番外編③:お嬢様とレイモンド様(オーウェン視点)
さて、旦那様のあれは冗談だろうが一人娘のお嬢様、クラリス様はまったくわがままには育たなかった。ただし厄介な男に早々目を付けられた。
お嬢様の傍にはいつも旦那様の親友の子どもであるレイモンド様がいた。どうやら他を牽制してまでお嬢様を独り占めしているらしい。こちらの使用人にも何人かに対して嫉妬していた。
彼女が生まれる前からの使用人には比較的寛容だ。私は男だが年齢差があるし、彼も私の紅茶の腕を買ってくれているので出てきても敵意は向けられなかった。
「ありがとう、オーウェン」
対してお嬢様は私の紅茶しかほぼ飲んでいないためいつも美味しいと笑顔だ。たまに違う者が淹れると
「今日は茶葉が違うの?」
と質問してくるので味の違いは分かっているようだがそれを否定しても頭にはてなマークを浮かべるだけ。しかし彼女はそれでいいと思う。美味しそうに完食するだけで使用人としては嬉しいものだ。彼女は感謝の言葉を決して忘れないし、いつもにこやかな笑顔を向けてくれた。いつか分かった時にはまた別の言葉をくれるだろう。
「僕以外と話さないで。外出する時は僕を呼んで。護衛は異性だったらあまり近くにいさせたらダメだよ」
彼の重さは少々どころではなかったけれども彼以外と交流しないお嬢様にはまったく分からないようだった。
「うん、分かった」
と素直に頷くだけ。こちらが心配になるほどだったのに旦那様が笑って許しているのでいいのか。
実質彼には束縛と同時に守られてもいて、世俗と関わらず悪意に晒されることがない生活は彼女を幼い頃のまま純粋に育てた。
両親にも彼にも溺愛されて甘やかされ、わがままになったり高飛車になるかと考えたこともあったが穏やかなままだった。むしろわがままなど滅多に言わないしお願いも些細なことだけ。「お母様の誕生日のために内緒で刺繍をしているからあまり部屋に人を入れないでほしい」など却って協力したくなるものばかりだ。そもそもそれは手を合わせて使用人に必死にお願いすることではない。この家族には命令という概念はないようだった。一度言ったことがある。
「命令してくだされば何でも叶えますよ」
お嬢様はきょとんとして次の瞬間には
「命令? 私今まで皆にひどいことしてた?」
と泣きそうな顔で眉を下げた。にこにこしていることが多い彼女のこんな顔は見たことがない。
「まったくしていません」
初めてぎょっとし慌てて弁明した。私が首を横に振って否定するとお嬢様はだんだん笑顔に変わっていく。
「本当? いやだったらそう言ってね」
いやだったら言うべきなのはお嬢様のほうなのだが、この子は本心からレイモンド様を嫌がっていないようだ。
ちなみにこのことは後に旦那様に知られてとても笑われた。
「慌てるオーウェン見たかったなあ。クラリスずるい。さすが私の娘」
この人の前では絶対に慌てないぞと決心した。
それにしてもお嬢様は驚くほど素直だ。国内の貴族全員を覚えるという旦那様の無茶に思える要求もこなし、マナーの勉強も魔法の勉強も一切嫌がることはなかった。
ダンスも上級レベルをすいすいとやってのける。レイモンド様がいる限り発表する機会はないというのに。
その当人は密着が激しいと講師に向かって目くじらを立てていた。とうとう同性にまで嫉妬するようになったか。
ならばと二人で踊ってみることを提案すれば、いつもよりだいぶお嬢様と密着できることに全身を真っ赤にし初歩のステップも間違えてしまっていた。終わると隅のほうでうずくまる。
「最悪だ。クラリスの前でかっこ悪いことをしてしまうなんて。帰ったら猛練習しよう」
お嬢様はまったく気にしていないが言わないでおこう。お嬢様のために精進する姿には好感を持つ。こういうところがあるから旦那様も彼の独占を許しているのだろう。彼はお嬢様に対して非常に一途だ。お嬢様に好かれるための努力を惜しまない。お嬢様がするならと彼も国内の貴族全員を覚えたことには驚いた。
「今度はかっこよく踊ってみせるから」
「レイはいつでもかっこいいわよ? 今もすごく素敵。今日も楽しかった。また私と踊ってね」
案の定最後にはお嬢様に反撃されていた。失敗には笑わなかったのにこれには傍で笑いを堪えている旦那様は実に悪趣味だ。
反抗期とは何だろうというくらい温厚に育った。他人に流されるだけかと思ったらきちんと自分の意見を持っている。幼い頃から重い感情を向けられることが日常だったせいで許容量が広くなったらしい。
怒るという感情は持っているのだろうか。不慣れなメイドが高級な皿を落とした時もまったく怒らず「大丈夫?」と心配そうに見つめる。
「申し訳ありません」
真っ青な顔で謝るメイドににこりと笑いかけ
「お皿なら大丈夫よ、私魔法で元通りに直せるから。それよりも誰か救急箱をお願い」
落とした時に怪我をしたメイドの手を取り自身の両手で包む。
「ごめんなさいね、私ができるのは痛みを和らげることだけなの」
さすがにお嬢様自ら手当てなどさせるわけがない。それなのにお嬢様は不安そうに私を見つめ
「ねえオーウェン、私ってそんなに不器用?」
絆創膏も上手に貼れないくらいの、と言うので首を横に振って否定した。一般的な貴族の令嬢とは言いがたいと思う。外見だけなら正に高嶺の花だ。振る舞いも礼儀作法も完璧である。しかし使用人にも普通に接するし恐らく目の前に平民がいても態度を変えることはないに違いない。純粋すぎて悪意が来たら潰されないかと心配だ。そこは旦那様とこうなった原因のレイモンド様がしっかり守ってくださるだろう。レイモンド様は嬉々として自分に責任があるからずっと傍にいると言いそうだ。正しく箱入り娘である。婚約者になったことはいいことだと思うが、果たしてそういう知識がまったくないのに受け入れる度量だけは大きいお嬢様はどうなるか。旦那様は結婚するまで手を出させないようにしたらしい。彼に合掌である。
「私って魅力ないかしら?」
と呟くお嬢様は鏡をしっかり見るべきだ。自覚して卒業まで自重してもらうのはレイモンド様に任せよう。多分彼にも無理だ。可哀想に。結婚した後お嬢様が大変……にはならないだろう。あの度量の広さだ。健康な男性には非常に気の毒である。
はてさて、いつも紅茶を淹れているのが私だということはいつの間にか気付いていた。
「紅茶を淹れるのがとても上手なのはオーウェンだったのね。いつもありがとう。とても美味しくて、私お茶の時間がさらに楽しみになるわ」
称賛しまくる彼女の隣でさすがにムカつくとレイモンド様が見て来る。彼はスイーツにも妬いているからなおさらだ。
「オーウェン、何か欲しい物はある? 私はどうやったら今までの恩返しができるかしら?」
「恩返しなどいりませんよ。私は貴女のお世話をするのが仕事ですから」
「……? 仕事だったら恩返ししたらダメなの?」
ああ、そうだ。こういう家族だった。
「失礼致しました。お嬢様がこれからも美味しく飲んでくだされば、私にとっては一番の恩返しでございます」
「そんなことでいいの? それ以外にはない? 何かあったら言ってね? 本当にありがとう、オーウェン大好き」
ブチリという音が聞こえた気がする。子どもにしては凄まじい眼力だ。お嬢様、お願いができました。今すぐ向こうを見て彼の怒りを鎮めてください。心の中の願いが叶ったのかお嬢様が後ろを振り返る。
「……? レイ、どうしたの?」
「……クラリス、オーウェンが好きなの?」
「うん。レイもオーウェンが淹れる紅茶好きじゃない? 一緒に飲もう」
「うん」
お嬢様の初めの肯定にぴくりと動いたもののにこりとした笑顔を見て一瞬で鎮まった。彼もまたお嬢様が傍にいれば大丈夫か。実にお似合いだ。