お願いしに来ているの貴女のほうだよな? 動物の餌の話」
「そうそう。お願いね!」
「ナタリー……。とにかく、俺一人では決められない。相談してみるから」
「ありがとう! いい結果だけ待ってるわね!」
「はいはい、最善を尽くすよ」
嬉しそうに手を振るとナタリー先生は扉に向かう。何故か扉の外に隠れてしまった。ナタリー先生は私とは別の方向に歩いて行く。どうしよう、と迷ったが扉は完全に閉まっていなくて、また中を覗き込んだ。
「まったく……ん? リリーさん? どうぞ」
「あ……」
先生に気付かれる。手招きされたので入った。そのまま入り口で立っている私を不思議そうに見つめる。
「どうした? …………あ。もしかしてさっきの聞かれてた? お見苦しいところを……」
「い、いえ。……先生って、ナタリー先生にも敬語で話さないんですね」
それと、名前も呼び捨てだった。私の心の混乱には気付かず先生は平静で、こくりと頷く。
「ああ。彼女は同期だし、着任する前の人なら知ってる。教師間も身分関係なく敬語なしが認められているから、彼女は伯爵令嬢だけどなんとなくこうなってるかな」
私だけじゃなかったんだ……。
でもそうか。当然だ。学生なら私だけって意味だったんだ。それでも嬉しいけど、やっぱり先生との間に壁を感じてしまう。
同期、なんだ。
私と同じ、伯爵令嬢。
俯いていると先生が心配そうに顔を見てきた。
「リリーさん? 大丈夫か? 体調が悪いなら今日は無理せず帰ったほうがいいぞ」
首を横に振る。それはいや。
「だ、大丈夫です。あの、今日はこれについてお聞きしたくて……」
いつもの奥の席に座りに行く。先生もイスを移動させてくれた。
魔法の練習をして、紅茶を淹れていた時。ハミルトン先生は頬杖をついて私をじっと見つめながら言った。
「リリーさんは彼女みたいな積極的なタイプは苦手か? 今日はいつもより気もそぞろな気がする。放課後になる前はそんなことはなかったから。うちのクラスの動物担当は彼女だから初めてじゃないし」
「え? い、いえ。……先生はどうですか?」
慌てて首を横に振った。ナタリー先生のことは嫌いじゃない。むしろ好きだ。彼女の動物学の授業も非常に面白く、実習が多めで楽しい。なのにもやもやとする。
「俺? さっきも言ったけど同期だから何とも。彼女はああいうお調子者だけど、動物への愛情と動物学の研究に熱心なところは尊敬している。でも俺は…………いや、何でもない」
気まずように眉を寄せ視線が逸らされる。一体何だろう。先生の視線が少し怯えたように私に向けられる。
「……リリーさんはペット飼ってないよな?」
「はい、飼ってません。先生は?」
「まさか。俺は飼うつもりないよ」
少々いやそうに手を振られた。動物、嫌いなのかな? 植物にいたずらされるから?




