リリー視点:敬語が取れる
あるお昼。クラリス達と共にして、チャイムが鳴りそうなので気持ち急いで教室に戻ろうとした時。後ろからハミルトン先生に呼びかけられた。振り返ると先生は自身の横の髪を指す。
「リリーさん、葉っぱがついていますよ。お昼は庭園にいたんですね」
「え?」
慌てて取った。寝転がったりはしなかったが座っていた後ろに植え込みがあったのでそこからついたかもしれない。それにしても、葉っぱだけなら庭園以外にも木が生えている場所があるのに先生はよく分かったなと思う。庭園が好きなことは話したが、私は庭園以外にも行っている。
クラリスがいてくれるなら人が多い場所もだんだん平気になってきた。そもそも彼女の近付きがたい高貴なオーラのおかげであまり人が寄ってこないで済んでいる。クラリスは気付いていないのか、気付いていても気にしていないのかどちらだろう。後者の時もあるのだろうが前者が多く感じる。
先生は私から葉っぱを受け取るように手を差し出してきたのでその手に乗せた。
「この葉は庭園にだけある種類なんです。百合の髪飾りに合っていましたからあのままでも良かったかもしれませんね」
「い、いやです」
「年頃の女性はそうでしょうね。失礼しました」
先生は謝るが彼の言い方と表情であまり失礼な感じはしない。先生の人当たりの良さは見習いたいと思う。葉だけで種類が分かるなんてすごいなあ。
「ハミルトン先生」
と、突然呼ばれた声に先生が振り返る。私も見てみれば同じ生物担当の女性教師がいた。ナタリー先生。彼女は動物学の人だ。ハミルトン先生と同じくらいの年齢で、スタイルが良くてとても美人。それなのに性格はさっぱりしていて気さくなので学生からも人気がある。
「はい。……ではまた。何でしょうか?」
私に小さな声で挨拶すると遠くへ行ってしまった。
「…………」
大人の二人。ハミルトン先生にとって私は子どもで、ただ学生の一人であって、それだけの存在だ。いくらレッスンを受けていても勘違いしてはいけない。次の授業を担当する先生に名前を呼ばれて、私はその二人から視線を外して教室に入るしかなかった。
* * *
放課後準備室の扉をノックしたが返事がない。呼びかけてもしーんとしている。今日ここに来ることは伝えていたはずだけど……ドアノブを回してみれば開いた。廊下で立っているのもなんなので中で待たせてもらおうかな、と部屋に入る。
「失礼します」
案の定先生はいなかった。ただ先生の机の上に何か植物が置かれていた。小さい紫色の綺麗な花。えーと、確かスミレだったかな。近くで見ようと近付こうとして、花がぴくりと動いた気がして立ち止まった。見間違いか、と思ったのに花の動きがどんどん大きくなる。な、何?
「リリーさん、そこから離れて!」
叫ぶ声と同時に花が大きくなってこちらに向かって突進してきた。びっくりして動けない私をおいて先生が魔法で間に白い壁を作る。そのまま白い壁が透明な箱に変化し、植物を覆ってしまった。植物が元の大きさに戻る。
な、何だったの。
「大丈夫か!? 怪我は?」
後ろから先生が私の顔を覗き込むように見てくる。こくこくと頷けばほっと息をつき箱に視線を移す。
「……ああ、良かった。これはムシトリスミレだ。スミレに似ていることから名前が付けられたけど、食肉植物なんだ。特にこの子は成長途中で反抗期だから暴走しちゃって、授業前に保護していたんだけど……悪い、箱がいつの間にか外れていたらしい。貴女が来ることは知っていたのにこの子を置いて職員室に行っていた俺のミスだ」
そこまで言って振り返り、呆然とする私の顔を見てあ、と口を手で覆った。
「……すみません。ついいつもの口調が。貴女に怪我がなくて何よりです」
しまった、と小さく呟いて私から目を逸らしている。
「……先生って、普段から敬語を使っているわけじゃないんですか?」
「え、ええ」
気まずそうにぽり、と頬を掻く。
「法律はありますが、学生といっても私より上位の貴族ばかりですから。最初から敬語のほうが何かと問題が起きなくて便利なんですよ」
特に今年は殿下もいますから、と言いながら苦笑する。
「リリーさんも今は伯爵家なんですから、怒ってもいいですよ?」
「い、いえ」
クラリスに言われたことを思い出す。先生の敬語はいやだと思ったことがない。でも。
「私はそちらのほうがいいです」
「……え?」
「敬語じゃないほうがいいです。私は元々平民ですから」
先生は目をぱちくりとさせている。
「教師の方からは普通に話してもらえたほうが私としては嬉しいです。放課後だけでも。いけませんか?」
先生が普段から敬語じゃないならなおさらだ。いやなことはいやだと言おう。私にしては先生の目をしっかりと見つめて言えたと思う。
ハミルトン先生は少しだけ迷うように視線を彷徨わせていたが、ふう、と肩の力を抜くように息を吐いた。
「…………いや。助かる。正直自分より上の身分の相手って緊張するんだ。年下で学生で法律で決められている、と言われてもどうしてもな。着任した当初校長先生からもらったアドバイスだったんだ」
箱を撫でる。この子、と言っていたし先生は本当に植物が好きなのだろう。勝手に入ったことを詫びれば謝ることではないと首を横に振ってくれた。ならばとムシトリスミレについて聞くと詳しく教えてくれる。
「三年生の選択科目で受ける授業だ。食虫くらいの小さなものもあるけど、この子達は人間くらいの大きさの動物も食べられるほど大きくなるんだ。食べられるっていうだけで食べさせる必要はない。そもそも粘着式だから積極的に食べに行くわけじゃない。本来は大人しいんだけど初めて会う人間に興奮してしまったんだろうな。この子特に人見知りだから。ごめんな。ってこら、反省しろ」
先生は箱を撫でているのにスミレが嬉しそうに緩やかに動いている。厳しい顔をしたもののあの植物は先生が好きなのかご機嫌に見える。反抗期には見えないけどな……先生に構ってもらいたいから、とか? 魔法植物は種類によっては意思があって動くと授業で聞いていたけど、実際見るとなるとびっくりだ。
私は何も動けなかった。テストでいい成績を取っていてもこれじゃ全然ダメだな。落ち込んでいると
「そういう授業はまだだから当たり前だよ。魔術師になるつもりがないならいいけど、リリーさんが魔法を極めたいと思っているならこれからの授業を受ければきっと動けるようになると思う」
先生の安心させてくれる笑顔は変わらない。頑張りますと頷いた。
レッスンが終わりの時間を迎え退出しなければならない頃になると先生は少しだけ口角を上げて私を見つめた。
「今日はありがとう。俺が敬語を使わないのはリリーさんだけだから、内緒にしてくれると嬉しい」
「は、はい」
私だけ。その言葉に照れてしまう。私が平民だと言ったから緊張しなくて済んだのかもしれないけど、嬉しい。先生は貴族エリアの学生を教えているから私一人だけ平民で良かった、なんて思ってしまった。
敬語を取ると先生がフランクに話してくれるようになった気がする。私も話しやすくなった。
けれどさん付けなのは変わらない。
「呼び捨てはさすがに……貴女はもう伯爵令嬢だから、男爵家の俺のことは気にしないで。年下でも学生でも貴女の方が身分は上だ」
年齢よりも身分というところはよく分からない。私は養子で元平民だからなおさらだ。でも先生を困らせたくはないので素直に頷いておいた。