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花々の書  作者: 紙屑
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竜胆、其の八

 何とも気まずい空気の中竹生達はそそくさと帰り支度を始めた。先までの和やかで楽しげな時間は風のように過ぎ去ってしまっていて、残るのは少しの物悲しさと寂しさの二つであった。竹生はまず側でだらしなく伸びている水仙に対して「師範。大丈夫ですか? 起きて下さい」と声をかけた。しかし当の水仙はというととても安らかな顔をして眠りこけるのみであり、竹生は先の騒動めいたものは一体何だったのだろうかと一人で思う。水仙を起こすのを断念した竹生は借りていた書道道具の後片付けをする。彼は硯の中にまだたまったままになっている余分な墨を使用した半紙で拭き取ったり、筆を念入りに水洗いしに行ったりした。さらに竹生はそれの水気をいらなくなった半紙で拭ったり、それの毛先を半紙に撫で付けるようにして整えたりもした。綺麗に整ったそれを見ると竹生はいつも充実した気持ちになったが、同時に大好きな書道をひとまず終えなければならないという名残惜しさにも似た感情を抱いたりもした。竹生は使わなかった半紙の残りを林檎に「ありがとう」と言って返した。林檎はそれを無言で受け取って自身の持ち物の中に加える。三人は後片付けを終えるとすぐに帰り支度をし、水仙にケーキや皿といったものの始末を任せた上で川住宅を後にした(施錠は今日は花梨がした。鍵は水仙から預かっているものであり、またそれは三人の間で持ち回られている)。

 竹生が来たのとは反対の方向に花梨と林檎は歩いて帰っていった。彼女達の自宅は竹生の家とは反対側にある。いつもなら別れ間際に「ばいばい」であるとか「じゃあね」であるとかの別れの挨拶を言ってから帰途に就くのだが、今日は誰も何も言わずに立ち去っていった。しかしそれは何も三人が険悪なムードにあるからそうなっているのではないようで、その無言の別れには少なくとも、明日になればまたいつものような間柄にきっと戻っているのだろうという余裕めいた感情が機能してもいた。明日もまた三人は当たり前のように川住宅に赴き、当たり前のように意味のない会話を交わし、そして当たり前のように書道に勤しむことになるといった確信が少なくとも花梨と林檎にはあったからこその沈黙であったということである。鈍い竹生にもそのことが何となくではあるが分かっていたため、何も言わずに別れたことに気を取られてしまったりは別にしなかった。だから竹生は特に気に病むでなく、来た時と同じようにして、自転車で自宅に帰っていった。

 数分で家に着いた竹生は自転車を軒下に止めて玄関へと歩を進めた。玄関のところに備え付けてある郵便受けの中を見て、郵便物が何も届いていないことを確認した彼はポケットから鍵を取り出し、今朝閉めた戸を開錠した上で中へと入った。今し方開けたばかりの戸に鍵をかけ、手にあるそれを下駄箱の上に置いてから着ていたダウンジャケットを脱ぎ、それを側にあるハンガーラックにかけることをした竹生は、靴を脱いでそろそろと家の中へと上がった。そうすると彼はまずは洗面所に赴いて手を洗ったりうがいをしたりした。電気も付けずにいつもの決まり切った手順をまたいつものように終始控えめに熟す竹生の所作は洗練されていて無駄な箇所が一つもなかった。それはちょうど彼の認める書のようだと言えるのかもしれない。彼は言葉を一言も発さずにあらかじめ決められているかのようにして作業に徹するのみだった。よく躾けられていると呼べるのかもしれない。事実竹生は両親からよく躾けに関してのことを言われてきていた。脱いだ靴は整頓しなさい。健康のために手を洗い、うがいをしなさい。無駄な電気を使用しないようにしなさい。全て竹生の父と母から教わったことだった。しかしそれは躾けと呼ぶにはあまりにも些細なことなのかもしれない。親以外の誰かに教わって出来るようになる類いのことなのかもしれなければ、あるいは誰かから教わるでなく自然と身に付けられるようになるものなのかもしれない。しかし確かな事実として竹生はそれらの躾けとも呼べぬ躾けを両親から教わった。だから竹生はその教えというのを頑なに守り続けていたのだった。

 竹生はすると台所へと入って夕食を作り始めた。しかし夕食と言っても何も豪華絢爛な食事であるわけではもちろんなく、竹生は朝と同じようにして白飯と鶏卵一個と徳用味噌汁を用意しているだけであった。ようは竹生は朝と丸っきり同じことを同じように繰り返しているだけなのである。食事は基本朝と夕方にしかとらないことにしているようで、その食事というのは例のメニュー一つしかない。つまり竹生は同じ食事を毎日同じように作って食べているということに他ならず、しかし竹生はそのとても簡素で質素な食に対してただの一つの不満も抱いてはいない。いや、不満がないというよりかは興味がないという言い方をした方が合っているのかもしれない。竹生自身が腹が最低限膨れればそれで良いといったように思っているのもあってか、彼の食事は結局のところこのような具合に落ち着いているのであった。

 手早く夕飯の準備を完了させた彼は例の如く供え物を持って仏壇のところへと向かった。部屋は当然のことではあるが朝よりも暗くひっそりとしていた。朝方には感じ取ることが出来た僅かながらの爽やかさも今はなく、そこは重々しい夜の空気で満ちていた。竹生は仏壇の前に敷かれたままになっている座布団に正座して持ってきた供物をとりあえず側に置くと、今朝のようにして規則正しくはある手順でもって、父母の供養を行った(本来は就寝前に参るべきらしい)。竹生はやはり参る時間やマナーを自らの慣習や都合によって少し変えてしまっていた。しかし竹生はそれをさほど悪いことだとは思っていなかった。彼は彼のバイオリズムを乱されてしまうことこそが嫌いで、彼の習慣がきっちりと機能することこそが好きだった。……供え物を供えた竹生は次にろうそくに火を付けた。暗い一室では煌々としたろうそくの火だけが明るかった。それは嫌に照っていたけれど今にも消えてしまいそうなほどに弱々しくもあった。線香の匂いが竹生の鼻をついた。すると彼はぼんやりと、冥界にはきっとこのようなとても悲しい香りが常に漂っているのだろうと思った。しかしそれは思うだけに留まり、実際のところは自分が死んでみないことには何とも言いがたいと改めた。鳴らした鐘の音はずっと遠くの方から聞こえてきているような気が彼にはしていた。しかしそれもまた竹生の思い込みに他ならず、音源となっているのは側にある小さな鐘であるのは間違えようがなかった。竹生は目を柔らかに瞑って合掌する。手を合わせるというただそれだけのことで部屋の静けさが一気に増すようであった。それはまるで燃え盛る炎のようにしてそこを支配した。もはや鋭いとすら言える沈黙が部屋の全てを飲み込んでしまったかのようだった。そんな中で竹生は切り出す。

「今日もおおよそ普段通りに過ごすというのを行えました。朝の目覚めはとても良い方でした。簡単なものではありますが、食事を欠かさずにとることも出来ました。本日も川住宅へと赴きました。そこでは仲間と和気藹々とした時間を過ごせました。とても良かったです。友達との時間を楽しめているというのはそれだけ心に余裕を持てている証拠なのではと考えています。ですが書に励むのを疎かにしたりといったことはありませんでした。むしろ教室での書道というのは様々な書に触れられるという点で凄く刺激になっています。そこでは多くの書を書いてきました。本当にたくさんの書を認めてきました。また一歩夢へと近づけたのではないかと自分では思っています。しかしこれからも決して驕ることなく精進します。驕ることなく、努力するのを惜しまず、この調子を維持しながらに書いていきたいと考えています」

 竹生はまるで経を読むようにしてつらりつらりと父母への文言を並べ立てた。飾り気の一切含まれていない恐ろしく実直な言葉だった。それらにはとても強い意志が感じられた。抑揚なく囁くようにして発せられたそれらにはその調子とは裏腹に驚くほどの熱量が込められていた。それらは言ったというよりかは誓ったと表す方が正しいのかもしれない。そして竹生は父母を拝んでいるというよりかはむしろ自分に対して語りかけているかのようだった。柔らかくそっと閉じたはずの彼の瞼は、気付けばきつく彼の両目を覆っていた。そうすると竹生は広大な闇の世界で一人呆然と立ち尽くしているような気分になった。どんどんと暗闇が広がっていき、光という光が凄まじい勢いで消え失せていくかのような感覚を彼は覚えていた。その闇はまるで押し寄せる波のようにして光を飲んでいく。竹生の周りの光はごくごく僅かなものとなり、蝕むようにして迫ってきていたそれはとうとう最後の光を食った。闇以外の何もかもが消えてしまった世界で竹生は直立するのみである。恐ろしく深い闇の中にただ一人きりで立っているだけなのである。――そこまで空想を巡らせた時、竹生はゆっくりと目を開いた。竹生の目前にはしっかりと光があった。儚げではあるが確かにそこにはろうそくの優しげな火が灯っていたのだ。すると竹生は一心にその光を見つめるというのをした。前途洋々とした心持ちでもって、彼は熱心にその一点だけを見続けることをした。竹生の瞳はきらきらと輝いていた。そうして供養を終えた竹生は「よし」と一つ声を出したのであった。

 火の始末をし、供物を取り下げて台所へと戻った竹生は席に着いた。壁時計の針は午後五時を指し示そうとしているところだった。竹生はそれをちらと一瞥すると彼のペースで夕食を食べ始める。竹生はやはり今朝と同じようにして黙々と夕食を済ませた。そしてそそくさと後始末を始めてしまった。竹生にとって食事をとるというのはもはや余計な行為でしかないらしかった。生きていくためには必ず必要である食べるという行いをむしろうっとうしいものとして捉えている竹生の生活というのは、やはり何というか、普通なようであって普通ではないと言えるのかもしれなかった。

 夕飯の後片付けを終えた竹生は自室へと入っていった。そこで真っ先に手に取ったのは自らの書道道具である。彼は手早く諸々の準備を済ませた(墨は擦らなかった。彼は部屋で書道をする時には墨汁を使用することが多く、本日もまたその例に倣った)。竹生はすると部屋の障子を全て開くというのを行う。空けた途端に室内にはやんわりとした月明かりが降り注いできた。用意した卓とその上にある彼の道具がそれに呼応するようにして照らされる。竹生は果たして正座をし、そして勢いよく書き始めた。

 竹生が何を書き始めたのかというと横線だった。字ではなくただの線だった。しかしその何の変哲もない線を竹生は黙々と書面に書いていく。半紙の上から下へと順々に、左から右へと引かれた横線をただ並べていくのみである。それらは寸分の狂いもなく書き記されていた。ぴったり同じ間隔を空けて一本また一本と書かれたそれらは驚くほどに理路整然としていて綺麗だった。しかしその綺麗さの中には一種の狂気じみたものが感じられたりもした。それらは美しさばかりが際立って、それ以外の例えば筆者の感情であるとか書に持ち込んだ思いであるとかがごっそりと欠落しているかのようだった。それらはとことん冷め切った書だと言えるのかもしれない。そしてそんな無機質なそれらは林檎が認める書に酷似していた。それはつまり林檎の書道を構成する全ての要素が、竹生の書く横線に丸っきり映り込んでいたということであった。何度も繰り返し竹生は同様のリズム、同様の筆圧、同様の太さ、同様の角度で同様の作業を行うばかりである。すると竹生は一枚の半紙いっぱいに横線を書くのを終えた。その仕上がりは未使用のノートのとあるページみたいだった。はかって書いたのではないかと疑ってしまうほどにそれらは整っていた。すると竹生は息つく暇もなく今度は縦線を書き出した。今し方書いた横線の上から、網目を作るようにして彼は上から下、そして右から左へと順を追って縦線を書くというのをするばかりである。しかしそれらは横線を書いた時とはまるで違った線質によって認められていた。竹生は猛然と勢いに任せて縦方向に線を書き殴る。彼の調子は先ほどとは打って変わっていてとても活気に満ちていた。竹生は嬉々として自由奔放にそれらを書いていく。体をやや前屈みにしながら、時に優しい筆遣いで、そして時に荒々しい筆の運びで竹生は次々に様々な風味を帯びた縦線を生み出していくのみである。それらにはパトスというのがありありと宿っていた。感情的でフレキシブル。彼が書いた縦線にはそういった種類の情報が確かに反映されていたということである。それらはまるで花梨が書いた書のような風格を帯びていた。自らの抱いた思いに素直になって認める、感情表現が非常に豊かな書。今の竹生の筆から紡がれているのはそういった書であった。彼は喜怒哀楽を始めとした様々な感情を、まるで馬でも乗り熟すようにして次から次へとただの縦線へと変換していく。太い線、細い線、荒い線、丁寧な線。掠れた線、滲んだ線、歪んだ線、整った線。竹生の筆からはバリエーションに富んだ様々な縦線がどんどんと生まれてきている。気付けば半紙は墨の黒で隙間なく埋め尽くされていた。竹生は筆を一旦置く。竹生の目前にはただただ真っ黒になった半紙が一枚置いてあるだけだった。その黒々した半紙は月の光を受けて不気味に照っている。そうするとより一層その黒さは際だって見えた。それは黒かった。黒い以外の言葉が一つも見当たらないくらいに、そしてちょうど竹生がさっき妄想した深く恐ろしい闇のようにそれは黒々としていた。しかし竹生は漆黒に染まったその紙面を見つめて「よし」と一声発する。竹生はその黒さをこそ強く望んでいた。その黒さこそが努力の証だと竹生は信じて疑わなかった。半紙が黒くあればあるほどに自分は励んでいるのだという実感を得られた。そしてそれこそが竹生にとっての大きな心の支えとなっていた。自分は本当に書道家になれるのか、本当に書道家になれるだけの力を身に付けられているのかといった疑問や不安を塗り潰してくれるだけの力が、その黒さには確かにあった。だからこそ竹生は真っ黒になった一面を満足げに見る。これで良いのだと自分を宥めて、同時にむしろ自身を奮い立たせもし、彼は熱心にその黒に対するのだった。しかし見てばかりはいられない。竹生はその半紙をぽいと脇に投げて新たな紙を取り出した。そうすると竹生はまた先と同じようにして横線を書き、それが終わるとまた先と同じようにして縦線を書くというのをした。書き終えると目前には先と同じで真っ黒な半紙がぽつりとあるだけになる。彼は出来上がったそれをしばらく見て、それが携える黒さを食い入るようにして確認した。そしてそれが終わると再度新しい半紙を取って書き出すことをした。彼はこのサイクルをただただ愚直に繰り返していくのみだった。そうすることによって竹生は本日も書の訓練というのを行っているのである。一体自分はどういう書を認めていけば良いのか、そしてどういったことすれば自らの力を向上させられるのかを彼は一人模索していく。そのための一つの手段となっているのが先ほどから何度も繰り返し反復している林檎や花梨の書の特徴的な部分を模倣することであって、竹生はそれをしてより書の腕を上げていこうと目論み、さらにどうすれば自らの書に彼女達の書を還元させられるのかを虎視眈々と思考していた。竹生の頭は休むというのを知らない。自分が抱く理想を具現化しようとひたすらに働き続けるばかりである。全ては書家になるためであった。全ては書家になるためであったのだ。

 気付けば竹生の周りは黒い半紙でいっぱいになっていた。それだけの時間がまるで放たれる矢のようにして過ぎ去っていたということである。時刻は午前二時をとうに回っていた。すると竹生は今までの熱心な取り組みが嘘であったかのようにすごすごと後片付けを開始する。彼は硯に残っている少量の墨を拭き取ったり大筆を洗いに行ったりした。部屋中に散らばっている黒い半紙は屑かごへまとめて入れ、卓上に残った下敷き、文鎮、硯などは洗い終わった筆と共に鞄に収めた。使い終わった卓は室内の隅の方に脚の部分を折り畳んで立てかけておき、それらを終えた竹生は今度は眠る支度を始めた。彼は部屋着に着替えたり歯を磨いたり障子を閉めたりした。脱いだ普段着は素早く階下にある洗濯用のかごへと持っていく。その時竹生はたまってきている洗濯物をまた洗えなかったことに気付いたが、今優先すべきは寝る準備であるとし、それを気付くだけに留めて階上へと急いだ。朝のように全ての作業が滞りなくまるで流れるようにしてスムーズに進行していた。それらには相変わらず無駄な流れというのが一つもなかった。竹生は自室へと戻り、布団を敷いて床へと就いた。彼はしばらくすると眠った。それはとても深い眠りであった。熟睡というのは彼を大いに安心させるものであった。しかしそれは逆に彼に漠然とした不安を抱かせたりもした。それはつまりぐっすりと眠れたという自らに対する安心と、眠ることに対するぼんやりとした不安とが、いつも彼の中に介在しているということに他ならない。彼は目を瞑ると真っ暗闇の中で渦潮に飲まれているかのような錯覚に陥る時がたまにあった。暗い大海原でどんどんとわけの分からぬ方向に流されていく自分が瞬間的に、しかし強烈に思い起こされるといったのもたびたびあった。竹生は寝ることによってむしろどっと疲れてしまう。しかし眠らなければ眠らないで疲れてしまうというのもまた常であり、彼は寝る方が良いのか寝ない方が良いのかの自問に苛まれ続け、それへの答えを見つけられないままに意識は霞んでいき、目を再び開けた時にはもう辺りはうっすらと明るくなってしまっていて、時計の針は朝の時刻を竹生の苦悩など知る由もないと言わんばかりに正確に、あるいは非常にあるいは優しく指し示しているばかりなのだった。

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