お前が好きだった(ノア王子視点)
リリー・シーウェル。
初めにその名前を見たのは定期試験の時。自分を抜いて一位。そんな人間がいることに若干戸惑ったが、誰か確認しようとはしなかった。もっと練習せねば、と王太子として考えただけだ。
「私は殿下に好きな方ができることを願っていますよ。そうすれば今よりもっと幸せになれると思います」
くだらないことを。両親は確かに両想いだが王族で恋愛結婚ができるのはまれだ。必要なら側室を設けることもある。幸せになどなれるはずがない。だけれどこの言葉は頭の隅にずっと居座っていた。その日のポーラの婚約者について話す表情と、俺に対しその発言をしたクラリスが恐らくレイモンドを想い一瞬だけ現した表情。今なら分かる、あれが恋愛感情なのだろう。俺は気付かぬうちにその表情に憧れていた。その表情を自身に向けてくれる相手が現れることを期待していた。
魔具の授業で初めて見た時は人生初というくらい驚いた。金髪に緑色の瞳、元平民で首席の女性は外見が自分の……王族の特徴にぴったりだったのだ。魔力が高いことからも先祖が同じとか、遠い親戚なのかもしれない。
話してみたいと思った。それなのにああ発言してしまったのは俺の最初の失態だ。しかし俺に対し強気で来た女に自覚するほどに興味が湧いた。もっと話したいと、そう思った。だから花のことや魔具のことや少食のことなど話題に出してみたがどれもこれも嫌がられた。相手の顔色をうかがって話したことなどない、今までの俺の経験ではリリーに嫌がられるだけだと分かっていても彼女を見つければ足がそちらに向いたし、庭園がお気に入りだと知ればそこへ行く回数は多くなった。
……何故、あの時「好き」と伝えてしまったのか。らしくなかった。否定されるばかりの返答に焦れてしまったがいつになるか分からなくてももっと時間をかけるべきだった。彼女を困らせ、さらに彼女に実は相思相愛の人物がいるのだと知ることになった。婚約していないなら、と食い下がったのはまずい対応だった。クラリスを怒らせた。
それからは彼女の姿さえ見えなくなった。
その上魔術師団団長である大伯父上に彼女を妻にすることを反対されてしまった。彼女の相手次第ではできるかもしれないと考えた自分は甘かったようだ。
クラリスを怒らせたということは彼女の婚約者のレイモンドに父親のイシャーウッド公爵、さらにロングハースト公爵。彼らを敵に回したようなもの。おまけに宰相、主治医、騎士団の団長までもに待ったをかけられた。学園でリリーに会えない上に王城に行けば彼らに諫められ、話されることといえば身分が釣り合わないだけでなく相手が望んでいないのに無理をするな、という進言。
よくよく考えればその通りだと自分でも思う。何を取っても諦めるべきなのだろう。彼女の幸せを願うなら自分は引くべきだ。頭の中では分かっている。なのにできなかった。
相手が誰なのか知りたい。彼女に会いたい。話したい。……話したところで嫌われて傷口を広げるだけだと分かっているのに。
それでも魔具の授業で彼女の姿が見られれば嬉しかった。しかし学園で会えるのはその短い時間だけ。
俺は気付くと誕生祭のパーティーに彼女が来るよう招待状を送っていた。……パートナーになりたいとは思っていない。彼女の隣にいる誰かを見て、彼女の幸せな笑顔を見て、そうすれば少しは諦められるかもしれないと思った。
招待状まで出したくせに俺は諦める気だったのだ。情けない。
生物準備室で久しぶりに正面から顔が見られた。幸せを感じたのは一瞬だった。彼女は自分と目が合うなり怖がるように顔を逸らす。パーティーのことを言いたかった。できるならハミルトン先生じゃなく自分に魔法を聞けば、と考えていたことはあったがその場に留まるのもいやになった。ハミルトン先生は相手ではないだろう、彼は教師だ。逃げるようにその場を離れた。こんなこと初めてだ。だからレイモンドを相手にした時反論する気にもなれなかった。
彼女のパートナーはディーンで、それはレイモンドが選んだ相手。自分に相手を悟られたくない、邪魔されたくない、そんな考えが透けて見える。
じゃあ、どうやって諦めろというんだ。
パーティーにいた彼女は美しかった。久しぶりに笑顔が見られた。それだけで幸せを感じた。無意識のうちに彼女のほうへ足を向けていたがレイモンドが目の前に立ちはだかる。
……何故もっと早くこの気持ちに気付かなかったのだろう。何故もっと彼女に優しく接してあげられなかったのだろう。話し相手が大伯父上だったことでその日は俺の誕生日にも関わらず目が合うことすらなかった。レイモンドからも自分がいかに愚かかときつく言われてしまった。
……何も言うことはできない。俺は彼女に会いたいという思いだけで、彼女に迷惑をかけている事実を無視し、そのくせ何も行動に移さなかった。彼女の傍にクラリスがいることで彼女が守られていると知っていたのにクラリスを邪魔扱いした。レイモンドがそれを許すはずがない。彼はああ言ったが婚約者のためなら何でもする男だ。クラリスが大切にするリリーの敵を一掃していたのは彼に違いない。父親には手伝ってもらっただけ。
束縛、軟禁とまで言われていたがそこまでしてきたレイモンドにしてみれば事実ただ突っ立っているだけの俺は愚かに見えるに違いない。
パーティーで、ある程度は分かっていた。自分は敵に回してはいけない男を敵に回したと。いや、敵に回してはいけない女性を怒らせたと。
――王妃教育は卒業後。魔術師は王妃になることは不可能。
法律まで変えられてしまった。諦めろ、と女神様にも告げられた気分だった。
もっと、もっと早く……一年の定期試験の時、彼女を探していれば。悔いても遅い。リリーが俺の傍に来てくれることはもうあり得ない。
どんなに見つめても、リリーの視線が俺に向けられることはなかった。魔具の授業でもそうだ。彼女の笑顔はクラリスだけに向けられていた。
リリーは王妃より魔術師が似合う。パーティーで大伯父上と話している彼女の瞳は輝いていた。遠目からでも彼女の笑顔が見られた。それで満足しなければダメだ。彼女に両想いの相手がいる以上、最初から負け戦だったのだ。
* * *
卒業式。花束の受け取りのために庭園に向かう最中、俺は二人に近付いた。二人に近付くこと自体久しぶりだ。俺が近付かないほうがリリーのためにはいいと思っていた。事実そうだった。
「一言だけいいか」
クラリスが気遣うようにリリーをちらりと見る。彼女は不安気な顔をしたがクラリスに対し頷き、一歩前に出てきてくれた。
「俺はお前が好きだった。――幸せになれ」
「……はい。ありがとう、ございます」
少しだけ。本当に少しだけ、俺に向かって笑ってくれた。その後深々と頭を下げられる。
庭園から離れクラリスとともに立ち去る彼女の後ろ姿を見つめる。最後に少しだけでも俺と目を合わせ、俺に笑ってくれた。…………それでいい。
二年近く見ていたのだ、相手が誰なのか今は知っている。俺には絶対出せない瞳で目で追っていた。気を付けていたのだろうが無意識の表情は何よりも雄弁だ。最初は羨ましいという気持ちが出た。しかし次に出てきたのは敵わない、だ。彼女にあの顔をさせる自信が俺にはなかった。
あんな、心の底から安堵したような、幸せな瞳は。
彼女を王妃にしたとして、苦労ばかりかける未来しか描けない。学園ならまだしもクラリスは公爵令嬢だ、国外への影響力はない。
教師だから、彼なら恋人にならないと除外してしまった。事実恋人ではなかったと思う。好きになったのは彼女が先で、押したのも彼女だろう。それほど愛する相手と結婚できることを祝福すべきだ。
「……さようなら」
「…………ノア殿下」
「ああ。お前にも迷惑をかけたな」
ブラッドリーが誰を好きだったのかも今なら分かる。彼は自分以上に負け戦だった。あのレイモンドが何もしないのは俺の側近だからではない。その必要性を感じないほどクラリスに想われているという彼の自信である。
「フラれてしまったがすっきりした気分だ。何故だろうな。人の感情とは不思議なものだ」
つらいことばかりで、今もつらいというのに。
思わず苦笑がこぼれる。自分でも分かる、俺はこの二年で表情が豊かになったと思う。両親からも周りからもそう言われた。いいこと、だそうだ。……どうだか。
今度人を好きになった時は、もっと違うように話しかけよう。
政略結婚をしたくなくなった、まったくどうしてくれる。