竜胆、其の九
十二月二十六日。竹生は昨日と同じ時刻に起床し、昨日と同じ時間にシャワーを浴びたり朝食をとったりして昨日と同じように川住宅へと赴いていた。もちろん仏壇に手を合わせることを忘れずに行った上で足を運んでいるというのはもはや言うまでもなかっただろう。竹生は昨日は自室に忘れてきてしまった書道道具を本日は忘れることなく携えて川住家の戸を開けた。すると玄関にはいつもならばそこにはないはずの女の人の靴が置いてあった。瞬間竹生は足早に階上へと急ぐ。彼の心臓はびっくりするぐらい高鳴ってやまなかった。
二階の古室の戸を勢い良く開くともうすでに顔は揃っていた。花梨も林檎もまたいつも通りにこの川住書道教室へと足繁く通ってきている。しかしいつもと同じであるはずの見慣れた風景にはいくつかの違いが混じっていた。その違いというのはつまり花梨も林檎も実にしけた面をしていたというのと、彼女達とはまた別の女性が竹生の方を伺っていたということであった。
「おー、竹生?」
その女は竹生を見るなり言った。彼女は一旦は目を丸くする。しかしその様子は至って平然を保っていたとも言うことが出来た。一方の竹生の目にはとても美しい女性が一人だけ見えている。側にいるはずの花梨や林檎が一瞬消えてしまったかのような感覚を持ってしまうくらいに、その女との邂逅は竹生にとっては鮮烈なものだった。しかし竹生と彼女とは何も初めて会ったというのではない。むしろ彼とその女は昔からの顔馴染みであった。彼女は名を川住藍と言う。年は竹生よりも四つ上だった。
「藍……」
竹生はそれだけをぽつりとこぼして後は藍のいる方向を何となく見つめるばかりである。竹生は彼女のその揺るぎない美しさに当てられて言うなればひるんでいた(あるいは面食らっていたというように言い表しても良かったかもしれない)。しばらく会わない間に驚くほどに美しくなっていた藍。竹生が彼女に対して抱いていたやんちゃな兄のようだという印象も今となってはすっかりと消えてなくなり、彼の目前にはただただどうしようもなく美人の、身も心も成熟しきった女という生き物が存在しているだけだった。
「何よ竹生水くさいわね。せっかく久しぶりに会ったっていうのにそれしか言うことないの?もっとこう『……藍。君という人を何年待ち焦がれていたことか。会えて本当に嬉しいよ。さて早速だけど婚約の件についての話をしようか?』ぐらい言ってみたらどうなの? まったくだらしのない男ね。そこを変えて欲しいっていつも言っていたはずなのに、そこだけはずっと昔から変わらないままでいる。それが竹生の悪いところ。……まあ変わらないでいるってこと全部が悪いってわけではないんだろうけど、とりあえず私の前ではもっとユーモアに富んだ話をしなさいよね。ほら、そんな呆けた顔してないで、もっと明るく!」
「竹生。婚約って何よ?」
饒舌に話す藍に口を挟んできたのは花梨だった。しかし花梨は藍に話しかけたわけではなくて、あくまでも竹生に対しての問いを一つ投げただけである。だが彼女はきつい視線を藍に目一杯浴びせ続けてもいて、その形相はまるで鬼のようだと言うことが出来るのだろう。するとそんな花梨に対している藍は竹生の方へと、まるでモデルがランウエーを闊歩するみたいにして近づいていき、そのふくよかな胸とスレンダーな体とを、唐突に彼に押し付けるのをした。彼女は言う。
「婚約っていうのはねお嬢さん、男と女が結婚の約束をするってことなのよ。あ、結婚っていうのはねお嬢さん、男と女とが一緒になって愛し合っていくことを言うの。分かるかなー、いや、やっぱり分からないだろうね。あなたのようなまだおしめも取れていないようなお子様には特にさ。ねえ竹生? 竹生もそう思うでしょう?」
「……私が竹生に聞いたのはそういうことではないのですよ。そこのお姉さんはそんなことさえも理解出来ない方だと見受けられますが、はて、私が年を十四も重ねているというのすらもお忘れでしたでしょうか? であるのならば分からなくても仕方のないことではありますが、私はもうとうの昔にそのおしめとやらからさようならをした身ではありまして。お姉さんはそれも忘れてしまわれたようですが、何というか、とても気の毒でしょうがないです。そうなってしまったのでしたらそうなってしまったと早く教えて下されば良かったですのに。でしたらこちらもそれ相応の態度をとることが出来るというものです。物忘れの激しい老婆のような方に即した対応というものが」
「勘違いをしているようだから言っておくけど、私はあなたが婚約という言葉の意味そのものを尋ねたわけではないことぐらい理解しているの。理解した上で理解出来ていない風を装っているのよ? ようするに私はあなたをからかっているだけ。弄んでいるだけなの。ねえ恥ずかしくなってこない? 私の軽い冗談にむきになってしまっている自分が心底恥ずかしい、馬鹿らしいとは思わないのかしら? そんなはしたない顔を竹生にさらしてしまっているのに何とも思わないようなあなたはやっぱり無神経と言わざるを得ないようね。余裕のない女は嫌われるわよ」
「何とも思っていないわけではないですよ? こんなちんけで不毛な言い争いに付き合っていること自体を大層恥ずかしく馬鹿らしいものであると痛感している次第ではあるのです。ですが私は如何せんあなた様とは違って出来の悪い頭しか持ち合わせていませんから、あなたのしょうもない冗談とやらにもついつい熱くなってしまうようです。自分を律すれば律するほどに頭に血を上らせてしまうということ。これはもはや悪癖と呼ぶにふさわしいとても恥ずべき習性ではあるのでしょう。まあ熱くなっているのは何も私に限ったことではないようですけどね。嗚呼、私が今手鏡をこの手にしかと握り締めていたのならば、あなたのその私以上にひん曲がった顔面をくっきりはっきりと映し出すことが出来ますのに。残念でなりませんわ」
花梨は藍に臆することなく、嫌に丁重な言葉を用いて勇猛果敢に食ってかかるというのをする。互いにぎろりとした視線を激しくぶつけ合いながら対立する二人は、眉をきっとしかめながらもにやにやとした意地汚い笑みを頬に浮かべていた。彼女達は相手をどうやって言い負かしてやろうか、どのようにして辱めてやろうかを半ば楽しみながらに考えている。こんなにもとりとめのないはっきりと言ってしまうのならば生産性の全くないやりとりをこれほどの熱量で展開しているのは二人くらいのものだろう。花梨と藍の会話を藍に腕を抱かれながらに聞いているだけの竹生は、この何ということはない口喧嘩にむしろ大いなる平和を感じずにはいられなかった。
「……ふふ。言うようになったわね。しばらく会わない間に口だけは達者になったというわけか、結構結構! やっぱり人というのは時が経つにつれて知らず知らずのうちに何だかんだで成長していく生き物だということよね。しかしまあ、あのただの馬鹿な悪餓鬼だった花梨がこうも雄弁というか、何というか、口ごたえ出来るくらいにまで育っているとは。何か私少し感動しちゃってるんですけど。そしてそんなことで感慨深くなっている自分に驚きなんですけど」
藍はふいに昔を懐かしんで感傷に浸るのをした。鋭い眼差しを送るだけだった彼女の目がその時は柔らかく温かだった。そんな藍の瞳に意表を突かれる形となった花梨は、今までの勢いを削がれてしまって「えっと」と、次の一言を言い淀んでしまう。二人の間には和解の兆しがちらと顔を覗かせたかに見えた。しかし藍はやはりと言ってしまってもいいのだろう、「でもまあ」と付け足して花梨への言及を再開するのである。
「育ちの遅いところはあるみたいだけどね。ねー、竹生!」
藍はすると細身の体とは不釣り合いの大きな胸を竹生にさらに強く押し付けた。本来ならば形が良くて、しかも張りを十分に兼ね備えているものであったはずだが、ぎゅうと彼に当てられているそれらはいやらしくその形を歪めていて、花梨の目にはその光景だけが嫌に目に付いていた。藍は今度はもはや勝ち誇った笑顔を浮かべながらに続ける。
「花梨もさ、試しに竹生のもう一方の腕に抱き付いてみてよ。大丈夫、遠慮なんて全然しなくて良いと思うよ、竹生は凄く優しい人だから。……どうしたの? ほら、大好きな竹生にくっつくチャンスでしょ? 思う存分甘えちゃって良いんだよ?……あれーどうしたのかなあ。何で渋ってるの? 花梨は竹生のこと昔から好きなんだよねー? 大好きなんだよねー? なのに何でこんなことさえも出来ないでいるのかなあ? おかしいなー、ねえ竹生、おかしいよねー?」
聞かれた竹生は「う、うん?」と空返事をしながらに花梨に目をやった。それも何ということか、花梨の胸の辺りにである。竹生は瞬時に「しまった」と思い目を逸らしはしたが、今自分の腕に当てられている藍の胸と、今ちらりと見てしまった花梨の胸とを頭の中で比べるというのをどうしてもしてしまっていて、彼はその比べた結果を両者に告げるのをしなかったが、彼の浮かべた何とも気まずそうな表情は、胸中に秘めようとしているはずの竹生の思う胸の大きさという点においての優劣をむしろ明確に映し出してしまっており、花梨はそれを見ると無言で俯いて歯をきりきりといわせながらに握り拳をがたがたと震わせてもいて、一言で形容するならば、彼女は今本当に末恐ろしかった。しかしそんな声をかけるのさえ憚られるくらいの状態である花梨に対して何の遠慮もなく不躾に言葉をかけ続ける藍はというと、彼女とは反対に物腰柔らかではあり、その減らず口を除いてはまるで仏のような風をしているとさえ言えるのかもしれなかった。
「うんうん、そうだよね、抱き付けないよね。凄くよく分かるよ花梨のその気持ち。だって好きな人に比べられたくないもんね、女の象徴とでも言うべき部分をさ。自分が劣っているのを竹生に理解して欲しくない。辛い事実を竹生に知られたくない。いやー、良いねえ、可愛いじゃない花梨。まさに純情だねえ、ピュアだねえ。うぶであるとも言えるのかもしれないなあ。……でもね、花梨。現実はそう甘くはないってことなんだよ、きっと。いくら花梨が可愛らしくてもさ、どうしても到達出来ない境地っていうのは確かに存在するんだよ。もちろん花梨はまだ中学生だからさ、成長する余地はまだまだ残されていると言えるかもしれない。でもさ、結局花梨は私のようにはなれないんじゃないかなあとも思うわけよ。だって人には向き不向きというものがあるんだもの。そう、ただそれだけのことなのよ。私は向いていて、花梨は向いていない。それだけのこと。だからね? 全く気にしなくて良いんだよ、花梨。花梨! 元気を出していこう!」
藍は優しげな口調でゆっくりと言った。嫌気が差すほどに同情にまみれたそれらの言葉には嘘やジョークといったものは含まれてはいなかった。つまりそれらは全て藍の本心から出てきたもので、彼女はただ素直に思ったことを口にしているだけに過ぎなかった。そしてそれが花梨にとっては最も辛いことであったのは言うまでもないだろう。致命傷とでも言うべきダメージを受けた花梨は項垂れてしまってぴくりとも動かなくなり、ようやく二人の口論は藍の勝利ということで終わりを迎えたようだった。勝ちを確信する藍は竹生にべったりとひっつき、花梨に見せつけるようにしていちゃいちゃとしている。そうすると花梨はがっくりと膝を折った。まるで世界に終わりが訪れた時のような絶望に満ちた顔をして、彼女はもう立っていることすらもままならないといった有様ではあった。しかしそんな状況の中で花梨に手を差し伸べてくる者が一人あった。戸橋林檎である。
「藍姉は本当に大人げない。中学生を相手にここまでするのは人としてどうかと思う。……血も涙もない薄情者。それは今に始まったことではなく昔からそうだった」
林檎は藍に一石を投じつつ、花梨の小さな手を両手で優しく包んだ。「花梨。まだ負けてはいない。顔を上げて、私の目を見て」
花梨は言われるがままに虚ろな目を林檎に向けた。弱りきった、もう刃向かう意志の残されてはいない実に空虚な目だった。花梨は沈んだ表情で「もう何を言っても無駄だよ。もう無理だ、勝てっこない」とぼそぼそと普段とは違う低い声で言った。そしてすぐに林檎に向けていた目を下方へと逸らす。彼女の目線の先には自分よりも確実に豊かな、年齢のわりには大層大きい方であると言っていい林檎の胸があった。花梨はその胸をちらりと見てまたさらに肩を落とす。「良いよねえ。恵まれているやつらはさ」とか細い声で言い、親身になってくれているはずの林檎にさえふつふつとわき上がってくる嫉みを抑えられずにいる。
「もう話しかけないでくれるかな。林檎に慰められても辛いだけだし。藍姉には嫌み言われるし、竹生には私の胸見られるし。あーあ、もうやんなっちゃった。今日はもう駄目だ、何もする気になれない。いいよ、私の負けで。どうせ私はおっぱい小さくて女として劣っている下等生物ですよーだ。ふん、皆して私のこと馬鹿にして。きっと何て惨めな女なんだろうとか思っちゃってるんでしょ? はいはい良いですよー、どんどん、好きなだけ、思う存分蔑んじゃって下さいねーっと。何せ全部本当のことですからね。決して間違ってはいないのですからね!」
「胸の大きな女が好きだと竹生は言った? 花梨、正気に戻って。竹生はそもそもそんなところに気が向くような人だった?」
自暴自棄になっている花梨に対して問うのは林檎だった。話しかけないでくれと言われたはずの彼女はしかし花梨への問いかけをやめようとはしない。「私達の竹生への気持ちは胸の大きさ如きに左右されるものだった? 竹生への気持ちはそんなこと一つで揺らいでしまうほどやわなものだった?」
林檎は先ほどからずっと握ったままでいる花梨の手を少しだけ強く握り直した。花梨への切実な訴えがどうか彼女の耳へと届くようにと、林檎は柄にでもなく熱くなっている。それは書いている時のクールで落ち着いた彼女の様子とは一線を画すものであり、問いを投げかけられた花梨はというとまずそのことについての驚きを隠し切れずにいた。しかし書道をしている時は冷静沈着である林檎は、それ以外のこととなると案外分かりやすく熱を帯びてしまうたちだったと、彼女は早々に納得してもいた。そしてそんな林檎の姿は花梨の冷え切っている心を温めるための十分な因子と成り得た。すると花梨には突如として笑いが込み上げてきた。それはおそらく、至極どうでもいいただの日常会話に対して、こんなにも懸命に向き合っているのがとてもおかしいことであると、改めて自覚したからであろう。そのありふれたやりとりの当事者となって話をしていた時には気付かなかった馬鹿らしさというかあほらしさというかを、彼女はこの時になって初めて実感していた。そうしたらますます笑えてくる。自分は一体何に躍起になっているのだろう、何に対して噛み付いていたのだろうと、気が付けば花梨は笑いがとまらなくなっていた。
「花梨、もしかして気でもふれた? 私は何も面白いことは言っていないはず。なのに花梨は笑っている。急にどうして?……ねえ花梨?」
突然大笑いし始めた花梨に林檎はむしろ戸惑っていた。今まで気分が落ち込んでいたであろう花梨がいきなり声を張り上げて笑い出したのだから、それもまあ頷けるのかもしれない。林檎は花梨を心配しながら横で彼女を見守っている。そうするとしばらく笑いっぱなしであった花梨はようやく笑うのをやめて息を整えた。
「はー、笑った笑ったあ! いやあ、林檎ごめんね? ちょっと私変だったよね、突拍子もなく一人で盛り上がったりなんかしちゃって。それに一人で勝手に沈んじゃったりもしちゃって。ほら、私って気分で物を考えちゃうところあるじゃない? ちょっとね、藍姉に胸のこと言われた時には流石にくるものがあったよねー。テンション駄々落ち、あー私ってやっぱり駄目だわって悲観的になってみたりもして。かと思えばこうやっていきなり明るくなって林檎を困らせてしまってもいる。本当、面倒くさい女だよね、私。でももう大丈夫! もう大丈夫だからさ、聞かせてよ。私が藍姉にまだ負けていない理由とやらをさ!」
花梨はにかっと林檎に笑みをこぼした。林檎はその顔を見て一安心、「今の花梨、凄く良い顔をしている」と言って彼女をおだてた。花梨はそれを聞くと「そうでしょうそうでしょう!林檎、あなたとは違ってね!」と言って悪戯っぽくにししと笑う。そうすると林檎は「花梨の悪人面は良い目の肥やし」と皮肉った。仲が良くて仲が悪いいつもの二人である。
「あれ? 何か盛り上がってきてるみたいだねー。まあこっちの方がそっちよりもずっと楽しんでるけどね。ねー竹生! 竹生もあんなちびちゃん達よりも私といる方が遥かに楽しいよねー?……何でも言ってね? 私は何でも竹生にしてあげられるんだから。何でも持っている私だからこそね」
藍はそう言って竹生の顔をほっそりとした長い指でいじらしく触った。淫靡な分かりやすい色気というのをあふれんばかりに周囲にふりまいている彼女は、余裕のある大人な表情をして竹生の横顔を艶めかしく見つめている。一方の竹生はというと、間近にある藍のつやつやの肌やぷくりとした唇をちらちらと流し見しつつ、一人でどぎまぎとしていた。藍に迫られて気分が高揚しているというよりかは、朝っぱらから訪れた喧噪に自分はついていけていないだとか、久方ぶりに再会した彼女にいざ対面してみるとやはり緊張を抑えることが出来ずにいるだとかを、軽く混乱している頭で断続的に思ったりしていた。しかし自らの腕にぴったりと当てられている藍の豊かな胸が彼が思考するのをずっと妨害し続けているというのもあり、結局竹生は今自分が一体何を考えていてどういう状況に陥っているのかの整理をつけられずにいたのである。しかしそんな竹生のことなど露知らずと言わんばかりの藍は先ほどからぴったりと彼に寄り添っているし、またその一方で花梨と林檎は何やらこそこそと話をしているしで、今の状態を一言で表すとするならばきっととっちらかっているとするのが合っているのかもしれない。しかしこの収拾のつかない状況を終わりへと導いていくための算段を案外すぐにつけた者らがあった。二人して耳打ちをし合って何かを相談している風であった花梨と林檎はするとすっくと立ち上がり、林檎の方が自らの書道道具の中をごそごそと漁りに行ったかと思えば、一方の花梨はというと藍の方をまっすぐに見据えてとつとつと話をし出したのである。
「……そう、藍姉は何だって持っている。女としての全てと言っても過言ではないほどに何でも持ち合わせているというのは紛れのない事実ではあるの。顔は整い過ぎなくらいに整っているし、髪はつやつやだし肌はぷるぷるだし、目は涼しげでかっこいいし鼻筋はすっと通っていて綺麗だし。腕や足は長くほっそりとしていて憧れるし、ウエストはくびれているのに出るところはしっかりと出ていて良いなあって思うし。首筋とか鎖骨とか女の私から見てもエロくてそそるし、だからきっと男の竹生からするともっと魅力的に見えているはずだし。それに体に限らず身なりだってセンス良いし。つい真似したくなるけど絶対に真似出来ないっていう藍姉らしさみたいなものもちゃんとあって何かやっぱり凄いし。ようするに藍姉は全部が抜群に良いわけで、美しくないところなんか一つもないってことで。そんな藍姉のことを私は一人の女として本当はとても尊敬している。でも、矛盾するようだけど、それは何もスタイルが良いからだとか服装がおしゃれだからだとかが理由ではなくて、私が何より美しいと思っているのは藍姉の飾らない心や人に対する時の姿勢。いつでも気さくで親しみやすい。そんなところがやっぱり大人でそういうところにこそ私は美というのを強く感じる。優しくてぽかぽかしてて、周りは一緒にいるだけで楽しい気分に自然となってしまう。藍姉は言うなれば人に幸福をもたらす才能にあふれているような女性。何というかもう、悪いところが一つも見当たらないよね。まさにパーフェクト。だからこそ藍姉の言った『何でも持っている』という言葉にも凄く納得がいく。それが嘘でも何でもない本当のことなんだっていうのを理解するのも凄く簡単だった。……でもね、そんな持っていないものなんか一つとしてないかのような藍姉にもあったの。すっぽりと欠けて抜け落ちているものが確かにあったのよ」
そこまで話した花梨は側に戻ってきた林檎と目配せをした。そして「これを見て」と言って、林檎が話の間に取り出してきていたあるものを手に取る。そのあるものとは「戸橋林檎」と書かれた一枚の書であった。
「昨日の書のうちの一枚。竹生が書いたものよ。私達は昨日三人で名前を書くということをして過ごしたの。私と林檎と竹生とで送ったその時間はまるで夢のようだった。そう、本当に夢のような時間だったの。……藍姉に欠けているもの。それはつまりは時間。藍姉が大学入学を機にここを離れてからも、私達は今までと何も変わることなく竹生と一緒に過ごしてきた。いや、藍姉がいなくなってからの日々は以前よりも濃密で、私は藍姉がいた頃よりもずっとべったりと竹生に甘えることが出来た。それはもう幸せで、それ以上に幸せなことなんてまるでないように思えて、だから私は正直、藍姉がこのまま帰ってこなければ良いのになと思った。そうすれば藍姉が竹生をたぶらかす心配もなくなるし、そうすれば竹生も藍姉にでれでれしなくなるのになって思ってた。で、そんなように思ってたのは私だけじゃなくて林檎もで、林檎も私と同じように藍姉に帰ってきて欲しくないって思ってたってさ。まあ、林檎は私よりも性格悪いからさ、私なんかよりももっと強くそれを願ってたってことが言えるのかもしれないけど。……とにかく。私達は清々してた。そう感じながら日々を過ごしてきた。竹生と林檎と一緒に、藍姉にふり回されることのない楽しい毎日を確かに送ってきた。それだけは間違いない。そしてそれこそが私達にはあって藍姉には欠けているものの正体。私達だけが持っている大切な宝物。それはつまりは竹生との四年間! 分かった? 分かったらさっさと竹生から離れてよ!」
花梨は言い終わるとびしりと人差し指を藍に向けて突き出した。そして「まったく。口出ししないでいるとすーぐこれだもん。何よ、見せつけてくれちゃって。単純にむかつく。あーむかつく!」とぷんぷんしながらに、今までたまっていたストレスをストレートな言葉を用いて一気に吐き出した。その隣では林檎がじっと藍の方を見据えながらに竹生の書いた「戸橋林檎」を突き付け続けている。二人のひそひそとした相談の全貌がつまびらかになった瞬間であった。……しかし、この花梨と林檎の主張ははっきりと言ってしまうのならばこじつけ以外の何物でもなく、しかもそれは強引に論点をすげ替えて言い放った「だから何だというのか?」というので片付けられてしまう、説得力のまるでないものであったのは否めないだろう。それに仮にこの訴えが藍を少しでも納得させられるものであったとしても、そもそもの話、これはただの些細な口喧嘩であって、それはつまり何を意味するのかというと、この口論の顛末などどうであっても何ら問題にはならないということであり、結局のところやはり藍と花梨とを主にして繰り広げられてきたやりとりというのは、ただのありふれた与太話の域を出ないということであった。だからなのだろう、花梨の方は今特に、まるで打ち放ったはずの鉄砲から弾丸が出てこなかった時のような心境に陥ってしまっていた。しかし、花梨はそれで良かった。話したのが実りないものだったとしても、またそれが滅法弱い反論なのだとしても、花梨は藍に、藍のいない間も竹生と楽しく過ごせていたというのを面と向かって伝えられたことこそが嬉しかったのだ。そのことこそを彼女は他の誰でもない、川住藍という二人の本物の姉のような存在の人に知っておいて欲しかったのだ(もちろん花梨だけではなく林檎だってそう思っていた)。しかし、藍が不在中でも竹生と共に賑やかな毎日を送れてこれたという話の中には、竹生との日々はとても充実していたという意味が込められている一方で、藍と過ごせる時間が少なくなって凄く寂しかったといった感情が込められてもいたのにも触れておくべきなのだろう。花梨と林檎が今よりも幼かった時に面倒を見ていた人でありかまっていたのが藍。花梨と林檎の良き遊び相手であり頼もしい人生の先輩でもある人。いつも飄々としていてのんきでずぼら。もしくは自由人とするのも合っているのかもしれない(事実実家である川住宅を出ていってから今日に至るまで、藍は一度たりとも帰省したり顔を出したりをしないでいた)。まるで大空に浮かぶ雲のような人。それでいて何にも流されることのない強固な自分を持ってもいる人。いつだって彼女は余裕に満ちていて、嫌なことや苦しいことが彼女の身に降りかかったのだとしても、藍はいとも容易くへらへらとしたいつもの笑みを浮かべながらに乗り切ってしまう。そして解決するだけでは飽き足らずに彼女は決まって「もっと楽しまなきゃ」と言った。とにかく楽しむ、とことん楽しむと、藍はいつだって花梨や林檎に父親譲りの豪快な笑顔をふりまいて見せたものだった。そんな藍に二人は心底羨望した。心底憧れ陶酔すらしていた。何て素敵な女性なのだろう、何て魅力的な女性なのだろう、そして何より何て美しい女性なのだろうと、彼女達が藍に対して並々ならぬ気持ちを抱いていたというのは間違いのないことであった。そしてそれは今でも変わらない。変わらずに藍を慕う心というのは花梨の内にも林檎の内にも確実にあって、だからこそ二人は藍へと示したかったのだ。寂しかったよ。でも私達は元気にやっていたよ。また会えて本当に嬉しい。帰ってきてくれてありがとう。……藍に対する思いを、とめどなくあふれてきて仕方のない喜びや侘しさを、二人は竹生の認めた書を藍に見せつけるという形でもって内心では必死に示そうとしていたのである。
「……」
一方の藍はただただ黙りながら花梨の顔を見て、それから林檎の顔を見て、そして最後に肝心の竹生の書を見るのをした。すると依然として言葉を失ったままの彼女は竹生からすっと離れて林檎の方へと行き、提示されている書を林檎の手からぱっと奪い取ったかと思えば、藍はまるで舐めるようして書かれている文字を見つめ始めていた。彼女はその書の隅から隅までを穴が空くほどに見やる。その様子は先ほどとは打って変わっていてどこか鬼気迫るものがあった。しかし一方の花梨と林檎はそんな藍の表情を傍目から見てしめしめと笑い合うのをする。藍に自分達の気持ちが通じた。藍に思いが伝わって、しかもそれで一泡吹かせることにも成功した。二人は藍がそういったように見てとれることが嬉しくてしょうがないと言わんばかりにくすくすと笑うのをやめない。そして、そんな彼女達は同時に、藍の次の行動を今か今かと待っていた。藍は次にどんな言葉を自分達にかけてくるのだろう、どんなような顔を見せてくれるのだろうと、花梨と林檎はうきうきとし、また胸を高鳴らせていた。彼女は自分らにしてやられたと悔しがるのだろうか。いや、藍のことだからきっと、私達の思いに応えて一緒に喜んでくれるに違いない。いや、もしかすると藍は自分達のことをうらやましがるのかもしれない。自分のいない間に三人で目一杯楽しんでいたというのに対して、藍は妬いてしまうのかもしれない。一緒にいれば良かった、一緒にいれば自分ももっと皆と一緒に過ごすことが出来たのにと後悔するのかもしれない。藍がそう思ってくれたのならば何より嬉しい。藍が自分達といられなかった時を悔いれば悔いるほどに嬉しさが込み上げてきてやまない。頭に次々と浮かんでくるそういったことや、胸の内にどんどんとわいて出てくる藍への期待めいたものが、二人の表情をますますと柔らかくしていく。彼女達は幸せで一杯だった。どうしたって幸福というのを感じずにはいられなかったのだ。そしてそんな二人を少し離れたところから見ている竹生にも、どうやらその幸せというのは風邪がうつるみたいにして伝染してしまったらしく、彼もまた花梨や林檎のように、藍の次の言葉なり動作なりをわくわくとしながらに待っていたのである。そんな中で藍はゆっくりと言った。
「何これ?」